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第百二十六話 火の守り(2)

 エリッツはぼんやりと遠い木々の緑を眺めつつあくびをした。食堂で買ったパンはひざにのせたままだ。やわらかい草の上に座って陽を浴びていると早くも眠くなってくる。
 いい天気だ。
 この場所からは王族たちの住まう場所「中の間」へ続く森のような木々がよく見える。エリッツのお気に入りの休憩場所だ。すぐそこに執務室の窓が見えるほど近いのでゆっくりできる。
 先日までは風が強くて出てこられなかった。今日は久々の外での昼休憩である。
 シェイルと行動を共にするようになってから本当に忙しくなった。これからはここで昼を過ごすことはもっと少なくなるだろう。だがシェイルと一緒なら別にいい。そう、とてもいい。幸せだ。
 座ったままぐっとのびをしてそのまま仰向けになる。ひざにのせていたパンがころっと転がった。パンを拾おうと首だけをあげて手をのばしたところにすっと影が差す。
「まるで猫のようね。いい場所を見つけるのが上手」
 視線をめぐらすと丸いものが見えた。なんだかわからない。エリッツは体を起こした。
「パン、いらないのならもらってもいいかしら。さっきから一口も食べてないわね」
「落ちちゃったけど、それでもよければどうぞ」
 エリッツはパンを拾ってその人物に渡す。失礼とは思ったが、じっと見ることがやめられない。
「何か付いてる?」
 その人物はくるりと顔をなでて首をかしげる。馬の尾のように結われた金色の巻き毛がふわりと揺れた。
「いえ、すみません」
 丸い。圧倒的に丸い。小さな子供が転がして遊ぶ人形に似ている。しかも大きい。
「いただきます」
 そういったかと思うと、たったの二口でパンを食べ終えてしまった。まるで手品でも見せられたようだ。口も大きい。
「あの……」
 何を言ったらいいのかわからない。
「それで……足りますか?」
 その人物はエリッツの顔をじっと見てから、ころころと笑った。
「昼食はもういただいてきたのよ。ご心配なく」
 そういってエリッツの隣にぽてっと座る。体が重そうだが意外にも動きは早い。
「ここは本当に気持ちがいいわね。木が多いところは好きよ。今度お仕事で森へ行くのよね」
 仕事……?
 エリッツはさらにその人物をよく観察した。はちきれんばかりの丸い体は動きやすそうなシャツと乗馬用らしきズボンでつつまれている。よく見れば仕立てのよい服であるようだが、それよりも他のことが気になって仕方ない。こんなに丸くてはせまい通路や階段では不便ではないだろうか。
 エリッツが不思議そうな顔をしているからか「私はアレックスよ」と名前を教えてくれる。どこかで聞いたような気もするがピンとこない。
「エリッツといいます」
 とりあえず自己紹介をすると相手はパッと顔を輝かせた。
「あら、あなたが!」
 エリッツのことを知っているのだろうか。
「たぶん近々お仕事でご一緒することになるわ。まだ決まった話じゃないのだけど」
 にこにこしながら手をさし出してくるので、エリッツは恐る恐るその手を握った。ふわっとやわらかい手だ。
 少なくとも事務官や軍人ではなさそうだ。制服ではないからだ。では一体なんなのだろうか。
 腑に落ちない顔のままエリッツは「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。

「アレックス様? どこにいらっしゃったんです?」
 エリッツは早々に昼の出来事をシェイルに告げた。シェイルはなぜか国王陛下に呼び出されていたので、昼休憩の時はいなかったのだ。陛下に呼び出されるのは「戯れでの呼び出し」とのことで、エリッツの同行は不要というのが常だった。「戯れ」とは何なのか、とても気にはなる。いやらしい内容であれば一緒に連れて行ってほしい。
「そこの隙間みたいな草地です」
 窓の外を指差すエリッツにシェイルはめずらしく目を丸くする。
「その隙間みたいな草地で何を?」
「何だったんでしょうね。おれが落としたパンを食べてました」
 よく考えたらパンを食べて握手をしただけだ。しかしかなり印象的な人物だった。
「知ってる人ですか?」
 エリッツの質問にシェイルは逆に聞き返す。
「知らないんですか?」
 少し楽しそうである。
 きっと考えればわかるのだろう。エリッツはうーんと唸りながらあれこれと考えた。名前は聞き覚えがあるように感じた。どこかの書類などで見かけたのかもしれないが、はっきりしない。
 とにかく丸いことばかり気になっていたが、かなり長身だった気がする。長身な上に丸いので大きかったのだ。それから金色の巻き毛。よくよく思い返したら、丸いながらもずいぶんと整った顔をしていたように思う。それにあの眼――。
「あ、あ……」
 アレックスをすっと細長くすればエリッツのよく知る人物に似ている。
「わかりましたか?」
「まさか、王女様……でしょうか」
 アレックスはラヴォート殿下に似ているのだ。あまりにも体型が違いすぎて全然わからなかった。だがあの深い紺色の眼は間違いない。
「正解です。殿下のお姉さん、第一王女のアレクサンドラ様ですよ。ラヴォート殿下が次期国王だと噂される裏ではアレクサンドラ様が『女王』に立つという噂も根強いです」
 つまりラヴォート殿下のライバルということか。落ちたパンを食べてころころと笑っていた姿からは想像できない。おおらかでやさしそうな人だった。
 そうと知ってから思い返すと王女に対して失礼だったかもしれない。不躾にじろじろ見てしまった。
「ところでそのアレックスさんと一緒に仕事ってなんのことですか」
 最近は会議や打ち合わせなどは常に秘書官兼書記官としてシェイルについていた。まだ殿下の護衛として呼び出されてはいないが、シェイルのスケジュール管理は任されている。しかしそんな仕事の話は聞いていなかった。
「それはですね……」
 シェイルは少しいいにくそうに視線をそらした。
「わたしではなくて、ロイの王族に関わる件です」
「北の王……ですか」
 そうなるとエリッツもどこまで口をはさんでいいのかわからない。だが、アレックスはエリッツが行動を共にするものと考えているようだ。
「あの、さしつかえなければ、その……」
「そうですね。一度、話をしてきてください」
 エリッツはしばし口をつぐんで考えた。シェイルと北の王は別の人物としてこの城内に存在している、らしい。エリッツもそのように振る舞わなければ大怪我をしそうだ。
「わかりました。話を……」
 エリッツはまた黙った。
 北の王と? どうやって?
 エリッツの困惑をシェイルはきちんと汲み取ってくれる。
「段取りをつけますので、後で一緒に中の間の離れに行きましょう」
「え! おれ、入ってもいいんですか」
 夜伽という名目で入ったことはあるが、事務官として入れる立場ではないと思っていた。王族と限られた臣下のみ入れる場所ではないのか。
「問題ありません」
 シェイルはきっぱりとそういうが、エリッツは不安だった。北の王の正体は機密中の機密だ。ロイの人々ですら顔も見られないのに。エリッツごときが仕事の話などに参加してもいいのだろうか。

 結局シェイルに声をかけられたのは暮れ方であった。
「業務時間外になってしまってすみません」
 今日は雑務も多かった。遅くなってしまったのは仕方ない。北の王に会うということでエリッツは仕事の最中から緊張し始めてしまっていた。
 シェイルの横について薄暗い廊下を歩きながら、エリッツは早くも黙りがちになってしまう。
「明日は遅めに出てきてもらっていいですよ」
 北の王にあの離れで会うのは久しぶりだ。あそこにいる人はロイの人ばかりだ。エリッツはロイの言葉もちゃんと勉強している。通じるのかどうかわからないが、ちょっと話してみる機会はあるだろうか。
「エリッツ?」
「は、はい! 何でしょうか」
 考えごとに没頭してしまった。
「大丈夫ですか?」
「いえ、その、北の王に会うなんて、緊張してしまって」
「……そうですか」
 シェイルは不思議そうな顔をして首をかしげた。
 重い扉をいくつかくぐり、中の間の広大な庭に出る。木々が多くこの時分には本当に森のように見える。すでに辺りは暗く北の王の住まいである離れの灯りが見えていた。
 いつだったかエリッツは階段の踊り場にあった窓を突き破ってこの庭に侵入したことがある。ちらりとその辺りを見上げると、思ったよりも高い位置にあった。よく無事だったものだ。
「エリッツ、こっちですよ」
 さすがにシェイルは慣れた様子で離れに向かっていく。
 入口で迎えてくれたのは以前も会ったことがあるリギルだった。相変わらず困ったような顔をしているが、別に困ったことがなくても困ったような顔をしているので気にする必要はないだろう。
「こちらでお待ちください」
 以前かなり長時間待たされた客間のような場所に通される。以前と変わっていない。広くはないが異国趣味の落ち着いた部屋だ。
 しばらく経ってどこからか衣ずれの音が静かに近づいてきた。
「え?」
 現れた人物を見てエリッツは動揺のあまり無表情になる。
 北の王だ。
 結われた長い黒髪に、白い仮面、金銀の見事な刺繍の入った袖の長い長衣である。
 エリッツは隣の席を見た。
 シェイルはここにいる。
 もしかしてエリッツはこれまでとんでもない勘違いをしていたのだろうか。

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