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夜鳴き箱(8) 完

 ウイルド自身が自分の口から出た言葉にわずかに驚いた。だがそうだ。ずっと母を探しに行くことを考えていたのだ。無事なのかどうかはまったくわからないが、ぐずぐずしているうちにだいぶ時間が経ってしまった。
 しかし自由というのはこんなにも心許ないことだったのか。身ひとつでもそう思うのだから幼な子を連れた母はどれほど不安だっただろう。
 シハルはウイルドの言葉に特に何も言わなかった。見るとまだできたとは言っていないのに勝手に粥をよそって食べている。静かすぎて気づかなかった。ウイルドは今度こそなくなる前にいただこうと自分の椀に粥をよそう。
「ところでヴァルダさんはどうなったんですか?」
 シハルはおだやかな動物のように黙って粥を咀嚼し、それを飲みこんでから口を開いた。
「ここに。勝手に部屋に入ってしまいましたが」
 長衣の胸元からあの小箱を取り出して見せる。
「いえ、割ってしまってすみませんでした」
「これと土があれば問題ないです」
 さらにシハルは荷袋から土人形の破片を入れた麻袋を見せてほほ笑む。いつの間に回収したのだろう。破片でまたあの気持ちの悪い土人形をつくるのだろうか。ウイルドは思わず顔をしかめる。どうして大きさや表情が変わったのだろうか。怖すぎる。
「ところでシハルさんはどうして男の人のような格好をしているんですか。やっぱり一人旅はいろいろと危険があるんでしょうか」
 ウイルドは男だが、体も細いし腕っぷしも強くない。母を探しに行くとは言ったものの一人旅は完全な初心者なので身構えてしまう。
「これは……着の身着のままというやつです」
 そう言って少ししぶい顔をする。
「私には双子の兄がいまして、神職につく優秀な人だったのですが、体を悪くしてしまって。以降私がずっと兄のふりをして神に仕えていたんです。ところがですね――」
 シハルは困ったように眉を寄せる。
「お恥ずかしい話なのですが、邪法に手を染めたあげく悪霊にとり憑かれてしまい、神に不適格者の烙印をおされ村にいられなくなりました」
 さらりとものすごいことを言いながら、前髪を指先で払い額の不思議な赤い紋様を見せてくれる。例の楕円の下が欠けているような形の紋様だ。
「それは?」
「不適格者の烙印です。洗っても消えません。神の御使いである青い神馬に蹴られた跡でしょうね」
 そんな深刻なことを言いながらまだ匙を動かして食べ続けている。いったいどれくらい食べるつもりなのか。ウイルドはぞっとする思いでシハルを見つめる。しかしシハルは急に椀から顔をあげると、「聞いてください」とか細い声をあげた。
「え、何ですか?」
「この烙印、ひどいんです」
 それは不適格者に印したものであるから、少なくとも素敵なことはないだろう。
「村にはこういうお札があるのです」
 シハルは匙で宙に楕円の上が欠けたような図を描く。
「神馬の馬蹄を表現したお札で幸福が上から入ってきてたまってゆくという意味の縁起のいい印なんですよ。でも私の額はどうなっていますか」
「入っていたものが全部下に落ちていきそうな印ですね」
 ウイルドは思ったままを口にした。シハルはうなだれてまた粥を食べはじめる。
「でも僕はその紋様の方が好きです。何かを捨てなければ新しいものは手に入りません。たまってゆけば重くなるばかりで身動きがとれなくなります。今まで薬屋としての場所があって食べ物も寝床もあって生きてこれました。そして待っていれば母が迎えに来ると無理やり信じていたんです。一人では生きていけないと思い込んであんな劣悪な環境ですら失いたくなかったんですよ」
 シハルは顔をあげてゆっくりとまばたきをする。
「自分の意志で抜け出すことができたわけではありませんが、何かを捨てて新しく手に入れに行くというのは悪いことではないと、今は思います」
 しばらくシハルは黙って粥を食べていたが、「心当たりがないこともないんです」と、ちらりとウイルドを見る。
「何の話ですか」
「ウイルドのお母さんのことです。ウイルドの薬の作り方は実は私の郷里の者たちに似ています。私の村は薬を作って行商に出ることで生計を立てている者が大多数です。ルーツは戦に敗れた騎馬民族が山に隠れ住んだことによると言い伝えられていて、ですから馬は神聖な動物なのですね」
 そこでシハルはそっと額をなでる。
「もともと『移動する』性質をそなえた民族なので行商は性に合うのでしょう。いつも誰かが旅に出ている。そして山村といえどもかなり大きな村なので村人全員がそろうのは祭事のときだけです。もしもウイルドのお母さんが私と同郷であるのなら祭事の日に村に行けば戻っている可能性はあります」
 母の故郷。
 考えたこともなかった。ウイルドはシハルの言葉をしっかりと胸に刻みつける。
「ただあの辺りの山村の者たちは同じように薬を作りますし、行商にも出ます。私と同郷とは言い切れませんが近いことは確かだと思います。村人に薬の作り方を教わっている人間も少なからずいるので、本当に小さな可能性ですがひとつずつたどっていけば何かわかるかもしれません」
 母を探すといってもなんの手がかりもなかったウイルドにはパッと道が開けたような気がした。
「すごい偶然ですね」
 店の前に行き倒れていた人が母と同郷かもしれない可能性はどれほどだろうかとウイルドは興奮気味だったがシハルは小さく首を振った。
「実は偶然ではないのです。街道から外れた辺鄙な場所に薬屋があって、どうもその薬が村のものに様子が似ている。それから街道を通る行商の薬屋が頻繁に姿を消す、そういう噂を聞いて気になったのでここに来たのです。あなたが思っている以上にあなたの調合した薬は評判になっていますよ。こんなことが無くてもいずれここに役人が来たでしょうね」
 シハルはやはり匙を持ったまま遠く店のあった方を見る。何を燃料にしているのかまだ火は消えず薄く明るむ空を焼いている。昔から火を見ているとぼんやりしてしまう。気づくとまた鍋が空になっていた。ウイルドはまだ一杯しか食べていない。
「おかわりを作りましょうか」
「もう結構です」
 言葉とは裏腹にシハルは空腹の子供のような顔で空の鍋をじっと見ている。遠慮しているのだろうか。
「まだ材料はありますよ?」
「あの炎はガクシュの町からも見えるでしょう。日が昇る前に逃げた方が賢明です」
 視線は鍋にはりつかせたままシハルは真面目な口調でそう言った。すでに空は明るくなり始めている。
 確かに役人が来て庭にある多くの遺体を発見したら生き残っているウイルドの立場はかなり危うい。店主たちはあの炎の中であり、ウイルドは唯一の証人だ。実際は何も知らないのだがそれを信じてもらうためにどれほどの時間が必要になるかと考えると気が遠くなる。
 シハルの言う通りのんびりと粥を食べている場合ではない。急に気が急いてきた。それなのにシハルが鍋を見つめているので片付けにくい。
「あの、では、逃げようと思うんですが、鍋を片付けてもいいでしょうか」
「どうぞ」
「いや、その、鍋から視線を外してください」
 ようやくシハルが鍋から目を離し、今度はじっとウイルドを見る。真正面から見られるとそれはそれでちょっとドキドキしてしまう。
「私の郷里はこの街道をずっと東に行ってぶつかった山の中です。ふもとにも町がありますから薬箱を背負った人にたずねてみれば話は早いでしょう」
 それだけをいうと、相変わらず身軽な様子で荷物を背負って立ち上がる。
「ウイルド、ありがとうございました」
「僕は何も……」
 せっせと鍋を片付け、焚き火の処理をしながら返事をする。
「これを好きだと言ってくれて少し救われました」
 シハルはまた指先で前髪をどけて赤い紋様を見せた。そして何か思いついたような様子で胸元から紙などを取り出す。
「お礼にひとつまじないをして差し上げましょう」
 ふわりと昨夜の香木のような香りが漂ってきた。見るとシハルは指先に何かをつけて紙の上にすべらせている。
 ウイルドが首を伸ばすと、シハルはそれを広げて見せてくれた。見たこともない金色の顔料でシハルの額と同じ紋様とウイルドが知らない文字がいくつか描かれている。
 シハルはそれを小さく折りたたんで、きれいな色の紐で複雑な模様を描くようにしばる。
「もうあなたの体を重くするものは何もありません。全部空っぽです。あとは新しいものを手に入れるのみです」
 シハルはその紙をウイルドの手のひらにのせてくれる。そういう仕事をしていたというのは嘘ではないのだろう。紐が白い紙の上にきれいに組まれて、まるで芸術品のように美しい。
「では」
 片づけの手がとまってしまっている間に、シハルはもう歩き出している。
「え、ちょっと、この鍋シハルさんのですよね。重いんですけど」
 あわてるウイルドに追い打ちをかけるようにガクシュの町の方から複数の人々が騒ぎながら街道をこちらにやってくる気配がする。
「え? ちょっと、え?」
 ウイルドは早くも一人旅というものに困難を感じ取っていた。

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