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第百十九話 風のわたる日(4)

 その後の展開はあまりにテンプレートすぎるので説明することすらはばかられる。飲んで食べて話すことも少なくなったらこの手の輩は何らかの刺激を求めるものなのかもしれない。ペンが当たったくらいで全員集まってくる必要などないはずだが、そういう理屈は通用しない。
「カーラ、このお店ってツケはきくのかな」
 さすがのカーラもどうしていいのかわからないという表情で、ガラの悪い大男たちに囲まれている同僚二人を見守っている。
「たぶん大丈夫だと思うけど、こんな時に何?」
「お店に迷惑をかける前に逃げた方がいいと思うんだ。ごはん、ちょっともったいないけど」
 しゃべることに夢中になっていたためか、テーブルにはたのんだ食事の半分ほどが残ったままだ。
 以前のエリッツだったら震えあがってただ見ていただけだっただろうが、戦場にくらべればこれくらいは何ということもない。
 それにシェイルに日頃からきちんと体を鍛えておくようにいわれている。ラヴォート殿下の側近を一緒につとめるなら護衛としての能力も高くなければならないらしい。
 以前ひとりで何役もこなすダフィットを憧れの目でみていたが、とうとうエリッツもその高みを目指すことを要求されるようになったのだ。
「逃げるっていっても……」
 カーラは助けを求めるように辺りを見るが、周りは周りで巻き添えをくいたくないとでもいように遠巻きに様子をうかがっているだけだ。カーラと仲がよさそうだった女性店員もカウンターの出入り口のところで柱に隠れ心配そうにこちらを見ていた。
「カーラたちが即座に逃げてくれないと、お店がめちゃくちゃになっちゃうかもしれないから急いでね」
「え、ちょっと、エリッツ――」
 大男たちの人数と体格の差にやや不安をおぼえながら、エリッツは胸倉をつかまれたり小突かれたりしている二人に近づく。
 おそらく話は通じない。
 二人をつかんでいる男たちがエリッツに反応する前に、腕の内側を狙い素早く手刀を入れる。手が離れた瞬間を狙って二人を背後に引き倒した。尻もちをつくくらいで大きな怪我はしないはずだ。
 力で負けそうな場合の戦い方はワイダットに嫌というほど教わっている。
「カーラ、早く」
 頭の回転が速いカーラはエリッツの動きを見て、どうすべきか瞬時に判断したようだ。
「早く! 逃げよう」
 二人の服をつかみ引きずるようにして立たせる。
「あ、待って。これ」
 狙いをエリッツに変えた男たちの腕をかいくぐり、身をかがめて床に落ちているペンをつかんでその勢いのままカーラの方へ投げ渡した。
「ありがと!」
 まだ言葉も出ない様子の事務官たちに代わってカーラが見事にキャッチしてくれる。
 三人が逃げるのを見届けながら、エリッツはできるだけ店内の損害が少なくなるよう気をつかい男たちの攻撃をかわし続ける。
「すばしっこいガキだな。早くつかまえろ」
「うるっせぇ。そっちに行ったぞ」
「お前、邪魔だ!」
 素早く逃げまわるエリッツに体が大きい男たちはおもしろいほど翻弄される。だがこんな状態では長持ちしないしお店が壊れてしまう。エリッツはテーブルの下に体をすべりこませて、そのままの勢いで男たちの足元もすり抜ける。
「迷惑をかけてすみません。ごちそうさまでした。お金は後日必ずお支払いします」
 エリッツはカウンターのかげからこっそりと見ている女性店員に軽く頭をさげて店を飛び出した。店の中で暴れられると困るので全員追ってきてくれるといいのだが。
 外に出てしまえば足で勝つ自信はあった。レジスの街中を走り回ることにかけては負ける気がしない。
 カーラたちは寮がある城の方に逃げたはずなので、城から遠ざかるようにできるだけ人通りが多い道を選んで走る。地理については曖昧だったが、人目につく場所なら市街警備軍が助けてくれるかもしれない。
 どれくらい走ったのかわからない。かなりの時間走り続けている。
 しかし、たかだかペンが当たったくらいでものすごくしつこい。人数は着実に減っているが、まだ男たちは追いかけて来る。もしかして頭に穴があいてしまったのだろうか。
「あれ? こんなところまで走ってきちゃったのか」
 何やら見覚えのある看板がある。
 ちらりと背後を見ると、男たちの姿はまだ曲がり角から見えていない。エリッツは思い切って店の中に転がりこみ扉を閉めた。
 即座に何者かに胸倉をつかまれる。
「このガキ、何の用だ」
 体に張り付くような礼服を来た筋骨隆々の大男である。髪はぴったりとなでつけられ、整髪料のにおいでむせそうだ。
「ああ、その子、知ってる子よ。とりあえず放してあげて。事情を聞くわ」
 見ると黒髪の女性がグラスを持ったまま優雅な仕草で男に指示をしている。
 その背後では夜の客たちがエリッツを見てざわめいていた。これは確実に迷惑をかけてしまっている。
「すみません、リファさん」
 しょんぼりとうなだれたエリッツに「いいのよ。追われてたのね」とめずらしく優しい。
「わかるんですか」
「高級娼館にあんな入店の仕方をするなんてそれ以外には考えられないわ。お友達とかくれんぼ中だっていうのなら今すぐ出ていって」
「追われてます。助けてください」
 素直に頭をさげると、リファは今まで見たことがないくらいに魅力的な笑みをうかべる。
「ええ、もちろん。あなた結構いいお仕事をしてるみたいね。聞いたわよ。お城にお勤めなんですって? ここのお姉さんとちょっと遊んでから帰ればつかまらないんじゃないのかしら」
 客にするつもりだ。
「いや、あの、そんなにお給金がいいわけではなくて、その、お酒一杯くらいならなんとか……いや、それも厳しいかな……」
 以前この店でシェイルが懐から出した札束を思い出し、エリッツはしどろもどろになる。そもそも平の城勤めではこんなところで遊ぶお金などない。それどころか、お酒一杯でも下手をしたらツケてもらうことになる。とんでもないところに逃げ込んでしまった。
「あら、そう。じゃあ、迷惑をかけたお客さんに謝ってってね」
 突然つめたく言い放つと、カウンターで酒をつくっている若い男に目配せをした。

「こちらは当店からの風見舞いです。先ほどは騒がしくしてしまい申し訳ございませんでした」
 エリッツは盆にのせた細いグラスをとると客の席にそっと置く。金色の液体がゆらりと大きく揺れて危なかったが何とかこぼれなかった。こういうのは本当に苦手だ。
「どうもありがとう」
 いかにもお金をもっていそうな紳士がエリッツににこりとほほ笑みかける。
「きみ、そのお仕事が終わったらここに座りなさい」
 紳士はエリッツのお盆の上に数枚の紙幣をのせる。これはまさか指名料というやつではないか。この店では女性を指名して一緒にお酒を飲んでもらうだけで平役人の半月分の給金が飛ぶほどお金がかかるという噂を聞いた。
「いえ、あの――」
 裏声でしどろもどろになるエリッツに「おや、まだ見習いさんかな。緊張させてすまなかったね。今日はいいよ。また今度」と、ためらいなく追加の紙幣をのせてくれる。これは次回の予約料? この店の客の財布の中がどうなっているのかエリッツの頭は疑問符でいっぱいになる。
 やはり高級娼館だけあって、客の質がその辺の飲み屋とは明らかに違う。中には金を見せびらかすような嫌味な客もいなくはないが、ほとんどが上品でゆとりのある大人の男たちだ。
「次はあっちの席ね」
 リファがエリッツに耳打ちをしながら、すかさず盆の上の紙幣をさらった。もちろんエリッツがもらえるものとは露ほども思っていなかったが、先ほどの紳士の好意を無駄にしてしまったような罪悪感におそわれる。
 以前来たときとは席の配置が違って、衝立のようなものでいくつかの個室のようになっていた。一階のバーの模様替えは客が飽きないように頻繁に行っているようだ。
「ちょっと、歩き方」
 カウンターでグラスを受けとり、客席に向かおうとするエリッツにまた鋭い耳打ちが飛ぶ。
「もう少し内股気味に。ドレスの裾の動きまで意識して、優雅に歩いて。あとその盆の持ち方。指一本一本の動きもおろそかにしないでちょうだい。うちは一級店なの」
 それならリファがやればいいじゃないかとはもちろん言えない。エリッツは「はい」と返事するだけにとどめる。こんな姿なら万が一さっきの男たちが入店してきても気づかれまい。これが最適解とは言い切れないが、遊ぶお金も工面できない身分なので仕方がない。
 もしお金があればベリエッタさんにゲームの相手をしてもらうという夢がかなうのだが、残念ながらそれはまだ先の話になりそうだ。
 エリッツは一番奥にある衝立の向こうの席に向かう。なぜかそこだけ衝立が二重になっていた。
「失礼します」
 エリッツが裏声で声をかける。歩き方どうこうよりもこの声の方が問題だとエリッツは思うのだが、こればかりは精一杯女性らしい裏声を作る以外方法がない。
「はい、どうぞ」
 何だか聞き覚えのある声だ。ゆったりと穏やかな中年女性の声。エリッツは衝立で仕切られた個室に入る。
「こちらは当店からの――」
 ぶはっという声とともに、顔に酒を吹きかけられた。
「あらあら、いやだわ。お兄さん」
 聞き覚えのある声だと思ったらそこにいた女性はベリエッタさんだった。きれいなハンカチでエリッツの顔をぬぐってくれる。そして盛大に酒を吹きかけてきたのは――。
「な、なんでゼインさんがこんなところにいるんですか」
「こっちのセリフだ。とうとう女装して夜の店で働き始めたのか」

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