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第百一話 休日

 やはり森の中はすずしい。
 レジス市街の西門を抜け森に入ると、エリッツははやる気持ちを抑えきれず走り出しそうになる。
 レジス国土の北西に位置するスサリオ山の麓に広がる森は広大で豊かだ。以前来たときよりも植物が力強く繁茂し、木々の緑も濃い。木々の間をすり抜けて降る木漏れ日はこまかな模様をくっきりと地に揺らめかせていた。まるで水中を泳いでいるようだ。息を吸いこむと濃い土と草の匂いにむせ返りそうになる。
 多少なりとも人が通るからだろう。足元の草は歩くのにさほど邪魔にはならない。しかし決して歩きやすい道ではなかった。感情に任せて走れば疲れてしまうことは実証済みだ。それでもエリッツは早くあの家にたどり着きたくてつい早足になってしまう。
「そんなに急がなくても」
 後ろからついてくるシェイルがあきれたような声をあげた。
 ふり返るとすらりとした長身に木漏れ日の帯をまとわせたシェイルがゆったりと歩いている。
 エリッツのボードゲームの師匠でこの春からは仕事上の上官となった。漆黒の髪と目のロイという異国の人だが、レジスの街にはこのロイから来た人々が多くいる。エリッツはこの師の黒い目と髪がことさら好きだった。もっというと長く美しい指、物静かでやさしい雰囲気、ボードゲームが強いところと、あげはじめればきりがないがつまり――好きだった。
 事の起こりは――というほど大袈裟なものではないが、シェイルがこの先にある森の家に置きっぱなしにしている細々としたものを持ってきてもらおうとゼインに手紙を書いていたことだった。
 ゼインは主に諜報関連の事務仕事をしているが、フットワークが軽く幅広く雑務もこなす何でも屋のように立ち回っている。シェイルとエリッツが働く王城の方に来ることも多い。そのついでに荷物を持ってきてもらおうと依頼するつもりだったようだ。
 以前シェイルは事情がありその森の家で仕事をしていたことがあったが、その後いろいろなことが重なって、季節が一回りした現在もまだ少しばかり片付いていないという。
「ゼインさんに頼まなくても、今度の休みの日におれが片付けてきますよ」
 森の家はエリッツのお気に入りの場所でもある。
 聞いたところによるとあの家はシェイルの友人である諜報部隊の指揮官マリルの実家らしい。森に生い茂る木々に隠されて場所を知らなければたどり着けないところであるため、諜報部隊でも何かと便利に使っているようだ。あの場所で半日でものんびりできたらいい休日になるくらいの軽い気持ちだった。
「それならわたしも行きます」
 ほとんど休みを取っていないシェイルがそんなことをいうので、エリッツは耳を疑った。森の家はレジス王城から距離がある。別の街に行くわけではないし、乗合馬車なども使えば移動に半日もかからないが、それでも貴重な休みをそんな雑務に使っていいのだろうかとエリッツは師の顔をじっとみる。
「またうさぎがいるかもしれません」
 大真面目にそんなことを言う。
 なぜかわからないが、シェイルは狩りをする。エリッツは一度見ていたがかなり手際がいい。故郷でよくやっていたと聞いたが、わざわざ休暇を使ってまでうさぎ狩りをしたいのだろうか。
 諜報の方に確認を取ると、しばらくの間はゼインがあの家にいることがわかった。これは実は偶然ではなくシェイルがその情報を事前に聞きつけたために手紙を書いていたのだ。エリッツはいまだ仕事に慣れず情報の確認も無駄だらけだ。この件では人知れず落ち込んでいた。
 ゼインのことはエリッツもよく知っている。やたらとよくしゃべるのでペースが狂うが、悪い人ではない。毎日一緒にいたらうんざりするだろうが、たまには話を聞きたくなる。
 気がつけば片づけに行くはずが、大好きな師とともに日帰りの旅行にでも行くような気分になっていた。
「え、めちゃくちゃ早くないですか。何時に出て来たんです。いや、とりあえず入ってくださいよ。お疲れですよね」
 エリッツが家のドアを叩くと、しばらくして眠そうなゼインが出てきた。眠そうだが口を開けば早口だ。エリッツのことは一瞥しただけで無視をして、シェイルの方に話しかける。相変わらず軽んじられている。
「エリッツがこの家で少しの間のんびりしたいようなので早めに来ました。手間をかけますね」
 ゼインが小馬鹿にするような顔でエリッツを見る。おそらくいつものんびりしかしていないくせにとでも言いたいのだろう。ところが最近はちゃんと「仕事」をしているのだ。そんな近況も話したくてうずうずしながら懐かしい家のドアをくぐる。
 家の雰囲気は変わっていないが、入ってすぐの壁に非常に気持ちの悪い絵が飾ってあった。高揚した気持ちが一気に冷める。
「これ、ゼインさんがやったんですか?」
 絵の中には皮をはがされたうさぎの肉塊がいくつもぶら下がっている。表面が濡れているように見えるほど実にリアルだ。そういえば以前、シェイルが獲って勝手口にぶら下げていたうさぎをしきりにスケッチしていたと、エリッツは思い返していた。
 細部を見ていくと、空は真っ青な晴天、地面は不思議な紫を基調としたグラデーションに塗られていて、その対比が不安を誘う。よく見るとその地面の一部に黒い芋虫のようなものがびっしりと這っていた。遠景には肉感的な裸婦が明後日の方角に虚ろな目を向けているが、それが何を意味しているのかはよく分からない。とにかく全体的に気持ち悪い。
「『やったんですか』って何だよ、『やったんですか』って。受賞は逃したが、これは後世に残る名作だ」
 そういいながらお茶をいれてくれるつもりらしく湯を沸かしている。ちらりとシェイルを見るとやはり顔をしかめてゼインの絵を見ていた。
「あれ? ゼインさん、そこに立てかけてあった弓矢どうしたんですか」
 この家には雑多なものがあちこちに置きっぱなしになっている。中でも目立っていたただの木の棒であつらえたような弓矢がない。以前、シェイルはそれでうさぎをとってきたのだ。
「ああ、あれな。あれは、ほら、マリルさんがふりまわして遊んで折っちゃったから、焚き付けにした」
「折っちゃったんですか」
 シェイルも残念そうにしている。うさぎ獲りは断念せざるを得ないようだ。そもそもあんな粗末な作りの弓と矢で狩りをしようとすること自体に疑問を感じるが。
 お茶の後、エリッツはお気に入りの泉の岩場で読書しつつ昼寝をすることにした。いつも一緒に昼寝をしていた猫がいるかと期待したが、残念ながら今日はいない。
 岩場でせせらぎの音を聞きながらごろごろしているとやはり初夏だけあって汗ばんでくる。立ち上がるのが面倒なので、這って岩場の隅の木陰まで移動すると手のひらを泉にひたした。やはり冷たい。春先よりはましだろうが泳いだら体を冷やしてしまうかもしれない。しかし泳ぎたい。そう逡巡しながらも手のひらの冷たさが心地よくて水をはねさせてみる。水晶の玉のようにきらきらと日に輝いて透き通った泉に吸い込まれていく。きれいだ。腹ばいになって両手で水をはねさせて遊んでいると、シェイルが背後から「何しているんですか」と声をかけてきた。
「――何も、――してません」
 また子供みたいなことをしているときに限って見られている。
「本当にこの場所が好きなんですね」
 腹ばいのままシェイルを見上げると初夏の日に目を細めてこちらを見ている。笑われているような気がしたエリッツは真顔で体を起こす。そして行儀が悪いが上衣の裾で濡れた手をぬぐった。暖かいのですぐに乾くだろう。
「なぜかはわかりませんが、ここでのんびりしていると――幸せ? な気が――」
 言いながらエリッツ自身も首をかしげる。ここにいると何かいいことがあるような漠然とした幸福感に包まれる。
 もちろん森の匂いや、せせらぎの音、あの頃は春先だったので今よりもずっとやわらかな日差しも心地よかった。動物が好きなエリッツにとっては森に住みついている猫が寄り添ってくるのもうれしかった。そもそも実家にいるときは昼寝なんて許されなかったのだ。しかし何よりももっと喜ばしいことがあったような――。
「あ」
 エリッツは唐突に立ち上がる。
「どうしたんですか」
 シェイルは驚いたようにエリッツを見上げる。
「あ、あ、あの、暑いので泳ぎます」
 エリッツは思い出していた。当時はあまり意識していなかったが、ここの岩場にいれば仕事から帰宅したシェイルが一番にエリッツのことを見つけて声をかけてくれるのがうれしかったのだった。そんなこと当人に言えるわけがない。
 日差しのせいだけではなく体が火照ってしまったエリッツは上衣に手をかけてから、はたと動きをとめた。
「あの、脱ぎますね」
 すでにエリッツの読みかけの本の方に興味をしめしていたシェイルが不思議そうに顔をあげる。
「え? はい、どうぞ」
 そう言ってから本を手に取り、ぱらぱらとめくっている。
「脱ぐので、その――、見ていてください」
 だが返事はあらぬ方から返ってきた。
「お前は露出までキメるのか。多趣味が過ぎるぞ」
 いつの間にかゼインがあきれたような顔で岩場に立っている。
「ゼインさんには言ってません!」
 エリッツはあわてて上衣だけを脱ぐと泉に飛びこんだ。
「冷たっ。お前、この、変態」
 盛大に水を被ってしまったらしいゼインが悪態をついている。
 ゼインのことは無視して、エリッツは冷たい泉の中をのんびりと泳ぐ。冷えてしまうかと思ったが、体が慣れてしまえば案外平気だ。湧きあがる泉の不規則な波紋に日が降りそそぎ、きらめきながら広がってゆくのを近くで見たり、木々の緑に透かされた翠玉のような色合いの光を水面に浮かびながら眺める。夏の森もやはりいい。
 しかし日が高いうちに上がらないと服が乾かなくなる。もう少し遊んでいたかったが、エリッツは岩場に戻ることにした。
 水から上がる前に何となく岩場をのぞきこむ。ゼインはいないようだ。シェイルは岩場の日陰にいる。エリッツがいつもやっているように本を胸に抱えたまま寝そべっていた。あまり他人に隙を見せたがらない人なのでわりとめずらしい光景だ。思わず息をひそめて水からあがる。
 近づいて見るとやはり眠っているようだ。昼寝は本当にめずらしい。胸の上で抱えた本は少し読んだのかページに右手の人差し指をはさませている。エリッツはシェイルの指がとにかく好きだった。可能であればその指をなめたいのだが、今は本を抱えているので難しそうだ。左手は無造作に岩場に置かれほとんど袖に隠れてしまっている。じっと未練がましく本に絡められた指を細部までなめまわすように見る。
 それからエリッツはそっと膝をついて顔をのぞきこんだ。黒く長いまつげがぴくりと動く。エリッツはあわてて身を引いた。
 せっかく眠っているのに起こしてはいけない。
 しかしもっと近くで眺めたい。
 エリッツは再度静かに身をのりだす。しばらくそのまま眺めていたが、もうちょっと近づきたい。触ったら起きてしまうだろうか。エリッツは慎重に手を伸ばす。鼓動の音で起こしてしまいそうだ。
 そっと指先が頬に触れるが起きない。
 元軍人だというのに、色白の顔には傷ひとつなく、それどころか肌のきめが細かくてするりとやわらかい。ロイの人々はだいたい色白で肌がきれいだが、ひときわその特徴が顕著であるように思う。そして案外起きない。
 そうなるとエリッツはさらに大胆になってしまう。人差し指の腹で触れるか触れないかくらいに唇をなぞる。
(よし、起きない)
 呼吸に合わせてわずかに白い歯と舌先がのぞいた。とうとうそこへエリッツは顔を近づける。
「おい、変態。人の寝こみを襲うんじゃない」
 またゼインだ。エリッツは非難がましい顔で声がした方を見る。もう少しだったのに。
「お前、なんで涙目なんだよ。――あ」
 急に言葉をとめたゼインにエリッツは首をかしげた。
「え? 何ですか」
 しかしゼインは何か居心地が悪そうにそわそわと視線を外した。
「――いや、何でもない。邪魔して悪かったな。昼飯というかおやつというか晩飯というか、そういうのできたから食べないかと思って。日が暮れる前には帰るんだろ」
 ゼインが何だか妙な顔をしてあわてたように家に戻っていく。あいかわらず料理にはまっているのだろうか。
「エリッツ、そのままでは風邪をひきます」
 あれだけ会話をしていれば当然だがシェイルはすでに身を起こしていた。
「あ、じゃあ、今から脱ぐので見て――」
 エリッツが服に手をかけると、シェイルはそれをさえぎるように「家にまだ服がありますので、着替えてください。冷えますよ」と、言って家に戻ろうとしてしまう。
 確かに濡れたままで少し寒い。
 エリッツもあわてて脱いだ上衣をつかむと、シェイルのあとを追う。今頃になってどこからか猫が出てきて、エリッツよりも先にシェイルの後ろについていた。食べ物のおこぼれをもらう気だ。
「猫、どこにいたんだよ」
 猫はエリッツを無視してシェイルの足元にくるくると甘えるようにまとわりついている。エリッツのことは覚えていないのだろうか。毎日のように一緒に昼寝をしたのにと、軽くショックを受けながら扉をくぐるとさっそく食べ物のいい匂いに迎えられる。
 エリッツは急いで着替えを済ませるといつも食堂として使っていたテーブルのある部屋に向かう。
「今回は事前に聞いてたのでいろいろと作ってみました。こんな場所なんで食材あんまりないんですけどね」
 すでにテーブルの上にはところせましと手の込んでいそうな料理が並べられていた。どれも素人の手によるものとは思えない。
「すごいですね。――ゼインはここで何をしているんですか?」
 先に席に着いていたシェイルもテーブルの上の料理に目を丸くしている。純粋に不思議そうな顔だ。
「え、それ、このタイミングで聞きます? なんか俺が遊んでるみたいじゃないですか。留守番と仕事に決まってますよ。仕事内容についてはいくらシェイルさんでのお教えできなのでご勘弁ください。そんなことよりも冷めないうちに食べてくださいよ。ここでなんかうまいもん作っても誰も食べてくれないんで張り合いがないんです。マリルさんなんて九割方酔っ払ってて話にならないし。あ、――ってか、こいつ、いつだったか無表情で食ってそのまま帰ったしな」
 ゼインが軽くエリッツを睨む。そういえばそんなこともあったかもしれない。おそらく話し相手がいないことも問題なのだろう。放っておいたらいつまでもしゃべりそうだ。
「いただきます」
 エリッツはまだまだしゃべりそうなゼインをさえぎるように大きな音をたてて椅子を引き席に着いた。
「あー、でもどうですかね。この陽気だと足の早い食材は街で買って来れないんですよ。ほんとは肉とか焼きたいんですけどね」
 まだぶつぶつ言っている。エリッツはテーブルの上の料理を見渡した。エリッツにはとても食べきれる量ではない。シェイルだって小食とはいわないまでもそんなに食事量が多い方ではなかったはずだ。
「なるほど。ハーブと野菜でストックをつくったんですね。このスープ、深みがあっておいしいですよ」
 シェイルはやさしいのできちんと感想を言っている。エリッツは正直よくわからないので、淡々と口に入れていた。しかしゼインも最初からエリッツには期待していないようで、シェイルの反応ばかりうかがって、うれしそうにあれこれ説明している。完全に蚊帳の外だ。
 シェイルをとられたような気がしてなんだかおもしろくない。さきほどゼインにいいところを邪魔されたのも思い出されてどんどん沈み込んでしまう。そういえば、何だか今日は軽く扱われていなかっただろうか。脱ぐところも見てくれなかった。
「ごちそうさまでした。少し森を散歩してきますね」
 驚いたことに気づけばシェイルは出された料理をすべて平らげていた。エリッツはまだ全然食べ終わりそうにない。もうお腹がいっぱいだ。
「エリッツ、一緒に行きませんか」
 シェイルが席を立つが、エリッツは先ほどから気分が落ち込み続けている。悪化の一途だ。猫がシェイルの足元で甘えた声をあげてすり寄っているのも気に入らない。
「行かないです」
 自身が思っていた以上に強い口調になってしまう。あわてて「まだごはんが残っているし、休憩しないと動けそうにないので……」ともごもごと言い募っていると、シェイルは「そうですか」とほほ笑んで背を向けた。
 扉が完全にしまってしまうと早くもエリッツは涙ぐむ。
「お前はめんどくさいやつだな。なんだ。何が気に入らないんだ。言ってみ?」
 ゼインはうんざりしたような口調で言いながら、エリッツが食べきれない分を横からつまんでいる。そういえばゼインの分の食事がなかったのは最初からエリッツが食べきれないことを知っていたからだろうか。
「あ、ちょっと、お前、これ、これだけは食え。時間かかったんだよ。元の食材は魚をカッチカチに乾燥させてあるもので日持ちして便利なんだが、とにかく食べる前の下ごしらえに時間がかかる。二日も煮るんだよ。そのかわりいいスープは取れるし、身もやわらかくなってうまい。シェイルさんもこれが一番気に入ったみたいだっただろ? 聞いてた?」
「聞いてません」
 本当に途中からほとんど聞いていなかった。
「うわ、こっわ。んー、まぁ、さっきはほんと邪魔して悪かったよ。俺のせいだろ、そのご機嫌斜めは」
 ゼインはエリッツが食べ残したものをおいしそうに口に運んでいる。
「違いますし、別に怒ってません。寝こみを襲うのはよくないことです」
 エリッツはまだ不貞腐れながらゼインにつられて自信作らしい魚の煮たものを口に入れてみる。やわらかくて口の中でふわふわとほどける。確かにこれはエリッツでも食べやすい。
 ふと顔をあげるとゼインが妙な顔をしている。
「あの人、寝てなんかいなかったぞ。だから悪かったって謝ったんだよ、俺は」
「いやいや、寝てましたよ。おれは慎重に確認してことに及びました」
「何気に怖いことをいうなよ。寝てたら何してもいいという発想か。いや、でもあれはな、寝てなかった。寝てたらあんなことはない」
 ゼインは自信満々で言い切る。
「『あんなこと』って何ですか」
 突然ゼインは気まずそうに、エリッツの皿から卵に野菜を混ぜて焼いたような食べ物を立て続けに口に放り込む。
「あの、『あんなこと』ってなんなんですか」
 エリッツは再度問いかけるが、ゼインは渋い顔をする。
「えー、それ聞く? 起きてたってだけでいいだろ。起きてたよ、起きてた。お前が気づかなかったってことは、つまり寝たふりしてたんだろ」
 投げやりに言いながら、さらにハーブを練りこんで焼いたらしき固めのパンにかじりついた。
 そんな言われ方をすると余計に気になる。
 ゼインはパンを咀嚼しながらエリッツを上目遣いでちらりと見る。
「なんですか」
「よかったな、寝たふりってことは、ほら、お前なら何してもオッケーってことだろ」
 エリッツはため息をつきつつ、フォークを皿に置いた。
「あの人、来るもの拒まず去る者追わずなんで。誰でも何でもほぼオッケーです。ゼインさんだったとしても寝たふりしますよ。おれが実家に帰るって言ったときまったく止められませんでしたし」
 めずらしくゼインが黙る。
 不思議な間をあけて、ゼインは魚をフォークにのせエリッツにさし出した。
「はい、あーん」
「なんなんですか。もうお腹いっぱいです」
 ゼインは「そうか」と、言いながらフォークの魚を自身の口に運ぶ。それからエリッツの皿の上の食事を黙々と食べる。ゼインが黙ると気味が悪い。
「ちょっと聞いていいか」
 オイル漬けにされた野菜とチーズを食べていたゼインがふと手をとめ、ようやく口を開く。
「なんですか」
「いや、早試にストレートで通ったって聞いてたんだが、そんなんでよく通ったなと思って」
「結構失礼なこと言ってますよね」
 エリッツだってごろごろ昼寝をしながら試験に通ったわけではない。シェイルのそばで仕事をするために、寝る間も惜しんで勉強したのだ。
「俺はさ、十二、三歳のころから役人登用試験を受けはじめて、わりと最近まで落ち続けたよ。面接で」
 面接で――。
「そうだろうな」と、エリッツは思い、そう思ってしまったことが申し訳ない気がしてうつむいた。役人登用試験も早試も筆記試験で落ちるという話はよく聞くが、面接だけで落ち続けたというのは初めて聞いた。しかしゼインであれば妙にしっくりくるエピソードだ。いったいどういう面接の受け方をしたらそうなるのだろう。
「でも最終的にうかったならいいじゃないですか」
 ゼインはまるで怪談の恐ろしいオチをいう直前のような表情でエリッツをじっと見る。それからおもむろに口を開いた。
「それがな、うかってないんだ。一度も」
 エリッツはびくりと身を震わせた。
「じゃあ、ゼインさん、今なんで仕事してるんですか」
 そんなたいした話ではないはずなのに、ゼインが怪談のように話すのでエリッツは思わず身を縮ませる。
「お前はほんと反応が面白いな。要するに目的を果たす方法はひとつじゃないってことだ」
「お説教ですか」
「そういういいかたをするな。お前が目先の些事に振り回されてしんどそうだから、もうちょっと世界を広ぉーく見るようにという話を自身の体験を交えわかりやすく解説したんだ」
「大雑把すぎて全然わかりません」
 ゼインは大袈裟に天を仰ぐような仕草をしてから首を左右に振る。
 その後も話は明後日の方へ行きつ戻りつ、いつもの何だかわからない話を延々と聞かされることになった。料理の話から絵画の話、先ほどの役人登用試験の話にまた戻り、街のゴシップから最新の演劇情報、そしてマリルの話が出たかと思ったら、保存していた小麦粉に得体のしれない虫がわいたという気持ち悪い話が不意打ちで来た。
「そうそう、さっきの話な。お前の視界には入らなかっただろうけど、シェイルさんの左手がお前のこと抱き寄せようとしていた――ところを俺が邪魔した」
「え?」
「二度は言わない」
「ひどい。なんで邪魔したんですか」
「うるさい。おい、なんか知らんが、日が暮れている」
 エリッツはあわてて窓に目をやる。
 暗い。
「ゼインさん、しゃべりすぎです。というか、シェイル、戻ってないですよね」
 エリッツはあわてて外に飛び出した。ゼインも後ろからぶつぶつ言いつつもついてくる。
「迷子かな。あの人たまに抜けてるからな」
「シェイルの悪口を言わないでください」
「はいはーい」
 暗くて森の奥の方が見えない。じっと目を凝らしていると泉の奥の森から人影がこちらに向かってくるのがかろうじて見えた。
「あの人、あれ、何をかついでんの」
 長身の人影はゆっくりとこちらに近づいてくる。雰囲気からシェイルに違いなさそうだが、様子がおかしい。近づいてくるにしたがって、はっきりと背負っているものが見えはじめた。
「小さいですが、いのししが獲れました」
 ふわりとやさしくエリッツに笑みかけてくれるが、いのししである。
「血抜きして内臓も出してあります。奥の小川で洗って十分に冷やしてあるので、あとは皮をはいで切り分けて熟成させてください。いぶせば少し長持ちしますよ」
 相手が喜んでくれるという確信に満ちた笑顔でそのけだものをゼインにさしだす。
「えー、いのししですかぁ。目がこわいー」
 ゼインが感情のこもらない声をあげていのししを受けとる。小さいとはいえかなり重そうだ。体が傾いている。
「エリッツ、遅くなってしまいました。早く帰りましょう」
「はい、おれ、荷物とってきますね」
「ありがとうございます」
 いのししを抱えて呆然とたたずむゼインを置いて、シェイルとエリッツは森の家をあとにした。
「なんか結果的に楽しかった気がします」
「機嫌は直りましたか」
 エリッツの不機嫌はやはり見抜かれている。
「たまにであれば、ゼインさんと話すのもいいですね」
「また来ましょう」
 暗くなりつつある森もまた春とは趣きが違う。早くも月の光が木々の間から降りそそいでいた。もうしばらくしたら灯りが必要になる。
 次は真夏に来てみたい。そのときもシェイルと一緒に来られたらいいなと、エリッツは師を見上げる。するとシェイルの方もエリッツを見てほほ笑んでいた。

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