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第5話 疲れた顔



 列車を降りて伊藤と別れてから、山縣は帰宅しながら考えていた。冷静になり、ふと思う。

「そんなに俺は、疲れた顔をしているのか?」

 だとすれば、そんな姿は妻には見せたくない。年下の妻の前では、いつも、普通以上に大人でいたいと思ってしまう。もう三十六歳であるから、子供ではない。だが、心の中の全てが成熟しているかと問われると、山縣自身には否という回答が浮かぶ。

 玄関に入るとすぐに、友子が山縣を出迎えた。

「おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま」

 そこにある花のような笑顔を見たら、思わず山縣は手を伸ばしていた。そしてそっと、背の低い友子の柔らかな頬に指先で触れる。

「旦那様?」
「っ、あ、いや……」

 声をかけられ、我に返って山縣は赤面した。目を丸くしている妻が、あんまりにも愛くるしく思えた。すぐに山縣の手は離れたのだが、その場所に友子は己の指先で触れる。それから嬉しそうに目を細め、唇の両端を持ち上げた。

「有朋様が好き」
「……俺も、お前が好きだ」

 か細い声で、照れるように山縣が言う。二人の甘い空気に、そばにいた使用人達は視線を交わして、微笑ましいと感じていた。山縣は、そっと友子の手首に触れてから、もう一方の手を彼女の背中に回す。そして優しく抱きしめた。そのまま額に、触れるだけの口付けを落とす。その抱擁は、使用人の一人が咳払いをするまで続いた。

 既に昼食時であり、こちらも家で取る場合は時刻が決まっている。

 慌てて友子を腕から解放した山縣は、照れながら食卓へと向かった。友子は一歩後ろを着いてくる。あっさりとした里芋の煮物を見ながら、やはり家の方が落ち着くなと山縣は考えた。それは、友子がここにいてくれるからなのかもしれない。 

 その夜は、同じ布団で眠った。何をするわけでもなく、ただ添い寝をしているだけだったが、山縣は心が満たされるのを感じたし、それは友子も同様だった。



 それから――本格的に夏が訪れた。
 耳を劈く蝉時雨の中、この日も山縣は馬に乗って職場へと向かう。

 陸軍卿として執務室へと向かった山縣は、多くの報告書類に目を通し、片付けていく。西郷の後押しもあって制定した徴兵制度に纏わる仕事が多い。

 なお山縣は度々伊藤に誘われ、富貴楼へと顔を出すようになった。最近では、店に入ってすぐに、布団が敷いてある部屋に直行する事も増えた。富貴楼は山縣にとって、『休む仕事をする場所』となりつつある。

 伊藤はといえば、山縣との酒宴の場に人を呼ぶ事は無い。山縣と言葉を交わした後、別の部屋へと出向く事が多いようだったし、半分は芸妓と遊んでいるらしかった。詳細を聞こうとは、山縣は思わなかった。

 この店で仕事をするという伊藤とは反して、山縣は仕事から離れる場所として、富貴楼を選んだのである。

「山縣様、お疲れ様でございます」

 今日は最初から、伊藤とは違う部屋へと通された。伊藤は、井上馨のお座敷に行くと話していたのだが、『なぁに、ちょっと遊んでくるだけだよ』と伊藤が笑うので、山縣は挨拶に顔を出す事もせず、就寝のための布団がある部屋を求めた。

 本日先導してきたのはお倉で、伊藤と別れるまでは、てっきりあちらに着いていくのだろうと考えていたから、部屋に入りながら山縣は不思議な気分になる。

 本日のお倉は、黒い打掛を羽織っていて、後ろの髪が僅かに乱れているのが見えた。しかし、わざと垂らしているのだろうと分かる。何気なく視線で追いかけていた山縣は、それから台の物の上に乗る刺身を見た。食事をしてから、眠るのが常だ。そこには睡眠以外の意味合いは無い。

「井上様にお顔をお見せになったら宜しかったのに」
「職場で顔を合わせている」

 この、休むために存在する隔絶された『職場』においてまで、山縣は気を張り詰めさせたいとは思わなくなっていた。次第に、当初こそ警戒していたお倉に対しても、飄々としている女性として受け止めつつある。ただ人を見抜くような彼女の視線を思い起こす度に、山縣はやはり食えないなと考えてしまう。

「どうぞお酒を」
「ああ」

 箸を手にするより先に、酒盃を手にした。山縣は酒が好きな方では無かったが、飲めないわけではない。節度を持って飲むのは、健康のためだ。面白みのない私生活だと揶揄される事もあるが、勤勉に生きる事を山縣は好んでいる。

 トクトクと透明な酒が注がれ、朱塗りの酒盃に満ちていく。それを見てから、山縣は聞いた。

「お前も飲むか?」
「宜しいのですか?」
「たまには、な」

 そう話しかけたのは、それだけ顔を合わせる機会が増えて気安くなっていたからでもあるが、同時に聞いてみたい事があったからだ。お倉は、そばにあった空いている酒盃を手にすると、穏やかな仕草で手酌をする。こうして彼女が酒に口をつけた時、山縣がポツリと問いかけた。

「――俺は、そんなに疲れた顔をしているように見えるか?」
「正直に申し上げて」
「ああ」
「見えません」
「……そうか」

 気が抜けた思いだった。伊藤の戯言など杞憂だったのだと考える。形の良い唇の両端を持ち上げたお倉は、端正な指先で酒盃を動かしながら続ける。

「見えないのが、逆に不安にさせるのでしょうね」
「何?」
「『働きたくない!』『疲れた!』『もう休む!』」

 するとお倉がいきなり声を上げた。そして冗談めかして、子供のような顔で笑う。
 山縣は虚を突かれた。

「多くの御仁は、富貴楼の一夜で、酔が回れば、このくらいの事は申しますよ。多忙な日常を忘れたいとお口になさいます」

 それを聞いて、山縣はスッと目を細くした。

「俺は自分で決めた時間の区切りを正確に守っているから、適度に休んでいる。休めば疲れは取れる。そして働きたくないとは思わない。まだまだ不安定な政府を安定させるためには、俺は働かなければならない。国内外の情勢を考えても、陸軍とてまだ不安定だ」

 これは山縣の本心だった。
 現在の軍は、徴兵制度が始まった為、元は農民である者が多数を占めている。

 しかし彼らには、嘗て武士が藩主を精神的支柱に据えていたような、忠義心という部分が薄い。これは農民が悪いのではない。いきなり寄せ集められて間もない為、『何のために戦うのか』という点が弱いのである。薩長と、会津・庄内・奥羽列列藩の出自の間にも、溝がある。互を忌々しく思っているのは、間違いのない事実だった。

 そこに横たわる不安感。それらを明確に、新政府の輪郭に当てはめていくには、具体的に働いていくしかない。そうする事で、亡くなった先人や同志に報いる事が出来る。これが山縣の信念だった。

「体は休める事が出来ても、お心が休まっておられないのでは?」

 お倉の声に、山縣は小さく吐息した。思考が現実へと引き戻される。

「山縣様は、どうやって息抜きをなさっておいでなのですか?」
「そう言われると……」

 山縣にも好きなものは、ある。和歌や造園だ。筆を取り書を記すのも好きだった。墨の香りは落ち着く。槍は趣味とは少し異なる、あれは人生の根幹だ。

 しかしそれらは、理性的な行為ばかりだ。『遊び』は含まれていない。
 小倉の言う『息抜き』は、換言すれば、衝動の解放を意味するように、山縣には思えた。

「少しずつ、溜まった物を抜いていかなければ、いつか爆発してしまうかもしれません。伊藤様は、それをご心配なさっておいでなのだと思いますよ」

 余計なお世話だとは、山縣には言えなかった。


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