19
以前の私は夫を愛していたのだろうか……
だとしたら、その気持ちを取り戻すべきなのだろうか。
今の私は彼を愛しているのかどうかわからなかった。
夫とともに過ごした日々。喜びも悲しみもすべてが記憶の奥底に閉じ込められて表に出てくる気配はない。
レイモンドとはかつて、どんな言葉を交わしていたのだろう? 微笑み合い、何気ない会話を重ねた日々は本当にあったのだろうか。
どうしても忘れていた記憶を呼び戻したいという衝動にかられ、私はフィリップ様に連れられて、岬の灯台にやって来た。最初に見つかった場所に来れば、何か思い出すきっかけになるのではないかと。
「君はここで見つかったらしい……君はどんな気持ちでここへ来たのだろうな」
周辺を見渡し、フィリップ様は問いかけというよりは、自分に向けた独り言のようにそう呟いた。
「なぜ私はこんな場所に来たんでしょうか?ここで誰かと会ったとか、何らかの事情があったのでしょうか……」
その灯台はとても寂しく孤立した場所に建っていた。
海風にさらされ、剥がれ落ちた塗装が無残な斑を描くその灯台は、お世辞にも奇麗だとはいえなかった。
「そうだな……上から見た景色が奇麗だったからかもしれない。君の他に誰かがいたような形跡はなかったらしいから、ここへは君一人で来たんだろう」
フィリップ様は先に足を踏み出した。
私たちはそのまま灯台の上まで上って行った。
石段は潮風に削られ、崩れかけた部分が少し危険だった。彼は私に手を差し出して、捕まるように言ってくれた。
上へ行くほど、どこからか入り込んでくる風の感覚が肌に触れる。そのたびにフィリップ様はわずかに眉をひそめ、私を気遣うように視線を向けた。
最後の数段を上がると、灯台の頂が見えた。
灯台の古びた手すりに触れると、ひんやりとした感触が指先に伝わった。
潮の香りが微かに鼻をくすぐる。眼下には広がる波の絨毯。風が吹くたび、海面が光を砕いてキラキラと踊っている。遠くから響くのはカモメの鳴き声……
私はなぜか懐かしいような気持ちになった。肌に感じる風や、鳥の鳴き声、潮の香、すべてが忘れかけていた記憶の断片となって、胸の奥でそっと呼びかけてくる。
突如、冷たい海風が強く吹き抜けた。潮の匂いが濃くなり、波の音がより深く響いたその瞬間。
不意に私の中で声が響いた……
そうだ……灯台守が言っていた。
『……もし元に戻したいと思う時が来たら、ここをまた訪ねてみるといい……』
私はハッと目を見開いた。
『嵐の夜、海が騒いでいる日には、俺がここにいるかもしれない。運が良ければ、その時また会えるだろうさ……』
灯台守の言葉が重く耳の奥で残響する。私の……記憶?
突然のめまいに襲われ、ふらっと倒れそうになった。 視界がぐらつく。足元が崩れていくような感覚。けれども、次の瞬間、力強い腕が私の体を支えた。
「大丈夫か!」
フィリップ殿下の声は冷静だった。その手は私を守るようにしっかりと肩を抱えている。
そのとき。
彼の後ろで、何かが揺らめいた。
影だ。 いや、それはただの影ではなかった。まるで意思を持つかのように、うごめく何かだった。
次の瞬間。
シュッ——ッ!
鋭い音を立てて、フィリップ様の剣が抜かれる。ためらいもなく、一瞬のうちに振り下ろされ。
ザシュッ!
刃が床に突き刺さる。
空気が凍りついた。 私は息を飲み、何が起こったのか理解できないまま、ただ剣の先を見つめる。
フィリップ様の視線は鋭く、まるで目には映らない何かと対峙しているようだった。何かが……この灯台の中に、いる?
風が吹き込む。 影がゆらりと揺れ、そして……
ものすごい勢いで灯台の階段を駆け上がる足音が聞こえた。
「おい!ステフから離れろ!」
旦那様の怒声が、空気を震わせた。
***
公爵邸の客室は息が詰まるような雰囲気だった。
部屋の中に漂う沈黙が、異様な緊張感を醸し出している。
私とフィリップ様、そしてセバスチャンとダリア、皆が旦那様を囲む形になって、その視線は冷たく鋭い。
旦那様は腕を組み、わざと肩をいからせる。
「……どういうことですか、旦那様?」
私がゆっくりと問いかけた。
旦那様は身じろぎし、ぎこちなく視線を動かした。
「……私は……ただ、知る必要があっただけだ」
その言葉に、皆が眉をひそめる。
「影を使い盗み聞きとは、随分と慎ましい趣味をお持ちだ」
フィリップ様の皮肉のこもった声が冷たく響く。
ダリアは腕を組み、無言のまま旦那様を見つめている。
セバスチャンの瞳には、怒りではなく失望が浮かんでいた。
「何を知りたかったのですか?」
私が旦那様に問いかける。
「……私はただ、君がどこへ行くかを知りたかった。公爵夫人なのだから、安全は大事だ。危険な場所へ行ってはならないし……」
絞り出した言葉は、まるで言い訳のように聞こえた。けれども、その言葉の裏にあるものを、誰もが感じ取っていた。
フィリップ様、セバスチャン、ダリア、皆の視線が旦那様に集まる。
ダリアはため息をつき、静かに言った。
「旦那様は、本当は奥様のことが気になって仕方がなかったのでしょう?」
旦那様はわずかにハッとした様子で、びくりと身を震わせた。
しかし、すぐに顔をそむけ、強がるように言い放った。
「……そんなことはない!」
「魔力まで使って、盗み聞きですか?」
セバスチャンが首を振って低く呟いた。
旦那様はかすかに肩をすくめた。
「王子殿下ではありますが、妻が男性と二人で出かけるという行為は……その、あまり体裁の良いものではありません」
旦那様はフィリップ様に向かって、はっきりとそう口にした。
「私と殿下は、そういう不純な関係ではありません!」
私は驚いて思わず声を上げてしまった。
ダリアがため息をつく。
「旦那様の心配は、ただの愛ではなく、執着になっているのでは?」
沈黙が広がる。
旦那様は拳を握りしめる。
「違う……私は、ただ……あの日以来、彼女が私をどう思っているのか、それが気になって……!」
その言葉に、空気がわずかに変わった。
ただの盗み聞きではない。愛しすぎたがゆえに、どうしても確かめたかった。それが、彼の魔力を使うという行為に至った理由のようだった。
しかし、それが許される行為なのか?
フィリップ様が静かに息をつく。
「本来、魔力とは、人を守るために使うものだ。特に君の力は、個人のプライバシーに関わってくる」
彼の声は冷静だった。そして王子らしい口調で続けた。
「私的な理由で使うものではない……それも、妻の会話を盗み聞きするためになど、騎士道精神に反する行為だ。王家の諜報活動を任務とする君が、こんなことに能力を使うとは、違法ではないにしても情けないではないか」
フィリップ様はしっかりしろと旦那様の背中を叩いた。
本当に情けない……殿下の言葉に、一気に旦那様の株が下がった。
「私の能力を、個人的に使ったのはこれが初めてです。自分でもなぜこんな真似をしたのか……深く恥じております」
部屋の空気が居心地の悪いものとなってきた。
「プライバシーを侵害してまで、奥様の何を知りたかったのですか?」
ダリアはため息をつき、静かに言った。
「奥様への想いが強すぎて、間違った方向に進んでしまったのですね」
セバスチャンの言葉に、旦那様は唇をかみしめた。
「……私はただ、彼女を心配していただけだ」
その言葉に、フィリップ様の目がわずかに細まる。
「心配とは、信じることだ。魔力を使って盗み聞きすることではない」
旦那様は何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
この場に満ちるのは、ただ重い沈黙。
そして、その沈黙が旦那様のしたことの嘆かわしさを物語っていた。
しかしダリアの次の言葉で、旦那様の心の内を、はっきりと言葉にすべき時が訪れた。
ダリアは強い口調で、まるで母親のように旦那様を叱りつけた。
「言い訳はいらないのです!今ここで、はっきりさせなさい!旦那様は奥様のことをどう思っていらっしゃるのですか!今までのように関わらないでほしい、面倒をかけないでほしいとお思いですか?」
旦那様が、深く息を吸った。
「ちがっ……違う、私は……」
言葉が喉の奥でかすれる。
彼は拳を握りしめ、力を込めた。
「私は……彼女を愛している」
その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気が震えた。
「だから……心配で……だから、こういうことをしてしまったんだ!」
声には迷いがなかった。
フィリップ様が厳しい瞳を向け、ゆっくりと口を開いた。
「その気持ちが本物ならば、愛する人の信頼を壊すような真似は二度とするな」
旦那様は唇を噛みしめ、静かに頷いた
旦那様に対する自分の気持ちはどうなのか……
私が答えを出すのは、まだ少し時間がかかりそうだった。
まるでいたずらが見つかってしまった子供のように、旦那様はしょんぼりと肩を落としていた。その姿は頼りないけれど、不思議と憎めない。
何事にも一生懸命なのに、どこか抜けていて、危なっかしい。そんな彼を見ると、どうしても助けてあげたいと思ってしまう。放っておくことができない。
この気持ちは一体何なのだろう。