11話
百足美代は、怖気付いたように襖の前で足を止めた。
「……本当に、ここまで来てくださって……」
「いえ、仕事ですからお気になさらないでください」
葦原が、にっこりと微笑む。美代は、ほっとしたようにため息をついた。
「すみません、私の気のせいだって思いたかったんですが……」
「……お父様は、今お部屋に?」
「ええ」
美代は、襖にてをかけて言った。
「テレビもラジオをつけていないのに、誰かと喋っている声がするんです。1日に何度も」
襖の向こうで、複数人の話し声がする。
建早が、葦原の後ろで端末を操作した。何事か確認して、彼は美代に言った。
「音声パターンと反響音を分析した……第三者の肉声は、確認されない」
「つまり……どう言うことでしょう?」
「聞こえている音は《《世界観の内部音声》》ということだ」
「頭の上の、世界の声ってことですね」
葦原が尋ねると、建早はゆっくりとうなずいた。
「可視化された認知が、音として漏れ始めている可能性がある。放置すれば、世界観暴走事案に発展する」
世界観暴走事案……葦原の脳裏に、20年前の記憶が浮かぶ。
人々の頭の上に、突如浮かび上がった<世界観>。
それらは最初、奇跡のように扱われた。心が分かり合える世界が来たのだと、多くの人が信じた。
だが、現実は違った。
「愛してる」と言いながら、頭の上には別の女の姿。
「大丈夫だよ」と言いながら、世界観は崩壊寸前の断崖。
「信じてる」と言いながら、そこにあったのは武器を構えた兵士の群れ。
視えたことで、信じられなくなった。理解しようとして、逆に距離が生まれた。
<心が見えた>ことは、言葉よりも残酷に世界を変えた。
社会は混乱した。差別、偽装、評価の偏り。
職場では「世界観診断」が採用基準となり、家族は“醜い内面”を理由に壊れ、<美しい世界観>を装うことが新たな虚構となった。
そればかりか、<世界観>は時に暴走した。
強いトラウマや未処理の感情・記憶が世界観に反映され、現実空間との境界を越えて他者を巻き込む認知暴走症状。
つまり、自己の認知が漏れ出し、現実に害をなす。
それが世界観暴走事案だ。
美代は表情をこわばらせて言った。
「父は、昔から他人に弱みを見せない人でした……寡黙で……冷静な人で……時には……冷たいと思うこともありました。でも……」
建早と葦原に、美代が深々とお辞儀をした。
「私にとっては、たった一人の父なのです。父を助けてください。よろしくお願いします」
「……失礼します」
葦原が、そっと襖を開ける。
その部屋は、広い和室だった。葦原は、畳の上に足を踏み入れた。畳の香りが立つ。
介護用ベッドの上に、白い布団に包まれた老人が寝そべっていた。
百足敬之助《ももたりけいのすけ》だ。
その頭上には、もうもうと煙る白い蒸気と、歯車のようなパーツで出来た、浮遊する多層的な構造の都市が浮かび上がっていた。


