8 Caseエビータ⑧
退出するメイド長の背中を見た家令は、狂ったように手を動かす主人の肩を揺さぶった。
「ご主人様! マイケル様! お気を確かに持ってくださいませ! すぐにお医者様が来られます! 奥様のお体に傷がついてしまいますよ!」
最後の一言にマイケルの動きが止まった。
「だ……ダメだダメだダメだ! エビータは傷つけさせないぞ! 貴様か?貴様がエビータを……許さん! 絶対に許さん!」
マイケルは手も顔も、胸までも真っ赤に染めて家令に掴みかかった。
家令はマイケルの手首を掴んで止めようとするが、狂気の淵に沈んでいるマイケルの力には叶わない。
押し倒され、馬乗りになろうとするマイケルと揉み合っていたとき、ドアが開いた。
「きゃぁぁぁ!」
大きな声を上げたメイドがドアを開けたまま走り去る。
「待て!」
マイケルに抗いながらもメイドを止めようとする家令。
家令の顔も手も真っ赤に染まっていた。
それからすぐに衛兵が部屋に来た。
マイケルを引きはがし、立ち上がった家令に庭の状況を説明した。
家令は舌打ちをして座り込んでいるマイケルを見ながら言った。
「この部屋は締め切ってご主人様を部屋から出すな」
そして家令は庭に向かった。
信じられないほど全ての花が血を吸ったように真っ赤に咲いている。
まるで地獄の花園のようだと家令は思った。
呆然としている家令の意識を戻させたのは門が開く音だった。
主治医が到着したのだ。
昨日もやってきた警備隊員も一緒にいる。
「ちっ!」
家令は今日何度目かの舌打ちをした。
「すみません朝早くに。大変な事態が起こってしまいまして」
家令は主治医と警備隊員にエビータの状態を話しながら屋敷に入った。
「血? 血が溜まっていたと?」
医者が怪訝な顔をする。
「そうなんです。ご主人様がそれを拭きとろうとして血まみれになられて。ご主人を止めようとした私にもべっとりと……」
そう言ってマイケルは自分の胸を指示した。
それを見た主治医と警備隊員は、眉間に皺を寄せて顔を見合わせた。
「と……とにかく! とにかくご主人様のところへ!」
家令は二人の反応には触れず、先頭に立って二階に向かった。
「こちらです」
ドアの外に立っていた衛兵に開けさせて、三人は部屋に入る。
エビータの体にしがみつくようにして泣いているマイケルの他には誰もいない。
部屋にはマイケルの声だけが響いていた。
「どこです?」
警備隊員が怪訝な顔で家令に聞いた。
「どこって……」
家令は慌ててエビータの側に駆け寄った。
「えっ……なぜ……」
血の海どころか、真っ白に洗いあげられたシーツが無残に乱されただけのベッド。
家令は呆然とした。
先ほどまで真っ赤に染まっていたエビータの遺体は、マイケルにつけられたのであろう科爪痕のような傷が数か所あるが、その傷にさえ血は滲んでもいない。
「あっ……いや……これは……さっきは本当に……メイド長を……メイド長を呼びます! 彼女も見たんだ! 噓じゃない!」
家令は慌ててドアに駆け寄るが、足をもつらせて転んだ。
転んだままドアの外に這いずり出て、側にいた衛兵に言った。
「メイド長を! メイド長を呼べ!」
そう叫んだまま顔を伏せた家令を、警備隊員が立たせてやる。
ふらふらと立ち上がった家令は、主治医の胸倉を掴んで声を上げた。
「本当なんだ! 本当に真っ赤に……ああ、奥様……」
家令はボロボロと涙をこぼす。
されるがままになっていた医師はまったく別のことを考えていた。
厳しい顔で鼻を数度動かしたあと、家令の手を振り解いてベッドの横に立つ。
鞄から出したピンセットでシーツを捲って丹念に調べた。
マイケルに手を伸ばした警備隊員に向って言う。
「触らない方がいい。このまま泣かせておきましょう。彼は狂っている」
伸ばした手をひいて、警備隊員は顔を顰めた。
「何か見つかりましたか?」
「いいえ、何も。部屋の空気を入れ替えます」
そう言った医師は窓辺に立ち、窓の鍵を開けて風を呼び込んだ。
眼下に広がる真っ赤な花の海。
思わず上げそうになった声を飲み込んで、医師は振り向いた。
「衛兵に入って貰ってください。窓とドアは開けておきますが、マイケル様が衝動的に飛び降りないとも限らない」
「なぜ空気を入れ替えるのです?」
警備隊員が口にした当然の疑問に、医師は平然と答えた。
「濁った空気は人の狂気を呼び起こします」
部屋を出るときマイケルに一瞥を投げ、二人は家令を伴って歩き出した。
「ほう? やるじゃないか」
天井裏でサシュが呟いた。