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杠葉鏡子①






 五月上旬のとある日のこと。
 俺と杠葉鏡子は、学校の美術室にいた。
 少しだけツンとした匂いがする室内。杠葉はいつもの無表情で、制服にデカいエプロンを引っ下げて、立てかけたキャンパスに塗料を塗りたくっていた。

「何描いてんだ?」

「心」

「うーん抽象的」

 杠葉は、こうやってたまによくわからんことを口走る。
 今日は休日ではあるが、周斗は練習試合に行き、楠原は遠征に行っている。
 俺も家でのんびり過ごしていたのだが、そんな俺の休日を打ち砕いたのは、他ならぬ杠葉からの電話だった。
 備品の買い出し、手伝って――。
 彼女はそれだけを言って、とっとと電話を切ってしまった。どうやら俺が了承する前提の話のようだが、そもそもいつどこに集合するかも聞いていない。
 しかしながら、杠葉にして備品と来れば、自ずと美術部関連であることは想像できた。
 
「仕方ねぇなぁ」

 などとぼやきつつ、律儀に制服に着替えた俺は、重い足を引きずって学校の美術室へと向かう。
 やはり杠葉は待ち構えていた。
 彼女は俺が到着するなり「ついて来て」と呟くと、有無を言わせず先導した。そこから二時間半という時間をかけて各種店舗を巡り、両手の人差し指が千切れそうな程の備品を持たされ、ようやく学校へと帰還する。
 
「……ありがと」

 ぼそりと小声でありがたき御言葉を口にされた美人画家は、俺の存在なんて棚の上の石膏像のように放置し、心なる絵画を描き始めたのだった。
 黙々と、言葉を語らず、よそ見をせず、ただただ目の前のキャンパスに向き合う杠葉。
 無心で心を描くとはこれ如何に。
 基本的に、杠葉は表情が乏しい。おまけに口数も少なく、校内では氷結美人、ハードクールビューティーなどと言われている。もっとも、それすらも彼女の魅力のように語られているのだが。
 しかし、それは間違いである。
 杠葉は表情こそあまり変わらないが、意外にも、感情の切れ端が至る所で散りばめられている。中学から彼女を見ていて、ようやくわかったことだ。
 今の杠葉の感情?
 そんなの決まっている。

「楽しそうだな」

 俺の言葉に、動き続けていた筆が止まった。

「……そう見える?」

「見える見える。俺に絵心はないけど、そうやって楽しそうに描いてるところは見ていて飽きないし、なんていうか、カッコいい」

「かっこいい?」

「ああ。カッコいいよ、杠葉は」

「…………」

 すると杠葉は筆を置き、奥の棚へと歩き出した。そこから機材を取り出すと、テキパキと手を動かし、もう一枚のキャンパスを組み立てた。
 そして彼女は俺に筆を差し出す。

「……須藤くんも。描いてみて」

「いやだから、俺に絵心は……」

「絵心はいらない。大切なのは、何を描くか、何を描きたいかだから」

 それを絵心と言うんじゃなかろうか。
 別に描きたいものなんてないけど、せっかく杠葉が用意してくれたんだし御言葉に甘えることにした。
 シャッ、シャッ、と。
 杠葉の後ろで白い生地に油絵具を塗っていく。
 楽しいっちゃ楽しいが、ハッキリ言って超テキトーに描いている。しかしこれ、キャンパス生地、一枚いくらくらいするんだろうか。物凄く無駄遣いしている気がする。後で怒られても知らんぞ。

「これ……」

 いつの間にか、杠葉は横に立っていた。

「あんまり見るなよ? なんか、恥ずかしいから」

 自分の頭の中を品評されている気分だ。

「須藤くんの絵……なんだか、変」

 変。

「だけど、私は好き」

「フォローありがとよ」

「フォローじゃない。飾ろうとせず、とても雑で、後先考えてなくて、感情がうるさい」

 絵の話だよな?

「……でも、なんだか暖かい」

「こんなテキトーな絵にそこまで感じてくれるとは驚きだ。描いてる俺が一番びっくりしてる」

「絵はその人を表すから」

 俺は飾ろうとせず、とても雑で、後先考えてなくて、感情がうるさいと?
 概ね合ってるよチクショウ。
 しかしそこまで言われると気になってくるのが、杠葉の絵である。

「絵、見ていい?」

「うん、いいよ」

 許可を得て、改めて杠葉の絵を見てみる。
 杠葉とは周斗のついでに中学からの知り合いではあるが、こうして彼女の絵をマジマジと見るのは初めてかもしれない。

(うーん、これは……)

 曰く言い難し。
 灰色の混じった白い丸の周りを、何やら赤だの青だの黄色だの多種多彩な模様というか形が取り囲んでいる。正直意味不明。凡人たる俺には、これが心だと言われても全く理解できん。
 ただ、なんとなーくすんごい絵ってのは分からんでもない。分かったことにしておこう。

「どう?」

 どうと言われても。

「ええと……なんだろ。もしかして、迷ってる?」

「どうして?」

「統一性がないし、色合いもめちゃくちゃ。明るそうで暗いというか、暗そうで明るいというか……あー、だから心なのか」

 少しだけ、芸術に触れた気がした。

「これは、私の心」

「杠葉の?」

 こくりと、杠葉は一度だけ頷いた。

「他人の心を描けるほど、他の人と接していないから」

「周斗と楠原がいるだろ?」

「あと、須藤くん」

 俺をそこに紛れ込ませるな。
 俺が持たん。

「話すのは、須藤くん達くらい。他の人とはどう接すればいいのかわからないの。遠くから見られていることはあるけど、誰も話しかけて来ない。私って、つまらない人だから」

「つまらない?」

「うん。クラスで他の人とグループになると、みんな私の顔色をうかがっていて……凄く、大変そうだから」

 リアルにその光景が脳内で再現される。
 確かに、杠葉は学校の中で浮いてしまっているところがある。特異点に等しい。
 凄まじく美人で、スタイル良くて、頭が良くて、絵が上手い。それだけ言えば完璧超人だが、そんな超人に迂闊にも近付こうとする奴はあまりいない。正確には、近付くことができない。それほどまでに杠葉鏡子という奴は違う次元の存在に思えるんだろう。その気持ちはわかる。
 だからだろう。
 周斗や楠原、ついでに俺もいるらしいが、杠葉が心を許し、心を許されている奴は数えるほどしかいない。
 
「いやでも、それ、別に杠葉がつまらないってことじゃないだろ」

「違うの?」

「全然違うよ。杠葉ってさ、普通にけっこう感情出てるから。今はめっちゃ落ち込みモード。そういうのを推測していくの、けっこう楽しいよ」

「でも、私は……」

「俺は今の杠葉のままでいいと思うけどな。知らん奴のために無理して笑うのか? やりたくもない雑談をするのか? 行きたくもないカラオケに行くのか? ナンセンスだろ。ありのままの杠葉を受け入れてくれてる奴はいるんだし、そいつらとの縁を大切にすればいいんじゃねえの? 少なくとも、周斗はお前をつまらない奴だなんて考えてもないさ」

「周斗くん?」

「ああ。お前だって知ってるだろ? 柊木周斗ってのは、そういう男なんだよ」

「…………」

「そもそもの話だけど、他人と接したからってそいつの心なんて誰にもわかんないだろ。俺は周斗と仲良くしてるつもりだけど、周斗の心の中なんてちっともわからん。もしも人の心がわかるとすれば……」

「すれば?」

「そいつは、超能力者だ」

「おぉー」

 どういう感嘆だ。

「とにかく、余計なこと気にせずに、杠葉は思うがままに過ごせ。言っておくが、それが出来る人間なんて極々限られた人種だからな? 俺には出来ん。でも、杠葉なら出来る。もっと楽しめよ。杠葉鏡子っていう凄い奴の日々をさ」

「…………」

 すると杠葉は、再び筆を手に取った。

「須藤くん。この絵に何か足したい。何がいい?」

「俺に聞くなよ」

「須藤くんに聞きたいの。何がいい?」

 回答に困る。
 自分で言うのもなんだが、俺にセンスなどない。こんだけ描かれた絵に何か足すなどという重大事項を俺に振らんで欲しい。
 しかし杠葉は、その美形を顕現したような顔と目でこっちを見てくる。どうやら答えないと終わらないようだ。
 諦めて、それっぽいものを提案してみる。

「ありきたりで悪いけど、花とか?」

「花……わかった」

 そして杠葉は一切の躊躇も遠慮もなく筆を走らせた。そんな彼女が描いたのは、一輪の小さな向日葵だった。

「まさかの向日葵」

「……もうすぐ、夏だから」

「その前に梅雨が来るだろうに」

「これでいい。……完成」

 出来上がった絵を二人で見つめる。
 仰々しい絵画の中でぽつんと佇む向日葵に、正直違和感しかないのだが……。

「……出来栄えは?」

「うん。楽しかった」

「そりゃ、百点満点だな」

 やはり杠葉鏡子は、とても面白い奴だ。



 



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