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第二十八話 夜更け

 案の定、三人は正体をなくすほど飲み続けた。
 食事を終え、ソファのあるゲストルームで三人は政治の話からどうしようもない噂話までブランデー片手にさんざん話し続けていた。エリッツは客人の手前退席するのも気が引けてその場にとどまっている。
 しかし余計なことをいってしまいそうであまり積極的に話に参加はできない。実際、ローズガーデンで起こりうる事態についてダグラスとディケロの関心の的になっていた。北の王や帝国からの使者が出席することについては二人はまだ知らないようだ。
 噂話に関しても先日ゼインがいっていた内容と近いものが多い。細部が微妙に違うところが噂話のおもしろいところでエリッツもこの程度の気楽な話題なら楽しむことができた。
 ふと気づけばすでにマルクはソファの背に頭をのせた状態でいびきをかいている。そもそもこういった場がそんなに好きなタイプではなさそうだ。
「あと二人」とエリッツは心の中でカウントダウンする。しかしその二人が問題だ。二人とも底なしに飲む。ダグラスが酒に強いのは知っていたが、ディケロの方も負けていない。
 普段から思うところがあるらしくときに激しい議論となる場面もあった。しかしそれを見ていてもなんら感心するところがない。こんなことが二人にとっては息抜きになるのだろうか。泉のわき出る音を聞きながら木漏れ日の中で昼寝をしていた方がよっぽど心が休まる。
「どう思うエリッツ」
 突然、兄に話をふられエリッツはあわてて飛び起きた。どうやら気づかないうちに居眠りをしていたようだ。
 それを見てダグラスはほころぶように笑い出す。兄の笑顔がやはり好きだ。エリッツもつられて笑顔になってしまう。
「ずいぶん夜も更けてきたな」
「ああ、ついつい飲み過ぎてしまった」
 二人とも目が充血しているがおそらくエリッツも似たようなものだろう。
「起きろ、マルク。お前を運べるほどの力はない」
 ディケロが立ちあがり、ようやくエリッツも眠れると安堵した。
「エリッツ、話があるからあとでちょっと……」 
 ダグラスがするりとエリッツの横にきて耳打ちをする。ブランデーの香りと兄の匂いを間近に感じてエリッツはどぎまぎしてしまう。それを知ってか知らずかダグラスはそのまま「お先に」と部屋を出ていってしまう。
 ディケロはけっこうな勢いでマルクの頭をはたきながら「起きろ、起きろ」と叫んでいたが、マルクはなかなか目を覚ましてくれないようだった。ディケロの挙動も酔っ払いじみていて危なっかしいが、ダグラスのことも気になる。
「あの、おれもお先に。おやすみなさい」
 エリッツが扉を閉めながら声をかけるとディケロは眠そうな目で「兄弟そろって冷たいな。こいつ放っておいて寝ようかな」とぼやいていた。
 部屋に戻ってしばらくするとごく控えめなノックの音がした。エリッツはすぐさま扉をあける。
 ここの夜は驚くほど静かだ。扉の音ですら周りに大きく響く。森の夜はもっと騒がしいがそれに馴染んでいたエリッツにとってこの静けさは怖いくらいだ。
 ダグラスはそっと部屋に入るとほうと一息ついた。何か飲み物などを準備しておけばよかったと思ったが腰かけることもしない兄をみると誰か呼ぶわけにもいかなさそうだ。
「エリッツ、疲れているだろうから端的にいうがお願いがあるんだ」
 やはり扉の前に立ったままでダグラスはエリッツの肩をぐいとつかんだ。
「何かあったの」
 肩にそえられた兄の手の温度を感じてついつい頬が熱くなる。それと同時にこれまでくりかえされてきた兄の「お願い」の内容はいつも似たり寄ったりだったことも思い出す。それでも兄にほめてもらえるのであれば――。
「デルゴヴァ卿を知っているな」
 あの不愉快な視線を思い出しエリッツの体からさっと血の気が引いた。ダグラスはそれに気づいた様子はなく、やや声を落して話し続ける。
「オグデリス氏じゃない、兄のアイザック氏の方だ。今はコルトニエスの町にいるが、ローズガーデンの下賜品のひとつがコルトニエス産の絹織物に変わったことで打ち合わせのため事前にレジスの街にとどまることになった。名誉なことだから慎重になるんだろう」
 エリッツには思い当たることがあった。シェイルの宛の手紙を読んでいたとき下賜品の変更について書かれた文書をみたのだ。それに合わせてアイザック・デルゴヴァ卿もローズガーデンに招待されていたはずである。
「それでアイザック氏はこの屋敷に逗留することになった」
「えっ、どうして。デルゴヴァ卿のお屋敷がすぐ近くにあるのに」
 兄はそこで難しい顔をしてから軽くため息をついた。
「どうもネズミが何匹か紛れ込んでいる可能性がある、と」
 エリッツはすぐにマリルのことを思い出した。ローズガーデンでデルゴヴァ卿をどうにかするとほのめかしていた。部下の何人かを使用人として紛れこませる、または古参の使用人を買収するようなこともやりそうだ。
「でも悪いことしてないなら別に問題ないんじゃ――」
「誰だって叩けばほこりがでるもんさ」
 そう口をひらくと肩に置いた手でエリッツを抱きよせる。反射的に体の力が抜けて身をまかせてしまう。
「ローズガーデンが終わるまでエリッツにアイザック氏の護衛をしてほしい。護衛といっても形だけだよ。危ないことはない。アイザック氏は自身の護衛も連れてくるからね」
 耳元でささやく兄の言葉にエリッツは驚いて身をはなす。
「ちょっと待ってよ。それ、父さんやジェルガス兄さんは知ってるの」
 陛下直属の部下であるマリルがどうにかしようとしている人物に肩入れしていると取られるのは危険ではないか。
「そんな大げさなことじゃないだろ。知り合いを家に泊めるくらい」
 どうやら家には報告していないらしい。グーデンバルド家は次期国王をめぐる争いに関してはいまだ中立を保っているはずだ。デルゴヴァ卿の味方をしているようにとられるのは家としても本意ではないのではないか。
「知り合いって兄さん、そのアイザックさんと仲がいいの?」
「会ったことはないけどコルトニエスのあたり一帯を治めているきちんとした人だよ。それに友人のクリフに頼まれてさ。断れないだろ」
 クリフといえばオグデリス・デルゴヴァ卿の猫好きの秘書官のことだろうか。ひょうひょうとして無害な印象だったがとんでもない話を持ちこんでくれたものだ。
 それにしてもクリフとダグラスが友人同士だったとは初耳だ。本家でもエリッツはほとんど表に出ていなかった。オルティス家を名乗っていたのでクリフがエリッツとグーデンバルド家のつながりに気づかなかったのも無理はない。
 兄は基本的に友人の頼みは断らない。エリッツも兄の頼みは断れない。しかしエリッツは明日にでも帰るつもりだったのだ。家出を断行することは最初から心に決めていたことだった。それにもしかしたら心配してくれているかもしれない。
「自分の出自を話してもくれない師に尽くすつもりか」
 ダグラスは再びエリッツを抱きよせる。それをいわれるとエリッツの胸の奥に広がっていた黒いしみが鈍く痛みだす。
「使用人たちに聞いたよ。いろいろと勉強をしているみたいだね。護衛の仕事はいい経験になるよ」
 兄の指がそっと髪をくしけずる。やがてその唇がしずかにエリッツの首筋に押しあてられた。
 やはりエリッツは兄の頼みを断れない。
「わかったよ、兄さん。ローズガーデンが終わるまでアイザック氏のそばにいればいいんだね」

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