分かってないよ
「バカ、嫌い!」
放課後、校門を出た少し先で叫び声が響く。傾いた夕日が二人の男女の横顔を照らしだした。
声の主は瞳に涙を溜めて、そのまま走り去った。
◆
やってしまった。叫び声の主、橘 結月は布団をかぶりうめいていた。
「絶対嫌われた、死にたい」
なんであんなに怒っちゃったんだろう。大したことではなかったのに。
私が怒った相手は、柳 葵。半年前から付き合っている、私の彼氏だ。最近、時々ああいう言い合い。いや、私が一方的に文句を言うようなことがある。
声にならない叫びをあげながら後悔していると、ピコンっとスマホに通知が来た。
ベッドから飛び上がって急いで確認する。
「なんだ小夜香か」
トーク画面を開いて『葵かと思ったのに』と送る。
『あんたから連絡寄越したんでしょ……。何、喧嘩したの?』
自分から連絡しておきながら落胆する私に、画面越しでも呆れているのが分かる。いつもの小夜香だ、ちょっと安心する。小夜香は小学生の頃からの友達でメガネが似合うクールで知的な女の子だ。さっきまで、結構落ち込んでいたからこのやりとりにはクスッと笑えて少し気が楽になった。
『喧嘩、じゃない。私が一方的に怒ったっていうか』
『どういうことよ』
どういうことと言われても説明が難しい。
『ね、電話しよ』
気分が落ち込んでいるのもあって、人と話したかった。いつもなら葵に、かまってとスタンプでも送るんだけど、今日は流石に気まずい。
既読はついたけど返事はない。これはかけていいってことだ。小夜香はツンデレだからあまりこういう時良いよっていわない。
電話をかけるとすぐに小夜香が出た。
「もしもし」
『もしもし』
「小夜香~」
親友の声を聞くとなんだか安心して少し泣きそうになってしまう。
『どうしたのよ』
「どうしよう、絶対葵に嫌われた……」
『あの結月大好き柳くんが? 嫌うわけないでしょ』
そういう言い方をされると少し照れる。
「そんなことないよ、私面倒くさいし。すぐ怒るし、絶対愛想尽かされた……」
『その発言がすでに面倒くさいわね。でも、柳くんもそれには慣れてるでしょ。明日謝れば許してくれるわよ』
「そうだね……」
『なら大丈夫でしょ』
葵は絶対に私を許してくれる、でも、そうじゃないのだ。私は許して欲しいわけではないんだと思う。ただ、
「うん」
そのモヤモヤが上手く言葉にできなくて、私はそのまま流されてしまった。小夜香は優しい、そっけないようでいて安心させようとしてくれている。
「どうやって謝ろう……」
『そもそも何で喧嘩したのよ』
「喧嘩じゃなくて、なんていうか。分かんない」
『分かんないって……』
「なんかさ、昨日の夜話したことの話になって、葵が話してたんだけど私全然覚えてなくて。いつも寝落ちしちゃうもんねって言われて。そんなことないって。それでなんか、揶揄われて……」
『なんでその流れで怒るのよ………普通に仲良さそうに聞こえるけど』
「分かんない、私も分かんないよ」
『そう…………。だったらもう昨日は怒っちゃってごめんで良いんじゃない?』
「う~ん」
『嫌なら、分からないことも含めて話をしなさい』
「……そうだね。うん。ありがと、小夜香」
『どういたしまして。話は終わり? 寝るけど』
「えぇ~、もっと話そうよ」
『しょうがないなぁ、ちょっとだけね』
画面の向こうで小夜香が小さく笑うのが分かった。
「それでね」
『えぇ、もう、分かった……』
小夜香の声に疲れがみてとれる。
気づいたら私ばっかり話していた、それに時間も結構経っている。
「ごめん、私ばっかり話して」
『いや、私も話したいことがあったわけじゃないし、大丈夫』
「そっか、ありがと」
『ちなみに、柳くんともいつもこういう感じなの?』
「まぁ、そうだね? 若干愚痴とかも多いかも。聞いてくれるから」
『そう、物好きな人ね』
小夜香の正直すぎる物言いに思わず笑ってしまう。
「ひどくな~い? まぁ、でもそうかもね」
『おやすみ』
「おやすみ~」
楽しかった。ずっと、不安だったから本当に助かった。小夜香はすごい。頭が良くてきっぱりしているのに、優し
くて。こういう時、良い友達を持てたなと思う。
「あ」
そこで初めて、葵から連絡が来ていたことに気付いた。
何か言った後に、電話をかけている。何を言ったのかはメッセージが取消されてるから分からない。電話も、私は
小夜香と電話をしていたから気づかなかったんだ。
不在着信の下におやすみの文字。一瞬……ほんの一瞬、胸がざわついた。ノイズみたいに嫌な考えが頭をよぎる。
今からでも、何か送った方が良いのかな。メッセージは三十分以上前、もう寝てるだろうか。何か送って返信がないのも怖いし、待っているのも不安だった。
結局、私は放置することにした。
明日、話すし大丈夫。そうやって自分を納得させて私は布団に入った。
「おはよ、結月」
下駄箱で靴を履き替えたところで、声をかけられて、振り返る。
「小夜香、おはよ~」
ちょこっと、学生鞄を下げている方の手を胸の高さぐらいまであげて挨拶する。
「大丈夫そう?」
相変わらずクールな小夜香の顔に少しだけ心配そうな色が滲んでいた。
「うん、怒ったことは謝って、その後ちょっと、話してみる不安なこととか、日頃の文句とか……」
指を折って言うことを確認しながら頷く。
「うん、大丈夫そうね。日頃の文句は……うん……言う時気を付けてね」
小夜香は苦笑してそう言った。日頃の文句に関しては不安そうだけど、小夜香が大丈夫って言ってくれると大丈夫
な気がしてくる。
昨日の夜、結局なかなか寝付けなくて葵に何を言うかばかり考えていた。
教室に着く、葵はまだ来てない。これはいつものことだ。
あと、五分もすれば来るかな。時計を見ながら私は何をする気も起きなくて机に突っ伏していた。
ガラガラとドアが開く音がした。
葵だ。少し緊張する。話かけないと。もし冷たくされたらどうしようなんて、不安になる。
「葵っ! おはよ!」
「おはよ、結月。どうしたのそんな勢いつけて挨拶して」
柔らかな表情。ゆったりとした口調。安心する声。普段なら安心する葵のもつ空気。それが今日は怖かった。最近、ずっとこんなだ。何かあるたびに、葵は優しく、そしてどこか遠くなって行く気がする。何を考えているのかが分からなくなっていく。たまらなく不安だ。
「あのさ」
勇気を振り絞って、言葉を続ける。
「うん」
葵は変わらず優しい仕草で私の言葉を待ってくれた。
「昨日は怒ってごめん」
「ううん、俺の方こそごめん」
これで仲直りそれで良かったんだろうけど。私にはもっと話したいことがあって、何より葵が謝るのに納得できなかった。悪いのは私なんだから。
「なんで謝るの」
問い詰めるように言う。自分で出そうと思っていたよりも少しキツい口調になってしまった。
「いや、怒らせちゃって。からかってごめん」
からかってごめん? そっか、そうだよね。そう見えたんだ。確かに、私は揶揄われた時に怒ったのかもしれな
い。でも、違う、そうじゃなくて、なんで気づいてくれないの。
「違うよ」
俯いて、ボソリとそう呟く。
「え? いや、なんていうかその、気付けなくてというか」
「なんで怒ったか分かってないんでしょ?」
ずるいことを言っていると思った。私だって分かってないのにこんなことを聞いて。葵は困った顔をしていた。
最低だな、私。心が冷えていく。朝不安で、会って嬉しくて、緊張して、そうやって上がった体温が綺麗さっぱりど
こかに消えてしまったみたいだ。冷徹で最低な言葉が浮かんでくる。分かってくれるって期待していたんだ、葵に。だから、こうやって落胆してる。
「……ごめん」
何か言いたそうな顔をして、口を開いた葵が、結局何も言えないで俯いて謝る。
「ううん、良いよ。むしろごめん」
私も上手く言葉には出来ない。でも、最近の関係には多分何か納得行ってなかったんだろう。
「別れよっか」
今の私は冷徹で、でも冷静じゃ全然なかった。口をついて勢いで言ってしまった。もしかしたら葵なら嫌だって言ってくれると思っていたのかもしれない、だとしたら私は本当にバカだ。
葵は目を開いて驚いて、何か言おうとして、ぐっと痛みを堪えるような顔をして、それからスッと表情を落として。本当に忙しなく色んな表情を見せて、結局、少し苦笑気味に。
「分かった」
そう言って自分の席に戻っていった。
私も振り向いて小夜香のところに行く。小夜香は信じられないという顔で立っていた。クールな小夜香にしては珍しい。
「結月、どうしたの? 話してみるって……」
「だって……」
目が熱い。今にも決壊しそうな目元を必死に耐えているのだ。
小夜香がそれに気付いた。余計に戸惑ったみたいだ。
「外行こ」
なんとかギリギリ泣き声とバレないぐらいの声量で小夜香を誘うと、小夜香は「うん」と頷いて付いてきてくれた。
私はそのまま階段を降りて外に出た。小夜香は何も言わなかった。私の言葉を黙って待ってくれている。
「どうしよう……」
外に出て、あまり人が通らないところに出るといよいよ限界で私は泣いてしまった。
「聞くから、大丈夫だから、まずは、話してみて」
そっと、近づいて手を握って小夜香はそう言った。
「うん、うん……」
声を押し殺して泣いた。小夜香は優しく背中を撫でていてくれた。悲しくて、寂しくて泣いた。失ってしまった。私に泣く権利なんてない、なのに涙は止まらなかった。頭のなかには色んな表情の葵と声が浮かんで、パノラマみたいに色んな思い出が巡った。
初めて会った時まで記憶が戻って涙はやっと止まった。私は葵が好きだ。でも、葵といる私を、私は上手く好きになれてない。
「バカだ、私」
「…………」
小夜香は黙っていた。話すようなことじゃないのかもしれないけど、止まらなかった。
「なんかね、分かり合えないんだなって思ったら全部どうでも良くなっちゃって。分からなくなって行くのが怖くて。私から突き放しちゃった」
「そっか」
「どうすれば良いんだろう。私」
「大丈夫よ、柳くんだって冗談だって……」
「それは違うよ」
小夜香にしては珍しく、慰めだけの言葉だった。
心配そうに口を開こうとしてはつぐむ小夜香に、申し訳ないと思った。それと同時にこんなどうしようもない私を心配してくれて嬉しかった。
冷たい風が吹いた。冬だ。泣き腫らして熱くなった目元から熱を奪って通り過ぎていった。
戻ろっか、と小夜香が呟いて、私も目元を拭ってついて行った。
教室に入るとき、チラッと葵の様子を覗く。
頬杖を付いて窓の外を眺めているようだった。
あんまり見てると胸が詰まるので私は目を逸らして自分の席に着いた。
ぼんやりと朝のショートホームルームを受けて、そのまま授業もただノートを写していた。
結局、その日はもう葵と話すこともなく家に帰った。