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ヘリオトロープの花に寄す①(皇帝side)

 物心つく時から、|匂い紫《ヘリオトロープ》の花を身近に感じていた。母親が好きな花だったからだ。庭園にはそれ専用の花壇が設けられていたし、鉢植えにされたヘリオトロープが城内のあちこちに置かれていた。
 ヘリオトロープの、バニラに似た甘い香り。されど品のある甘さで、棘だった心を柔らかくしてくれる。女が身にまとう人工的な香水の香りは苦手だが、この香ならずっと香っていても苦にならない。
 この花は、派手ではないけれど安らぎを与え、気づけば心の奥底で密やかに住み着いているような。そんなしっとりとした魅力があった。何よりも、色合いが好みだった。花の色は白に近い薄紫から深い紫色と、グラデーション豊かな色彩をまとっていたけれど、中でも特に深い紫色が好きだった。それはまさに、ヘリオトロープ色と呼ばれる色で。ダークバイオレットみたいに厳かな近寄り難さはなく、親しみ易い感じがするのにどこか高貴な雰囲気をまとった、そんな優しくて神秘的な紫色が好きだった。


 俺たちの初めての出逢いを、彼女はきっと覚えていないだろう。その時の彼女はまだ幼くて、やっと四歳になるか? という頃だったし、何よりもその時の俺は『認識阻害』の魔法を使っていた。だから髪や瞳の色、顔の形は曖昧で鮮明に思い出せないようになっているのだ。皇太子が護衛もつけずに一人で出歩くなど外聞がよくない。いくら自暴自棄になっていたとしても、そこはしっかりと分別していた。

 けれども俺の方は、後から思えば一目惚れだったのだと思う。

 季節は春真っ盛りから初夏の間の黎明。その当時六歳だった俺は、何もかもが嫌になって城から飛び出して来たところだった。

 『どこでもいいから、広い場所で誰にも邪魔されずに癒される場所、葉が沢山茂った大きな木があるところが良い!』

 と、半ば投げやりに願って|瞬間移動《テレポート》の魔法を使った。当然、誰にも気配を悟られないように極秘で皇族のみに許される隠密魔法もセットで使用した。三秒ほど目を閉じた後に目を開、もし誰かが下から見上げても俺の姿は見えないようになっている。座って幹に背を預けても安定してゆったり出来るくらい、枝は快適な状態だった。

 この樹は何だろう? 葉の形、小さな青い実からして……恐らくマテバシイだと思われる。立ち上がって、周りの様子を見てみようと葉をかき分けた。広大な大地に咲き誇る色とりどりの花々。ダリアやスモークツリー、アスターやユリ、アイリスなどが各群生となって咲き乱れている。一見、自由気ままに咲いているように見えて、花々の特性と土の質を上手く利用した自然公園のようになっていた。マテバシイの他にも、シラカバやオークなどがバランスよく配置され、カメリアやミモザ等の花木ともよく調和が取れている。

 結界で防御の対策がしっかり取られているところからして、恐らく、どこかの貴族の領地内なのだろうと推測された。普通なら『不法侵入』となる訳だが……皇族のみに許される『隠密特権』を使っている、言わば権力の乱用な訳だ。したがって、不法侵入の警報は鳴らない。隠密……誰にも悟られない魔法なのだから気にする必要もないが、気分というかこれは個人の倫理観の問題だった。
 
 傍から見れば、皇太子として何不自由ない生活を送っているように見えるだろう。実際、衣食住や金銭等の物質面ではその通りだ。表向きは華やかで優雅なのだと思う。しかし、実際の生活は殺伐としており群雄割拠の魔巣窟となっていた。当時の俺にはそれがとても理不尽に思えたけれど、いつの時代もどこの国でも王宮に限らずどこの場所でも物事には光と影の部分がある。光が強ければ強いほど、それに比例するように影の部分は濃くなる、そういうものだ。

 しばし目を閉じ、頭を空っぽにして休息を図る。だが高ぶったメンタルはなかなか鎮静出来ない。脳裏に、これまでの好ましくない出来事が浮かんでは消えて行く。

 マナーや教養、知識などの勉学や芸術系、武術関連を学ぶのは苦ではないし、このまま行けば将来は「皇帝になる」という事にも抵抗は無かった。周りのお膳立てもあって順風満帆……そう表向きは見えるように上手く演出されていた……と思う。側近たちが揃いも揃って#やり手__・__#なのだ。

 我が国は、昔から皇帝と皇后、一夫一妻制と法で定めてられている。というのも、歴史の紐を解いてみれば……古来より側妃や愛妾やら、一夫多妻制やらで国が乱れた事が意外と多い。その中には、運命の番やら真実の愛やら、異世界から召喚された神子やら聖女やら……痴情の縺れも含んでいるのは言うまでもない。故に、一夫一妻制と定められたのだ。そうは言っても、元来堪え性がなく浮気癖のあるヤツというのは、裏で色々と#やらかす__・__#のがお決まりとなっている。それは、個人レベルならまだマシと言えよう。だが、それが国を治める立場のヤツがやらかしのは非常に拙い。

 この世で、最も権力を#手にしてはいけない__・__#タイプがある。それは『激しく倫理観の欠如したクズ』と『箸にも棒にも掛からぬ馬鹿』、大きく分けてその二つだ。

 俺の父親は、まさにこの二つのタイプに当て嵌まっていた。通常、この手のタイプは周りに持ち上げられるだけ持ち上げられ、あっさりと反逆されて落ちぶれたりするのが定番ではあるが、残念な事にこのクソクズ親父は人心掌握に長けていた。つまり側近たちをやる気にさせ、動かす事には優れていたのだ。だから、意外と長きに渡ってクソクズ親父が皇帝で居続ける事が出来た訳だ。

 それ故、父親の隠し子とやらが何人かいるのは想像に難くないだろう。だから、皇后である母親も毎日苛立ってい
たし、(クズ)皇帝の寵愛を受けて我が子を次期皇帝に! という欲にまみれた女どもが、よってたかって俺を亡きものにせんと策謀される日々を送っていた。非常に古典的な手口で苦笑せざるを得ないが、飲食物には毒見役の目を搔い潜って毒薬や媚薬が混入されるのは日常茶飯事だし。護衛の目をすり抜けて、寝室に紛れ込む女、睡眠中にベッドに忍び込む女や刺客、呪殺、闇討ち……例を挙げれば枚挙に暇がない。まぁ、古来から権力絡みではよくある話で珍しい話題でもないだろうが。

 母親はいつも不機嫌だった。理由は明確だ、|夫である皇帝《クソクズ親父》の女癖の悪さのせいだ。とは言っても、表向きには理想の皇后として国民に人気が高かったし公私をしっかりと分けている部分は見事だ。この部分は尊敬に値すると思う。

 ……そんな日々が積もりに積もって、ブチリと理性の糸が切れてしまったのだ。兎に角、一人になりたかったし何も考えたく無かった。

 未明、夜とも朝とも言い切れない微妙な時間帯は一番暗くて冷え込む。マテバシイの枝と幹はしっかりと支えてくれたし、生い茂る葉は俺という存在をしっかりと隠してくれた。きっと、朝日の強烈な光も葉たちが受け止め、柔らかな光にして届けてくれるだろう。時折、サヤサヤと風にそよぐ木の葉の音が心地よい眠りの世界への誘いとして響いた。「夜明け前が一番暗い」とは、確か古代英国の諺だったか……。

 どれくらい、時間が経っただろう? ふと、下の方で人の気配を感じ取った。いつの間にか、転寝をしてしまったらしい。幹にもたれていた上体を起こし、気配の主の様子を見ようと葉に両手を伸ばした。空は白み、薄っすらと黄金色がかっていた。その瞬間、朝日がサッとサスペンションライトのように走った。

 (シャンパン色のタンポポの綿毛?)

俺の身を隠しているマテバシイの根本に、タンポポの綿毛が群生しているのを発見した。ちょうど朝日が当たって、シャンパン色に輝いて見えたのだ。

 (え? 綿毛の群生が動く???)

一斉に綿毛が飛び立つのだろうか? こんな早朝に? 興味を持った俺は、それを間近で見ようと思ったのさが……

 (何? 人? 女の子?)

よく見れば、それはシャンパン色に輝くタンポポの綿毛……ではなく幼い女の子の髪の毛だった。

 (こんな早朝に、護衛もつけずに一人なのか? 危ないじゃないか! 乳母や侍女はどうした??)

影の護衛の気配も皆無だ、本当に一人なのだろうか? 違和感と危うさを感じて眉を顰めつつ、気配を消したまま下の枝へと飛び移って行く。もしこの幼女が家族から冷遇されているようなら、しかるべき処置をせねばなるまい。何処の令嬢だろうか?

 俺を隠してくれる葉が茂る枝がギリギリのところまで降りて葉の隙間から幼女を窺う。

(あ……)

 その時偶然にも幼女は顔を上げ、天を仰ぎ見た。そのあまりの可愛らしさに言葉を失った。取り分け惹き込まれたのは瞳だった。タンポポの綿毛みたいなフワフワの髪と同じ色のシャンパン色の睫毛は長く、零れそうな程大きな双眸を囲み蝶のように瞬いている。瞳の色は紫色だった。艶やかで高貴な、柔らかな紫色……俺の好きな|匂い紫《ヘリオトロープ》色に艶めいていた。

 (ヘリオトロープの……妖精?)

薄紫色のコートに身を包んでいた彼女。その時の俺には、本当にそう思えたのだ。

 

 それが、フォルティーネ・エマ・リビアングラスとの初めての出逢いだった。彼女の記憶には残っていないだろうけれど。

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