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 父は私の目の前で、顔に毒を吹きかけられ、暗殺された――

「お前は命を狙われている。助かりたければ、俺と来い」
 十四歳の誕生日旅行で父と共に、中世ヨーロッパの城や街並みを再現した、スペースコロニーが丸ごと一つテーマパークになっている『エルドリアス』に、一週間遊びに来ていたアウリウス・ネムは、宇宙港出発ロビーの女子トイレで手を洗っている時、隣の人物に声を掛けられた。
 ネムは、声のした方を振り向いた。
 隣の大女は背が高く、清掃員の格好をしている。
 青色の長袖長ズボンなので腕や脚は服の下に隠れているが、 肩幅も広く、『俺』と言ったように、やはり男だろう。
 しかし、青色のキャップとサングラスとマスクで顔を隠していた。
 怪しい。見るからに怪しい。怪しすぎる……。
 ――変質者か?
 とネムは思った。
 自分の国では規律が厳しく、また党の幹部クラスの邸宅がある高級住宅街に暮らしているので、こういう輩に出くわしたことは無いが、色んな惑星やコロニーからファンタジーを求めて人が来る『エルドリアス』のようなテーマパークには、婦女子の敵が出たりするのだろうか。
 彼女は自分の格好を見下ろした。
 清潔な新品の白のブラウスを着て、短い紺のスカートに、日焼けしていない光るように綺麗な肌の長い脚。靴は赤いリボンのついたパンプスを履いている。 
 そして鏡に映った自分を少し見た。
 美しい肩まである黒髪、黒い目。
 顔は細長く、鼻筋は通っていて、黙って立っていると凜としていると言われ、無邪気に笑うと可愛いと言われる小さな口元が、彼女自身も好きだった。
 また首からは、愛する父と母が笑顔で映っている写真を入れた、金で細かい装飾を施された楕円形のロケットをいつもつけていた。
 そういうところも、おしゃれに見えるだろう。
 相手はネムの容姿を気に入り、運悪く標的にされてしまったのだろうか?
 それとも、彼女の身分を知って、狙ってきているのだろうか?
 ネムは辺境の独裁軍事惑星国家アウリウスの、黄金の意味を持つアウリウス一族の姫だった。
 しかし国のトップである総主席の地位は、叔父様である父の弟が継いでしまい、逆に彼女の父は変わり者で敵性の文化である音楽やスポーツ観戦などにこっそり耽っていて、一族のつまはじきもの者だった。 
 死んだ祖父はそれに良い顔をしていないようだったし、父も平民なら処刑されるだろう。
 ネムも父の影響を受けていて、権力争いからは外れてしまったが、それでも誘拐などには気をつけなくてはならない。
 しかも今回は、お忍びなので護衛も誰もいない。
 トイレには他に誰もいなかった。
 幸い男女より、ネムの方が出口に近い。
 頼れるのは父だけだ。早く父のところに戻ろう。
 せっかく一週間、夢の国で満喫したのに、最後の最後で嫌な思い出が出来てしまった。
 ネムは男女(おとこおんな)の言うことを無視して、スカートのポケットから出したハンカチで手を拭きながら急いでトイレを出た。
 細長い通路を進みながらネムが振り返ると 清掃員の男女がつけてきていた。
「待て! 危ないぞ!」
 やばい! 早く離れないと!
 心臓がバクバク鳴っている。
 ネムが全力で駆けだそうとすると、彼女の耳の下でヒュン! という音がして、頬を何かが掠めた。
 肌がビリッと裂かれたような感じがして、何か熱いものがつうっと流れ出た。
 思わず足が止まっていた。
 片手で触って確かめると、掌が紅く、べたっとしていた。血が流れていた。
 彼女が悲鳴を上げようとしたとき――
「危ない!」
 ネムの身体が弾き飛ばされた。
 きゃっ!? 
 小さく悲鳴を上げて、彼女は転びそうになり、床に慌てて両手を着く。腕や脚に、ぶつかったときの衝撃が来た。
 痛っ
 も~、何すんのよ!
 怒ってネムが顔を上げると、清掃員の男女が、彼女を守るようにして立ち、刃物を持った灰色のワンピース姿の女と取っ組み合いをしていた。
 女の髪は長く茶色くて、清掃員と同じように、サングラスとマスクで小さい顔を隠している。
 ぐっ
 清掃員が、くぐもった悲鳴を上げる。
 左の二の腕に、小さな矢が刺さっていた。
 先ほどネムの頬を掠めたものは、おそらくそれと同じ物だろう。
 彼女は背筋が凍るように寒くなり、急に物凄い恐怖を感じた。
 女が清掃員の腕を振りほどいて距離を取り、空いている方の手でワンピースの裾をたくし上げる。
 太腿に付けていたホルダーからレーザー銃を取り出し、構えようとしていた。
だが彼は一気に間合いを詰めると、女のみぞおちに拳を一発打ち込んだ後、無事な方の腕で手刀を相手の頸部に叩き込んだ。
 女が呻いて、床にうつ伏せに崩れ落ちる。彼女の脇に、ボウガンが床に落ちていた。
 テーマパークのお土産の中に、木で作られた玩具が売っていたが、それよりも大きくて金属製の禍々しい物だった。
 清掃員が舌打ちする。
「矢に毒が塗ってあるかもしれないな……」 
 ネムの顔が青ざめた。
 清掃員は彼女には構わずに、女から銃を奪って、自分のズボンの右ポケットにしまう。
 そして腕に刺さった矢を、顔を顰めながら一気に引き抜くと、赤黒い血がついたそれを倒れている女の背中に突き立てた。
 周囲のざわめきの中から、甲高い悲鳴が上がる。
 彼は、今度はズボンの後ろポケットから、黒くて太いペンのようなものを取り出すと、血が滲み出ている怪我をした二の腕に押し当て、ペンの上部にあるボタンを押した。
 ふう~
 と清掃員は息を吐いている。
 針の無い注射器なのか。そして打っているのは、鎮静剤か何かだろう。
 彼はすぐにペンを床に捨てた。
 清掃員の二の腕からの出血は、止まったようだ。
 だが女の背中の傷口からは、徐々に血が流れ出ていく。それは床にも広がっていき、生々しい臭いも漂っていた。
 ほどなくして、清掃員はネムに近づくと手を差し出した。
「通路を戻って奥に行くと、従業員用の入口があるから、そこから逃げるぞ!」
 ネムはやや躊躇ったが、血で汚れていない方の手で彼の大きな掌を掴み、立ち上がった。
 そのまま彼に引っ張られて行き、元来たトイレの奥へと向かって通路を進む。
 そこで彼女は大事なことを思い出した。
「お父様は!?」
 ネムは足を止めた。
「お父様も一緒に――」
 彼女は清掃員から手を離し、反対方向へ走り出す。
「よせ。バカ。一人で勝手に――」
 ネムは通路から飛び出そうとしたが、清掃員の言葉が頭に引っかかり、慌ててその境目で立ち止まった。
 他にも敵がいるかもしれない。
 念のため用心して、通路の中に身を隠しつつ、あまり顔を出さないようにしてあたりを確認する。
 お父様!
 人が行き交う宇宙港の建物の中ほどに、父であるアウリウス・ランの姿があった。
つば付きの黒いハットを被り、精悍な顔立ちで目つきは鋭く、黒く濃い髭を生やし威厳がある。
 仕立ての良い上等な黒いジャケットを纏っていて、すね毛の濃い脚を同じ色のズボンで隠し、ツヤのある革靴を履いている。
 黒いキャリーケースの、長い取っ手を掴んで立っていた。
 その上には買ってもらった、ネムの大きなリボンのついたリュックも乗っかっている。
 良かった。無事だ~。
 ネムは、ほっと胸を撫で下ろす。
 そして、やっぱりいつ見ても父は、長身で格好いい。 
 と彼女は満足げに頷いた。
 そのときネムの父の前に、太った女が近寄り、コーヒーショップの紙コップの中身を顔に向かってぶちまけた。
 ぶちまけられた液体は、黒や茶色では無く透明だった。
 アウリウス・ランが、うっと呻き声を上げて苦しげな表情を見せ、喉を抑えながら地面に派手な音を立ててうつ伏せに倒れた。
 お父様っ!?
 ネムは、声にならない叫びをあげた。
 彼女は今すぐ父の元に駆け寄りたかったが、意思に反して足腰に力が入らなくなり、その場にふらふらと崩れ落ちた。
 全身から血の気が抜けていくようだ。
 再び冷たい床の上に脚が乗った。背中も後ろに倒れていく。
「おい! こんなところで倒れるな!」
 清掃員の男女は、彼女の背後から近づいて上半身を抱き上げ、ネムの体を慌てて通路の奥へと運ぶ。
 ずるずると雑に引きずっていった。
 そして彼はある程度進んだところで立ち止まると、腕時計型の端末を操作してボタンを押した。
 遠くで大きな爆発音が鳴ったのだった。

 ネムが意識を取り戻すと、宇宙服を着せられ宇宙を漂っていた。
 大小様々な惑星の光が輝いている。光の色も白や青、橙、赤などたくさんあった。
 宇宙服は大人用のようで、サイズが大きくぶかぶかだ。
 眼下では、スペースシャトルが翼の光を点滅させながら近づいてきていた。
 宇宙の広がる反対側は、巨大なコロニーの外壁があった。
 スペースシャトルは、着港しようとしているようだ。コロニーの外壁が開いている。
 きゃあ~
 急にネムは、何かに引っ張られた。
 視界が上下逆さまに回転し、止まった。
 何なの!?
 驚いたこともあるが、あんまり目が回ると酔って気持ち悪くなりそうだ。
 ネムは周囲を確かめた。
 近くに宇宙服を着た人がいた。
 五メートルほど離れていて、こちらに背を向けている。片手にはレーザー銃を持っていた。
 その人物とは、腰の左右に引っ掛けられた二本の細いワイヤーで繋がれていた。
 ネムはコロニーの外壁を掴んで身を寄せ、空いている方の手を前の人物の肩に伸ばして、触れた後に話し掛ける。
「あなたさっきの清掃員?」
 相手が振り返る。
「意識を取り戻したか。そうだ」
 清掃員の男女と同じ声だった。
 宇宙服の中から、ちょっと顔が見える。
 はっきりとは見えないが、お父様と違い、髪がふさふさで、眉や眼はやや細い。
 顔立ちは良さそうだが、今はとても疲れたような表情をしている。
 年齢は二十代中盤ぐらいで、まだ若そうだ。
 ん?
 父と違って――
 そこでネムは、透明な液体を顔にかけられて倒れた、父のことを思い出した。
 なんでこんな大事なことを忘れていたんだろう。
「お父様は、お父様はどうなったの!?」
「わからない。助けられそうなら助けるが……、とりあえず仲間と合流する」
「宇宙港の中は敵がいて危ないから?」
「ああ。それに重力あるところを、お前を運ぶのも重いからな」
「失礼ね! 重くないわよ! 不敬罪で告発するわよ!!」
 ネムは怒ったが、それよりもやはり父のことの方が気になった。
 ここは平和なコロニーの宇宙港。
 平和な夢の国……のはずだった。
 こんな大勢の人がいる前で。
 まさかこんなことが起こるなんて――
 お父様、どうか無事でいて!
 ネムには宇宙の星々の輝きが、今日は妙に悲しげに見えた。
 気分が沈んでいると、宇宙の黒い景色まで、より暗く底なしの闇のように見えてくるのだろうか。
 注意していないと身体が勝手に、そちらに吸い込まれていってしまいそうだ。
 しっかりとついていかないと――
 そこでネムは、急に自分を助けてくれた男のことが気になった。
 何も知らない。
 このままくっついていって、本当に大丈夫なのだろうか?
「名前……あなた名前は?」
「ユウシン・カガだ」
 男はコロニーの外壁をいじりながら答えた。そこは扉になっていて、どうやら開けようとしているようだ。
 そしてネムは、聞き慣れない名前の響きだなと思った。
 自国の者ではないような――
 敵の帝国主義諸国のスパイか?
 いや、もしかしたら……
 噂で聞いたことがある。
 特殊工作部隊が過去に人質として我が国に強制的に拉致してきた、その被害者か?
 半分ぐらいは死んだと言われているが、教育を施し、今では我が国の理念や理想に共感して、うちの国の為に尽くしている者もいるという。
 ネムも将来は国の政治や軍事に関わる可能性があったため、両親に家庭教師をつけられ色々と勉強させられた。
 今でこそ、どの教科もトップクラスだが、昔は成績が悪いと、鞭で厳しく打たれたこともあった。
 家柄にふさわしくない出来の悪い娘だと、両親に恥をかかせてしまうので、泣きながら勉強していた。
 でも今は、お父様と一緒に、無事お母様のところに帰れますように!
 ネムは、心の底からそう思った。
 男は相変わらず外壁をいじっている。コンソールを操作しているが、なかなか開かないらしい。
 さっきから、ERRORという赤い表示ばかりが、何度も点滅している。
 たまに、『ああ』とか『違う』とか、呟いていた。
 その声には苛立ちが混じっている。どこかと通信しているようだ。
 ネムは彼の邪魔にならないよう、そっと肩に手を置いたまま扉が開くのを待っていた。
 すると、近くの外壁で青白い光が弾けて散った。
 続けて二回起こり、ネムにどんどん近くなってきている。
 レーザー銃の光だ。
 敵か!?
 ネムが振り向くと、
 うっ!?
 鋭い痛みが走った。どうやら腰の左あたりを撃たれたらしい。
 さっき頬をボウガンの矢が掠めたときよりもズキズキする。
 しかも宇宙服から空気が抜けていっているようだ。シューッと音がする。
 ヤバい。私、ここで死ぬのか――
 不吉な考えが一瞬頭の中をよぎる。
 敵はなお銃を構えながら、ユウシンとネムを狙ってきている。
 ネムはこれ以上撃たれないよう、外壁を手で押して、急いでその場から離れた。
 真っ直ぐネム達の方に向かってきていた敵が突然、もんどり打って後ろに流れていく。
 ユウシンが撃ったのだろう。
 彼は近づき、ネムに尋ねる。
「大丈夫か!?」
「腰の脇を撃たれた。痛い……。結構ズキズキする。あと宇宙服も空気が漏れてるみたい――」
 ネムは腰のあたりを両手で押さえ、眉を顰めながら答えた。
 こんなことをしても、空気は破れた穴からどんどん抜けていくだろうし、痛みも和らがないとは思うのだが――
「何だって!?」
 ユウシンは驚いた表情をした後、自分の宇宙服の左腕を、ネムの腰のあたりに向けた。
 彼は腕の内側についている蓋を開けて、空いてる方の指でそこを押す。
 すると白い物体が勢い良く出てきて、ネムの腰のあたりにべちゃっとくっついた。
 トリモチで穴を塞いだのだろう。
「漏れは治まったか!?」
「うん……」
 ネムは弱弱しい声で頷いた。
 空気が抜ける音はおさまっていた。
 ただ酸素が薄くなってきているのか、それとも腰を撃たれて出血したせいか、なんだか苦しい。
 はあ、はあ……
 しかも服の中に、今度は血の臭いが広がる。嫌な感じだ。
「でも、ちょっと苦しいかも……」
「もうちょっとだ。我慢しろ!」
 ユウシンは、ネムの手をそっと引っ張り、再び扉の脇に移動した。
 彼はコンソールをいじっている。
「すぐに扉を開ける! 仲間がハッキングに手間取っているが、もう少しだ! どうしても開かない場合は、最悪爆破する!」
 ネムは彼の邪魔にならないように、ユウシンの大きな背中にそっと両手を添えていた。
 腰から出たと思われる血が、少し宇宙服の中を漂い、その一部がネムの目に付いた。
 うわっ……
 右目が見えなくなる。
 どろっとしていて、しかも粘々して気持ち悪い。
 もう最悪だ――
「開いたぞ! やっと開いた!」
 コンソールに青いランプが灯っている。
 扉がゆっくりと縦に開いていった。
 普段は使われていない非常用の設備なのか、中の明かりは薄暗い。
 その中にユウシンがまず入り、中からネムに向かって手を伸ばす。
 ネムは、ややぼうっとする頭と、ズキズキ痛む腰に負担を与えないよう腕を使って体を動かしながら、扉の中に身を投げ入れたのだった。

 負傷したネムとユウシンは、スペースコロニー『エルドリアス』を出港した、高速巡洋艦の艦内にいた。
 ネムは医務室に運ばれ、ユウシンによって応急処置を施された後、ベッドの上に静かに横になっていた。
 頬の切り傷は、赤く開いているもののさほど目立たなかったが、腰の左側は白いレースのついた可愛い下着が、どす黒く染まっていた。
 ほかにも、ショーツのところどころに鮮血がついている。
 ユウシンがスカートをちょっと下げ、彼女の腰に下着の上から消毒し、ガーゼを当て包帯を巻いたのだった。
 恥ずかしかったが、傷は痛むし頭はぼうっとするしで、あの時はそんなことを気にして、文句を言っている余力は無かった。
 さすがにもう出血は止まっているだろう。
 それらが乾いた臭いがしている。
 いつまでも血の色に染まったショーツを履いているのも、べったりとした感触が腰に張り付き気分が良いものではないので、できれば新品の下着に替えたかった。
 ふう……
 とネムは大きく息を吐いた。
 身体はややだるいが、意識は結構しっかりしてる。もちろん今は、両目とも見えている。
 多分、大丈夫だろう。
 死ななくて良かった――
 とネムは思った。
 そこへ扉が開き、ユウシンが入ってきた。
 清掃員の格好からは着替えて、薄緑色の人民軍の軍服を着ている。
 襟元の階級章から、階級は少尉のようだ。
 顔は宇宙で見たときよりかは、幾分表情が和らいでいた。
 額の端や顎の下に、刃物で斬られた痕のような小さな傷がある。
 死線をいくつもくぐってきたのだろう。
 彼はネムを見て、そしてばつが悪そうに顔を背けた。
 ネムは、何だろう? と不思議に思ったが、すぐに察した。
 彼女は慌ててスカートを引き上げて、下着を隠す。 
 痛っ
 身体に力を入れると、まだ腰の傷口が痛むようだ。
 全く、タオルの一枚も無いのだろうか……
 乙女の体をなんだと思っているのか――
「下着の替えなんかない。しばらく我慢してろ」
 ぐっ――
 ユウシンになんとなく思っていたことを言い当てられ、ネムはなんともいえない不満を感じた。
「ノックぐらいしてよね」
「安心しろ。血まみれで色気も糞も無い。それに、とっくに直していると思った……。というか忘れてた」
 何よ! その言い方!
 本当に不敬罪で告訴してやろうかな――
 やっぱりネムは少し腹が立ったが、それは言わないでおいた。
 彼はベッドの横にある椅子に座ると、彼女に向かって話し掛ける。
「救急ドッグのAIによる判定では、出血は止まっており傷は浅く、しばらく安静は必要だがネムの命に別状は無い。良かったな」
「……ありがとう」
 やや不快な気持ちを抑えて、彼女は命の恩人に対して礼を言う。
「あなたはうちの国の軍の人?」
「ああ、ついさきほどまではそうだった」
「そうだった……?」
 ネムは首を傾げた。
 なんだか嫌な予感がする。
「お父様は!? お父様はどうなったの!? ここに――、この艦に乗っているの!?」
「おそらくもう生きてはいないだろう。お前も見た通り、アウリスス・ランは始末された。俺はお前を殺すよう命令されていたが、それに背きお前を助けた」
「嘘よ! そんなの――。お父様……。どうしてお父様も助けてくれなかったの? 最初から見殺しにするつもりだったの!?」
 ネムは思わず体を起こした。
 痛っ
 ぜえ、はあ……
 相変わらず左の腰が痛んで、しかも息が上がる。
 もっとユウシンに言いたいことがあったが、身体が辛くて口が動かなかった。
「静かにしてろ。まだ絶対安静だ……。それに無茶を言うな。お前と父親じゃ、当然だが父親の方がマークが厳しい。変なことをしようとすれば、すぐに勘付かれる。そんな余裕は無い」
 ネムは腕を強く握りしめ、唇を噛み締めた。
 残念ながら、彼の言う通りだろう。ユウシンを責めてもしょうがない。
 そして一体誰が、お父様や私を殺すように命令したのか――
「誰の命令? 叔父様なの!?」
「ああ詳しくは知らないが、こんなことをするのは、お前のお父様の弟であるアウリウス・バン総主席だろうな」
 ネムの顔が青ざめる。
 まさか――という思いと、やっぱり――という思いが交錯した。
 お父様と私が狙われたとなると、家族全員襲われている可能性が高い。
 本国に残っているお母様は、無事なのだろうか?
「じゃあ……お母様は、お母様はどうなったの! 何か情報は掴んでないの!?」
「運が良ければ、お前みたいに生き延びてるかもな……。俺は特殊部隊サイレントアサルトの一員だが、全部は知らん。だが、すでに殺されているだろう」
 ネムは呆然としていた。
 お父様も、お母様も殺されている……。
「じゃあ……この艦は、一体どこに向かっているの?」
 もう出港して一時間ほどが経っているはずだ。
 どこに逃げているのだろう?
 とネムは思った。
 ユウシンは彼女を真っ直ぐに見つめ、重い口調で語り始める。
「俺はミッシング・パーソン、いわゆる拉致被害者だ。お前の国に無理矢理連れてこられた 他国の人間……。俺は自分の生まれた国に帰りたい。仲間と共に脱国を試みる。お前も命を狙われているだろう? 一緒に俺の故郷であるゼフェリオンに亡命しないか?」
 ネムは驚いて目を丸くした。
「脱国って――。嫌よ。私はアウリウスに帰る! 助けてくれたことには感謝するけど、なんで私まで脱国しないといけないのよ」
「今の政権に、お前の居場所はない。本国に戻り、父の仇を取って叔父を倒すにしろ、他国に亡命するにしろ、今は一旦身を隠せ。じゃないとお前が消されるぞ」
 厳しい表情で、はっきりと告げるユウシンに対して、ネムはもう何も言い返せなかったのだった。

 ネムは医務室のベッドの上で起き上がり、タブレット型端末でニュースを見ていた。
 ユウシンは艦内放送で呼び出されて一度部屋を出て行った後、しばらくしてから戻ってきてタブレット端末を置いて行った。
 敵に傍受されると困るのでメッセージや電話などの発信はできず、受信専用に機能を制限していると言った後、ニュースをつけてまた去って行った。
 画面から立体文字が浮かび上がっている。
 『アウリウス・ラン暗殺! 一緒にいたとみられる娘のアウリウス・ネムは行方不明――
 アウリウス・バン総主席が、邪魔な自由主義者の兄の暗殺を企んだか!?
 独裁強化で肉親すら殺す! 恐るべし独裁軍事惑星国家!!』
 スーツを着た女性キャスターの小さな姿が浮かび上がり、喋っている。
「犯人の女はテレビのバラエティ番組のジョーク企画で、顔に液体をひっかけて相手を驚かすドッキリだと言われ、謝礼を貰い事件が起こる前に、予行演習として見知らぬ二人に対して同じことをしていたとのこと。まさかこんなことになるとは思わなかった――と、警察に対して供述しているそうです。なお暗殺を計画した真犯人達は、既にエルドリアスの宇宙港を出港したものとみられています」
 敵の帝国主義諸国のニュース番組だ。
 バラエティ番組のジョーク企画?
 そんなものがあるから父が死んだんだ!
 やっぱり敵性の文化はよくない。
 お祖父様の言う通りだった……
 ネムの瞳から涙が溢れ出てきて、彼女は両手でそれを拭う。
 でも今更、国には帰れない。
 私が間違ってました。心を入れ替えますと言えば許してもらえるだろうか?
 いや、帰ってもどうせ殺されるだろう。
 お父様は、お祖父様とうまくいってなかったらしい。
 ああいう『エルドリアス』のようなテーマパークも本国に無いし、お父様は私が生まれる前からたまに遊びに行ってたらしい。
 それがお祖父様には気に入らなかったようだ。
 敵の作ったもの楽しんでいる。敵の文化、娯楽に染まっていると――
 それでもお祖父様は、私のことは可愛がってくれた。
 叔父様も普通に接してくれていた。
 叔父様がお父様のことを、継承権を巡って疎ましく思っていたことは知っていたけど、お祖父様と同じように遊んでくれていた。
 でもまさか叔父様が、本当にお父様のことを殺しに来るとは――
 お祖父がお亡くなりになった後でも、一族の中で女の子供は私しかいないので、私のことは変わらずに可愛がってくれていると思ったのに……。
 何で今更――
 ネムは恐怖で手足が震えていた。
 叔父様が祖父の後を継いで早五年。
 もう大丈夫だろうと思っていたが――
 あたしのせいで、父が死んだ……。
 母もおそらく無事ではないだろう。
 三日後には家に帰っているはずだったのに――
 お父様とお母様と帰ったら家で食事をするはずだった。
 お母様の手料理だ。
 腕によりをかけて作ると言っていた。
 ああ、お母様の作ったシチューが食べたいな……。
 それに誕生日プレゼントも用意して待っていると言っていた。
 お母様は、何の誕生日プレゼントを用意してくれていたんだろう。
 お母様、どうか無事でいて――
 飼っていた犬のモンモンは、大丈夫だろうか。
 茶色で小さくもこもこしていて、とても可愛いオスだ。
 私が名前を付けた。モンは夢という意味だ。
 もうモンモンの散歩にいけないかもしれない。
 屋敷の裏には小さな湖があり、よくモンモンを連れて散歩に出かけた。
 考えたくはないけど母まで殺されていて、もし誰もいなくなったら、一体誰が面倒を見るんだろう。
 モンモンも一緒に殺されちゃうのかな……。
 どうか優しい人に貰われていってほしい。
 叔父様、モンモンは一族の争いには関係ないでしょ。
 どうか、あの子の命は取らないで――
 幼馴染のショウセイ達と出かけてBBQを楽しむ約束、守れそうにないな。
 いつ会えるかわからないけど元気でいてね。
 ああ……
 こんなとこの固いベッドじゃなくて、家に帰ってふかふかの大きなベッドに、モンモンと一緒に横になりたい。
 あそこでお父様やお母様と、気持ちよく眠りたい。
 お気に入りの服や宝石も、全部そのままだ。
 友達から貰った大切なぬいぐるみや、人形達もない。
 ただ母から貰ったロケットだけが残った。
 両手で顔を覆っているが、ネムの涙が頬を伝い、ぽたぽたと膝の上に落ちた。
 お祖父様の住んでいた屋敷ほど大きくはないけど、広くて明るくて大好きな家だった。
 いつ戻れるんだろう。
 でも戻った時には もう誰か別の党幹部の人の家になってるかもしれない――
 あるいは戻っても、もう誰もいないかもしれない。
 お父様、お母様……、私どうしたらいい?
 だめだ――
 お父様のことを思い出そうとすると、耐えられそうにない……。
 宇宙港で顔に透明の液体をかけられ倒れた、お父様の姿が浮かんできてしまう。
 どうしよう――
 国に帰っても殺されるなら、他のところへ行くしかないか。
 あの人……、ユウシンの言う通り、私も消されるだろう、
 どうせなら『エルドリアス』のお城の中に住みたい。
 でも、すぐに叔父様達に見つかっちゃうだろうな――
「ゼフェリオンに行けば、命を狙われることも無い。自由だ!」
 とユウシンは言ったが、本当か?
 よくある敵のプロパガンダじゃないだろうか。
 ゼフェリオンに行っても、今度は敵の連中に殺されるんじゃ――
 仮に命は取られなかったとしても、考えたくないけど捕虜になって、荒々しい男達の中に放り込まれてしまうんじゃないか?
 不安は尽きなかった。
 あんな国に行く?
 日の本の国、ゼフェリオン……
 かつて我が国を侵略した敵国だ。
 帝国主義の鬼子(おにこ)達の国。
 それを英雄の曽祖父が撃退した。そう歴史の授業で習った。
 でも学校の授業で教えることより、父の言ってたことの方が正しい。
 帝国やその周りの国の方が豊かだ。
 敵性のドラマは、父が持っていたものを私もこっそり見た。
 平民の子が見つかったら死刑だけど――
 確かに我が国より、おしゃれな洋服屋さんや美味しそうな食べ物のお店など、いろんなものがあって文明は発展している様だ。
 私も何回か国外の中立コロニーに行ったことがある程度だけど、やはり他のコロニーの方が豊かに感じる。
 とはいえ、やはり一度も行ったことが無く、今までずっと悪の帝国だ、侵略者だと教え続けられてきた遠い敵国に行くのは不安だ。
 無事に辿り着くまで、ユウシンは私のことを守ってくれるのだろうか。
 そして他に信頼できる人が出来なかった場合、国に帰りついてからも、彼を頼りにできるだろうか?
 いや、そこまでしてくれないんじゃないか――
 正直に答えてくれるかわからないけど、あの人にも色々聞いてみる必要があるかもしれない。
 今のところユウシンは私を守ってくれて、紳士的に思えるが――
 でも彼は自分のことをミッシング・パーソン、拉致被害者と言っていた。
 彼をこの国に連れてきたのは、私達だ。
 ユウシンにもお父様やお母様、兄弟姉妹がいただろう。
 仲の良い友達や恋人とかもいたのかもしれない。
 大切な人たちと引き離してしまった。
 二度と会えないかもしれない――
 私達、アウリウスを憎んでいないのか?
 彼の家族や、他の拉致被害者の家族から、ゼフェリオンに行っても、私は憎まれるんじゃないか……。
 ユウシンが本当に味方かどうかわからない。
 でも現状、彼に頼るしかない。
 彼が本当に自分の味方かどうかわかるまで、あるいは他にもっと信頼できそうな人が現れるまで彼にくっついていくしかないだろう。
 どちらにしろ、一人では何もできなかった。

 ユウシンは、狭い士官用個室のデスクの椅子に腰かけていた。
 机の上には、黄色い錠剤や赤いカプセルなど様々な薬品の入った瓶がずらりと並べられ、その端には古くて小さな紺の腕時計が置かれている。
 彼はそれらをぼうっと見ながら、物思いにふけっていた。
 いよいよだ。もう後戻りできねぇ……
 俺が拉致されてから約十年。
 塾から家に帰ってきて、妹と些細なことで喧嘩した。俺の楽しみにしていたアイスが勝手に喰われていた。
 父や母は、お兄ちゃんなんだから我慢しなさい! と、いつも妹の味方だった。
 明日にでも、新しいのを買ってきてくれるとは言っていたが、いい加減それに嫌気がさして、深夜に家を抜け出した。
 バッティングセンターに行く途中、薄暗い道で三人組の大人の男達に襲われ、気づいたら生身で脱出ポッドの中にいて、小隕石が浮遊する宙域を漂っていた。
 バッティングセンターで、両親や妹に対して糞野郎! と叫びながらプレイしようと思っていたから、バチがあたったのかと最初は思った。訳がわからなかった。
 しかも迎えに来たのは、十五メートルほどの黒い軍用人型起動兵器アルファナイトだった。
 普通のアルファナイトは宇宙空間の中で白銀に輝き、中世ヨーロッパの騎士のように重厚な装甲で覆われ、兜のバイザーは下ろされ、手にスピアや剣を持ち、いかにも勇者という風貌で格好良い。
 しかし、彼の前に姿を現したそれは漆黒の機体で、眼は獲物を捕らえたように、横に細長く黄色く光り、不気味だった。
 機体の肩の部分に、ずる賢そうなカラスのマークが描かれていた。 
 怖かった。
 当時はアウリウスの特殊工作部隊レイブンクロウが暗躍していた時期らしく、突然少年少女達が失踪する事件が起こっていたらしい。
 まさか自分が被害者になるとは思わなかった。
 彼らの船には俺と同じように拉致された少年少女達が五人乗っていた。男三人、女二人だった。
 脅える俺らは、狭い宇宙船の一室に閉じ込められて何か月も過ごし、まずアウリウスの言葉を教え込まれた。
 出来の悪いやつ、逆らうやつは、容赦なく蹴られ殴られた。
 女の子達は泣いて過ごしていた。
 俺達は励まし合いながら、早く助けが来ないだろうか? と祈りながら、なんとか一日一日を乗り越えていた。
 食べ物も粗末で、宇宙食は固まっていて味がしない。
 不味いチューブの中に入ったゼリー状の物体を吸ったり、みんな痩せ細っていった。
 数か月経ち、狭い宇宙船を出られたが、今度は地獄が待っていた。
 洗脳は薬物や電気ショックなどで余計ひどくなり、同じ拉致被害者の仲良かったやつ一人が、とうとう耐え切れなくなって精神がやばくなってしまい脱走した。
 俺が追い詰めて……、仕舞いには角材で殴って殺した。
 そうしないと俺まで相部屋の連帯責任で殺されるまではいかないが、労働教科刑という名の強制収容所送りだ。
 俺だって今すぐゼフェリオンに帰りたかった。
 逃げたくなる気持ちはよくわかる。
 でもそんなところに入っちまったら、おそらく二度と出てこれない。
 まだアウリウス王朝の、くそみたいな歴史を覚えさせられた方がましだ。
 敵国のドラマ見ただけで殺されるらしい、頭おかしい国だからな。
 実際に処刑現場を見せられた。
 まだ俺達と同年代の少女達四人だった。
 ちゃんと目を開けて見ていろと言われ、銃殺の様子を女の子達二人は泣きながら見ていた。
 何人もの兵隊が並んで、泣き叫んでいる四人の少女達にライフル銃を向けている姿はとても恐ろしかった。
 そしてたった一回の掛け声と複数の大きな銃声の音で、彼女達の頭や胸に穴が開き、あっけなくこと切れた。
 首や細い手足はだらんと垂れ下がり、額からは濃くどろっとした赤黒い筋が緩やかに出てきて頬を伝い、やがて地面にぽたっぽたっと落ち、衣類はどんどん紅く染まっていった。
 その前に自ら舌を噛み切ったのか、口から血を流している者も一人いた。
 兵隊達は去り 遺体は十字架に括りつけられたまましばらく放置された。
 レーザー銃ではなく、火薬の臭いや煙で見せられる側の恐怖心を煽るために、わざと昔の銃を使っているようだ。
 俺も手だけでなく、足腰が震えてた。背筋が凍って、身体全体が震えてた。
 アウリウスの人間は嫌いだったが、さすがにこんなのは見たくなかった。
 ここから俺は反抗する気力が無くなり、やつらに対してより従順になってしまったような気がする。
 逆らうことなど出来なかった。
 一緒にゼフェリオンから連れ去られてきた仲間のはずなのに、レイプの見張り役をやらされ、何人もの兵に輪姦されたその子を俺自身も犯した。
 以前の連れ去られて来たばかりのときの俺なら反抗していたかもしれないが、いつの間にかやつらと同じ方に回っていた。
 ちっとも楽しくなんかなかった。ただ、あいつらの機嫌を取っただけだった。
 今でもあの子の、俺に向けられた救いを求めるような、脅えた眼差しを夢に見る。
 彼女の小さな瞳は、涙と絶望を湛えていた。
 しばらくして、その子は自殺した。
 もう片方の女からは憎まれ、彼女は同じ拉致被害者の男と結婚した。
 彼らからは、俺は憎まれている。同じ拉致被害者の中でも居場所がなかった。
 色々大きな代償と引き換えに、罪をおかしてここまできた。
 俺は成り上がるためになんでもやった。やつらの信頼を得るためになんでもやった。
 自分が上にいくために容赦なく他人を犠牲にした。
 飢えと病気で平均寿命が短そうな、くそみたいなこの国をさっさと抜け出したかった。
 俺は危険なこともやるようになり、最初は海賊となり、アルファナイトの操縦を覚えて各国の輸送船を襲った。
 国外での破壊工作のときは、くそみたいな国の外に一時でも出られる。
 それだけでも、最初は最高だった。
 飯もうまくて、ベッドにもノミがいない。
 僅かながら自由時間には完全に一人になることはできなかったが酒を楽しめ、水ですら濁ってなくて美味かった。
 盗んだ品はもちろん横領。
 女がいたら犯す。さらに本国に連れ帰り高く売る。もしくは上官に献上した。
 この頃にはもう、ゼフェリオンにいた頃の穏やかな心や、少年らしい純粋な気持ちなどはとうに忘れて周りに染まり、俺も嗜虐を楽しんでいた……。
 ただ当然汚れ仕事なので、いつも死と隣り合わせだけどな――
 海賊になりたての頃二回ぐらい失敗して撃破され、僅かな間だが宇宙を彷徨った。
 敵に掴まれば、ひょっとしたら拉致被害者とわかり国に帰れたか……
 それとも民間船を襲って、多数の死傷者を出した罪で裁かれたか――
 そうなりゃ現地の法で、大概死刑だろう。
 どっちが良かったのか、今もわからない……
 間違いなく良い死に方はしないだろうな――
 天国?
 どこだよ。それ……
 そんな贅沢言わねぇ
 国に帰れりゃいいよ
 父や母、やや歳の離れた悪戯好きの可愛い妹のメイカも、随分大きくなっただろう。
 長年の片思いが、念願叶ってようやく付き合い始めたシンリィ。
 待っていてくれているだろうか……
 みんな一日も忘れたことは無い――
 ただ向こうは、どう思っているか。俺と思いが同じとは限らないだろう。
 もう死んだことになってるんじゃないか――
 拉致されてから、早十年。
 俺の部屋ですら、どうなっているかわからない。すっかり片づけられて空っぽか、物置にでもなってるかもな。
 とっくに諦めてしまっている人もいるだろう。家族ですら、そうかもしれない。
 まだ俺は生きている……。生きているぞ!
 しかし――
 まだ俺は生きているが、ゼフェリオンに無事辿り着けても二~三年後は、どうなっているかわからない。
 アルファナイトの実験機のテストパイロットになるために、薬でちと体がおかしくなっている。
 アウリウスの連中が誰もやりたがらない、テストパイロットに賭けた。
 危険だがチャンスだった。
 たまに動悸や息切れ、頭痛。
 突然手が震えたりと、色んな症状がある。
 いつまでもつか、わからねぇ……
 しかも発作の感覚が、短くなってきている。
 ちゃんとした医療機関で見てもらったら、治るのかな。
 この身体――
 無理な気がするが……
 寿命は何十年縮んだ?
 あと、どれぐらい残っているんだろう?
 何歳まで生きられるか――
 薬だって、あの国では貴重品。そのくせ粗悪なものばかりだ。 
 肝臓や腎臓、心臓とか大丈夫か?
 近頃は、なんでも薬で誤魔化してるからな。
 先ほどの女との戦いで、ボウガンの矢が刺さった箇所がズキズキと痛かったのは、まだちゃんと生きている証拠だ。痛いけど嬉しい。
 こういう感覚すら、薬の効き目が強いと麻痺してくる。
 もし時間があれば、怪我や病気をしても、治るまでたっぷり寝て自然治癒するのに任せるのにな。
 しかし今の俺には、生憎そんな余裕は無い。望んでも許されない贅沢な時間だ。
 昔なら、風邪ひいたら家族が看病してくれただろうに――
 全てが無事に終わって、何でも一つ自由に願いがかなうとしたら、そうだな……。
 小さい頃、一度だけ両親に連れて行ってもらった地球の温泉に、みんなで行きたい。いやこの際、静かに一人でもいいや。きっとそこが、俺にとっての天国だろう。
 まったく……
 最近、薬がすぐ切れる。飲む量も多くなってきている。
 今ある分で、ゼフェリオンまでもつか――
 あまり時間はないかもしれない。
 だが俺は、なんとしても国に帰る。 
 いや、俺だけじゃねぇ……
 あいつの、この古びてしまった小さな腕時計も、一緒に運ぶ。
 誰かわからないけど、プレゼントされたものだと嬉しそうに話して、大事にしてたな――
 親族や恋人を探し出して、あいつの形見を届ける。
 自分が殺したとは、到底言いづらいが……
 向こうも、同じ拉致被害者に殺されたなんて、思いもしないだろう。
 打ち明けたら――
 きっと許してはくれないだろう。
 俺がレイプして自殺した子の形見はない。分けてもらえなかった。
 まあ当然だろう……。
 その子の親族と、対面する日なども来るのだろうか――
 考えるだけでも気が重かった。
 ゼフェリオンに着いても、しばらく安息の日は訪れないかもしれない……。
 俺の味方は、今ここにいる脱国を目指す艦の仲間だけ。
 それも、果たして何人が最後まで残るか?
 中でもネムや俺は、特に狙われるだろう。
 生きていられると厄介だからだ。
 本国は俺達を見つけたら、消せばいいだけ。簡単だ。
 今回アウリウス・ランを暗殺したように人前で堂々と殺しに来るかもしれないし、食べ物や飲み物にこっそりと毒を盛ってくるかもしれない。
 一方、俺達が遠くゼフェリオンまで逃げ延びるのは非常に難しい。
 どうやったら何か月もかかる遠いゼフェリオンまで、逃げ延びることができるか――
 アウリウス・ネムの身柄は手に入れたが、あいつを人質にしても役に立たない――
 どうぞ殺してくれと言われてしまうのがオチだ。
 今回サイレントアサルトの暗殺実行部隊本体は、幸いなことにアルファナイトは持ってきていないようだったが、すぐに追手を差し向けてくるだろう。 
 こちらにはアルファナイトは、使い物になるかどうかわからない実験機の一機しかない。
 アウリウス軍の制空圏内で、大部隊に捕捉されると勝ち目はないだろう。
 とりあえず追手を振り切りながら、中立国を経由していくしかない。
 人員も資金も物資もギリギリだ。
 また粗末な食事で、いつ死ぬかわからない命の危険にびくびくと脅えながら、何か月も過ごさなければならない。
 どうしても途中で逃げるのが困難になってきたら、アウリウス・ネムの存在をゼフェリオン側に明かす。
 そしたらゼフェリオンの同盟国というか、駐留艦隊の基地などを置き敗戦国ゼフェリオンを実質支配しているあの強大な国は、傀儡政権を立てるためアウリウス・ネムを保護し、内乱を企てるか戦争で独裁主義国者アウリウス・バンを打倒しようとする動きを加速するだろう。
 だが、国に無事帰り付いたら、そのときはもう用済みだ。
 積もり積もったアウリウスに対する、この恨み――
 本当はその血を根絶やしにして、あの独裁国家を死の灰にしてやりたいぐらいだが……
 俺はあいつを殺す。

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