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7話 魔剣はお風呂に入れません




薄暗い部屋の中、柔らかい朝の光がカーテンの隙間から差し込む。

部屋は一つの空間にまとまり、中央には簡素な木のテーブルと椅子がぽつんと置かれている。その向こうには小さなキッチンがあり、そこから漂ってくる香ばしい香りが空間を満たしていた。パンを焼く甘い匂いと、何かが煮込まれる独特の温もりある香りが混ざり合い、部屋を包み込む。

ふかふかの布団に埋もれていた少女が、ゆっくりと身じろぎする。

金色の髪が朝の光を受けてかすかに輝き、瞳もまた金色の光を湛えている。彼女はぼんやりと目を開け、まだ夢の余韻に浸るように天井を見つめていた。そして小さな声で呟く。


「知らない天井だ……」


その言葉は、何かのドラマの主人公さながらだった。しかし、少女──ネルはすぐに気づく。この天井は別にドラマチックな謎を含んでいるわけではなく、ただ単に彼女が寝ぼけているだけだった。

キッチンでは、薄紫色の髪をした女性が割烹着姿で動いている。

彼女の仕草には一切の無駄がなく、静かな包丁の音が響くたび、妙に安心感を与えるようなリズムが生まれていた。その背中に、ネルは何故か姉の姿を重ねてしまう。無意識に心が落ち着き、布団の中で大きく伸びをした。

香りに誘われるようにネルは起き上がる。パンの焼ける甘い匂い、スープのほっとする香り、そして湯気の温もり──全てが朝の光と一体となって部屋を満たしていた。ネルは鼻をくんくんと動かしながら、その幸福感を味わう。


「あ、おはよう。」


キッチンから振り返る女性の顔は、柔らかな笑顔に包まれていた。朝の光を受けたその表情はまるで天使のよう──と感じる間もなく、ネルの思考は突然切り替わる。


──ハッ、違う!


ネルの瞳が見開かれる。

昨夜の記憶が一気に蘇る。チェーンソーを持った謎の人物が、自分を執拗に追いかけたこと、そしてなんとか逃げた先でヤギの大男に襲われ、意識を失ったこと。その人物の顔……いや、服装……まさか、目の前の女性!?

みるみるうちにネルの顔が青ざめる。
「拉致」「監禁」「連続殺人鬼」といった物騒な単語が頭を駆け巡る。目の前の女性が優雅に割烹着を着こなしている事実すら、何か不気味に見えてくる。

割烹着姿の女性が、微笑みを浮かべながら手に包丁を持って、近づいてきた。


「大丈夫? 顔色悪いわよ。」
「うわあああぁぁぁ!?」


ネルの悲鳴は部屋の外まで響き渡り、近くの木にいた鳥たちを一斉に空へと舞い上がらせた。









テーブルには、湯気を立てる器が整然と並べられていた。

焼きたてのパンから漂う香ばしい匂い、深みのあるスープの香り、そして色鮮やかな果物の新鮮な甘みが空間を満たしている。どこか懐かしく、温かい家庭の記憶を呼び起こすような雰囲気だ。

しかし、そんな空間の中で、ネルは椅子に体を小さく縮めて座っていた。

金色の瞳にはまだ不安の色が残り、震えるようにスープの湯気を見つめている。対照的に、割烹着姿の女性は静かにコーヒーポットをテーブルに置くと、申し訳なさそうに口を開いた。


「本当にごめんなさい。あんな事はこれまで一度もなかったのよ。」


その言葉に、ネルはわずかに顔を上げた。喉が引きつるような感覚を押し殺し、振り絞るように問いかける。


「わ、訳を話してください……」


ネルの声は震えていたが、その瞳には譲れないものが宿っていた。女性は一瞬黙り、大きく息を吐き出す。そして、深い決意を込めた目でネルを見つめながら話し始める。


「言えた立場じゃないけど、選んでほしい。」


その言葉にネルは首を傾げた。女性は続ける。


「ひとつは……難しいと思うけど、このまま朝食を食べて出ていく。昨夜の事は悪夢だと思って忘れて。警察に言っても、相手にされないと思うけどね。」


女性の声は落ち着いていたが、その内容はネルの胸をざわつかせるのに十分だった。ネルは警戒心を剥き出しにし、鋭い視線で彼女を睨みつける。


「何故ですか? あの襲ってきたヤギの男と何か関係が?」


その問いに、女性はわずかに顔を曇らせた。しかし、次の瞬間には真剣な眼差しでネルを見つめ返し、告げる。


「もうひとつ……『それ』を話すと、二度と日常には戻れないわよ。元の…学校や職場にも戻れない。秘密を漏らしたり、最悪の場合はあなたを殺さないといけないかも。」


その言葉は、事実以上に重く、冷たく響いた。ネルはその目の奥に宿る本気を感じ取り、一瞬息を呑む。しかし、次の瞬間、小さく笑った。


「戻りたい日常なんて、いまの私には無いです。」


ネルのその言葉に、女性は眉を潜めながらも、目が少しだけ柔らかくなる。彼女は静かに頷くと、改めて話し始めた。

「まず、私の名前は『ユカリ』」

そして彼女の口から語られたのは、この世界とは異なる“魔界”の存在だった。そこには悪魔や魔王たちが棲み、人間界にもその影響が及んでいるという。そして昨夜襲ってきたヤギのような姿の男は、下級悪魔《パズズ》。人間に憑依し、支配する。あのヤギの姿は魔界に棲む中級悪魔《バフォメット》を模したものだという。


「巷で言われているジェイソン連続殺人事件、あれはすべて悪魔退治の結果よ。」

「全部、ユカリさんがやったってこと?」


ネルの質問に、ユカリは肩を竦め、微笑む。


「そう。私は巫女みたいなものよ。祈祷師でも霊媒師でも、好きに呼んでいいけどね。昔からこの国で働いてて、いまはレア……王女殿下のもとで働いているの。これでも一応、公務員よ。」


彼女は軽く冗談を交えるように笑ったが、その言葉には確固たる自信があった。それを見て、ネルは少しだけ肩の力が抜けていくのを感じる。


「長くなるから、温かいうちに食べて。」


そう言うと、ユカリは微笑みながらネルを促した。


「はい、いただきます。」


ネルは一瞬戸惑いながらも、テーブルのスープを口に運ぶ。

湯気を立てるその一口は、体に優しく染み渡り、少しだけ自分がこの世界に戻ってきたような気がした。そのスープの温かさが、二人の間の距離を少しずつ埋めていくようだった。

ネルは、少しだけ心に余裕が戻ったのか、ふと部屋を見渡した。

けれども、その光景はどこか冷たい。ぬいぐるみも、カラフルな小物も見当たらない。生活感を一切拒んだような、機能性だけを追求したワンルーム。それでも、台所付近に目をやると、そこだけは違っていた。

整然と並ぶ調味料のビンたちや、磨き上げられた調理器具が、不思議と人の温もりを感じさせる。誰かがここで丁寧に暮らしているという静かな証拠だった。ネルの中に、小さな安心感がふわりと広がる。

その時、つけっぱなしのテレビ端末から、低く響くニュースの音声が耳に飛び込んできた。

「──我が国が誇る世界最強の戦闘機《F-22》三機が、空軍基地の格納庫から忽然と姿を消して早二週間。軍関係者は依然として──」

リポーターの緊迫した声が部屋に満ちる。

ネルは思わず画面に目を向けた。昨夜の恐怖から解放されたばかりのせいだろうか。身体は疲れているはずなのに、心は妙に敏感で、その報道の一言一句に引き込まれていく。まるで、自分の中の何かがその謎に吸い寄せられるように──











「私からも聞いていいかしら?」

「あ、はい、どうぞ。」


食後の満腹感に包まれながら、ネルは長椅子でうっかり寛いでしまっていた。

しかもデザートにプリンまで平らげたせいで、気が緩みきっている。ユカリから声をかけられると、彼女は慌てて上体を起こした。そのぎこちない動きが面白かったのか、ユカリは微笑む。


「ふふ、そのままでいいわよ。」
「あ、すみません……ありがとうございます……。」


ネルは気まずそうに姿勢を正しながらも、どこかホッとした表情を浮かべる。そんな彼女を横目に、ユカリは部屋の片隅から黒いギターケースを持ってきた。そして、それを床に置き、丁寧に開ける。

中には、昨夜、ネルを助けようと飛んできたアストラルが大人しく収まっていた。


「この魔剣はあなたの?」
「はい、お父さんからもらいました。」


ネルの答えに、ユカリは少し驚いた様子を見せる。しかし、すぐにその表情は興味深そうなものに変わる。


「あなたのお父さんって、ダンテかしら?」

「は、はい。知ってるんですか?」


ユカリがギターケースを閉じようとしたその瞬間、魔剣がガタガタと動き始めた。

まるで、何かを抗議しているかのようだ。ネルはそれを取り上げ、膝の上に乗せてやると、不思議と剣は静かになった。

その様子を見て、ユカリは肩をすくめながら溜息をつく。


「……少しだけ。英雄の娘ってわけね、どおりで結界の中に入ってこれたはずだわ。」

「結界?」


ネルは首をかしげながら、ユカリの言葉を繰り返す。ユカリは軽く頷くと、説明を始めた。


「昨日の公園には、私が結界を張り巡らせてたのよ。結界内から悪魔は出られないし、私のギターは人を遠ざけつつ、悪魔を引き寄せる役目を果たしてるの。」

「……ああ、なるほど……?」


ネルは曖昧に頷くが、その表情は「全然分かっていない」のが丸分かりだ。ユカリは苦笑しながら長椅子に腰を下ろし、ネルと向かい合う形で座る。そして、軽い調子でとんでもないことを口にした。


「あなたも悪魔の血を引いてるからよ。クォーターかな?」

「え、どういうことですか?」


ネルは思わず身を乗り出し、その瞳をユカリに向けた。その反応に、ユカリは驚いたように眉を上げる。


「まさか聞いてないの? あなたの父、ダンテは悪魔と人間のハーフなのよ。」


一瞬、時間が止まったような気がした。ネルの頭の中は真っ白で、言葉を失ったままユカリを見つめている。そしてようやく、何とか声を絞り出す。


「ええぇ……聞いてないです……。」


ネルの呟きに、ユカリは呆れたように肩を竦めた。


「なんて親なの。まぁでも、彼ならやりそうね。」


ユカリが苦笑しながら呟いたその言葉には、「少しだけ」というには明らかに深い知識と、彼に対する含みが感じられた。









シャワーの蛇口をひねると、心地よい湯気が浴室に立ち込めた。

ネルはお湯の温かさを確かめるように手を差し出し、勢いよく頭から浴びる。昨夜の出来事で汗をかいたままだった彼女の体を、シャワーの水流が洗い流していく。髪から滴る水が浴室の床に落ち、まるで緊張の糸が解ける音のようだった。


「まさか、拭いてもらってたなんて……」


ネルは恥ずかしさに顔を赤くしながら、昨夜のことを思い出す。

ユカリがネルを部屋に運び込んだ時、汗だくのままベッドに寝かせるわけにはいかないと判断し、体を拭き、新しい下着に着替えさせたというのだ。その事実を聞かされた時の衝撃は、今も鮮明に残っている。ネルはシャワーを浴びながら首を振り、頭からその記憶を追い払おうとする。


「……忘れよう。」


とはいえ、羞恥心を無理に振り払おうとしても簡単にはいかない。シャワーの温かさが心を落ち着けてくれるものの、ネルの胸の中にはそれ以上に重い不安が残っていた。


──王女殿下直属。


その言葉が、彼女の頭を占めていた。

シャワーを浴びている間、ユカリが王女殿下に連絡を取り、ネルを雇い入れる相談をしていたことを彼女は知っていた。魔剣アストラルを使いこなし、悪魔に対抗できる能力を持つネルは、貴重な戦力として期待されているらしい。

ネルは、そのこと自体は誇りに思えた。

しかし、それ以上に「王室直属」という肩書きの重圧が彼女の心にのしかかる。まだ自分の力を完全に理解していないどころか、昨夜の戦いでどうにか生き延びたばかりなのに、そんな大役を担う自信はなかった。


「何をすればいいんだろ……」


ネルはシャワーの水を手にすくい、顔を濡らしながら呟いた。その言葉は浴室の壁に反射して耳に返ってくるだけだった。湯気に包まれる中で、彼女は自分の置かれた立場と、これから進む道についての答えを見つけようと、ただ黙ってシャワーを浴び続けた。



一方、リビングルームでは、ユカリが落ち着いた声で通話を続けていた。


「はい、彼女はまだ若いですが、素質は確かですよ。英雄ダンテの娘ですからね、私も驚かされました。ただ……少し慣れは必要かもしれません。」


ユカリの言葉には、ネルへの期待と同時に、彼女を思いやる温かさが滲んでいた。



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