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【016:恥ずかしい私を見て】

「師匠」
「やあ望愛君。師匠ではないが今日はどうしたんだい?」
水色のランドセルを背負い絵を収納するアルタートバッグを両手で抱える小学生。
しみんで飲んでから数日が経った時の朝、彼女は現れた。
というよりも今日だけでなく、ここ最近頻繁に顔を出す。
きっと通学路にここがあるのだろう。厄介な話しだ。
「今日はお願いがあります」
そう言うと、ピクニックシートをいそいそと広げ始めた。
せっかくなのでと色助はそこに座ると対面する望愛は正座で向かう。
「弟子に相応しいか絵を見てください」
「ごめんね。見るまでもないんだ」
黙る。
自分の努力を重ねた結果を査定すらしてくれないとなれば、そういう形になるだろうと予想は容易いが、望愛は意外にも頷いた。
「うん」
――おや。
「師匠に辞めろと言われた時の私ならそう」
「今は――あの時と違う」
(ほう)
壁を超えたと思ったが、さらにもう一つ超えたのかな?
「指導ならキミの先生に頼みたまえ。ボクは技術的な指導は向いていない」
「師匠に見てほしい」
望愛は次の言葉を探したが、出てきたのは同じモノ。
「師匠のために描いた」
「ふむ」
それは少し、ソソられた。
「タイトルは?」
「……あ」
ふむ。そこからか。
「野良犬は捕まえられて殺処分されるんだ」
え? と困惑する望愛を置いてそのまま続ける。
「殺処分。そこらに歩いている犬は捕まえられる。連れて行かれて殺されるんだ。知っていたかい?」
「……知らなかった」
ショックを受ける様子を見せる。そうか。まあ小学生だからそんなものか。
「なんで、ひどい事するの」
あごで質問を返す。
自分で考えてみろと意図が伝わると、答えを待った。
暇なのでいつも眺めている河に視線を送る。
上流から下流へと曲線を描きながらゆっくりと流れる。なんてことはない絶対の重力。
水の流れで石や岩を削ると聞いたことはあるが、実際に見てみると数年持たずに消えてしまうのではと水の威力に目が行く。
「師匠。わかった」
聞こうか、と顔を上げた。
「犬は、人間にとって邪魔。殺されて当然」
「……」
この子は少し、極端から極端に飛ぶ変わった思想を持っているのかもしれない。
「キミの名前はなんだい?」
「雫石望愛(しずくいしみあ)」
「うん。ボクは久慈色助」
「名前には価値があるんだ」
「……価値?」
どこから説明しようかと色助は周囲に視線を飛ばしながら考える。
「ペットで犬を飼っている同級生もいるだろう。その犬には名前はあるかな?」
「ある」
うんうんと頷く。
「家族であるペットの犬には名前がある。野良犬にはない」
「名前がないなら、それは価値がないんだ」
「……おお!」
「名前がない絵は価値がない。わかったかな?」
「――今日はここまで。勉強になっただろう。うん。我ながら良い事を指導した」
うんうんうんと、必要以上に頷いて見せる。
「では、その……いつものを……」
「え、もうちょっと……」
「……」
「う……」
可愛らしいランドセルからキリリンビールが手渡しされる。
プシュ。
「うん。では学業に励みたまえ」
「……ッ!」
アルタートバッグを抱きしめ抗議するように視線を飛ばす。
「ありがとうございました!」
なかばヤケクソにお礼を言って帰って行った。

翌日。
「師匠」
「やあ望愛君。師匠ではないが今日はどうしたんだい?」
「タイトル付けた」
「聞かせてほしい」
「『恥ずかしい私』」
「……」
困ったなあ。犯罪をするならと予め考えている候補があった。食い逃げか切子さんへのセクハラかの二択で迷っていたのだが……。
待てよ、今の時代小学生が自分の裸体を描くというのは……。
そしてそれが精巧に出来ていた場合、ボクは師匠と呼ばれている。
「ふむ」
この子帰ってくれないかなあ。
「師匠のために描いた」
いや本当に帰ってほしい。
「ところで望愛君はボクの絵は見たのかな?」
「うん。見た」
「あ、見ました!」
今の時代はとても便利で、一々展覧会に行かなくても携帯で簡単に作品を見れる。
「ネットでも見ました。前に地元で見たことがある。『傀儡笑顔天降る』を見ました」
流石師匠、とやったこともないであろうおべんちゃらと拍手を贈られる。
うん。師匠じゃないけど、うん。うーん……。
「ボクと望愛君の違いは何かな?」
「感性。師匠は天才」
「ふむ」
まあ浅いね。
「そうかもしれないね。望愛君の作品を目にした時、高い技術があるのはボクも理解したよ」
「あれは! ただ苦手な魚の練習で……!」
「ヴィタリス・アートフェスティバル」
「……ッ」
わかりやすく目の色が変わった。
「偶然キミの絵を拝見させてもらった」
「……!」
嬉しそうな、かと思えば怖そうな、
ここまでゴクリと生ツバを飲む音が聞こえた。
「どう……でしたか?」
「凄い技術力だね。とても小学生だとは思えない能力の高さだと思う」
「わ……ほ、本当ですかッ!?」
「だと思う」
強調する。
「それは、どういう……?」
「ごめんね。あんまり覚えていないんだ」
「……!」
望愛からすれば、色助という人間は把握したつもりだった。それでも尚、自分の作品を侮辱されるのはやはり慣れない。
「ねえ望愛君。赤いリンゴ。古江時子という人の絵は……もしくは画家は知っているかな?」
「知らない」
そうか、残念だ。
「うん」
うん。
「もういいよ。帰りなさい」
「師匠……!」
うーん、ビール一本相当のお土産とするなら……。
「ボクとキミの決定的な差は感性。その手法や考え方を聞きたいと言うなら……」
「――それは大きな間違いだ」
「え、だって師匠の絵は……」
「望愛君。キミの技術力は天才だ」
「キミは小学生の中で天才なだけだ」
「……ッ」
どうやら伝わったようだ。
「こんな場所にいる時間はキミにはない。早く帰って少しでも上達するように励んではどうかな?」
「……ッ」
ランドセルを空ける。
「はい!」
「ありがとう」
「ありがとうございました!」
ヤケクソにお礼を言って帰って行った。
プシュ。
さて。

翌日。
「師匠」
「……」
多いな。
流石に、こう毎日来られると……。
「今日はブルーチーズがあります」
「ようこそ望愛君。歓迎するよ。今日はどうしたのかい?」
「『恥ずかしい私』を見て」
「……」
この子……ああ、なんだろう。一応、いくら小学生とは言え上級生になればそういうのわからないかな?
「私が全部出しきった絵を、見てほしい」
「――見よう」
「……え?」
「見たい」
「は、はい!」
毎日抱えているアルタートバッグを空けて準備する。
「ただし」
静止すると、ピタリと望愛の動きが止まる。
「一つ約束してほしい」
「もし見るに値しない失礼な絵だったら二度とここに来ない事」
「……ッ」
望愛は天才だ。それは色助から見ても伺える。
妥協しても手を抜いても称賛の嵐が注がれた人生だったのであろう。
今まではクラスメイトからはもちろん学校でも誰もが彼女を称えただろう。
傷一つ負わないで乳母車(うばぐるま)の中で大事に育てられた彼女の事だ。
きっと色助との出会いで心の底に達する深い傷を付けられただろう。
しかし立ち上がった。
絶望を乗り越え、恐らく初めて他者に擦り寄る経験。
ボロボロに壊された心を何で繋ぎ止めたかは知らない。
だけど今、彼女は初めて言い訳無しの全力の作品を提示する事になる。
「どうする? 今日はもう帰るかい?」
「見てほしいです!」
そうか。
――別に子どもや女性を泣かせるのは好きじゃないんだ。
(だけど、そうなると……)
予感があった。或いは確信か。
この子は――これで完全に壊れる。
「……」
街の気配を見ておく。今日常である景色が、ボクの目どう変わるだろうか。
「ふーむ。しかし何故ボクがいつもこの役目なのか……」
「え?」
「ああ、すまない。独り言さ」
別に構わないが、当然嬉しいわけではない。
人を壊す事に快楽を覚える人間など、さらに言えば必然性やリターンすらもなければ、尚更だ。
本来、自分自信でネットや展覧会に行って独りで力差に絶望するべきだろう。
或いは身近な教師や親と言った彼女に近い人物が向き合ってあげるべきだ。
(ん……?)
待てよ、なるほど。これがモラル・サークルというモノか。
「道徳的に配慮するべき対象」である。
事故が起きて世界で10人死んだと聞いても我々は興味を持たない。
でも同じ日本人ならそれは少しだけ悲しくなる。
同じ県民ならさらに強くなり、市内ならさらにさらに強い悲しみを抱く。
そしてそれが知り合い、先輩、親族、家族と関係の円が近づくほどに悲しみは増大する。
そうなると教師や親が壊すのはおかしい事に道筋が通る。
なるほどなあ。
近い人。肉親や親友ではなく、遠いボクだからこそ壊さなければならないのか。
(だからってボクにばっかり殺させるなよ――)
はあ、と不本意ながら溜息が漏れた。
「先に物品を頂けるかな?」
ブルーチーズごときで小学生を壊す役を引き受けるのだ。
せめてもの等価交換。相場から見れば甘い。それも激甘だろう。
「どうぞ」
チーズを口に放り投げていつもの缶が開く音が鳴る。
プシュ。
とても美味しい。
しばらく食べられないであろうブルーチーズの味を確かめてからビールで流し込む。
「どうぞ」
「雫石望愛第一作」
カバー紙を取ると、そこには――。
『恥ずかしい私』
「……」
おお――!
その絵に吸い込まれた。
全体に大きく描かれた両目は力強く、面積の四割を占める。
大粒の涙を浮かばせて、後悔や悲しみではなくまさに羞恥心が現されている。
眼の上には眉毛や額はない。光の道が大きく一本。
それも所々汚れいてその正しい道でありながらも険しさが入っている。
光と闇。対となる属性の表現は色に直せば黄色と黒。差異表現を難しいデテールを完璧に捉えている。
見事だ。
「とても素晴らしい」
「――ッ!」
伝わる。
呼んでもないのに勝手に心の中に入ってくる。
目を閉じる。
この子がどんな気持ちで描いたのか。心の次は頭の中に入ってくる。
自分の力不足、怠慢、驕りに気付いた井の中の蛙は己の未熟さ恥じて号泣した。
黒の薄さが、それなのに絶対的な絶望が漂う。
嫉妬や憤怒と言ったありがちな復讐心の力ある絶望とはまた違う。
虚無感。
何故私は生きているのか。
何故私は生まれてきたのか。
葛藤が伺える。
溢れた涙で作られた光の一本道の入口だけは閉ざされており、決死の覚悟で飛び込んだのが伺える。
その道を踏み出した以上、もう怖くない。
苦難はある。汚れた光の道がそれを現す。が、それは障害ではなく乗り越えられると自負に満ちている。
「ふふ」
「え――」
思わず、笑みが漏れてしまった。
「ありがとう。良い物を見た」
「あ……」
「あああああああああああああああああ!」
まさに望愛君は今、光の絶壁を乗り越えた。
もう大丈夫だろう。
腰にしがみつくと、全力で泣いた。
「師匠! 師匠!」
望愛は大泣きしたままぎゅっと抱えて離さない。抱きつく、というよりしがみつく形になっている。
あんまり感情を表に出すような子に見えなかった。
それがここまで大泣きするのは、それほどの絶望があったのだろう。
そして見事、乗り越えた。
「……」
あー……。
つい、魅入られて褒めてしまったが……そうか。
師匠か。
「……」
うん。それはイヤだな。
だがしかし約束では……うーん……
「師匠! 師匠! あああああああああああああああ!」
「うーん……」
めっちゃ師匠連呼するね。うーん……。
とりあえず、ブルーチーズに困る事はないが……。
「あああああああああ! ありがとうございます! ありがとうございます!」
「……うーん」
師匠はイヤだなあ。うん。イヤだ。
「頑張る! 望愛これからも頑張る!」
師匠に関しては適当に逃げる言い訳を考えるとして、うん。
でも、素晴らしい物を見せてもらった。
――お捻りを用意しなければならない。

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