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少年と少女と人狼

 もの凄い騒動だった。

 突如現れた大きな獣。皆が椅子を倒し、テーブル上の大皿小皿をなぎ払い、瓶の中身をぶちまけて逃げ出していく。

「熊だっ! 熊が出たっ!」
 小太りの中年が叫んだ。
 同時に、中年のウェイトレスも数個のジョッキを思いっきりぶん投げて、「ぎゃあああ! 熊だわっ!」と叫んだ。
 宙を舞ったジョッキは扉に向かって逃げ出す男の頭を直撃する。その男はこぼれたワインですっ転びもしたが、そんな、瑣末な事を気にしていられないとばかりに、直ぐに立ち上がって走りだした。
 それでも幾人かはテーブルの下に隠れたり、椅子を持って立ち向かった。
 呆気に取られた、出口が遠い、腰が抜けたなど、この場に留まる理由はそれぞれだったが……。
 
「ウォオオオオオオオオオオオン!」

 獣が大きな雄たけびを上げると、ぎゃあぎゃあと喚き散らしながら、みな逃げた。腰が抜けたなら這うしかない。出口が遠いなら、近くの窓をぶち破ってでも。それほどまでに獣は恐ろしかった。
 ランタンの灯りで照らされただけの店内は薄暗く、大柄で茶色の毛で覆われた二足歩行の獣は熊に見えていた様だが、もう少し明るければ、 皆はハッキリと気づいていただろう。
 それが、熊ではない……という事に。
 ただの熊に見えたため、ある意味逃げる行動に移れたのかもしれない。その真の姿が見えていたらどうだったろうか?
 人は自分の理解の範疇を越えたモノを見たときにどういう行動をとるか、その時まではわからない。
 熊に見間違えられた……獣。
 今、この獣の脳裏には他の人間などカビが生えて腐った肉くらいにしか見えていなかったので、追いかけるような事もしなかった。興味がなかったのだ。ただ邪魔をするなとばかりに威嚇して追い払うのみだった。
 そのようにして、店内がスッカリ空っぽになると、獣はその二本足でしっかりとした意思を持って歩きだした。目指すは階段だった。
 粗末な木材で作られた階段は獣の体重を辛うじて支えている。ギィギィと今にも折れてしまいそうで、嫌な音を立てている。
 獣はその事を理解しているのか静かにゆっくりと歩を進めた。

「グルルルルル……」
 その大きく裂けた口から剥き出しの牙が見え隠れし、大量の涎がボトボトと地面に落ちていった。
 やがて獣は二階へとたどり着いた。そのフロアは客室のみがあり、狭く細長い廊下が続いている。
 獣は壁に身を引きずりながら移動した。獣の巨体にこの廊下は狭すぎる。

 ギィ……。

 突然、獣が進む先、客室の扉が開いた。
「一体なんの騒ぎだね……五月蝿いのぉ……」
 そう言いながら顔を扉から顔を出したのは、白髪、おじいさんであった。
 おじいさんは少し前に長年連れ添った妻を亡くし、自分のお迎えを待つ余生を送っていた。人生の締めくくりにと若い頃に妻と巡った旅先を順に周って、風景画を描くのを趣味にしている。
 ただそれだけの無害なおじいさんである。

「ぎゃああああああああっ!」

 バァーーーン。

 おじいさんは心臓が止まるほどの勢いで叫び、扉を勢い良く閉めるとベッドに飛び込みうずくまった。
「アンナぁ! アンナぁぁ! 熊だっ、熊が出たよアンナぁぁあ!」
 布団にくるまり泣き叫び呼ぶ名、それは今は無き妻の名だ。

「グルルルッルル……」
 獣は泣き叫ぶおじいさんに少しの興味も示すことなく歩みを進める。
 廊下をまっすぐ進み突き当り……一番奥の客室に向かっている。
 獣はその部屋に近づくほどに強まる芳しい血の匂いを感じていた。
 この芳香に比べれば極上のワインも泥水に等しい。そんなものは便所の臭いと大差ないとすら思えていた。
 加えて今までほとんど嗅いだ事のない同族の匂いも感じている。数え切れない数の……同族の匂い。
 それがどんな理由を持つのか獣には理解などできなかった。いや、理解できていたとしても関係なかった。
 あの肉を食い破り、その血を啜りたい、それだけが目的でこの場所に来たのだ。
 ああ……美味そうな良い匂いだ……獣の脳裏にはそれ以外の感情など沸いていない、その匂いに掻き消され、それ以外の匂いへの感度も鈍ってきていたが……それもやはりどうでも良い事だ。満月の今宵、理性の鎖はとうに断ち切れ、本能に従うだけの、ただの獣だった。
 やがて獣は目的の場所にたどりつく。突き当たりのドアの前に立ち、扉をぶち破ろうとしたその瞬間、部屋の中から声がする。

「ノックは必要ありませんわ。鍵も掛かっておりません、どうぞお入りになって」
 獣はその声を聞いた瞬間に、その大きな身体を左右に揺すった。獣の中の獣が刺激されたからだ。

 ドン! ドン! ドン!

 身体を揺らす度に壁にぶつかって大きな音がなる。
(この声、そうこの声だ……美味そうな肉の声! 心が踊って弾けそうだ!)
 獣は歓喜にうち震えた。そして、その大きな手で扉を押す。扉はギィっと静かに開き、隙間から漏れた光が獣の身体を舐める。木漏れ日は廊下の先まで伸びていった。
 ゆっくりと開いた扉、その空間に自らの巨体も滑りこませていく。
 部屋の奥には窓から差し込む月光に照らされる一人の少女がいた。
 獣の位置からは逆光となり、シルエットしか認識できなかったが、それがリゼットだと確信はしていた。
 
 リゼットの両手には大きな鎌が握られている。
「お待ちしておりましたわ。おもてなしの準備は整っていますが、少しお早いおつきではなくて? お食事の準備などは出来ず仕舞い……」
 リゼットはそう言ったが、獣の目に映るのは、極上の…あまりにも極上な生きた肉だった。
「グルルルルウウウウウウウ……」
 獣は喉を鳴らした。

「まぁまぁ、なんて恐ろしい声……そう、あなたは彼と違って人の言葉は話せませんのね……」
 獣は小さく身を固める様に身を屈めると、隆々とした筋肉が締め上げられ、鍛えられた鋼の様な皮膚が、はちきられんばかりに張っている。
 しかし、リゼットはそんな獣の姿を前にしても脅える事なく、静かに語りかけ始める……。

「ねぇオオカミさん。なんて大きなお耳ですの」
 獣はその大きな耳をピクピクと動かした、リゼットの囁きが鼓膜を伝い獣の体中を内部から刺激する。

「ねぇオオカミさん。なんて大きな瞳……」
 リゼットの後ろ、夜空に映える、満ちた月。
 畏れと、血に詰まった欲望と、それを叶える力を自らに与えてくれるその月が、充血し真っ赤に光る獣の目には映っていなかった。
 否、見えてはいる、見えてはいるが、その月を背負うリゼットの姿が余りに濃すぎた、他に気が向かないのだ。

「ねぇオオカミさん。なんて大きな手をしているの……」
 獣は迷っていた。
 その鉤爪で腹を引き裂き臓腑を喰らうか、頭から丸かじりか……どっちも捨てがたい……だからどっちもだ……。
 今日の晩餐は一生に一度か? 二度か? いずれにしろ他の何事にも代えがたい、そんな気がするのだ。

「ねぇオオカミさん……なんて大きくて気味の悪いお口ですの……」
 もはや我慢など出来きやしない! 今すぐ喰う! 喰らってやるのだ!

「グォオオオオオオオオ!」
 獣は大きく口を開き吼えた。

「……オオカミさん……いいえ……人狼……」
 リゼットの言葉が終わるよりも早く、人狼は駆け出していた。狭い部屋の中を恐るべきスピードで、駆け抜けた。
 丸太のような右腕を振り上げ、リゼットの身体目掛けて振り下ろそうとする。

 バァアアアアアァァァン!

  同時にひとつの銃声がある。弾丸が部屋を縦断し、人狼の右肩を捉えていた。
 その弾丸は軽く2メートルもあろうかという人狼を仕留めるには余りにも小さい。だがその弾丸は銀で出来ている。洗礼を受け浄化された退魔の銀だ。
 ソレは人狼の硬い皮膚を突き破り、砕けると、内部を斬り裂き四散していく。

「グォオオオオオオオオオッッ!」
 内部から身体を蝕むとてつもない激痛に襲われた人狼は勢いそのままに、ベッドに突っ込んで粉々に破壊した。
 人狼はたった一発の弾丸で右腕の自由を奪われていたが、それだけではない。身体が痺れた様な感覚にも襲われて、立ち上がる事すら容易ではなくなった。
 人狼は粉砕したベッドの破片の上で悶えた。

「リゼット! 今だよっ!」
 廊下の奥からルシアンの声が響く。
 リゼットはそれに応えるかのように移動すると、床でのたうつ人狼の側に立つ。そして、大鎌を素早く振り上げながら言った。
「リゼット・ダルクの名にかけて……我が叔母ルナールの名に誓い……卑しき人狼……オマエを狩るっ……!」

 ゴォオ!

 鋭く鈍く光る刃の光が弧を描き、人狼の首を目掛けて閃いた。

 ガツーーーンッ!

 次の瞬間に乾いた音が部屋に響いた。
 そして、

「なんですのぉおお!」
 リゼットは悲鳴に近い声を上げた。彼女が見上げた天井には大鎌が深々と突き刺さっていた。
「振り上げ過ぎだよリゼットっ!」
 リゼットの悲鳴を聞いたルシアンは、急ぎ廊下から部屋に駆け込んでくる。
 両手には手斧が握られていて、駆け込む勢いそのまま人狼の首にめがけて振り下ろした。

 バカァン!

 人狼はその一撃を、横に転がる事で避け、すぐさま体勢を立て直してしまう。
 斧は空振りし、ベッドの破片をさらに細かく砕いただけであった。

「ぬ、ぬ、ぬ、ぬけませんわ~!」
「……避けたっ⁉ ……何やってるんだよリゼットっ!」
「お黙りっ! アナタこそ仕留めそこなってますわっ!」
「少しだけ間に合わなかったんだっ!」
「違いますわよっ! 最初の一発を頭に打ち込めば終わりでしょう? 外すだなんて!」
「外してないっ! 肩を狙ったんだっ! 頭は腕に隠れてたっ!」
 ルシアンはそう言いながらリゼットと人狼の間に入る。
 リゼットは天井に突き刺さった大鎌を外そうと四苦八苦しているが、人狼は銀の毒に苦しみながらも戦意を保っている様だ。
 人狼を前にして二人の口論は続いた。

「部屋に入って来た早々に撃てばよかったんですわっ! ……むぐぐぐ……ぬ、け、ろ、ですわぁぁ~!」
「そうしようと思ったよ、でもリゼットが変な事言い始めるから……うわぁっ!」
 ルシアンの反論が言い終わる直前、人狼は動かぬ右手をダラリと垂らしたまま、左手を二人目掛けて振り払った。
 鋭い鉤爪によるその一撃を喰らえばただでは済まない。
 ルシアンは思いっきりリゼットを押しのけながら飛んで避した。
 その勢いも手伝って天井に突き刺さった刃が抜けるが、勢い余った彼女はごろごろと地面を転がっていく。

「痛い! ですわ~~~っ!」
 人狼に殴られれば痛いじゃ済まない。
 ルシアンは転がったリゼットを人狼が追いかけないように、目の前で手斧を振り回し、気を引こうとしていた。
 だが人狼の興味がルシアンに向く事はなかった。自分に手負いを負わせた相手だとしても興味の外。
 それほどまでにリゼットの内に流れる血は、人狼を惹き付けてしまう。
 自分に意識を向ける事をしない相手に苛立だつルシアンは、バカ正直に正面からの攻撃に出た。

 ガツィーーーン……。

 渾身の力で振り下ろされた攻撃は、野性の反射神経と速度でもって払いのけられる。
「痛つぅうー……!」
 まるで石でも殴ったかのような手応えがルシアンの両手に返っていた。弾かれた手斧はくるくると部屋を舞った。
 分厚い筋肉と硬い皮膚に覆われた人狼はフルプレートに身を包む騎士に等しい、急所でも狙わない限り文字通り刃が立たない。
 人狼は邪魔な障害物でも振り払うかのようにルシアンの体を押しのける。たったそれだけの事だが、ルシアンの身体は宙に浮かび、弾きと飛ばされ、背中を強く壁に打ち付けた。
「がはっ! ……げほっげほっ……」
 ルシアンは衝撃で息がつまった。
 ほんの数秒ではあるが肺の活動が止まる。再び動きだしはしたが、ひどくむせ返り立ち上がる事も出来なかった。
 人狼の歩みは止まらず、座り込んだままのリゼットに近づきつつあった。
「グロオオオオっ!」
 リゼットは攻撃を十分にひきつけてから避すと、その長いフードの裏に隠し持つナイフを手にした。

 カツン、カツン。

 リゼットの手から放たれたナイフは、毛と皮膚に弾かれると、床に空しく転がる。
 二人の人狼に対する決定打はそう多くない。
 猟銃も再装填の暇などないし、この部屋にいち早く駆け込む為、ルシアンは猟銃を廊下の奥に捨ててもいた。
 鋼の皮膚を容易に切り裂くグリムリーパーも、今は人狼の足下に転がっている。
「ルシアン……平気ですの⁉」
 ルシアンの側に駆け寄ったリゼットが言った。
「銃はどこですの? 弾を込める程度の時間なら稼ぎますわ」
 ルシアンはいまだ息が定まらず、口で応える代わりに首を振った。
「なんですの⁉ なんで持ってないんですの⁉ おバカっ!」
「……げほっげほっ!」
 ルシアンはむせかえる、「武器を手放したのはリゼットもだろ」と、反論したかったができなかった。

「ゴルルルッル……ゴルルルルル……」
 人狼の身体を銀の弾丸が蝕みつづけているが、肉を喰らいたいという本能は揺るがない。
 同じくリゼットとルシアンも人狼から逃げる気も、人狼を逃す気もなかった。
 故にこの狩りは特別なのだ、お互いが獲物であり、お互いが狩人でもあった。
 決着はほぼ例外なくどちらかの死……もしくは両方が墓穴に入る事となるだろう。
 いまこの瞬間の形勢は人狼に傾いている。
 開幕の銃撃で手負いになったとはいえ致命傷にはならなかった、その時点でリゼット達の打つ手は一つ消えた。
 反面、人狼の攻撃はそのほぼ全てが必殺の一撃になりうる。

「……げほ……はぁはぁ……僕が……げほ……なんとか隙を作るから、拾って……」
 ルシアンはかろうじて声を取り戻すと、人狼の足下にあるグリムリーパーを指差しながら言った。
 現状、彼らに取れうる選択肢はそれしかない、リゼットも重々承知していたから「分かりましたわ」と頷いた。
 ルシアンはよろよろと立ち上がると……。
「人狼こっちだっ! この毛むくじゃら! 臭いなっ! ドブと同じ匂いがするっ!」
 精一杯の挑発を行う。
 人狼は人間が獣に変化したものだが、人型の時と同様に人語を理解できるわけではない。
 ルシアンもその事は理解しているが、どうしても自分に注意を向けたいという必死さがこの行為に表れている。
 加えてもう一つ、誘いをかける事で攻撃のタイミングを察知しておきたかったのだ。ルシアンが考えた次の一手はこうだ。
 足下にある粉々になったベッドの破片、そこに紛れたシーツを人狼の攻撃に合わせて引っ張りあげ、視界を奪う。その隙にリゼットは武器を拾い、あわよくばそのままトドメをさす。
 現状とりえる戦術としては悪くはなかったが、戦闘とはそう思い通りには行かないものだ。
 不運な事に人狼が移動した際に、大鎌の柄がコツンと彼のつま先に当たってしまった。
 その異物が|人狼狩りの刃(グリムリーパー)でなければ、例え武器であったとして、人狼は気にも止めなかったであろう。
 しかし、数多の同族の首を刎ね、人狼の血で磨かれた刃は、あまりに禍々しい存在感でもって彼を引き付けた。
 彼は左手でグリムリーパーを掴みあげると……窓目掛けて投げ捨てた。
「……あっ! ちょっとそれは……ダメですの!」
 
ガシャーーン!

「あーーーーーーっっ!」
 リゼットは悲鳴を上げながらグリムリーパーを追いかけるが、追いつく事などできる訳がない。大鎌は窓をぶち破り暗闇の奥に消えていった。
「ゴアアアアアアアアアァァァァア!」
「リゼっ……くそっ!」
 ルシアンの背中越しに立っていたリゼットだが、窓際に移動した事で人狼の攻撃を誘発してしまった。
 人狼の攻撃はルシアンの虚を突く形になったが、彼は俊敏な動きで足下のシーツを無理やり引き抜き、人狼の行く手を阻む為に広げた。

 バサァ。

 視界を遮られ目標を失った人狼の攻撃は空をきったが……。
「グロオオアアアアアアアアァアアアア!」
 シーツによって視界が奪われた人狼は酷く暴れ始めた。
 左腕で壁という壁を殴りつけ、肩口から垂れ下がった右腕も遠心力で振り回して暴れまわった。

 ドカンっ! バギャッッ! ゴガッゴガガガガガガッ!

「うわ、うわわ……!」
「ひえぇぇええええ~!」
 室内はもう無茶苦茶であった。小さなサイドテーブルも、備え付けの椅子もなぎ倒され破壊された。
「ちょっ! ルシアン、どうしますのコレっ⁉」
「どうしようも無っ……うわわわわわっああああ!」
 二人とも暴れまわる人狼を避けるのに精一杯だった。
 人狼の体力は人間の比ではない、このまま何時間も暴れまわる事もできる程だが、いずれ二人ともなぎ払われる。
 頼みのグリムリーパーも失ってほとんど詰みといった状態であった。

 ドガッ!

「げふううっ!」
 早くもルシアンが暴れまわる人狼に跳ね飛ばされ、うつ伏せに着地した。
 暴れまわられるよりは……と、人狼の顔を覆うシーツを剥ぎ取ろうと近づいた代償である。
「ルシアンっ!」
「……ゴホッ! ゴフォフォッ!」
 ルシアンは血の混じった咳をこぼした。地面がぐらぐらと揺れて視界も纏まらない。
 さらに都合の悪い事に、人狼の視界を奪っていたシーツは剥がれ落ち、視界がクリアになってしまった。
 動けなくなった所を狙われるのは危険だ、トドメとなるだろう。
「グウウウウルルルルル……ウウウウッッゥ!」
 人狼のこの唸りは興奮というより怒りだ。リゼットにしか興味を示さなかった人狼だが、ついにルシアンへと矛先を向けた。
 視界を奪った先ほどの行動で脅威としてみなされたのだろう、楽しい食事の最中にテーブルにすがり付きキャンキャン鳴いて邪魔をする犬。
 そんな煩い犬にはキツイ躾が必要だ、人狼はそのように感じたに違いない。
 ルシアンは次の一撃で命を奪われると直感していたが、彼の取る行動に迷いはなかった。

「……ゴホ……リゼットっ、今だ部屋から出ろっ! 早くっ! ゴホ、ゴフォ……」
 廊下にある猟銃、外に投げられたグリムリーパーどちらでも良い。人狼に対抗できる武器をもってきてほしい。
 いやそのまま遠くに逃げてくれても構わない、とにかくリゼットを危険から遠ざける事ができるなら何でもいい。
 その後の事はその時に考えればいい、ルシアンはそう思った。
「はやくお立ちなさい!」
 リゼットは人狼とルシアンの間に割って入ってそう言った。
 彼女がルシアンの思惑通りに動く事などありはしない。普段もそうだし、こんな時ですらそうだ。
「……リゼットっ! 逃げっ……ゴホホッ……」
 リゼットは人狼の注意がルシアンに移っている事に気がついているし、逃げろというルシアンの言葉が聞こえていなかった訳でもない。
 ルシアンと同じく彼女にも迷いなどない、ただそれだけだ。
「我が一族に、人狼に背を向けて逃げる腰抜けなどおりません」
「リゼッ……ト……」
 ルシアンは無理矢理に上体を起こし、リゼットの手首を掴んだ。今ここで意地を張ってどうなる? はやく逃げるんだ、その想いを伝える為に。 
 彼が掴んだ手首は震えていた。リゼットは恐怖している、当然だろう、目の間にいるのは人喰らう獣だ。
 ルシアンは猟師として生きてきた、深い森、野生の獣を相手にしてきた。どんなベテランでも一つの油断、一つの不運で命を失う危険な仕事だ。恐怖と共にある。
 だからこそ、彼の父親は恐怖を退ける術を教えてくれた。
 どんなに恐ろしくても恐怖を横において冷静になりなさい、そうルシアンに教えてくれた。そうする事で開ける道があると。
 言うのは簡単だ、横に置こうが、後ろに置こうが、恐ろしいものは恐ろしい。
 だが少なくとも、恐怖に立ち向かう足掛かりとはなる。その技をルシアンは知っている。
 しかし、リゼットはどうだ? つい最近までの彼女は普通の少女、ただの学生だったのだ、こんな目にあって、こんな狩りを行って怖くない訳がない。

「頼むから逃げて……キミを守るのが僕の役目だ……」
 ルシアンのその決意もリゼットを動かす事はない。
 リゼットは人狼の注意を自分に集めるように両の手を広げ、その金色の瞳で人狼を睨んでいた。
「……ワタクシが狩りの技を受け継ぐ前に、おばあさまは逝ってしまわれましたわ……」
 彼女はルシアンに振り向く事なく言った。
「……?」
 ルシアンはリゼットなぜいまそんな話をと……考えた。
 同時に彼は子供の頃から知っていた、リゼットのおばあさん、その優しい顔を思い出した。
 おばあさんは、今日のような満月の晩に、彼ら二人を庇い命を落としている。
 命を奪った敵は大きくて美しい……銀色の獣だった……。
「半人前にすらなっていないワタクシに残されたのはアナタと……この体に流れる一族の血だけですの……」
 ルシアンはリゼットの思惑をなんとなく感じとっていた、だからこそ力が抜けてガクガクと震える自分の両脚が許せなかった。自身の体重を支える事すらできない、不甲斐ない両脚を殴りつける。
「例えこの身が助かってもアナタを失えば結果は一緒……でもこうすれば刺し違える事はできましてよ。願うならば……おばあさまの仇を……ルシアン……アナタが討ってね……」
「……‼」
 させるものかっ! ルシアンは強くそう思った。
 僕らの命はおばあさんに救われたモノだ、二度とあんな悲しい思いをしたくはない。
 約束したんだ、おばあさんの仇は二人で討つと……一人じゃない! 二人でだっ! ルシアンはそう思っていた。
 人狼の歩みは止まらない。
 長い腕を伸ばせばリゼットに届く間合いに入っていたが、止まる事なく人狼はゆっくりと歩みを進めていた。
 獲物を追い詰めた……と、人狼は感じているのだ。あとは肉にありつくだけだ……人狼はゆっくりとゆっくりと近づく。
 リゼットの身体は震えているが、人狼を見据えるその眼差しは力強く光に満ちている。
 喉を食い破られ身体を引きちぎられても……オマエも生きては帰さない、そんな表情だ。

「さぁ……やってみなさい……卑しい人狼……」
 両脚を叩き続けるルシアン、失っていた感覚は徐々に戻りつつあった。
 もう少し、もう少しで立ち上がる事ができるかもしれない。でもどうする? 立ち上がった所でどうするんだ? うつ手などありはしない……何もできずに諦めるのか? できる訳がない、彼は諦めるなんて出来やしなかった。
 ルシアンは打開策を得る為に必死で思考を巡らせていた……。
「……くぅうぅ……!」
 だが、気ばかりが焦って考えは浮かばない、立ち上がるだけの力は戻ってきていたが、その先は何もない。
 床に散乱した破片などを投げつける程度が精々だった……だが、できる事はなんでもやる、彼はそう考えて視線を床に落とした。
「……あれは!」

 リゼットにゆっくりと迫っていた人狼は、彼女の目と鼻の先まで来ていた。頭上から見下ろす形で歩みを止めている。
 人狼は考えていた。
 目一杯に口を開けてかじりつこう……頭か、肩か……それとも首か? そのようにほんの一瞬だけ人狼は迷っていたが、すぐに考えるのを辞めた、本能のままに勢いまかせに、骨までしゃぶりつくすと決めた。
「グルルルルルゥゥゥゥ!」
 リゼットの頭上で開かれた口はとてもとても大きかった。
「リゼットごめんっ! 後で怒ってくれても良いっ!」
 突如、ルシアンが叫んだ。
「いたぁあああああああいっっ!」
 リゼットはもっと大きな声で叫んだ。

 その突然の悲鳴で人狼はひるみ後ずさった、同時にリゼットはルシアンに払いのけられ、床に転がされた。
 彼女の顔は苦痛で歪み、目に涙を浮かべている。ごろごろと地面で転がり小さなお尻を両手で押さえて悶えている。
 人狼は倒れこんだリゼットに覆いかぶさるべく身を翻がえすが、ルシアンが右腕を絡みついていた。

「ふぅん‼」
 ルシアンの鍛えられた両腕の筋肉が膨らみ、両脚は床を踏み抜くほどの勢いで地面を捉える。
 ぬかるみにはまった荷馬車をロープで引っ張り上げる要領で、無理矢理に人狼を引き止めた。
 人狼は痛めた右腕を強く刺激された事で、脳まで響く激痛が走る。

「ギャウウウウンッッ!」
 人狼の引き留めには成功した、だがそれだけ窮地を脱したとは言えない。
 振り払われればそれで終わる、リゼットよりも先に丸かじりされ、胃袋に収まるだけかもしれない。
 しかし、そうはさせない。ルシアンの右手には一本の注射器が握られていた。この戦いが始まった際にシリンダは空であったが、今は僅かとはいえ赤い液体が波打っていた。

「リゼットはやらない……代わりにコイツをくれてやるっ!」
 ルシアンが殴りつけるように放った針の一刺しは、人狼の肩口を捕らえ硬い皮膚を突き破った。
 勢いそのままプランジャーが押し込まれると、シリンダ内の液体が人狼に注入されていく。全ての液体が押し出されて空になっても勢いは止まらず、ガラス製の注射器は砕けた。
 ルシアンは勝ちを確信した様な表情でニヤリと笑ったが、人狼にとってそれは蜂の一刺しでしかなかった。

 バシィィイ!

「がはぁ!」
 ルシアンはすぐさま人狼の左腕で払い飛ばされた。

 バーン!

 と、大きな音を立ててルシアンは壁に叩きつけられる。度重なるダメージを耐えてきた彼だったが、遂に気を失ってしまった。
「ルシアン……!」
 床でゴロゴロと悶えていたリゼットが上体を起こすが、彼女には今の状況があまり理解できていなかった。
 お尻の辺りにものすごい痛みが走って……直後ルシアンに押し飛ばされ、その彼は人狼と揉みあった後に吹き飛ばされた……そこまでは見えていたが。
「……グルルルルル……」
 人狼は煩い犬が大人しくなった事を確認すると、再びリゼットに体を向けた。

 ギシ……ギシィ……。

 人狼の唸りと、床を軋ませ近づいてくる音が、リゼットに届いた。
 リゼットはルシアンの身を案じ、人狼に背を向けているから……音だけが聞こえていた。

 ギシィ……ギシィ……。

「フゥゥゥゥ……フゥゥゥゥ」
 人狼の足音が静まり、息遣いだけが残った時、覚悟を決めたリゼットは目を閉じる。
 誰しも自分が喰われる姿を見たくはないものだ……だから目を閉じた。
 ルシアンは気を失った……もしかしたら死んでいるのかもしれない。もう無理に強がる必要はないだろう。彼が見ているのなら、せめて気丈に振舞おうとしたが、今なら悲鳴の一つや二つ構わないだろう彼女はそう思っていた。
 ただ命乞いだけはすまい……それだけは心に決めていた。

「グオオオオオァアアアアアアアアッオオオ!」
 突如、人狼はこれまでで一番大きな咆哮をあげる。
 目を閉じていたリゼットもコレには驚き、たまらず両手で耳を塞ぐ。
 鼓膜が破れてしまいそうな程の雄叫び、いや、これは、雄叫びではなく……悲鳴。
 耳を塞ぎながら体を屈めるリゼット、その視界に割れた注射器の破片が入った。破片は赤く煌めいている……彼女は瞬時に状況を理解した。
「ルシアンっ……褒めて差し上げますわ……」
 人狼は上半身を激しく揺らし、それを支える下半身も震え、今にも膝から崩れ落ちそうになっている。
 苦しみ悶え、顔や喉を、身体中を掻き毟るので、自らの鋭い鉤爪によって皮膚を傷つけていく。
 リゼットは立ち上がり、人狼の苦しむ様を少しだけ見つめると、反撃の力は失っていると判断したが……それでも、ゆっくりと……ゆっくりと……油断なく近づいた。
 呼吸乱れ、もはや一定のリズムも保てず鼓動する人狼の心臓……リゼットはその脈を確認する様に手を添える。

「でも……詰めが甘くてよ……量が足りない? 射ち所が悪いのかしら? ほら、こんなに苦しそうに……」
「グアアアア……グロオオオオオオ……」
 人狼の全身がビクンビクンと激しく痙攣する。

「なんとかしてあげたい気持ちはありますのよ?……人狼さん。でもアレは……あなたがどこかにやってしまいました」
 リゼットはガラスが割れ、外気が流れ込む窓に視線を向けた。
「グオ……ゴ……ゴゴゴゴゴオオオオ……」
 やまぬ苦痛の声。
 人狼が大きくえづき、ゴボゴボと何かが逆流する音がする。
「……ゴオ……ゴ……ゴボゴボゴボ!」
 直後その大きな口から鮮血をぶちまけた。

 ビシャビシャビシャビシャ。

 リゼットはその大量の血液を頭から受けてしまう。彼女が頭に羽織るフードはより赤く……より赤く……血の色で染まっていく。
 人狼は体の内側が焼け爛れるような絶え間ない苦痛の中にあったが……ついに気づいてしまった。
 当初から感じていた同族の匂い、生まれて初めて嗅いだ己以外の人狼の香り。
 その匂いは絶対的な捕食者である己を、哀れみの目で見下す、か弱き獲物から発せられている。
 数えきれる程に幾層にも折り重なった断末魔の匂い……。
 気づいてしまった、そこに新たに重なるのは己自身の匂いであると。

「ああっ、かわいそうな人狼さん。やはり、なんとかしてあげないと……」
 返り血を意にも介さずリゼットは呟いた。
「グゥゥゥゥ……」
 ずっと一人で人狼の病を抱え生きてきた彼は知らなかった、彼女のような存在を。
 他人とは違う己の力に初めは戸惑ったが……隣人を殺めた時は震え、気に食わなかった友を八つ裂きにした時は興奮し、初めの恋人を喰らった時は絶頂した。
 呪われた人狼の力は、自分だけに与えられた神の祝福だと考えていた。
 なのになぜこんな事に……今日は特別な日になる……そんな気がしていたのに……人狼はそう感じていた。

「う~~ん」
 リゼットはキョロキョロと辺りを見回し物色すると、「パンッ」と両手を叩いて鳴らした。
「まぁ! アレなんかちょうど良いのではなくて!」
 彼女はパッと明るい表情をみせ、血を吸ったフードをヒラヒラとはためかせ歩く。

「……ん~……しょっと……けっこう重いんですのね、これ」
 リゼットがそう言いながら持ち上げたものは、手斧だった。ルシアンが攻撃の際に弾かれ手放していたものだ。
 彼女は片手で持ち上げようとしたものの、想像以上に重かったらしく、両手で持ち直した。
「でも、大丈夫ですの……少々てこずるかもしれませんが、やってみせますわ!」
 そう言いながら彼女は人狼に相対しなおした。
 少女は全身が血濡れとなり、真っ赤となっているが……美しくも怪しく……笑っていた。

「ウォオオオオオオオンッッッ!」
 人狼は逃げ出した。
 最後の力を振り絞って、自分の体よりもずいぶんと小さな窓枠を強引に潜り抜けて。
「あっ……おまちになってぇえ!」
 人狼は二階から飛び降りた衝撃を受け止めきれず、自重で足が折れ、内臓が潰されたが、そんな事はお構い無しに走り去っていった。
 その姿をリゼットは窓際から見送り、少しの間の後に言った。
「……あなたに個人的な恨みはありませんが、こうする事が我が一族の定め……」
 遮るものがなくなり部屋には外気が流れ込んでいた。戦いの最中は気づかぬ事であったが、その空気はずいぶんと冷たかった。
「出会ってしまった不運をお嘆きになってくださいな……くしゅんっ!」
 リゼットは薄着であった。フードで覆った箇所以外は、ほとんど下着といっても良い。
 それは趣味や酔狂によるものではなく、狩りの衣装。一族の伝統にもとづくものであった。
 己が肉体で人狼を惹きつけ、内に流れる血で人狼を焼くのだ。
 しかし、寒さには弱い。
 リゼットは二の腕をゴシゴシと擦って震えた。

「……う、う~~………あっ……リゼットっ! 人狼はっ⁉ ……ううう……いててて……」
 ルシアンは程なくして意識を取り戻した。彼はすぐに上体を起こすが、蓄積されたダメージが抜けてはいない。
「行ってしまいましたわ……お~さむいさむい……」
「えっ…? にがしちゃったの? それじゃまずいだろっ?……ごほごほ……」
「かまいませんの、勝負はついていますわ。獣にも死に場所を探す自由はありますでしょ?……そんな事よりも……この寒さをなんとかして欲しいですわ」
「……えっ……あ、うん」
 ルシアンはキョロキョロと辺りを見回した。
 ほとんどの家具が粉々で、床には大量の血が広がる。さらには巨体を引きずり傷ついた床、壁は凹み、大小様々な穴が開いている。室内はそれはもう無茶苦茶な状態であった。
 彼も流石にこの現状には驚いたが、特別な狩りをこの場所で行うと決めた時点で想像はしていた。
 自分とリゼットの死体が転がってないだけ随分とマシに思える。
 ルシアンは背中と……その他、特定ができない程に数多くの箇所が痛み軋んでいたが、立ち上がる。
 よろよろと歩き、床におちたシーツを拾い、付いた埃や人狼の毛を叩き落とし、リゼットに差し出した。

「ほら、フードを脱いで……コレを羽織りなよ」
 リゼットは素直に頷くと、フードに手を添えたが、ルシアンを上目遣いで見て言った。
「あっち向いてますのっ……はやく!」
 狩りの衣装とは言え、フードを脱いだ際のほぼ下着だけの恰好は流石に恥ずかしい様だ。
 ルシアンは慌ててそっぽを向いた。彼はその拍子に部屋の惨状を再認識する。
「お嬢様……どうする? こんなに滅茶苦茶だよ、誰かに見つかる前に逃げてしまおうか……」
 もぞもぞとフードを脱ぎながらリゼットは応える。
「おばかなルシアンね。逃げる必要なんてありませんわ。外は寒いし、野宿なんて嫌……宿代だって前払いでしょう?」
 脱いだフードがルシアンに手渡されると、彼の手に人狼の血がべっとりとまとわりついてくる。
 獲物の解体作業で、血など見慣れている彼も、人狼の血は流石に気味が悪いのか、顔が歪む。
(……洗って落ちるのかな……コレ……)
 洗濯はルシアンの仕事、いや炊事も雑用も全てを彼一人でこなしているが……わがままなお譲様に仕えながらの二人旅は、楽ではない。
 彼が過去に聞いた話では、元々のフードは純白、穢れを知らない乙女の色……だったらしい。
 にわかには信じられない話だが、本当なのだとしたら、フードを染め上げた染料はなんなのだろうか?
 気味が悪くなったのでルシアンはそれ以上考えるのをやめた。

「ルシアン、すぐにでもお風呂に入りたいから着替えも用意してね……」
 フードを脱ぎ、変わりにシーツを頭から被ったリゼットは、扉に向かってとてとてと歩きだした。
「うん、すぐに用意するけど……風呂とか宿代どころの話じゃなくなるよ、こんな部屋にしちゃったら……」
 リゼットは扉から顔を出して外の様子を伺いながら言った。
「ワタクシの家からくすねて渡したお金、まだありますでしょ?」
「……そんなには残ってないよ。修繕費に足りるかな……野宿は嫌かもしれないけど覚悟はしないと」
「そんなの嫌に決まってますわ……そうね、良い事を思いつきましたわ」
「え? 思いついたって……どうするつもり?」
 リゼットは扉から顔を引っ込めると、廊下側を指差して言った。
「ほら、お聞きなさいな、人が戻ってきていますわ。熊射ちの猟師でも連れてきたのでしょうけど……いまごろのんきなものですわね」
 ルシアンは破壊された窓に近寄って下を除く。外にはたいまつ片手に猟銃を背負った数人の男達が集まっていた。

「ホントだ……どうしよう……」
 ルシアンはリゼットの方に向き直り言った。
 リゼットは悪戯前の子供の様な表情で応える。
「こうしますの……すぅうぅぅぅ……」
 リゼットは大きく息を吸い込み叫んだ。
「きゃあああああああぅっっああああああ! 熊ーーー! 熊ですわぁーーー! 熊が部屋に入って暴れまわってますわああああああっっ! 部屋が無茶苦茶ですわぁああああ! 熊が無茶苦茶にしていますわぁぁぁぁ! 誰かたすけてぇぇぇぇえええ!」
 女の子はこんな大きな声が出せるんだと、ルシアンは驚きつつも耳を塞いだ。
 リゼットの悲鳴に釣られて、数人の男達がドカドカドカと階段を昇ってくる。
「熊っ! 熊はどこだべっ!」
 猟銃を構えた男達は慌てて部屋に駆け込んできた。
「大丈夫だべか? お嬢ちゃん?」
 男達は部屋の惨状を見て言った。
「うわ、なんだこの部屋はっ! 無茶苦茶だべ! 見るべものすごい血だっ!」
「熊かっ? これを熊がやったのかっ⁉ なんて凶暴な熊だ!」
「ひえぇぇぇえ! あんちゃん達は大丈夫か? 怪我はないか? 熊はどこにいったんだ?」
 男たち全員が大慌てである。

「うわ~~ん、ルシアンが銃で撃ったら血を流して窓から飛んで逃げましたの~~うわーーん!」
 ルシアンにしてみれば明らかに嘘だとわかるリゼットの言葉だが、慌てた大人達は真に受けていた。
「本当だべかっ⁉ コイツは驚いたっ! 少年、それで熊はどこに向かっていっただっ⁉」
 ルシアンは気絶していたから、その答えを知らない。
「……えっ、ごめんなさい。僕はその……」
「うえぇ~~ん! 森ですわ~森の方ですわ~~っっつつつ!」
「森かっ⁉ わかっただ! ほら行くぞ皆っ! 女将この二人はまかせただ!」
 男達はそういうとドカドカドカと部屋の外に駆け出していった。この宿の女将を一人残して。
 残った女将はいまだに嘘泣きを続けるリゼットに駆け寄ると、心配そうな口調で言った。
「ほんとにごめんなさい。お客様をこんな目にあわせてしまって。でも……無事でよかったわ」
 この騒動の主犯はリゼットとルシアンの二人である。
 他の場所を選ぶ事もできたかもしれないが、野外で戦うよりは室内、待ち伏せのできるこの部屋が望ましかった。
 ルシアンはその事がわかっているから、リゼットが熊……いや人狼に、すべての責任を擦り付ける様に画策し、それを信じつつある女将の姿をみると、罪悪感を覚えた。
 とはいえリゼットに歯向かう勇気が彼にある訳もなく……黙って従う事にした。

「うぇ~~ん……ひっくひっく……ワタクシ達、新婚なんですのよ~! それなのにあんまりですわ~!」
「……えっなにそれっ⁉」
 だんまりを決め込みながら、男達が森に向かう姿を窓際で見送っていたルシアン。しかし、リゼットのその発言は流石に捨て置けなかった。
「まぁ⁉ そうだったのね? 本当にごめんなさいね……幸せなハネムーンなのに……こんな目にあわせてしまうなんて~!」
「えっ、いや……ちょっとリゼット……?」
「ホントにホントにごめんなさいねっ!」
 女将は涙を浮かべリゼットに謝罪する。心の底からの同情の様に思える。
 女将のハネムーンはさぞ幸せな思い出だったのだろうか? だからこそ心の底から申し訳なく思って泣いている様に思われる。
 リゼットの話は大嘘だけど。

「わぁあああああん! どうしてくれますの~! ワタクシのハッピーハネム~~ンっっ! うわぁあああああ!」
「申し訳ありませんっ! お代は結構ですから~精一杯のおもてなしをしますから~!」
 そのセリフを女将から引き出した途端、リゼットはピタリ泣き止む。彼女は女将の両手をガッシリと掴んで言った。
「ほんとうですのっ⁉」
 本当にリゼットは怖い。違った意味でだけど人狼よりも怖いんじゃないかと思える時があるなと、ルシアンは思った。
 リゼットの目には大粒の涙がこぼれているが、おそらく演技の為に涙まで流したのだろう。
 不憫さを追求する為に戦化粧を涙でグシャグシャに崩す念の入れようだ。
 だから、より一層ルシアンは怖くなった。

「……女の子ってみんなこうなのかな……」
 そうであって欲しくないと、心の中から思うルシアン。
 彼が見上げた満月は赤く輝いている。

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