第153話 相容れないすべてを知る敵
甲武、鏡都。
ここ第一鏡都ホテルと言えば、甲武の最高級のホテルとして名が通っていた。その赤い絨毯の敷き詰められた落ち着いた雰囲気のラウンジに一人の甲武陸軍少将の制服に身を包んだ長身の男が現れた。
吊り下げていた朱塗りの軍刀をホテルマンに預けると、男はそのまま人を探しているかのようにラウンジに集う賓客達をちらちらと見つめながら歩いた。甲武の貴族の称号を持っている数名の賓客は、すぐその男のことをすぐに思い出した。
「あれは、内府殿じゃないですか」
「ええ、間違いありませんわ。でもなんでこんなところに……」
ざわめく人々、殿上会での四大公家末席の嵯峨家の家督相続の末、隠居して四大公家末席の座を養女にした日野かえでに譲った先の嵯峨公爵家当主、嵯峨惟基であることはすぐに分かった。特務大佐という階級が存在しない甲武陸軍では彼は二階級上の少将の階級の制服を着る様に指導されているので、彼は義娘のかえでに無理やりその制服を着せられてこのホテルのラウンジを徘徊していた。憲兵らしく腕には白地に赤く『憲兵』と書かれた腕章をしているのがこの場の誰もに威圧感を与えた。
嵯峨はふらふらとしばらくラウンジを散策していたが、次第に彼の視線が見事な英国風庭園が見える個室に集中していることはこの場にいる誰もが気づいていた。
ホテルマンが嵯峨のあからさまな嫌がらせとも取れる徘徊を注意しようとした時、嵯峨はようやく決意がついたとでも言うようにその目当ての個室に向かった。
嵯峨はノックもせずにその扉を開いた。
中には白髪の欧州系の顔立ちをした紳士が一人で優雅に庭を見ながら遅い朝食を食べているところだった。老人は嵯峨の侵入にあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべた。
「君らしいと言うか……お互いここ甲武に滞在していれば、いつかは来るとは思っていたがね。しかし、このタイミングとは……時間を考え給え」
紳士、ルドルフ・カーンは笑みを浮かべて、仏頂面を下げて彼を見下ろす嵯峨を迎え入れた。先の大戦で外惑星系の大国ゲルパルト帝国を戦争へと指導したアーリア人民党の幹部として戦犯扱いされている彼が当時の同盟国とは言え人目につくホテルにいることに嵯峨はまるで疑問を持たないというよう見えた。そして嵯峨はカーンに向かい合うようにテーブルのそばに進んだ。そして嵯峨は感情を押し殺したような表情で紳士の手前にある椅子に腰掛けた。
「どうだね、前公爵殿。五千万の民を抱える領邦領主の座から降りた気分は。少しは肩の荷が下りてせいせいしたと言う顔をしているように見えるが、どうだろう?」
カーンはそう言うと余裕のある物腰で大柄な嵯峨を見上げた。かつて何千万という人々を刑場に引く為の方策を苦心したということが嘘のような穏やかな瞳が鈍く光る。だが、嵯峨もそれを嘲るような挑戦的な表情で老紳士を見つめる。
「別に私の中身が変わったわけじゃないですから。それに以前はもっと面倒な肩書きを持ってた経験もありますからね。それについてはあんたには詳しく言う必要もありませんか……あんたにはすべてお見通しだ。隠し事をするだけ無駄と言うもの」
嵯峨は明らかに敵意をむき出しにした口調でカーンに語り掛けた。嵯峨もカーンの言葉を聞くと少しばかり余裕を得たと言うように微笑んだ。
「そうですか、まあ野蛮な遼州人の山猿の大将より重たい位だと私は思うんだがね。この国のプライドだけは高い貴族やサムライ達を束ねると言う仕事は」
そのあからさまに挑発的なカーンの言葉に、嵯峨は逆に笑顔のようなものを浮かべた。ゲルパルト帝国内で行われた大量虐殺の理論的根拠を作り上げた精緻な頭脳は嵯峨と言う遼州人の位を極めた男を興味深げに見つめていた。
「それにしても、この庭。貴方の趣味には合わないんじゃないですかな?ゲルパルト流にもっと殺伐としたドイツ風の庭の方があんたにはお似合いだ」
相変わらず嵯峨の口調には敵意に満ちた棘があった。
「嵯峨君、皮肉のつもりかね?美しいものは美しい。それは君からすれば『ファシスト』にしか見えない私から見ても同じように美しく見える。それだけの話だ」
嵯峨の敵意と軽蔑に満ちた皮肉をカーンは軽く受け流す。そこにはさすがに人生の経験が生かされていた。
「ここの朝食。旨いんですか?俺は月三万円の小遣いで暮らしているもので、こういった高級な場所には、とんと縁がないものですから」
自虐的な嵯峨の独白にカーンは笑みで答える。
「君は質素を旨とする我々の思想を体現しているんだね。実に見習いたいね。それは一つの美徳と言えるよ。私にはちょっと真似できない一種の『超能力』だ。君の不老不死の身体と同じようにね。うらやましい限りだよ」
カーンは嵯峨の虐待に近い状況に同情するどころかそれを賛美しながらそう言った。