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夜鳴き箱(3)

「何をぼんやりしている。掃除しとけよ。明日の仕込みもな! 今日みてぇなことがあったら承知しねぇぞ」
 店主がほうきをウイルドに向かって投げつける。そのまま数人の従業員たちとガヤガヤ騒ぎながら店の奥に戻っていった。いつものことだがこれから酒盛りがはじまるのだ。この店の儲けのほとんどはこの酒盛りで消える。
 ほうきが当たった額をさすりながら、ウイルドはしょんぼりと掃除をはじめた。早く終わらせて眠らないと、連日薬箱に起こされて寝不足が常態化している。このままではいつか薬の調合をミスしてしまうだろう。
 掃除を終わらせて、戸締りをしてから、少なくなった薬の補充をする。
 軟膏類の下準備をしておいて、明日の仕事の後に続きをやろう。咳止めと、止瀉薬、下剤を少しずつ調合して、中身がわかりやすいように札をそえて木箱に詰める。
 区切りのいいところで作業を終え、ウイルドはぐっと伸びをした。調合の作業は嫌いではない。ついついやりこみすぎてしまう。作業をしている間は嫌なことも忘れられるのだ。
 しかし、いざ寝ようと思うとまた薬箱の音がするのだろうと一気に憂鬱になる。作業台の端に置いておいた夕飯の固いパンを食べ終えてしまうと、その憂鬱はのしかからんばかりになっていた。
「しかも、コレ」
 ウイルドはポケットからお守りの中に入っていた小箱を取り出す。出した途端に背筋がぞっと震えた。よくわからないが、なんか嫌な感じがする。もしかして土人形を割ってしまったことを怒っているのかもしれない。
 ウイルドは寝台しか置けないような粗末な自室に戻ったものの恐ろしくて眠ることができない。例の小箱は一応枕元に置いてある。枕元といっても枕は薬の材料を採取した後の屑を詰めたごわごわの麻袋である。
 シハルが「悪霊には悪霊」といったのは、この小箱の悪霊と薬箱の怪異がウイルドという獲物を取り合って争うということなのだろうか。
 全然助かる気がしない。
「お母さん……」
 四年経っても母は迎えに来なかった。そのことそのものよりもウイルド自身が徐々に母の顔を忘れていってしまうのがおそろしい。
 体はほっそりと華奢なのに大きな薬箱を背負ってもびくともしない人だった。ウイルドをなでてくれたやわらかな手の感触はまだ少し覚えている。とてもやさしい人だったけれど薬に関しては妥協がなかった。今思えば、ウイルドがもし一人になってしまっても生きていけるように厳しく躾てくれていたのだ。
「体が弱っている人が口に入れるものだから絶対に間違いがあってはダメよ」
 一度、ウイルドはふざけて菓子を薬に入れて母にぶたれたことがある。菓子はおいしいし、食べるものだから問題ないだろう。薬を飲んだ人がびっくりしたらおもしろいと思ったのだ。
「頼ってくる人を裏切るような真似は二度としないで」
 母の真剣なまなざしは記憶の中ですでに輪郭が曖昧になっている。だが、教えられたことは体に克明に刻まれていた。刻まれてはいたのだが――。
 今この状況を母が見たらどう思うだろうか。チンピラの手下のように働かされて、本当に困っている人は高額過ぎて薬をあがなうことができない。商売であるから原材料のお代と手間賃をいただくのは当然としても、この店はあまりにも高すぎる。それでも多少裕福な客が買っていくのはこのあたりにきちんとした薬屋がないからだ。いつ来るのかわからない行商人を頼るよりも、店を訪れれば急を要するときでもすぐに買えるというわけだ。まさに客の足元を見た商売である。
 今日も薬の値段を聞くなり唖然として引き返す客を数人見た。店主がたまたまいなかったときに話を聞いた人は家族の容体がかなり悪いと言っていた。もう助かることはないだろうと思われたが、その客はせめて痛みをやわらげてあげたい。そういう薬がここならあると聞いてきたと店先で涙ながらに訴えた。
 あまりに高額で売れなかったため今は店先に置いていないが、調合はできる。時間をもらえれば町で材料をすぐに調達できるし、金銭的な問題があるのなら詳しく話を聞き予算内でベストの方法を模索する自信はある。しかしウイルドが今言える言葉はこれしかない。
「お力になれず申し訳ありません。他を当たってください」
 その方がこの人のためだ。見た感じ多少は裕福そうではあったが、この店にかかわると店主らに金ずるだと思われてどこまでもたかられる可能性がある。長期的に必要になる薬は特にそうだ。なんだかんだと理由をつけて値上げされ借財させるまでにしぼり取る。ある意味、病人を人質にとられた状態だ。
 とてもやさしそうな人であった。おそらく病気になった家族のためにぎりぎりまで金を工面しようとするだろう。店主がいないときで本当によかった。
 ウイルドがこの店に来たのは十かそこらの歳だ。母は薬を調合して売りながら旅をする行商人で、ウイルドも物心ついた頃から母を手伝っていた。
 それがなぜこの店に置き去りにされているのか記憶は曖昧だ。確か母は何ごとかを店主と話した後で「必ず戻るから待っていて」とウイルドに告げ一人どこかへ行ってしまったのだ。ウイルドはその日の夜にでも母は戻るだろうとおとなしく待っていたが、そのまま四年が過ぎた。
 店主に聞いても「薬の手配を頼んだ」としか答えない。何を頼んだのか聞いても忘れたとのらりくらりとかわされる。さらに「ここで待っていないと永遠に会えなくなるぞ」と脅された。
 入手が困難な薬もあるにはある。だが四年以上かかる可能性があると知っていてウイルドを置いて行くだろうか。
 いつどの時点でそう思い始めたのか忘れてしまったが、今ウイルドは母は戻ってこないと思っている。捨てられたとは思わない。そんな人ではなかった。きっと何かあったに違いない。
 探しに行くべきなのだ。本当は。
 ウイルドはそっと寝返りをうつ。あの小箱に背を向けたくないが、腕のしびれが限界だ。だがすぐに背中に禍々しい気配を感じて元に戻る。箱だけになっても気持ち悪い。
 その時だった。
 ――ぎぃいいい
 薬箱の戸が開く音がした。
 窓の木戸の向こうは庭である。間違いなく庭の方から音がする。
 ――ぎぃいいい
 ――ぎぃいいい
 さらにいくつもの扉が開いてゆく。
 ウイルドはあわてて薄い毛布に頭までくるまった。それでも音は近づいてくる。庭の奥からウイルドのいる窓の近くにまで迫ってくる。
 ――ぎぃいいい
 ――ぎぃいいい
 日のあるうちに庭を見たときは薬箱など置いていなかったし、真夜中過ぎまで酒盛りをしている従業員たちもそんな話は一切していなかった。まさかウイルドだけに聞こえるのだろうか。もしかしてシハルのいう通り心の病なのかもしれない。
 ――ぎぃいいい
 昨夜よりも近い。
「――け」
 ああ、とウイルドは毛布の中でうめいた。やはり聞こえる。
 声だ。
「――い、け」
 庭から声までする話はシハルにはしなかった。
 毛布から少し顔を出して、お守りの小箱を見る。当然のことながら特に変化はない。
 もうどうでもよい。このまま黙っていれば朝までには声も音も消える。時間が経つのを待つしかない。
 ――ぎぃいいい
「出ていけ」
 木戸のすぐそこだ。かろうじて声をあげずに済んだが、もう限界に近かった。叫び声をあげたらここにウイルドがいることが庭にいる何者かに気づかれてしまう。そうなったときに何が起こるのか。想像するだけでも恐ろしい。
 カリッ――
 木戸をひっかくような音がする。
 カリッ、カリ――
 とうとうウイルドは叫び声をあげて、寝台から転げ落ちた。恐怖で体が自分のものではないように震え続ける。もうチンピラのような連中でもかまわない、助けを求めようと、ウイルドが床を這っていた時だった。
「なんだ。やっぱり庭にいっぱい薬箱があるじゃないですか。薬箱があってそれが開けば音がするに決まってますよ。これはウイルドにかつがれましたね」
 木戸の向こうでシハルがくすくすと笑っている。

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