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第百十七話 風のわたる日(2)

 結局カーラからは何の情報も得られなかった。またあっさりと「知らない」と即答されただけだ。
 そしてまたやらかしてしまった……。
 エリッツは制服の内ポケットを軽く押さえてため息をつく。またこんなところに手紙を入れてしまった。正直なところ渡すのが怖い。手紙を見てシェイルがうれしそうな顔をしたらどうしよう。それだけで再起不能になりそうだ。
「ご苦労様です」
 シェイルはエリッツから他の郵便物を受けとり、さっと目を通した。
 もちろん別室で内容は確認し、必要なものは要点を書きだし仕分けしてある。
 郵便で送られてきた書類の仕分けはエリッツの仕事だ。休暇前とあって届いた書類は比較的少なく、作業自体はすぐに終わったが、心を占めるのは別のことだ。またエリッツは制服の胸元を押さえる。
「これは支払いに回して、これとこれは了承ということで返事を書いておいてください。あとはこちらで確認します。それからあっちの事務官に回して欲しい書類が――エリッツ?」
 呼ばれてハッと顔をあげる。ついぼんやりしてしまった。
「またそこに何か……いえ、いいです」
 シェイルはちらりとエリッツを見た後軽くため息をつく。そして何やら引き出しを探りながら「いつ実家に帰るんですか」と、エリッツに聞いた。
「実家? 帰りませんけど」
 シェイルは手をとめて驚いたようにエリッツを見る。
「帰らないんですか。では休暇中は何を……」
「あ、部屋で寝ていようかな」
「え?」
「え? 変ですか?」
 シェイルは一度まばたきをしてから「いいえ」と言って軽く首をかしげた。
 また非常識なことを言ってしまったのだろうか。
 勉強はきちんとやってきたし、今も空き時間で勉強は続けているが、いかんせん実務経験が少なすぎてあちらこちらで首をかしげられているのが実情だ。明文化されていない暗黙のルールというものがまったくわからない。そういうところも他の事務官の気に障るのかもしれない。
「あのー、風のわたる日には実家に帰るのが普通というか、常識なんですか」
「いえ、わたしもカウラニー家には何年も行っていませんから」
 では何なのだろうか。
 何ともいえない表情をしていて居たたまれない。
「あ、では、あの、書類を片付けてきます」
 エリッツはシェイルから受けとった請求書や書類を手に逃げるように別室に移動した。
 もともとはシェイルが仮眠用に使っていた小さな部屋だ。そこにエリッツの机を置き、専用の仕事部屋をつくってくれた。
 平の事務官で個室をもらっているのはエリッツくらいだろう。王命執行主席補佐事務室の事務官たちも部屋いっぱいに机を並べて額を突き合わせるように仕事をしていた。
 エリッツはシェイルと同じ空間にいても全然かまわないというかむしろそっちの方がいろいろとうれしいのだが、シェイルが「息が詰まるでしょう」と、どんどん模様替えを敢行してしまった。
 仕事中はドアも開けっぱなしにしており、お互いの声が聞こえる距離なので別室といっても意思疎通に差し障りはない。
 シェイルの執務室はかなり広く、応接や資料室も併設されている。そのいたるところにエリッツのための道具や書籍が新しく置かれるようになり、なるほどカーラのいうように大切にしてもらっているのには違いない。
 だが新人のくせにこのように優遇された環境なのも疎まれる原因のひとつである気もする。
 支払いに回す請求書にシェイルから預かっている承認印を押していく。治水工事関連の請求書だ。どういう仕事の分け方がされているのかわからないが、請求書がこちらに回ってくることはほとんどない。こちらに来るのは重要で高額のものが多いように思う。あちらの事務官長のプライドが傷つくのもわからなくもないが、おそらくシェイルが直接かかわった案件に関するものなのだろう。
 この印を押せばラヴォート殿下の承認済みという扱いになる。間違いがないように慎重に押していかなければならない。それなのに集中力がぶつぶつ途切れる。
 手紙を返さなければ。まだ間に合う。鞄の底に残っていて渡しそびれたことにすればいい。
「ああー、でもなぁー」
 思わず声がもれる。
 しかし休暇に入ってしまったらいよいよ渡す機会がなくなる。実は郵便物には城に届いた日付の印が押してある。何日も経ってしまえば言い出しにくくなるのは確実だ。絶対に後悔する。
 よし、今だ。
 エリッツは椅子から立ちあがり、しばし立ちすくんでまた座った。
「うーん」
 ひとつ唸ってからようやくまた腰をあげた。
 ところがせっかく決心がついたのに肝心のシェイルがいない。いつの間にか執務室を出てしまったようだ。事務仕事とはいえいろいろあるようで、いないときは一日中いなかったりする。
 遅かったかと思ったものの、少しほっとしてしまった。
 ところがその時から驚くほどシェイルとすれ違い続け、とうとう休暇の前日となってしまうという最悪の事態を迎えた。
 いつもであればいつ戻るなどのメモ書きが置いてあったりするものだが、それすらできないほど用事が詰まっているようだ。休暇で人がいなくなる前に片付けてしまわないといけないことも多いのだろう。
 エリッツがやるべき仕事は他の部署から書類が回ってきたり、席を外している間にシェイルが机に置いておいてくれたりと、指示がなくて困ることはなかったが、まさかここまですれ違うとは。
 エリッツが雑多な作業に慣れるまでは書記官としての仕事も休止中でシェイルがどこで何をしているのか把握していない。なぜか唐突に国王陛下に呼び出されていることもよくあり、探し出すのは困難だ。
 エリッツは散々迷って「すみませんでした」と書き置きをしてエチェットという人からの手紙をシェイルの机に置いた。
 もしかしたら休暇の予定などに関わる内容かもしれない。直接謝れなかったことで信用を落とすことになるだろうが、自分が悪いので仕方がない。
 休暇中に二人で会ったりするのだろうか。それとも結婚の挨拶とか……。
 まだ婚約者からの手紙と決まったわけでもないのに、すでにエリッツの中でそうと決めてかかっていた。最悪の事態を想像しておけば、いざというときのダメージはいく分減るだろう。だがもう想像の段階でひどいダメージを負っている。
 ため息をつき続けながら、すでに暗くなった廊下をよろよろと歩く。明日からもどうせ昼寝くらいしか予定がないから、またシェイルの執務室に様子を見にこよう。謝るチャンスがあるかもしれない。
「はぁあー」
 長々とため息が出てしまう。
「なに? 辛気臭い」
 見ると王命執行主席補佐事務室の前である。カーラが部屋に鍵をかけながら、エリッツを不審そうに見ていた。他にも二人の事務官が一緒にいる。
「あ、そうだ。エリッツも一緒に行く?」
「どこへですか?」
「休暇前といったら、『風迎え』でしょ」
「風迎え」といえば、主に農家などで風のわたる日に集まった一族郎党が夜通し飲み食いして大騒ぎするという慣習である。
 グーデンバルド家は農家ではないが、兄たちが風のわたる日に帰省したときは全員で長い時間をかけてきちんとした食事をとることになっており、それを「風迎え」と呼んでいた。
「カーラ、お育ちのいいお坊ちゃんはご存じないだろ」
 事務官の一人が意地の悪い笑みを浮かべてエリッツを見る。
「お育ちも何も、帰省する前にみんなでわいわいやろうってだけのことよ。晩ごはん、食べちゃった?」
 食べてはいないが、わいわいできる気がしない。
「なんでそいつを誘うかな」
 もうひとりの事務官が小声で、だがエリッツにしっかりと聞こえるようにつぶやいた。
 居心地が悪すぎる。
「カーラ、せっかくだけどおれ……」
「ダメよ」
 断ろうとするエリッツをなぜか遮ってくる。
「割り勘にしたときに三人だと高くなるでしょ」
 エリッツは首をかしげた。三人分の食事を三人で支払うのも、四人分の食事を四人で支払うのも同じではないだろうか。
「さ、行こ行こ」
 カーラは異論をはさむ隙をあたえない勢いで、元気よく両手を振って歩き出す。二人の事務官は顔を見合わせて、ついでとばかりにエリッツを軽く睨む。それから大仰にため息をつくとそのままカーラに続いて行った。
 ここまででこの三人の力関係がよくわかる。若手のカーラにここまでやり込められるということは二人ともほぼ同期ということで、その同期の中で一番の発言力を持つのがカーラだということだ。

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