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帰り道

  
  
「あ~きょうもしんどかったなあ」
 夏実は23時を過ぎようとする車内時計に目をやり独り言ちながら、ヘッドライトに照らされた橋を渡った。下を流れる川は大きな河川ではないが、水量が多い。水辺にはヨシなど丈高い草が密集し、朝通る時など突出した石の上でよく亀が休んでいた。
 橋を過ぎしばらく行くと住宅密集地の路地に入っていく。街灯があるとはいえ、こんな時間でも犬の散歩をさせている人がいるので、運転に注意しなければならなかった。
 路地に入る手前の街灯下に黒っぽい人が立っていることに夏実は気付いた。
 スピードを緩め安全確認しながら進んでいくとヘッドライトに照らされて女性の顔がこちらを向いた。
 通り過ぎる一瞬のことではっきりそうとは言えないが、どうもお年寄りのようだ。黒っぽいワンピースに黒っぽいつば広帽子を被り、黒っぽいバッグを持っている。
 夜も遅いのに帽子? 昼間の恰好みたいやな――
 そう思った瞬間、夏実はふと十数年前に住んでいた家の近所で老女の迷子を保護したことを思い出した。
 ずっと同じ場所に座り込んでいたので声をかけたら家がわからないとのこと。110番に電話すると捜索願が出されていたらしく、パトカーがすぐ迎えに来てくれた。
 今の人も、もしかして迷子? 
 停車しようか迷いながらスピードを緩めたが、次の街灯の下に犬を連れたおばさんが立っていて、遠巻きに彼女の様子を窺っている。
 このおばさんも気になってんのやね。んー、後は任せてもうこのまま帰ろ。
 疲れも相まって面倒になり、夏実はスピードを戻した。
 サイドミラーには犬を引っ張って行くおばさんの後姿が映っていた。

 翌朝、眠りから目覚め頭がすっきりすると、夏実に後悔が押し寄せた。
 やっぱ車止めて訊いちゃったらよかった――それか帰って来てからでも警察に電話してもよかったんや。
 自分の機転の利かなさが情けない。
 そやけど――迷子やなかったかもしれへんしね。ま、思い悩んでもしゃあないか。
 振り払った後悔は朝仕度の忙しさで夏実の脳裏からそのまま消え去っていった。
 それでも通勤途中、橋の手前に来た時に思い出した。
 だが、何事もなく広がるいつもの朝の風景に安心し、ようやくもやもやを吹っ切ることができた。

 それから三日後の朝、夏実はいつものように路地を抜け橋の手前まで来た。土手の辺りが騒々しく、人だかりができている。
 パトカーも数台来て、ちょっとした渋滞になっていた。
 野次馬の中に顔見知りの主婦がいた。
 警官に誘導され一台一台と進んでいく間に急いで窓を開け、何があったのか彼女に訊ねた。
「川のあそこに女性の死体が引っかかってたんやって」
 興奮気味にそう言いながら、ヨシの群生を指さす。
 夏実の心臓がどきりっと痛んだ。
 まさか――
 詳しいことを訊こうとしたが、警官に進行を促され、それ以上訊くことができなかった。

 翌日の新聞で、やはり死体はあの夜見た老女だと夏実は確信した。身元不明のため、着用していた服装の特徴が記載されていたからだ。
 さらにその翌日の新聞には身元が判明したという記事が載っていた。
 老女は二駅離れた町の住人だった。少々認知症気味で、家族が注意していたものの勝手に外出したまま帰宅しないので、捜索願が出されていたという。
「まさか亡くなるやなんて――犬連れてたおばさん、結局声かけたげへんかったんや」
 あの時自分が対応しておけばと夏実は後悔したが、今さら考えても仕方ないことだった。

 しばらくして橋の辺りに幽霊が出るという噂が住宅地に広まった。
 黒っぽい服を着た幽霊だという。
 それを知った時、夏実の背筋に怖気が走った。
「絶対あのお婆さんや」
 真偽を確かめもせず、いや、ただの噂だとわかってはいたが、これからは橋を通らず迂回して帰ることに決めた。
 そやかてあの時目ぇ合うた気ぃするし――いや気ぃやない、確かにすがるような目でこっち見てた。助けてほしかったんや。けど見捨ててしもた――
 それは実際の記憶ではなく、脳内で勝手に補整されたものかも知れない。だが、考えれば考えるほど確実なもののように思え、彼女はきっとわたしを恨んでいると夏実は恐怖した。

 その後、事態は急転した。
 犬の散歩をしていたおばさんが老女殺しの犯人として逮捕されたのだ。
 ワイドショーの情報では、あの夜おばさんは不審な老女に声をかけたという。
 だが、犬が怖かったのか、暗闇で話しかけられたのが怖かったのか、老女は大きな叫び声を上げ始めた。
 近隣に聞き咎められては大変だと(なだ)めようとしたが、老女はますます大声を上げ土手を走って逃げ、それに反応した飼い犬が吠えながら追いかけた。
 犬に引っ張られ追いついたおばさんの精神はすでにパニック状態で、思わず河川側に向かって老女を突き飛ばしてしまったのだそうだ。
 バランスを崩した老女は簡単に暗い土手を転げ落ちていったという。
 殺意はなかった。だが、救助に行くことも通報することもしなかった。
 もしどちらかすぐにでも(おこな)っていれば最悪の事態にはならなかっただろうと、元刑事のコメンテーターが話していた。
 わたしのせい(、、)やなかった。
 夏実はほっと胸を撫で下ろした。あの時対応していたらとやはり後悔はあるものの、死の原因が自分の無責任ではなかったことの安堵感のほうが大きい。
 犯人も逮捕されたし、これで変な噂もだんだん消えていくやろね。

 次の日から帰り道を元に戻した夏実はヘッドライトに照らされた橋を少々緊張した面持ちで渡ろうとした。
「え?」
 橋の向こう側に人影が見えた。
 一瞬どきっとしたが、ただの通行人だろう。
 まさかまた迷子やないよね。
 冗談めかしながら安全に注意してゆっくり通り過ぎようとしたが、慌ててスピードを上げた。
 ライトに浮かんだ人の姿は黒っぽい服に黒っぽい帽子、手には黒っぽいバッグ。
 あの人や。
 夏実は直感し、目を逸らしたまま急いで通り過ぎた。
 路地に入る手前で無意識に止めていた息をやっと吐いた。
 だが、後部座席に気配を感じ、思わず振り向いた夏実の首筋に、「帰り道がわからんよぉぉぉ」と老女が(すが)りついてきた。

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