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「赤ちゃん、楽しみですね」
 中学三年生の有川七菜(ありかわなな)は、幸せな気分でいっぱいだった。
 三月のよく晴れた休日の昼、郊外のショッピングモールにて、偏差値の比較的高めな県立高校の合格祝いということで、七菜は兄夫婦と食事をしていた。
 ぽかぽかと気持ちいいので彼女達は、混雑を避けてフードコートのテラス席に座り、兄は大きなハンバーガー、七菜は果物のたくさん添えられたパンケーキと、デザートのアイスを食べ終わってのんびりとしていた。
 七菜は目を細め、口角は上がり、とろけたような表情をしている。
 甘い良い香りが鼻と口の中に残っていて、少し贅沢な気分に浸っていた。
 よそ行きの服をあまり持たない彼女は、ややよれた学校の制服を着ている。
 髪は自分で切ったおかっぱ頭で、後ろの方のカットはギザギザしていた。
 セーターは糸がほつれ、くたびれたローファーを履いていた。
 ちょっと恥ずかしいけど、しょうがない。
 隣には、兄の妻である美波(みなみ)さんが サンドイッチを食べ終わって、大きなお腹を撫でていた。ゆったりとした紺のマタニティワンピースを着ている。
 年齢は二十八歳、兄と同い年。身長は一六〇センチいかないぐらい。
 茶髪のショートで、くりっとした目に、小さな鼻と唇で、小動物に例えるとリスみたいな可愛らしい笑顔が特徴だ。
 そして美波さんの横には、七菜の兄である有川一(ありかわはじめ)が座っていた。
 兄は背が高く、ほっそりとしている。
 眉や鼻、唇などの顔のパーツもどちらかというと小さめで、中性的で柔和な雰囲気があり、誰からも好かれやすい。
 イケメンの方だとは思うのだが、頬がややこけているのが惜しい。 
 最近は顔やお腹、腕にちょっとお肉がついてきたような気がするが、それでも普通よりやや痩せている方だ。
 優しくて大好きなお兄ちゃんと、可愛らしい笑顔が特徴の美波さん。
 お似合いの夫婦だ。 
「触ってみる?」
「いいんですか?」 
「どうぞ」
 と美波さんが、笑顔で促す。 
 七菜は、恐る恐るといった様子で手を伸ばし、マタニティワンピースの上からそっと触ってみた。
 ゆっくりと上下するお腹。この中に赤ちゃんがいる。
 まだよくわからないが、こうやって触っていると、なんだか温かいかい気持ちになる。
 そのとき、お腹の内側から、とん! と反応があった。
「あっ」
「蹴った」
 七菜は、お義姉さんの顔を見た。
 目が合い、二人は口元を緩める。ふふふと、彼女達は笑った。
 動いている。新しい命が――
 七菜は実感した。
 また蹴らないかな~
 と彼女は、美波さんのお腹の中の子に呼び掛けるように、服の上からゆっくり優しくさする。
 両親を早くに亡くし孤児院で育った七菜にとって、親族が増えることに、彼女はとても喜びを感じていた。
 兄とは別の孤児院で育ったのだが、自転車で片道三十分以上かかるのに、よく会いに来てくれて仲は良かった。
 兄が働くようになってから、家に来て一緒に暮らさないかと呼ばれたことは何度もあったが、あまり負担や邪魔になりたくなかった。
 美波さんも優しい人なので、お世辞ではなく心の底から同じように言ってくれていたようだが、私がいたらきっと妊活に励めなかっただろう。
 これで良かったと思っている。
 その分、赤ちゃんのお世話をたっぷりとさせてもらうんだ!
 幸せのお裾分けをしてもらおう。
 彼女は、お腹の中にいる赤ちゃんに向かって呼び掛けた。
 性別は女の子らしく、『愛』と名付けたらしい。
「愛ちゃ~ん。おばちゃんですよ~。みんなで、いっぱい遊ぼうね~」
 美波さんがにこにこしている。
 私もにこにこ。 
 もちろん兄もで、野球チームを作れるぐらい子供が欲しいと以前言っていた。
 兄の大きな夢への第一歩だ。
 仲の良い大家族は、七菜も憧れていた。
 孤児院も仲間はたくさんいたが、やはり血の繋がった家族・親族となると、その想いは特別強い。
 兄以外に身寄りの者が全然いないので、たとえ見知らぬ人の葬式や法事の集まりでも、街で見かけたら、不謹慎かもしれないけど羨ましいとさえ思った。
 正月に親戚で集まった話や、学校の友達から夏休みなどに祖父母の家に遊びに行った話などを聞く度に、いいな~と感じていた。
 自分が結婚できるか、子宝に恵まれるかわからないから、兄の家族が増えることが自分のことのように嬉しい。もしかしたら、今まで生きてきた中で一番嬉しいかもしれない。
 お兄ちゃんの結婚式のときも嬉しかったが、一方で兄を取られるような気分や寂しさを感じていた。
 でも今は、美波さんで良かったと思っている。
 子供ができない原因はお兄ちゃんの方にあったけど、二人で協力して乗り越えた。
 そして赤ちゃんが誕生したら、もっと楽しくて嬉しい日々になるだろう。
 ああ幸せだな~
 見ているだけで幸せ――
 私も、こういう家庭を作りたいと七菜は思った。
「お兄ちゃん良かったね」
「ありがとう七菜。大変だったけど諦めなくて良かったよ」
 プログラム開発をしている兄は、頭は良いのだが身体はあまり強い方ではなく、検査したところ無精子に近い状態だったらしい。
 妊活して五年、本格的に治療を開始してから三年でようやく授かった。
 たくさんお金と時間がかかったが、苦労した分、喜びもすごい大きかったようだ。
 あと一か月もすれば、こうして三人でテーブルを囲んでいるのが、四人に増える。
 とても賑やかになるだろう。
 今は生まれてくる赤ちゃんのために、ベビー用品を色々と買い揃えているみたいだ。
 どんな子かな~
 お兄ちゃんと美波さん、どっちに似てるかな?
 お顔が見てみたい。
 早く新しい親戚に会いたいな……
 自分の子供じゃないけど、待ちきれなかった。
「そろそろ行こうか」
「そうね」
「うん」
 兄の一言に、七菜も美波さんも頷いた。
 彼は、紙コップやくちゃくちゃに丸まった包装紙などを載せたトレイを、自分の分と妻の分と両手に持って席を離れ、一足先に返却カウンターに向かって歩いて行く。
 七菜も立ち上がり、残りのゴミを自分のトレイの上に集めていた。
 美波さんが、椅子からゆっくりと身体を持ち上げる。
 そのとき七菜は、背後から強く肩をぶつけられ、きゃっと小さく悲鳴を上げた。
 彼女はややバランスを崩し、テーブルに両手をついた。
 何なのよ、もう~
 七菜は、痛みに眉を顰めながら、何が起こったのか確かめようとしたとき――
 ドシュッと皮膚が一気に切り裂かれるような音と、何かが一斉に溢れるような音が混ざって、すぐそばで聞こえたような気がした。
 うっ
 美波さんのくぐもった声が発せられるのとほぼ同時に、べちゃっと得体のしれない生ぬるい物が七菜の顔に飛んできた。
 視界の隅に、赤黒いものが付いている。
 なんだろう?
 片手で触って確かめると、どろっとしていた。
 この嫌な臭いは――
 たぶん血だ。
 いや、間違いない。
 七菜はすぐさまテーブルから手を離し、斜めになったままの身体を起こしながら、声の聞こえた方向を見た。
 美波さんのマタニティワンピースのお腹に、包丁が深々と突き刺さっていた。
 彼女の傍らには、帽子を目深に被りマスクとサングラスで顔を隠して、薄い黒のコートに身を包んだ中年の男が立っていた。
 そいつが柄を握り、包丁を美波さんのお腹に刺していた。
 傷口から血が滲み出ている。服がじわじわと黒く変色していった。
 男が包丁を引き抜いた。
 彼はゆっくりと、ガッツポーズでもするようにそれを天に向ける。
 まるで、やってやったぞ! とでも言っているようだ。
 刃に付いていた血が、すうっと滑る。
 包丁は、先端から柄元はおろか男の手まで朱く染まり、それはぽたぽたと滴り落ちていた。
 また形や大きさから、普通の家庭にあるような料理包丁ではなく、どこかの職人さんが使っていそうな立派な代物のようだ。
 本来なら、暖かい陽光を浴びて、美しく研ぎ澄まされていれば、キラキラと魅了するような輝きを反射するであろう。
 しかし男が手にしている物は、今や凶器となり、大切な人から流れ出た生き血で染まっていた。 
 美波さんが苦悶の表情を浮かべ、お腹を抑えてその場に蹲る。
 出血は広がっているようで、みるみる床に溢れ出てくるようだ。
 嫌な臭いも一層強くなる。
 きゃああああ!
 七菜は大きな悲鳴を上げた。
 それに驚いたように、血の付いた刃物を持った中年の男が、急いで遠ざかって行った。
「美波ー!!」
 普段聞いたことのない兄の絶叫が響き渡る。
 何が起こったのか呆然としてしまい、しばらく事態を把握できなかった。

 私はこれから、お義姉さんのお腹の中にいた赤ちゃんを殺した男と寝ようとしている――
 七菜は、ラブホテルの部屋でシャワーを浴び終わり、バスタオルで体を拭いていた。
 あたりには少し湯気が立ち込めていて、シャワーはさっと浴びただけだが、全身がポカポカとする。
 浴室は二人で入れるようになっているのか、やや広めだ。
 大きな浴槽の奥の右端に、濡れないように下着やポーチを載せておいた。
 七菜は、そこから赤いショーツを手に取って履き、次いでガーターベルトを身に付けた。
 そしてポーチの中から、痺れ薬の塗ってあるカッターナイフを取り出し、ガーターベルトの後ろに挟む。
 浴室内に設置されている鏡の前にちょっと移動し、彼女は自分の体を眺めた。
 白い肌に、まださほど大きくは無いが形の良い胸。少しくびれた腰に、細い手足。
 下着は燃えるような情熱の色に包まれ、花柄のレースの刺繍で飾られている。
 うん!
 大人っぽくていいんじゃないか――
 ベッドの上で待っている男は、きっとドキッとするだろう。
 だが、それがお前の最後だ――
 鏡に映っている七菜の眼が、きっと睨むような、険しく鋭い物へと変わる。
 ショッピングモールで美波さんが刺され、お腹の中にいた赤ちゃんは残念ながら助からなかった。
 あれから三年。
 いよいよ私は、そいつに復讐しようとしている。
 明治時代に廃止された仇討の制度が、現代に復活してから十年ほどになろうとしていた。
 七菜は、高校生になり学校に行きながら、仇討庁指定の訓練所に通い、体術や麻酔銃、吹き矢などの武器の使い方を身に付け、痺れ薬・眠り薬などの扱い方を頭に叩き込んだ。
 本当は今すぐにでもまだ見ぬ姪を殺した仇を取りたかったのだが、色々と紆余曲折があり、十八歳以上じゃないとできないことになっていた。
 事件の後、美波さんは強制的に実家に連れ戻された。
 彼女の家は裕福なのだが、一人娘だった。
 今回の出来事で、向こうの両親がすっかり心配性になってしまい、お手伝いさんの監視付きの軟禁状態で、全然会わせてもらえないという。
 門前払いされた兄の話だと、「やっぱり孤児院で育った人間なんぞに、嫁にやるんじゃなかった……。不幸が移ったんだ! 身体が弱いから、ろくに仇討すらできそうにない軟弱者に娘を任せられるか!」と怒鳴られたそうだ。なんてやつらだ。
 二人の幸せな家庭は、私が取り戻す!
 美波さんに絶対会って、また二人で暮らさしてあげる!
 あの日以来、お義姉さんはもちろん、兄の笑顔さえ見たことが無い。
 その間、警察の捜査は難航し、捜査本部は解散していた。
 ただ警察には捕まって欲しくなかった。
 美波さん以外にも妊婦の被害者がもう一人いるのだが、警察に捕まって刑務所に入っても、傷害だけの軽い罪で出てきてしまう。
 仇討なら、加害者を殺してしまっても不問に付された。
 だから兄は猛反対したが、七菜は志願し、ついに免状を取得した。
 説得は諦めたようで、今では渋々協力してくれている。
 非合法に警察のシステムに介入したり、各所の防犯カメラの映像をジャックしたりして、最近ある一つの気になる噂を入手した。
 それを頼りに、七菜はパパ活嬢になりすまして、ついに犯人を突き止め、こうやって敵に接近した。
 しかも、七菜に協力してくれる心強い助っ人、仇討庁でちゃんと訓練を積んだ助太刀人(すけだちにん)が部屋の外にいる。
 美波さんと同じように、犯人に赤ちゃんを殺されたもう一人の被害者が、部屋の外で麻酔銃を持って、待ち構えているはずだ。
 犯人が逃亡をはかれば、全力で阻止してくれるだろう。
 兄には助太刀人の飯塚華(いいづかはな)さんが、直接犯人と対峙すると言ってある。
 でも華さんは、しっかりしていて頼りになる大人だが、どんなに犯人が憎くても、人を殺す度胸や勇気までは持っていないらしい。
 その点、七菜は迷いが無かった。
 絶対に仇は取ってやる!
 ただ色々と訓練を受けたとはいえ、所詮は成人したばかりの少女と、働き盛りである中年の男では、まともにやっても負けるだけだ。体格、筋力、腕力などに大きな差がある。
 正攻法では、まず勝てないだろう。
 油断させ隙を作り、そこを刺す。
 失敗は許されない――
 お義姉さんの赤ちゃんの仇。兄夫婦の無念。
 今晴らしてやる!
 七菜は意を決して、まだ発達途中の小ぶりな胸にバスタオルを巻きつけ、シャワー室を出た。
 湯気が浴室の扉の隙間から逃げ、やや乾燥した部屋に広がっていく。
 しかし七菜は洗面台の前で足を止め、突然にこっと笑って見せた。
 彼女は敵を油断させるために、笑顔を作ることも、もちろん忘れてはいない。
 女は怖いんだぞ。それを今日、たっぷりと思い知らせてやる!
 七菜は洗面所から離れ、部屋の端にある小さな丸いテーブルへと足を運んだ。
 その上に置かれているペットボトルを手に取り、キャップを開けて水を一口飲む。
 蓋を閉じて、それをゆっくりと元に戻したところで、相手が声を掛けてきた。
「遅かったじゃねぇか」
 ベッドの上にバスローブを着て横たわっていた男が、加熱式煙草を吸いながら文句を言う。
 短く刈り込んだ金髪に、サングラスをかけていた。
 四角い顔の輪郭に、鼻は尖っていて、唇は分厚い。はっきり言って、ブサイクだ。
 神宮正(かんみやただし)。
 それがこいつの……、お義姉さんの赤ちゃんを殺し、大好きな兄の家庭をめちゃくちゃにした憎き男の名だ。
「初めてだから……。よく洗ってたの。恥ずかしくて……」
 七菜は立ち止まると、照れた表情を作り、やや俯きながら小声で答えた。
 それを聞いて男は、ニヤニヤとすけべそうに口元をほころばせた。
 いやらしい顔で待っている。歯並びが悪く、とても汚らしく見えた。
 それが七菜の嫌悪感を一層引き立て、吐きそうだったが、彼女はぐっと堪えた。
 きっと向こうは、若い女の身体を安く買えたと喜んでいることだろう。
 お前を殺せるなら、私の裸ぐらい見せてやってもいい。
 なぜ赤ちゃんを殺しても罪にならないのか?
 世の中おかしい。絶対に間違っている。
 七菜は恐る恐るといった様子でベッドに近付き、しなを作ってちょこんと端に腰掛けた。
「その前にお金頂戴。そしたらたっぷり楽しんでいいから――」
「ああ そうだったな。よほどお金が欲しかったのかい?」
 男は下卑た笑みを浮かべながら、体を起こしてベッド脇にある棚の方に体を寄せた。
 その上に置いたショルダーバッグに手を伸ばし、中を探る。
 男が背中を向けた。
 今だ!
 七菜はお金を貰うふりをしてベッドの上に上がり 四つん這いの状態で怪しまれないよう背後からそっと彼に近付いて行った。
 ある程度接近すると、今度はベッドの上にしゃがんだ。
 バスタオルの下に手を回し、ガーターベルトからカッターナイフを抜き取り、音を立てないように刃を出す。
 男は長財布を取り出し、チャックを開けようとしていた。
 ここからなら絶対に外さないだろう。
 心臓を狙って、一気にぐさりと――
 七菜は両手で握ったカッターナイフを、男に向かって思いっきり突き出した。
「おっと!」
 男がこちらを振り向きながら、横に飛び跳ねる。
 ベッドの上から床にドスン! と着地した。
 七菜は前のめりになりながら、ベッドに手を付いた。
 まずい! 避けられた!?
 彼女は急いで態勢を立て直す。
 男はいつの間に取り出したのか、包丁を握っていた。
 旨そうな獲物を見つけたというように、ぎらりと刃が怪しく光る。
 男は雄叫びを上げながら、七菜に向かってそれを振り下ろす。
 七菜は慌てて飛び退いた。
 つっ――
 彼女は痛みに顔を顰める。
 包丁の先端が下腹部に刺さったようで、剥ぎ取られたような感じになったバスタオルが、はらりと舞い落ちた。
 血がたらーっと、おへその下から流れ始める。
 七菜は傷口を慌てて手で押さえた。
 カッターナイフを構えたまま、素早くしゃがんでバスタオルを拾い、傷口に当てながらベッドの上を二歩三歩と後ろに下がって床に降りた。
 大丈夫。
 これぐらい、多分たいしたことない。
 でも、バスタオルが無かったら、もっと傷が深くなっていたかもしれない。
 何とか避けたが――
 包丁を構えた相手と、ベッドを隔てて対峙する。
 気付くと、カッターを持つ手が震えていた。
 七菜は、ごくりと唾を飲み込む。
 全身から嫌な汗が噴き出る。
 心臓がドクドクと脈打っていた。
 接近戦となれば カッターでは分が悪い。
 パワーやスピード、腕のリーチなども敵の方が長いだろう。
 ここらへんの差は、訓練で埋められるものではない。
 相手は憎むような目で、七菜を睨んでいた。いかにも凶悪犯といった感じだ。
 包丁を持つ手つきが慣れている。妙にさまになっていた。
 棚の上にあるショルダーバッグの脇に、蓋の開いた細長い白い木箱が乱雑に置かれていた。
 今男が手にしている物が、しまわれていたのだろう。
 普通の家庭にあるような料理包丁ではない。
 あのときの凶器に似ている。
 やはりこいつが犯人――
「脅して金品を盗るにしちゃあ、いきなりすぎたな……。誰かから殺しでも頼まれたか?」
「そのどちらでもない」
 七菜は、自分の心中を相手に悟られないよう、落ち着いた様子で言った。
 切られた下腹部の傷が、ちりちりと痛む。タオルで押さえたところが、赤く染まっていた。
「歳の割には、色っぽい下着つけてるじゃねえか。それで俺を誘惑して、油断させようとしたのか。残念だったな」
「そうね。捕縛術も習ったから、縄で縛ってあげてもいいわよ。あんまり得意じゃないけど」
「あいにく俺にそういう趣味はねぇが……、考えておいてやるよ。仇討ちか?」
「そうよ」
「全然覚えがねぇなぁ~」
 男がすっとぼける。
「嘘ね。それにあんたにはなくても、こっちにはあるのよ」
「人は殺してねぇよ」
「死んだのよ!」 
「それなら、お前が第一号になるかもな――。今すぐカッターを捨てて消えろ小娘!」
「最初の事件は、どうして起こしたの? 何があったの? 電車の中で――」
「席を譲れと言われて、むかついた。妊婦がなんだってんだ。俺だって仕事で疲れてんだ」
「たったそれだけのことで!?」
「たっただと!? ろくに働いたこともないくせに! わかった風な口を聞くな!」
 男が顔を真っ赤にして激昂する。今にも包丁が飛んできそうだ。
 だがその威勢にも七菜は怯まず、質問を続けた。
「もう一人は?」
「あ?」
「ショッピングモールの方よ」
 七菜が、いらついたように言った。
「幸せそうだったから」
「はあ?」
「なんかむかつくから」
 七菜が絶句していると、男が呪詛のように呟く。
「笑顔がむかつく。笑い声がむかつく。女がいることがむかつく。仲良さそうなのがむかつく」
 そんな理由で、お義姉さんを刺したのか――
 これが無敵の人というやつか……と彼女は思った。
 おそらく説得とか、そういうことは無駄だろう。
 同じ言葉を喋っていても、考えが全然違う。同じ人間とは思えない。理解できなかった。
「終ってるわね」
 ふん、と男は鼻で笑った。
「お前随分若いな。俺が刺した女達の妹かなんかか?」
「ええ……、ショッピングモールで刺された方のね」
 しばらくしてから、彼は当時のことを思い出したのか、懐かしそうに言った。
「ああ……そういえば、なんか制服着てたガキがいたな。覚えてるぞ。お前の幸せそうな笑顔――。あれが一番むかついた」
 男は包丁を握りながら、ニタニタとしている。
 あたしのせい?
 七菜は愕然とした。
「俺は傷害でしか逮捕さえねぇ。殺人にはならねぇ。法律作ったやつは、何を考えてんだろうな。頭いいはずなのに……実はバカか? そんな仇討の法律なんか作らないで、赤ちゃん殺しを直接罪にすりゃいい」
「あんたも頑張って、恋人とか家族とか作りなさいよ!」
 気付いたら七菜は叫んでいた。
 どうしてまっとうな努力をしないのか。
 そしたら他人のことを妬ましく思ったり、攻撃したり、そういうことしなくなるんじゃないか――と思ったのだが、どうやらその考えは甘かったらしい。
 男は、何を言ってるんだこいつ――というような表情をしている。
「お前失恋したことあるか? ひょっとして恋もまだか? 好きと言われても、振ってばかりか? 男をバカにしてんだろ。女はいいよなあ……。ちょっと可愛けりゃ、ちやほやされるから。でも俺みたいにブサイクだとそうはいかない。仇討制度を復活させるなら、ついでに見合いも復活させてくんねーとな、不公平ってもんだろ。なんでもかんでもアメリカの真似して自由な恋愛にしちまうから、一部のくそみたいな顔だけが良いチャラ男がモテて、男がたくさんあぶれるんだ。少子高齢化対策にもなるぞ。どうだ。いいと思わないか?」
「あんたを殺すために仇討庁の訓練所にずっと通ってて、あいにくそんな余裕無かったわよ。それにそんなこと、一度も無かった。復讐心に駆られて毎日、笑いもせず怖い顔して、そんな女を誰が好きになるっていうの。みんな怖かったんでしょ。スカートでも、ひらひらさせてりゃいいのかしら。部活? 青春? 糞喰らえね」
 七菜は吐き捨てるように言った。 
 男はおどけた調子で応じる。
「おっと、そりゃあ悪かったな。じゃあ俺と結婚しようか。俺が刺しちまったあいつらも、どっちももう一回妊娠すりゃいいだろ。まだ若いんだから。好きな者同士でやりまくればいい。おお、羨ましい」
 多分、まともな答えは返ってこないだろうなと、なんとなく頭ではわかっていたが、少しでも心のどこかで期待していた私がバカだった――と、七菜は思った。
「あんたに最初に刺された人は、妊娠できない体になってしまった……。もう一人も、何年もの長い不妊治療の末にようやく授かった子なの……。そんな簡単に解決するような問題じゃないの! 取り返しがつかないのよ!!」
 うわっはっは、と男は大笑いする。
「何がおかしいの!」
「不孝のお裾分けだよ」
「ふざけないで!」
「赤ちゃん以外にも、そいつは思わぬ収穫だ。聞かせてくれてありがとうよ。そんなに他人を不幸にできるとは思わなかった。こいつは最高だ! そうだ。お礼に、もっと金をやろうか。金が欲しいんだろ」
 男は棚に近寄り、財布から一万円札を抜き取って、ひらひらと見せる。
 七菜は一瞬で頭に血が上り、カッターを持つ手に、より一層の力がこもって、怒りで腕だけでなく、全身がわなわなと震えた。
「兄も私も施設出身で、ようやく掴んだ幸せなのに!」
「そう怒るなって。体外受精があるだろ。試験管ベイビーってやつか」
 男はまた笑った。
「今まで三年間、新たな事件を起こさなかったのは褒めてあげるわ。でも次の事件を起こす前にあたしが必ずこの手で殺す。この世から消すわ!」
 男は急に険しい目つきに戻る。
「税金の無駄遣いだ、嬢ちゃん。大人しくお家(うち)に帰りな。パパとママに迎えに来てもらえ」
 またもあいつは禁句を言った。
「パパやママなどいない!」
 と彼女は叫び返す。
 二人は睨み合い、互いに刃物を持ったまま対峙した。
 緊迫した空気が流れる。
 威勢よく啖呵を切った七菜だったが、襲撃に失敗した以上、できれば話して時間を稼ぎたかった。
 警察が突入してきたときが、次のチャンスか――
 もしくはそのまま部屋を出て逃げてくれた方が、建物の端にある内階段のところに隠れて待機しているはずの華さんが、麻酔銃を撃ち込める。
 麻酔が効くまで数分かかるが、警察に逮捕されるよりも、むしろその方が都合がいい。
殺せるチャンスが増える。
 七菜はカッターナイフを手に、ベッドの端を回り、ジリジリと男に詰め寄った。 
「あんたを殺せなくても、もうすぐ警察が来る。あんたの負けよ。でも逮捕される前にあんたを殺す」
「警察は来ない」
 男はニヤリと笑う。
 七菜が、その妙に自信ありげな態度を訝しみ、どういうことか問い詰めようとしたとき、テーブルの上に置いておいた彼女のスマホが鳴る。
 誰だ! こんなときに!?
 うるさいな。
 男への警戒を怠らずに、七菜はそれに視線を向ける。
 画面に表示されている名前が目に入った。華さんからだ。
 なんでこんなときに着信が?
 警察が来たか? 
 それともなかなか連絡が無いので心配になったか。
 なんか嫌な予感がする――
 スマホはしつこく鳴っていた。
「出ろ。お前の仇討仲間からだろう。ピンチで、お前に助けを求めてるんだ」
 男は余裕の表情で煙草を吸っていた。
「出ないと、お前の助太刀人が危ないぞ」
 何を知っているんだ、こいつは?
 七菜は得体のしれない恐怖を感じ、スマホを手に取った。
 華さんの声が聞こえてくる。
 緊迫したような調子だが、電波が悪いのか雑音に掻き消され、声が小さい。
「七菜ちゃん、逃げて! 今すぐ逃げて!」
「華さん?」
「危険よ。無理しないで逃げて!」
「どういうこと? 華さん! 無事なの!?」
「そいつをこっちに投げろ」
 男がドスの効いた声を出し、命令口調で告げた。 
 七菜は呼び掛けるが、華さんの応答は無い。
「いいから寄越せ。俺の無事を確認できないと、その女が俺の仲間に殺されるぞ」
 七菜は混乱しながらも、スマホを男の近くのベッドの上に放り投げた。
 武器が無くなるわけではないので、それを渡すぐらいなら問題ないだろう。
 男がスマホを拾い、何か話している。
 彼は包丁を握ったまま七菜を警戒しつつも、スマホを一旦棚の上に置いて急いで荷物をまとめ、口が大きく開いたままのショルダーバッグを肩に担いだ。
 再びスマホを手に持ち、そのまま近くの扉を開け、細長い廊下を通って玄関へと向かう。
「あ、ちょっと待ちなさいよ!」
 七菜は服を着ようかどうしようか一瞬迷ったが、そのままカッターナイフを持って追いかけることにした。タオルも邪魔になりそうなので、そこらへんに放り投げる。
 彼女は数歩進んで、部屋の入口で立ち止まった。
 男は屈んで、手にしていたスマホと包丁を床に置き、急いで靴を履いていた。
 敵との距離は三メートルほど。
 お互い刃物を持っているので、踏み込んでいくには、リスクが大きい。
 今は床に置いているが、すぐに拾われてしまうだろう。
 狭いので、訓練で習った体術等も活かせない。
 こんなときに麻酔銃か吹き矢でもあれば――
 くそっ!
 靴を履き終わった男が、床に置いたスマホや包丁を掴んで立ち上がり、扉を開けて逃げる。 
 七菜も後を追って裸足のまま部屋の外に出た。
 長いホテルの内廊下を、男がショルダーバッグを抱えながら走っていた。
「ちょっと返しなさいよ! 私のスマホ!」
「代わりにこれやるよ」
 男が走る速度を急に緩め、振り向きながら七菜に見せつけるように、包丁を舌でゆっくりと舐める。
 うわっ 
 気持ち悪い――
 そう思ったのも束の間、包丁が七菜の顔を目掛けて、くるくる回転しながら飛んできた。
 ひっ
 包丁が彼女の頬を掠める。
 耳元で風が巻き起こり、空気を斬るような小さな回転音が鳴ったのが聞こえたような気がして、髪が掻き乱された。何本か髪の毛が、ぱらぱらと床に落ちていく。
 ぞっとした。背筋が寒くなった。思わず足が止まっていた。
「いい身のこなしだな。仇討が色仕掛けだし、江戸時代なら良いくノ一にでもなってるかもな。またな姉ちゃん。楽しかったぜ」
 そう言って男は踵を返し、再び走り始める。
 びっくりしている間に、さらに七菜との距離は離され、男は階段に到達した。
 しかし七菜は、焦って追いかけるふりをして、内心では喜んでいた。
 よし! 思惑通り!
 上手く引っかかった。
 そっちは華さんがいるはずだが――
 あれ?
 何も起こらなかった……
 男は階段を駆け下りていく。
 七菜は慌てて本気で駆け出した。
 なんで?
 麻酔銃だが撃たれれば、男でも針が刺さる痛みで、「うっ……」となるだろう。一瞬でも隙が生じるはずだ。
 狙いを外した!?
 でも、敵は武器も持ってないから、飛び掛かればよいのに――
 華さんなら、それぐらいの判断可能だと思うが……
 それとも、やっぱりなんかあったの!?
 そこにいないの?
 七菜は焦った。もう自分でなんとかするしかない――
「俺を追ってきても構わんが、仲間を助けたけりゃ屋上に行け。それに早く手当しないと、せっかくの綺麗な体が傷物になっちまうぞ」
 あんたねえ……
 誰のせいで――
 と言いかけて七菜は口をつぐんだ。
 さっき刺された下腹部の傷口が開いてきたか……。ちょっと痛んでズキズキする。
 彼女は階段まで全力で走ってきて、一瞬どちらに行こうか迷った。
 男の姿は完全に消えていた。
 上に行くには、あと十階以上はある。
 下は三階分だが、もしかしたら警察が到着して待機してくれているかもしれない。
 息が少し上がっていた。
 罠の可能性もあるが――
 くっそ! 何が起きてるんだ!?
 七菜は、とりあえず近くのエレベーターのボタンを押した。
 待っている間、出血を少しでも抑えようと下腹部を手で押さえる。ぬるっとしていた。
「お前が妊娠した頃、また会おう。せいぜい俺を楽しませてくれや。嬢ちゃん。……いや、若い女王様さんかな」
 男はドタドタと足音を立て、階段を下りながら大声を張り上げているらしい。
 七菜は聞こえるかどうかわからないが、もうやけくそになって思いっきり叫んだ。
「次会うまで事件起こすなよー!」
「そいつは約束できねえな~」
 男の声が階下に消えていったのだった。

 事件の翌日。 
 七菜は、病院のベッドの上で上半身を起こし、溜め息をついていた。
 下腹部の刺された傷の上に、大きなガーゼが貼られている。
 彼女はそっと手を動かし、そこを庇うように掌を当てた。
 ベッド脇にある棚の上に、兄が持ってきたボストンバッグが置かれていて、その中には着替えやコンビニで買ったと思われる新品の下着などが、無造作に詰め込んであった。
 返り討ちにあったらどうするんだ!? 少し頭でも冷やせ!
 と兄は、かんかんに怒っていた。
 また男と直接対峙したことについても、そいつが私達の事件に本当に関係があるかどうか、今回は華さんと二人で男が現れそうな場所などを調べて来るだけと説明し、危ないことは決してしないと行く前に約束していたので、それも嘘だとバレて物凄く怒られた。
 心配してくれるのは非常に有難いのだが……
 過保護まではいかないが、正直に言ってこういうときは困る。
 無理して傷口が開いてしまわないようにと、強制的に入院させられてしまった。
 事件から三年、警察の網に引っ掛からず、犯人は海外にでも逃亡しているかと思われたが、兄が時には非合法な手段も用いて、ネット上のいろんな情報を集め、ある一つの噂に辿り着いた。
 パパ活女子の間で、やり逃げされた、脅された、金を巻き上げられた……など、こっそり話題になり始めていたことがあった。 
 しかも男は、俺は人を二回刺したことがあると言って包丁を見せて脅し、実際に髪を切られた子までいるらしい。 
 ほとんどの被害者は泣き寝入りしており、また金を巻き上げては一か月ほどで、各地を転々としているようだ。
 他にも女の子を縛ったり拘束したりして裸の写真を撮り、現金やQRコード等で、大金を振り込ませたりもしているという。そうすると新しい逃亡先で、また犯行に及ぶまで、二~三か月ほど姿を現さないこともあった。
 男の動きを追いかけているうちに、七菜達はある街で被害に遭いかけ、お金を取られそうになり逃げてきた――という気になる情報を得た。
 おそらく最新のものだろう。
 七菜達は早速、華さんが仕事の休みの日に、その街へと赴いた。
 兄は心配して最後まで止めようとしていたが、危ないことがあったら華さんに任せると嘘をついた。今回逃すと、次いつ会えるかわからない。
 彼女達が、噂の男が出没しそうなところを手分けして探っていたところ、七菜の方が偶然接触に成功した。
 七菜は、今パパ達からお金を貰ったばかりで、財布にたくさん入っている。
 これからホストクラブに行って、推しにたくさん貢いであげるんだ――という無邪気な話題を振りまきながら男の気を引き、そうしてちょっとドキドキしながら、ラブホテルに初めて入った。
 できれば好きな人と入りたかった――
 そして華さんが、警察の到着を部屋の外で待っていたのだが、結果は失敗に終わった。
 華さんは建物の屋上で、口をガムテープで塞がれ腕を後ろ手に縛られ、気を失って倒れていた。
 彼女も病院に運ばれ念のため精密検査を受けた。異常なしで、既に退院したらしい。
 良かった――
 でも助太刀人の役目を降りると、彼女が昨夜こっそり面会時間を過ぎてから、自分の病室に見舞いに来たとき、本当にすまなさそうな様子で言われてしまった。
 何があったのかはまだ詳しく聞いていないのだが、よほど怖い思いでもしたのだろうか――
 子供が産めない体になってしまい夫とは離婚してしまったと嘆いてはいたが、根は優しく元々復讐などは似合わない人だ。大人でも自分を刺した相手と再び対峙するのは、怖いだろう。
 七菜も、おへその下に傷痕が残るかもしれない。
 こんなの好きな人が出来ても見せられない。聞かれたらどうしよう。
 復讐で仇討を果たし、人を殺した女を好きになってくれる男の人などいるのだろうか?
 またそれを知ったら、離れて行ってしまう人もいるのではないだろうか――
 でも今は、私のことなんかどうだっていい。他にも心配なことはある。
 兄が代わりに持ってきた古いスマホが枕元にあるが、自分のスマホを持っていかれた……。
 美波さんや兄と、三人で撮った写真が中には入っていた。
 クラウドがいっぱいで保存してなかった。
 バックアップを取っておくんだった……。今更、後悔しても、もう遅い。
 しかも学校の友達の携帯番号や、施設の仲間の連絡先なども入っている。
 みんなが狙われたらどうしよう――
 のんびりと入院している場合ではない!
 一刻も早く、あいつが次の事件を起こす前に、新たな犠牲者が生まれる前に捕まえないといけない。お金の問題など、ありとあらゆる面でそうだ。
 大学はAO入試で受かっているが、もう授業が始まってしまった……。
 今は特例による休学扱いで学費は免除されているが、このままずるずると長引けば、浪人したわけでもないのに、同級生達より一年後れを取ることになってしまう。
 そして最大の問題は、高校生という青春が過ごせるはずの多感な時期に、みんなが情熱を燃やして打ち込んでいる部活や、楽しそうに活動している同好会、さらに色恋もせず必至の思いで三年間も訓練を積み、指導員の厳しい修行に励んで耐えたのに、仇討の期間は僅か一年と短い。
 実を言うと、七菜達の仇討の請願は、許可が下りずに潰されそうだった。 
 七菜の顔などはもちろん伏せられたが、未成年に仇討を認めていいのかなど、大きくメディアなどにも取り上げられた。
 元々国会で法案が通ったときも、正当防衛以外にも合法的に殺人を認めるので、揉めるに揉めたようだ。
 子供の青春時代をそんな復讐なんかに使っていいのか と偉そうにテレビで喋っているコメンテーターがいたり、関係の無い人達が無責任に議論をしていた。
 余計なお世話だ! 自分のことは自分達で決める!
 大体、なんでお腹の中の赤ちゃんを殺しても罪にならないんだ!
 そっちの方が、よっぽど話し合わなくちゃいけない問題じゃないか!!
 犯人が捕まっても、二件の傷害の軽い罪だけで裁かれ、すぐに刑務所から出てきてしまう。
 赤ちゃんは、二人もこの世に生まれてくることができなかったのに――
 おかしい……
 世の中絶対に間違っている。
 七菜は兄夫婦のためだと思って、体の弱い兄の代わりに仇討を決意して届け出た。
 仇討庁は、理不尽な思いをしている日本の犯罪被害者、遺族により立ち上げられた独自の権限を持つ機関だ。
 法は万能ではない。
 法制度の盲点、理不尽は後を絶たず、抜け道がたくさんあった。
 時代の流れの方が早いのだろう。
 かつて明治時代、司法卿の江藤新平は、国が衰退するとかいう理由で禁止したらしい。
 なんだ!? そのふざけた理由は!
 被害者の気持ちを完全に無視している。
 今は明治時代じゃない!
 時代が違う。知ったことか!
 仇討を現代に復活させた人達は、本当に凄いと思う。そして有難かった。
 でも制定当時は、法案を通すことを優先し、何歳から仇討が可能という決まりが法律になかったらしい。それが世間での議論に大きく影響した。
 また法律の不備か。どうして肝心な部分なのに、抜けてるんだろう? どうしてもっと細かく書かないんだろう? すぐに付け足したり、書き換えたりしないんだろう?
 大人達はアホかと、あの頃は思った。 
 もちろん、胎児殺しを罪にするよう国会に働きかける運動にも参加しているが、それと仇討とは話が別だ!
 ただ昔の制度と大きく異なるのは、あくまで捕まえる過程で、たまたま殺してしまっても仕方がない――という体裁を取っているところが、かなりめんどくさい。
 だから訓練所でも、殺傷能力の非常に高い拳銃の扱いなどは、さすがに教えてくれなかった。
 まあ仕方ないだろう……
 それでも当然のことながら、偏見や反対意見などは多かった。
 七菜や兄のいる施設にも脅迫や嫌がらせなどがあり、仇討庁にも圧力があったらしい。
 しかし彼女達は心を強くもち、怯まなかった。
 美波さんが刺された後、ネット上では妊婦を狙った犯行なのではないか? という意見が出回った。
 警察から正式な発表は無かったが、それ以降しばらくの間、外出を自粛する妊婦が増えた。
華さんの事件の翌日に、美波さんが刺されたが、それがわかっていれば兄夫婦も事件の被害者にならなかったんじゃないか――
 誰か代わりの人が刺されれば良かったのに……と、思った事さえある。
 結局七菜の仇討は、警察や司法組織などにも顔が効く兄の知り合いの腕のいい弁護士の人が根気強く頑張ってくれて、なんとか受理されたそうだ。かれこれ一年ぐらいかかった。 
 警察の捜査が行き詰っている点などを上げて、粘り強く説得して行ったという。
 警察もそれを認めることで、とりあえず犯人を逮捕できない批判を回避したい狙いがあったのだろう。
 その人は、あの事件には僕も憤りを感じているし、出世払いでいいよ――と言ってくれた。
 でも、仇討の期間は普通三年~五年程度だが、たった一年しか認められなかった。
 時間が無い。
 大学受験が終わってから仇討を開始し、早二か月が経とうとしていた。
 活動が長引けば長引くほど、お金もかかる。
 また仇討庁から活動資金が援助されるが、僅かなものだ。
 兄がクラウドファンディングで資金を募り、事件が片付いたらドキュメンタリー番組としてテレビ放映・動画配信、出版などが決まっていて、テレビ局や出版社などからも、いざというときは前借り可能な契約をしていた。
 七菜は深いため息を吐いた。
 そのとき、枕元にある古いスマホに着信があった。兄からだ。
 彼女は、それを手に取りだるそうに応じた。まず体の調子のことを聞かれて、次に犯人と対峙したときの状況を詳しく説明させられ、最後に兄はこう言った。
「お前らの動きを漏らしてるやつがいる。気をつけろ」
 また連絡すると言って、電話は一方的に切れた。
 七菜は兄の言ったことが、非常に気になった。
 確かに、あいつのあの余裕はなんだ?
 なんかおかしいと思ったというか、違和感を感じた。
 華さんは、誰にどうして襲われた?
 誰が何のためにあんなやつに協力している?
 どうして妊婦刺傷の連続犯なんかをかばう?
 考えたくはないが、警察の中に内通者や妨害者がいるのか――
 法律上、仇討をする者に協力するのが義務だが、地元警察などは非協力的な場合もある。
 ただこの決まりに違反しても、罰則は無かった。
 いい加減ちゃんと作れよ。国会議員。仕事してんのか?
 だからダメなんだよ。日本の政治家は!
 そう言う訳で警察官の中にも、『素人に何がわかる。税金の無駄遣いだ。自分達のシマを荒らされたくない』って人もいるし、逆に同情してくれて協力な方もいる。
 でも返り討ちにあう人が多くなったり成果なしが続くと やっぱり危険だ、よくないということで制度自体が廃止になったり、見直しがあるかもしれない。
 絶対に失敗するわけにはいかないんだ!
 こういう悔しい思いをした人達のためにも、必ず成功させないといけない。
 早くあいつの行方を追いたいが、華さんが助太刀人を降りてしまったのがちょっと痛い。
 助太刀人にも仇討人と同等の権限が与えられるが、危険な目に遭いたくない、犯人の逆恨みの対象などになるかもしれない――などを恐れて、なり手は少なかった。
 今のところ兄に頼むしかないか。まだ続けるのかと、怒られるかもしれないけど……
 でもそうすれば、普通に捜査資料などを見られる。ハッキングする必要がなくなる。
 本当は力の強い男の人とかがいいけど――
 兄も現在陰ながら活動を支えてくれてはいるが、そのハッキングの数々は違法だ。だが、今それがバレる訳にはいかない。
 後から仇討庁の力で、違法行為が超法規的に取り消しになるかもしれないが、全部はならないかも。わからない。
 ああ……
 こんなことでは、事件に引き裂かれた兄と美波さんの二人をまたくっつけるのは、非常に遠い道のりだ。
 くそっ!
 七菜は手を振り上げ、そのままスマホをベッドの上に投げつけた。
 彼女は棚の上のボストンバッグの中から、ぐるぐるに巻かれたバスタオルを取り出した。
 それに付いた血を見て思い出す。悔しい思いが蘇ってきた。
 それに復讐心に駆られていて気付かなかったが、今冷静になって考えてみると、服も着ないでラブホテル内を走り回っていた。
 まったく……
 あれじゃあ、もし誰かに見られてたら、まるでやり逃げされたみたいじゃないの!
 七菜は顔が真っ赤になった。
 初体験も、まだなんですけど!
 とんだ恥をかかせてくれたものだ。
 二度とこのような失敗をしないために、まずは裏切り者を必ず見つけ出してやる!
 そして……
 彼女は、バスタオルを伸ばした両膝の上に乗せて、ゆっくりと広げた。
 そこには、男が投げつけてきた包丁がくるまっていた。
 おそらく、美波さんを刺した凶器と同じものだろう。
 これであいつを絶対同じ目に遭わせてやる!
 この包丁であいつを殺して復讐し、美波さんの赤ちゃんの仇を取る!
 七菜は、そう心に固く誓ったのだった。

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