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27話

「虚無界?」

 キャロンが片目を眇めて聞き返す。化粧をぬりたくった顔の皺が歪んで笑みを作った。

「俺のことをどこで知った?」
「大屋さんに教えてもらいました」
「正直だねえ……」
「キャロン。貴方は元・特別認知管理局の技術顧問。ダイブ技術の深層構造を知る、唯一の裏技術士」
「アンタは、葦原八千矛だな」

 葦原は驚いてキャロンに聞いた。

「何故俺の名前を……」
「あら、そんなこと、どうでもいいことじゃない?アナタが欲しがっているのは……」

 キャロンが芝居かがった調子で言いながら立ちあがり、さらに奥に進む。そこには両開きの鉄扉があった。
 骨ばった手が、取ってを掴み、開く。
 そこには、巨大な観測用球体と、金属の輪が二重三重に重なった装置が鎮座していた。

「これでしょう?<ER-X>。エクステンデッド・レコグニション・リンク」
「これは……!」

 目を丸くして、葦原がER-Xを凝視する。

「アタシが作ったの。通常のERは、<認知世界>までしか潜れない。だがこいつは、<認知の断片層>、通称『無層』まで降りられるの。虚無界はその先よ。《《認知が生まれる前の場所》》を捉える構造になってるの」
「生まれる前……?」

 キャロンはニヤリと笑った。

「この世界のどこにも属さない、認知が生まれる前の場所よ。だから通常の記録にも、脳波にも、感情値にも反応しない。この装置はそこへ踏み込む覚悟がある奴しか起動しないの」

 機械は、まるで呼吸するように青白い光を漏らしていた。

 「覚えておいて、坊や。存在しない世界に行くってのは、今ここにいる貴方の一部を捨てるってことよ。それでも行く?」

 <虚無界>。
 理世がいる場所。誰かが行かなきゃ、あの人は戻れない。

(誰も知らない。誰も救ってくれない。だったら……)

 建早が背負ってきた重さ。理世が飲み込んだ孤独。監視者が隠した真実。
 それらすべてを、この足で踏み越える。

(俺が、救いに行く)

 足が、震えていた。けれど、それは恐怖ではない。その震えは、意志のかたちだった。
 葦原は、一歩、前に出た。そして、一言返事をした。

 「はい!」

 キャロンの瞳がギラリと輝く。彼女は、満足そうに鼻息を吹くと、二つのER-Xを取り出して、葦原に手渡した。

「うふふ。これ、あげるわ」
「いいんですか!?」

 葦原が、胸にER-Xを抱く。彼は、踵を返すと部屋から走り出てて行った。
 後にはキャロン……根津狛夫だけが残された。

 パソコンの液晶画面の光が、彼の顔を下から照らしている。

「ふふ……」

 堪え切れない笑いが、彼の口から漏れる。

「あは、あははは!ざまあみろ!」

 根津はスカートをひらめかせてピョンピョンと小躍りする。葦原は、ER-Xを使うだろう。
 その先にあるのは、世界の破滅だ。

(……特別認知管理局《あんたら》は秩序を尊いって言うけどよ。それって、結局、聞く気がないってだけだろ)

 かつて、政府の技術部門で根津がしていたことは、認知の波を平滑化して、社会の秩序を保つことだ。

(だがな、あのとき気づいちまったんだよ。秩序ってのは、世界をならすんじゃない。声をなかったことにするってことだってな)

 世界観可視化現象を目撃した時、根津は思った。これが次のステップだ。人間は、もう《《孤立した認知》》の中では生きていけない。しかし、政府も監視者も、秩序が壊れるのが怖くてしかたないのだ。
 だから虚無界が必要だった。だから理世を封じた。
 そして、政府に反目した根津は特別認知管理局放逐された。彼は探っていた。葦原のような<虚無界>へ行こうとする兆しをもつ者を。
 それが葦原だ。
 そしてやっと彼はここに辿り着いた。

「俺は、ER-Xを作った!」

 根津は一人叫ぶ。

「特別認知管理局《あいつら》の鼻をあかしてやる!世界なんて、壊れればいいんだ!」

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