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10 鬼部長からの宿題②

 経営企画部を覗き込む琢磨が、「白浜、ちょっと来い!」と声をあげた。

 その声に慌てて立ち上がる胡桃だが、今回は呼び出しを受けるような案件に心当たりはない。

 特段提出した決裁など存在しない今、どうして声がかかったのだろうかと、不思議そうな顔をしながら部長室へと歩みを進める。

 部長室の中を恐る恐る覗くと琢磨の声がした。
「ん? どうした? 早く入って来い」

「し、失礼します」
 そう言って、琢磨のデスクの正面に立ち、どんな用事だろうかと、まじまじと琢磨を見つめた。

 胡桃が相当に緊張しているのを察し、本題を後回しにしようと考える琢磨は、当たり障りのない話題を口にする。

「弁当なんだが、アジフライが冷めているのにサクッとしててうまかった」

「フライはあげるときの油の温度で仕上がりが違うので、冷たい油から揚げはじめ、最後だけ高温にすると、カラッと揚がるんですよ」

「なるほどな」
「おいしく召し上がっていただけて良かったです」

「ありがとな」
「そんなことを言うために、わざわざ私を呼び出したんですか?」

「いいや、違う」
「そうですよね……」
 はにかむ胡桃とは裏腹に琢磨が真面目な顔へと変わったため、叱られるのかもしれないと感じた胡桃がうつむきがちに尋ねた。

「また失敗でもしていましたか?」

「くくっ、そうではなくて、宿題を出そうと思っている」

「しゅ、宿題ですか……?」
 宿題とは一体何を言い出したのだろう。
 胡桃は全くもって見当もつかない。

 警戒心をあらわにした彼女は、肩をすくめて一歩引いた。

 そんな胡桃を見た琢磨が、苦笑いしながら切り出してきた。

「資料の作り方のわかっていない社員に、資料の作り方を指導してくれ」

「え⁉ む、無理ですよ」

「まあそうだな。白浜に何か言われても誰も聞き入れないだろうからな」

「私のような新人が、先輩にご指導する立場ではありませんから。まだまだ勉強中ですので」

「じゃあ、勉強の一環だと思って、この資料をもっとわかりやすく改良し、伝わるプレゼンに修正しろ」

「えっと、これはどなたかが作成した完成版のプレゼン資料ですよね?」

「ああそうだ。期限は明日の11時からの会議に間に合うようにだ」

「で、ですが……」

「命令だ! やれ!」
 怯えるように肩をビクッと上げる胡桃が、わけもわからず「はい」と返事をして部屋を出た。

 終業時刻の5時を過ぎ、残業ゼロをめざす桜井建設の社員は早々に退社する。

 広い事務室に胡桃だけがポツンと座っており、彼女がパラパラとめくる書類の音だけが辺りに響く。

 退社しようとコートを羽織った琢磨が、部長室から事務室へ出てくると、キーボードをたたくタイピングの音が静かな空間に広がっている。

「残業申請はなかったはずだが、誰かまだ残っているのか……」
 そうして音のする方向へ顔を向ける。

「なるほどな。白浜か」
 例の資料を作成しているのだろう。

 事前の残業申請もなしに残っていることを注意すべきかと迷いながらも、期限ぎりぎりに仕事を命じたのは自分だ。

 とはいえ胡桃の作業能力をある程度理解している琢磨としては、すでに完成したと思っていたのだが。

 何かあったのだろうかと、パソコンの光が顔に反射している胡桃に声をかけた。

「仕事がまだ終わらないのか?」

「あ、いえ、もう終わったんですが、間違いがないか最後に確認していて」

「それならすぐに終わるだろうし、今日のところは帰宅して、明日早急に取りかかれ」

「昼間は前後左右に男性がいるから、気が散って集中できないんです。ミスを探すには、1人だけの時間に数字を見たくて」

「まだかかるのか?」

「あともう少しだけです」

「じゃあ、白浜の仕事が終わるまで、俺はここで待っているとするか。車で来ているから一緒に帰ろう」

「あれ? 一緒に通勤しない約束ではありませんでしたか?」

「もう6時だし、他の社員は退社しているから誰にも見つからないだろう」

 静かな口調でそう言った琢磨は、胡桃の右横の席におもむろに腰を下ろすと、しばしの間、真剣な顔でパソコンに向かう胡桃のことを見つめていた。

「あ~っ、ここ間違ってるなぁ」
 胡桃が独り言を呟き数字を修正する。

 その姿を見て琢磨が、へぇ~っと感心した。
(俺が横にいても、ちゃんと仕事ができているじゃないか。男性恐怖症だと言っていたが、うまく克服できると思うけどな)

 一際真剣な顔で仕事に取り組む胡桃の姿に琢磨は釘付けとなり、彼女の動きを追っていた。

 そんな琢磨は胡桃から違和感を覚える。
 なぜだろうと訝しむ彼は、その原因を探ろうと、胡桃の顔を注意深く観察しはじめた。

 そうすればほどなくして、あっと驚いた反応を見せ、上半身を揺らし間違いがないかを確かめようと、一点に集中している。

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