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第六十一話 月下

 やはり昨夜何かあったのだろう。おそらくあまりよくないことが。エリッツが黙って見守っていると唐突にリークは笑い声をあげた。
「あははは! これでもうなにも気にする必要はない。手は尽くした」
 狂気を感じる声にエリッツはさらに後ろにさがる。
「リーク、大丈夫?」
「大丈夫じゃないさ。最初から」
 さらに笑い続けるリークが心配になり、エリッツはそっと近づいた。
「リーク、落ち着いて。おれでよかったら話を聞くよ」
 もはや息苦しそうに空をあおいで笑うリークの頬にエリッツはそっと手をふれる。瞬間、雲間から月の光がさし、リークのそのとび色の瞳を紅玉のように光らせた。
 なぜかぞっとしてエリッツは手をひっこめる。
「リーク、きみもしかして……」
 声をかすれさせてまで笑い続けていたリークはとうとう咳き込んで背中を丸める。
「やっぱり泣いてる?」
 その背中をさすりながらエリッツはふと薔薇の香りの中にまぎれてどこかでかいだことがあるような甘やかな香りを感じた。思い返せば昨夜もこのにおいをかいだ気がする。その正体が気になりエリッツはリークの背に鼻を押しあてる。やはりリークだ。
 リークが咳き込みながらもはじかれたように身を起こす。
「触るな、泣いてなんかいない、喜んでいるんだ」
「泣いてるじゃないか」
 エリッツは再度月の光を照り返すリークの頬にふれる。咳き込んだ苦しみからなのかもしれないが、冷たくぬれている。すぐさまリークがエリッツの手をはたく。泣き笑いのようにひどく引きつれた表情をしていた。明らかにまともな状態ではない。
「落ち着いてよ」
 また、月が雲間に隠れリークの顔はうっすらとした輪郭しか見えない。
「落ち着いてる。うれしいんだよ」
 リークの声がぞっとするような狂気をはらむ。暗闇そのものが声を放っているような不気味さだった。
「アイザック様は永遠につかまらない。明日、いいものを見せてやるよ。ただし俺の邪魔をしたら命の保証はないからな」
 もはや人影にしか見えないリークは幽鬼のようにふらりと立ちあがると、呆然としているエリッツをおいて屋敷の中へ戻っていってしまった。
 リークは危険だ。
 ゼインとワイダットがそういっていたときはあまりピンとこなかったが、今ならはっきりとエリッツもリークは危険だと感じる。いや、危険というよりは危うい。
 リークは本当に泣いていた。とてつもなく大きな感情が決壊しエリッツを飲みこまんばかりに押しよせてきた。人からこんなにも強い感情をぶつけられたことはこれまでない。何があればそんなことになってしまうのか。エリッツには想像もできなかった。
「本当に大丈夫かな……」
 しばらく動くこともできず、その場で空をみあげた。また月がゆっくりと雲間から姿をあらわす。
 明日。
 何が起こるのだろうか。
 呆然と空を見ていた時間はどれくらいだったかわからない。春特有のゆるんだ冷たさをはらんだ風が吹き抜け、エリッツはひとつくしゃみをした。
「しまった。また熱が出る」

 消化にいい食事をしっかりとってかなり早めに休んだことがよかったのか、怪我が痛む以外体調は悪くなかった。二人の若いメイドが整えてくれた服を着こみ革の長靴(ちょうか)をはくとそれなりの見た目になる。兄が仕立ててくれたんだろう。サイズがぴったりだ。深い紺色でシンプルだが襟と上衣の裾にわずかに金糸がほどこされており平服ではないことがわかる。やはり兄はセンスがいい。難をいえば袖のところにグーデンバルド家の紋章が入っていることくらいか。家出をしたのに。
 鏡を見るのは久しぶりだがあちこちが傷だらけで確かにひどい。体の傷は服を着ればいいが、顔の傷は兄が騒ぐだけあって結構目立っている。いや、これくらいの方が箔がつくのではないか。鏡に向かってきりっと顔を引き締めれば厳しい訓練を乗り越えた軍部の若手に見えなくもない。
 笑えないのが首の傷だ。
「これ、怖くない?」
 後ろに控えているメイドたちに声をかけると二人は困ったように顔を見合わせる。
「これ、首の、生々しいよね。まだちょっと傷口がぐちゃぐちゃしてて。やっぱり包帯巻いたままの方がいいかな。それはそれでなんか気持ち悪いよね」
 一人が遠慮がちに口をひらく。
「エリッツ様、傷口が汚れると治りが遅くなります」
「包帯を巻いて、これで隠してはいかがでしょう」
 もう一人がひらりと薄い布を広げる。淡い緑のグラデーションが見事で派手さはないものの上等な織物であることは一目でわかった。
「わー、きれいな布。そんなのどこにあったの」
 また二人は困ったように顔を見合わせる。
「エリッツ様、やはりご存じなかったんですね」
「こちらへ」
 二人が部屋のクローゼットの扉を片方ずつ開くとそこにはぎっしりと新品とおぼしき服が詰まっていた。
「これはもしかして兄さんが?」
 各々小さくうなずくと、なぜか申し訳なさそうにうつむいた。
 どうりで「着替えろ着替えろ」とうるさくいわれたわけだ。よく見ると女性もののドレスやなんのためのものなのかむこうが透けて見える服といいがたいものも混ざっている。先ほどの布のようにスカーフに使えそうなものからベルトや革の手袋、マフラーなどの小物も取りそろっていた。どれも上等なものであることはがわかるが、一日に何度着替えたらこれほど必要になるのかわからない。
「こんな無駄遣いをして」
「あの、また増えるみたいで――」
 一人が口をひらくともう一人があわててその袖を引く。
「え、増えるの」
 もうクローゼットの中は満杯だ。
「旦那様が先日お客様にお仕立てを依頼されていました」
 仕方なくというようにもう一人が口を開く。お客様といえばアイザック氏たち以外にいない。おそらく絹織物の職人たちだろう。絹はかなり値が張る。エリッツは大きくため息をついた。本当に兄にとってエリッツはお人形だ。
「あの、そこ閉めてもらってもいいかな」
 二人ははじかれたようにクローゼットの扉にとりつく。
 エリッツは無言で首の傷口に軟膏を塗り、包帯を巻いた。メイドの一人が先ほどの布をきれいに折りたたんで渡してくれる。エリッツはそれを包帯の上から首に巻き軽くしばると端の片方をシャツに入れこみ、もう片方を布のグラデーションがきれいに見えるように広げて前にたらした。
「かわいい」
 メイドの一人が歓声をあげ、エリッツは思わず顔をしかめた。かわいいというのは心外だ。エリッツのことをそう表現するのは兄だけで勘弁してほしい。
「す、すみません。先ほどから、私、出すぎたことばかり、その――」
 声をあげたメイドがエリッツの表情を見てすぐさま青ざめる。もう一人のメイドが肘で小突いているのが見えた。
 二人の若いメイドは表情の作り方もしぐさもそっくりだが少しそそっかしくておしゃべりな方とわりと冷静でしっかりした方と性格の違いがわかってきた。あまり話をする機会がなかったが、もう少しここに滞在すれば仲良くなれたかもしれない。
「いや、別にいいんだけど、やっぱり子供っぽいかな」
 未練がましく鏡の前で布をいじっているエリッツに冷静な方のメイドがにっこりと微笑みかけ「エリッツ様、そろそろお時間になりますよ」というのであきらめて部屋を出る。
 アイザック氏はいつもきちんとした身なりをしていたが、今日はさらに上質なものを身にまとっていた。シャツはいつも通り絹のようだったが、白ではなく光沢のある上品な紫色だ。リークも護衛とはいえアイザック氏のそばに立つわけだからきちんとした服装なのだろうと思ってその姿を探したが、見当たらない。昨夜の様子もあったので気にかかり、それとなくアイザック氏にたずねるとやはり具合が悪いようで少し遅れてくるとのことだった。
 昨日の今日で顔を合わせずにすんで、少しほっとしたがリークが合流するまでエリッツは一人で護衛をしなければならないのは荷が重い。アイザック氏が誰かの恨みをかっているらしいことは確かだ。一応、兄の部下である武装した男が二人アイザック氏の後ろから守るように同行しているが、事前に知らせのない護衛は会場には入れないというからせいぜい城の門前までだ。
 余談ではあるが、予想通り兄は仕立てたばかりの服を着て出てきたエリッツに「かわいい」を連発し、首の傷を隠した布も「かわいい」といった。やはり「かわいい」のだと、エリッツはまた首に巻いた布をしつこくいじるはめに陥った。
 さておき、先日アルヴィンと見た城の正門まで馬車で乗りつける。さぞ、すごい数の警備兵がいるだろうと思っていたが先日とさほど変わらない。
 しかしちょうどローズガーデンの招待客が集まる刻限ということもあり人は多かった。何を見たいのかわからないが野次馬も集まってきている。
 馬車の中から正門周辺を眺めていたらふと見覚えのある人物が視界にとびこんできた。

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