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第百六話 黒い狼(5)

「もうルゥがここに来たのか」
 少年はそれには返事をせず、ラヴォートを見て首をかしげる。すぐに何かを思い出したかのように頷いた。
「昨日はありがとうございました。わたしが縛られることに抗議してくださっていたのが聞こえました。――何かお菓子があればいいのですが」
 羞恥でさっと顔が熱くなる。あんな状態で全部聞こえていたのだ。
「黙れ。菓子などいらん! そもそもお前のことは関係ない。この国の捕虜の扱いについて責任者に問いただしていただけだ」
 突然大きな声を出したラヴォートに少年は驚いたように軽く身を引く。
 そういえば大怪我を負っているはずなのに動きに支障がないようで不思議だ。ラヴォートは立ち上がって巻かれたさらしの上から少年の肩をつかむが、痛がる様子はない。
「どうかしたんですか、――ラヴちゃん」
 不意打ちにそんな呼ばれ方をして言葉が出ない。しばらく二人とも無言になり妙な空気が流れた。
「――なんだそれは。無礼者」
 ようやく抗議の声をあげたものの何だか間が抜けている。頭のおかしい兄は言っても聞かないので面倒でそのままにしているが、あんな馬鹿みたいな呼び方を他人にされると頭にくる。
「先ほどルーヴィック様がそう呼んでいたので。それに急に肩をつかむのも無礼ですよ」
 少年が軽く手で払うようにしただけで、ラヴォートの手があっさりと肩から外される。相手は帝国軍にいた少年だ。ラヴォートよりもずっと実戦経験がある。それに術士の才まであるらしい。正面からではまず勝ち目がない。
「なんだ。びゃーびゃー泣いていたくせに」
 仕方なく口を使う。思惑通り少年の頬に朱がさした。頭に血が上れば判断能力は格段に落ちる。すぐさま少年の肩をつかみ、腹に拳を入れてやろうとしたところで一瞬手がとまった。そういえば、こいつはわき腹にかなり深い怪我を負っていたのだった。
 その一瞬が仇になる。
 足払いをくらわされ地面に転がった後は何が何だかわからない。痛む箇所からおそらく胸と腹を打たれた。最後の一打は平手打ちだったことはきちんと記憶している。動きが尋常ではなく俊敏だ。顔を拳で殴れば拳が痛む。満身創痍ではなおのことだ。冷静ではないか。
「何の騒ぎだ!」
 見ればオズバルだけではない。ラウルドや見張りの兵たち、それに軍部のお偉い様方が勢揃いである。なぜこんなカビ臭い塔に集まっているのか。それほど急を要する事態なのかもしれない。
「ラヴォート様? なぜここに?」
 その場の全員が大きく目を見開いてこちらを見ている。
「オズバル殿、これはどういうことだ!」
 名前は忘れたが軍部の高官であることは確かだ。すごい剣幕でオズバルに怒鳴り散らしている。何があったのかと他人事のようにぼんやりとしていたが、ぼんやりしていることが異常事態であった。
 平手で打たれて頭が振れたせいだろう。意識が朦朧としている。何気なく手で顔を拭うと真っ赤だった。口の中まで切れているらしい。
 ふとかたわらを見ると、あの少年もなぜか倒れている。ラヴォートがつかんだ肩のさらし布は血が滲み、傷が開いてしまっているのが明白だった。痛みのためか、熱のためか少年はもう何も言わずに肩で息をしているだけだ。二度も強くつかんでしまった。
「痛いなら痛いって最初に言えよ」
 ラヴォートはそう毒づくと頭をゆっくりと振る。段々と意識がはっきりしてきた。怒鳴り散らしているのは軍人でありながら議会でも弁が立つことで有名なゴルドローグ指揮官だ。これはあまりよい状況ではない。
 何があったのか判断できないのだろう。オズバルは困ったような顔で少年とラヴォート、そしてゴルドローグ指揮官を順に見ている。
「たとえどこぞの王族だとしても、レジスの王子に手をかけるとは由々しきことだぞ。陛下にご報告してしかるべき処分を下してもらう他ないだろう」
 ラヴォートはふらつく足でゆっくりと立ち上がり、「待て」と声を張った。その場の全員が驚いたような顔でラヴォートを見る。
「ゴルドローグ指揮官、私に恥をかかせる気か。私が先に手を出してやり返された。こんな話を広められ陛下にまで報告されては恥の上塗りだ。あなたも軍人ならわかるだろう?」
 ゴルドローグ指揮官は大きくため息をついてあきれたように頭を左右に振る。
「殿下、これは国同士の話です。個人の恥云々で方がつくようなことではありません。殿下が負った傷はレジスの傷です」
 子供をいさめようとするような口調にイラ立つが激高すれば負けである。ラヴォートは小さく息をついて呼吸を整える。
「ではなおのこと。捕虜に不当な扱いをしたあげく不条理な言いがかりで処分するなど大国レジスの名を貶めることになる」
 ゴルドローグ指揮官は盛大に鼻で笑う。
「国王陛下が贔屓するだけあってずいぶんと真っ当にお育ちだ。――ですが殿下、ずっとそのままではおられませんよ。戦はそんなきれい事だけでは勝てませぬ」
 憐れむような眼でラヴォートを見ると、ゴルドローグ指揮官は見張りの兵に「早く城医臣を呼べ」と短く指示をして塔内に靴音を響かせて立ち去った。何名かがその後に続く。残されたのはオズバルとラウルド、もとからいた見張りの兵であった。
「まったく。おとなしく待っていることもできないのか」
 オズバルはもはやあきれきったように少年のかたわらに座ると血で濡れたたさらし布を外して傷を見ている。顔をしかめているところ見るとやはり傷は深いのだ。
 我に返ったようにラウルドがラヴォートに走り寄り、血の付いた顔をぬぐってくれる。もともとたいした怪我は負っていない。「レジスの傷」とはゴルドローグ指揮官も御大層な言い方をしたものだ。
「殿下、何があったんですか。ゴルドローグ指揮官ではないですが、ちょっとこれは面倒なことになりそうですよ」
 ラウルドは心配そうにラヴォートの顔をのぞきこむ。それからふと不思議そうに視線を落した。
「こんなところにまでおやつを持ってきたんですか」
 ポケットから油紙がのぞいていた。今日ラウルドからもらったばかりのものだ。ラウルド当人はポケットから目をそらして眉間に力を入れて真顔になっている。これは笑わないように全身の力を顔に集中させている顔つきだ。
 ラヴォートは舌打ちしたくなる。ルーヴィックが狼は菓子を食べるのかなどと言うのでつい持ってきてしまった。
「これは違う。食事に手を付けないと聞いたから、その……甘いものなら食べられるのではないかと……」
 自分のおやつだと思われるよりはいくらかマシだ。ラヴォートは素直にポケットから油紙の包みを出す。全部あげてしまうのは惜しくて半分にして持ってきた。
 異国の菓子で板状にのして固めたチョコレートというものである。原材料となっている木の実については異国のものでよくわからないが、そこに未精製の赤砂糖を加え、穀物や乾燥させたフルーツ、ナッツでかさ増しをして固めた庶民の菓子だ。できるだけ安価にすまそうとした工夫が随所に見られるが、ラヴォートにとってはその雑味がむしろ新鮮で好ましい。純粋なチョコレートは上流階級でも好まれる高級品であり、まるで別の菓子だった。だがどちらも滋養に富み体温でやわらかくなるので食べやすい。それどころかすでにポケットの中でやわらかくなってしまっている。
 ラウルドは一転して「なんとお優しい」と感じ入ったようにため息をもらす。
「ところでオズバル殿、こいつは何者だ」
 ラヴォートはチョコレートの包みを手渡しながらオズバルに問う。オズバルは目じりを下げて包みを受けとった。
「殿下、ありがとうございます。この子も菓子は嫌いではないので喜びます」
 この凶悪な獣のような子供が菓子を喜んでいる姿が想像できない。どちらかというと狩った獲物の肉をそのまま食いそうだ。ラヴォートは無言でうなずくだけにとどめる。
「この子は北のロイという小国、アルサフィア王の末子で、諸事情があり赤子の頃から私が面倒を見てきました」
 国の名前くらいは聞いたことがあり、地図上の位置も何となくはわかるが、どういう国なのかは詳しく知らない。特段レジスと条約などを結んでいる関係でもなく、数年に一度、使者が外遊に訪れるくらいだ。イメージは良くも悪くもない。
 そんな小国の王子だと言われてもあまりピンとこなかった。確かにオズバルは帝国の動きを調査するためにそのあたりに拠点を構えていたという話は聞いたことがある。まさかその間、他国の王子の世話をしていたとは――。
 当の少年はオズバルの膝の上で安心したように軽く目を閉じている。相変わらず頬は上気しており、熱があるようだ。それに肩の傷は思っていた以上にひどい。ラヴォートに肩を強くつかまれて相当な痛みがあったはずだが一言も「痛い」とは言わず、それどころか顔色一つ変えなかった。どれほど人に弱みを見せられない状況に置かれていたのか。
「ロイは帝国に攻め滅ぼされましたが、アルサフィア王の機転により多くの民が国を出て生き残っております。この子とはその戦乱の中、はぐれてしまったのですが、なぜ帝国軍にいたのか――。おそらく正面から帝国領を抜けてレジスに逃れるつもりだったのでしょう。最短距離とはいえますが、なんとまぁ無謀なことを」
 言いながらオズバルは乱れた少年の髪をなでつけてやっている。
「なるほど、そういうことでしたか。だからレジスとの国境を目前にしてあのように無鉄砲な真似を――」
 ラウルドも言葉を詰まらせた。
 あの獣のような少年はオズバルには気を許している。弱みも見せるし、体にも触れさせる。ラヴォートの中で何かおぼろ気に欲のようなものがうごめくのを感じていた。ルーヴィックの言っていたのはそういうことなのか。
 この容易に人に気を許さない美しく気高い者に唯一信頼され、触れられる立場にあればと想像するとぞくぞくと体が震えた。バイリヨンの黒い狼を手懐けて足元に座らせる。
 そうだ。この黒い狼が欲しい。
「オズバル殿、この少年の名をもう一度教えてくれ」
 だがオズバルが口を開く前に、ぐったりと身を横たえていた少年の方がこたえた。
「シェイラリオ・フィル・ロイットです。レジスの方には発音しづらいでしょう。ラヴォート様、シェイルで結構です」
 きちんと名を呼ばれただけでまたぞくりと背筋が震える。真っ黒な目がこちらを正面から見ていた。
 遠く塔の入口から何人かの足音が近づいてくる。
「ラヴォート殿下、城医臣をお呼びしました。お怪我の具合は?」
 城医臣は主に王族を診る医官たちのことである。
「俺はいい。怪我などしていない。こいつの肩の傷を今すぐ何とかしろ」

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