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毒入り麻婆豆腐の昼。

ぴりり。一瞬目を大きくした後あなたは眉を下げ目を細めた。
 麻婆豆腐がいつもより辛い。
「うん、いい日だね。」
あなたは窓を見てまるで天気の話でもしたかのように言った。
「…バレた?」
「うん。君が麻婆豆腐を作るときはいつも味醂をたくさん入れて甘くしてたもの。でもきっとわからないようにしてくれたんだよね。ありがとう。」
「結局何もできなかったね。」
「うん。でもいいんだ。僕のお願いをかなえてくれてありがとう」
 天気のいい春の昼下がり、二人で小さな食卓を囲んで最後の昼食を食べる。私だけ味醂の甘さがよくきいた麻婆豆腐を食べて、あなたの毒入りの麻婆豆腐はいつもより辛い。部屋には小さな白無垢の食卓と椅子以外は何もない。
 部屋は光が柔らかく降り注いで浮かぶ埃の一つさえ見えるほど明るかった。何もかもが祝福されているかのように感じさせる不思議な空間だった。そのあとは二人でいつものように鼻歌交じりに食器を洗った。白いふきんで皿を拭くのはあなたの担当。二人で暮らし始めてから決めたことだ。
 この日を目指してこの暮らしを 始めてからもう1年が過ぎた。一年前の頃のあなたはシャツ越しに骨が見えるんじゃないかと思うくらい薄く、青みがかっていた。
 あのアパートであなたの部屋だけが生気を感じさせなかった。最初の頃はなんて痩せた人だろうと思った。それからゴミ出しのときだけ何度か見るようになって、あなたに興味を持った。
 ある日の夜中、あなたが路上で倒れているのを見つけた。一瞬のためらいの後あなたの枝のような腕をつかんで私の部屋にあげた。最初は何も話せず、延々と胃液を便器に向かって吐き続けていた。そこに固形物らしきものは一切なく、空っぽの胃にアルコールを流し込み続ける彼の生活が垣間見えた。ようやく落ち着いたのかかすかな声で謝罪と礼を言って去ろうとした。立ち上がったあなたはふらふらと風が吹けば飛んでしまいそうな歩き方で、部屋まで送ることにした。
 部屋につくとそこは死臭が支配していた。室内なのに凍えるように冷えていて、異様な空間だった。大量の封筒と酒の缶が積み重なった床を歩いてあなたはまた冷蔵庫から安酒を取り出そうとしたので焦って止めた。
 その時口を突いて出たのが
「私と麻婆豆腐を食べませんか。」
だった。高校を卒業し、社会人になって独り暮らしにもなれてきて、一人で食べるご飯にも飽きていただろうか、自分でもこんな危なそうな人を夕飯に招くなんてと驚いた。あなたも私と同様に一瞬戸惑ったあと、うなずいた。その時の麻婆豆腐もやっぱり味醂をたっぷり入れて甘くしたものだった。
 それから二人で夕飯を食べるようになったある日、あなたはあなたの願いをポロリとこぼした。その時のあなたの遠くを眺めるような横顔が今でも忘れられない。趣味もなく幸い貯金もある程度あったので私は仕事をやめ、あなたと二人で暮らし始めた。やっぱり腕は枝のようで、透けそうなほど薄かったけれどまとっていいる空気がだんだんと橙色になっていた。
 隣のあなたを見たらあの頃の深いクマが薄れているのに気が付いた。
「何もできなかったなんてことはないのかもね。」
そうつぶやいて、二人で笑った。皿洗いも終わってあなたが散歩に誘ってくれた。これもこの暮らしを始めてから決めたことだった。
 二人で土手を歩いた。水面が揺れ毎秒毎秒移ろうモザイク模様をしていて少しまぶしかった。風はまだ冷たさを残していて、ほこりっぽいような春特有の空気が流れていった。遠くに河口が見えた。きっとその先ではあきれるほどに大きな海と知らない人だけがいる土地が広がっているのだろう。そう思ったときに硫黄交じりのみそ汁のようなにおいがした。
 風で髪がぼさぼさになってしまったあなたが目を閉じて天を仰いで、深く息を吸った後にゆっくりと目を開けて
「春の風っていうとおだやかな感じがするけど、実際は春一番であんまりおだやかな風ではないねぇ。」
といった。春の初めの暴力的な風があなたの白いオーバーサイズのTシャツを旗のように翻させていた。
 ああ、この時間がもうすぐ終わってしまう。だというのにあなたはいつもと同じように笑っていた。私は絞り出すようにしか返事ができなかった。
「うん。」
きっと私が思うよりもずっとか細い声だったのだろう。
「…ここまで付き合ってくれてありがとうね。」
 あなたは困ったように笑った。その顔を見て私も少し笑えた。
 私たちは結局どうすることもできなかった。でもそれでいい。もうこれでおしまいなのだ。逃げて逃げていきついた先がここだった。
 そう言い聞かせるように考えた。
「眠いや。」
息を軽く切らしてあなたはそんなことを言った。眠くなんてなるわけがないのに。
「少し休もっか。」
二人で河川敷に寝そべった。
「春が過ぎるとここは一面葛のツタでおおわれるんだ。クルミの葉も茂ってくる。ゆだるかと思って水の中に入ってみると驚くほど涼しいんだ。夏もまたすぎるとクルミが青い実をつけ始める。ススキもここぞとばかりにふんぞり返って風が吹くたびに布がこすれるような音がするんだ。」
 大丈夫、忘れない。季節が来るたびにあなたを思い出すよ。いつも通りあなたの好きな甘い麻婆豆腐を作るよ。一人分作るのなんて久しぶりで作り過ぎちゃうかもしれないけど、一緒に食べてくれる友人も作るよ。みりんの入れ過ぎだなんて言われても懲りずに作るよ。
 そう思ってあなたの手を握りしめた時、顔なんて見れやしなかったけど、あなたがうなずいたような気がした。
 春が過ぎて、葛が生い茂るのを見た。夏も過ぎて、流れる水の冷たさを知った。秋が短くて、ヒガンバナの質感を知った。そして、朝起きるのが苦しくなくなって今私は河川敷を一人で歩いている。

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