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第二話 ボードゲーム

 エリッツは空腹と疲れと睡魔のため何が何だかわからないうちに食事をさせてもらっていたようで、気がつくとすっかり騒がしくなった夜の食堂の片隅で眠りこけていた。目を覚ますことができたのは、方々で粗野な男たちの怒鳴り声のような会話、笑い声、食器が割れる音、何か言い争いでもしているのか激しくテーブルを叩く音などの騒音のためだ。
 端的に言えばあまり上品な店ではない。見渡せば周りは肉体労働を生業としているような体つきの男たちばかりであり、軍人たちも多い。この食堂は簡単な遊戯場も兼ねているようでボードゲームやカードゲームに興じながら酒を飲む男たちもいた。
 金でも賭けていたのだろう。隣席でカードゲームをしていた男たちから突然あがった「ふざけるな!」という怒鳴り声に、起きたばかりのエリッツは身をすくませた。つづけて「うるせぇ」という怒号とテーブルをたたく音、いくつかのグラスや皿が床に落ちて割れる音、そのすべてにエリッツは律義に体をびくりと震わせる。
 なぜ自分はこんなところで寝ていて無事だったのだろう、ようやくエリッツはこの状況に対して疑問を抱くに至った。あのシェイルと呼ばれていた黒髪の男に置き去りにされたに違いない。
 いや、食事を与えてくれただけでも親切なのに眠ってしまったエリッツを律義に待っているなんてお人好しがいると考える自分がどうかしている。最後までひとりで行動するつもりだったのに、ここにきてエリッツはあまりの心細さに泣きたくなった。実際ちょっと泣いた。
 大好きな兄に会いたい。
 それだけを支えにここまで来たが、もうおとなしく家に帰った方がいいのかもしれない。だが帰ったところでまともな居場所はない。
「起きたんですね。どうかしたんですか」
 いつの間に戻ってきたのか、目の前で漆黒の瞳がこちらをのぞきこんでいた。
「どこへ行ってたんですか」
 食べて寝て起きて泣いているとか、赤ん坊じゃないか、エリッツは慌てて袖で目元をぬぐうと、「いえ、なんでもないです」と視線をそらした。
 まさかこんなお人好しが実在するとは。いや、もしかしたら街の外に放り出すまでやり通すつもりなのかもしれない。悪い人ではなさそうだし、何とかして助けてもらえないだろうか。
 視界の端で軍人らしき男二人がエリッツにも馴染みのあるボードゲームをやっているのが見える。エリッツはひとつ突破口を見出した気がした。
「ゲームで勝ったらしばらく泊めてくれませんか」
 唐突な提案にシェイルは一瞬だけ虚を衝かれた顔をする。
 それよりも周りがどよめいたことにエリッツは戸惑った。ゆっくりと周りを見渡すと、露骨にこちらを見ている者は一人もいないのに、男たちの意識がこちらに集まってくるように感じる。
「何のゲームですか」
「ダウレ」
 エリッツは先ほどの軍人たちがやってきたとてもシンプルなボードゲームを指定しただけだったが、今度は明らかに周囲がどよめいていた。何人かの男たちがこちらにチラリと視線を寄越してはすぐに目をそらす。連れ合いの肩をつつきこちらを指さしたり、先ほどまであんな大声で騒いでいたくせに互いに耳打ちなどをしている。
「わたしが勝ったら何をしてくれるんですか」
「何も持ってないので……何でもします」
 これまでほとんど表情を変えなかったシェイルが、このときわずかに口角をあげた。笑ったのだろうか。
「お留守番はできますか」
 何かの冗談だろうか。シェイルはじっとエリッツを見つめている。その目にはふざけている色合いはない。
「何でもすると言いましたよ」
 ほとんど何もできないけどと、エリッツは心の中でつぶやく。人の役に立つような能力は持ち合わせていない。
「わかりました。勝負しましょう」
 何も言っていないのに、やたらと筋肉質な店員がボードをエリッツたちのテーブルに置いた。やはり気のせいではなく店中の注目を浴びているようだった。
 ダウレは金属でできた棒状の駒を格子状に四角く区切られた盤上で取り合うゲームだ。双方それぞれ一本の金色の棒と二十九本の銀色の棒を盤上に配置し、金色の棒を取られた時点で負けである。シンプルなだけに戦術の良し悪しが問われる奥深いゲームだ。それに様々な縛りを加えた地方ルールなども多く存在するため初めて対戦する場合はまずはルールのすり合わせから始めなければならない。
 二人は一番広く認知されている何の縛りもないルールで勝負することを確認した。いよいよはじめようとすると店員はその腸詰のように太い指でシェイルの駒を素早く八本抜いた。シェイルはそれをチラと見ただけだった。
「これくらい駒を落とさないと観客が退屈する」
 周囲の男たちはすでに無遠慮に身を乗り出してこちらを見ていた。何人かはさっそく賭けを始めるつもりらしく小さく折った札やコインが行き来し、賭博でつかわれる木札が配られている。
「彼は今晩泊まるところがないんですよ」
 シェイルはそう言ってもう二本駒を店員に渡した。合計十本の駒落ち。また周囲でざわめきが起こり、金と木札がさらに激しく行き来する。
 エリッツは正直これで負ける気がしなかった。というか、いきなり力量のわからない者同士の対戦で十本も落とすことはあり得ない。持ち駒は全部で三〇本しかないのだ。
 兄とはよくダウレをやったが、駒落ちなどなしに十回に一回くらいは勝利していた。兄はよそでは負けなしの猛者である。
 要するに泊めてくれるつもりだということだなと、エリッツは高をくくっていた。自分の得意なゲームでここまで見くびられることに多少の悔しさがないでもなかったが。
 ぼんやりと考え事をしていたエリッツに「どうぞ」とシェイルは手のひらをさしだした。
 先手まで譲ってもらい、とりあえず定石通りに駒を進める。はじめからそれが分かっていたかのようにシェイルは素早くかつ定石とは違った動きを見せた。
 駒を進めた手は大きな手だ。この人の手だけは兄に似ている。エリッツはほんの一瞬その手にみとれた。
 しかしゲームが進むうちにそんな余裕はなくなっていった。悪くない流れだと思っていた瞬間に駒を取られる。偶然だと思ったところでまた取られる。
 強い。
 盤上を見渡せばシェイルのどの駒も隙なく配置されている。何手先を読んでいるのか。駒数は断然優勢を保っているのに、早くもエリッツは一歩動くのも恐ろしくなっていた。動きを読もうにももっと先を読まれているに違いないという感覚にからめとられる。
 エリッツは一度目を閉じて深呼吸すると、盤上を見渡し感覚だけで駒を進めた。
 周囲から大仰なため息が漏れる。確かにこれは悪手かもしれない。
 しかしエリッツの意図を図りかねたのか、これまでまったくよどみなく動き続けたシェイルの手が止まった。それは結構な長考になった。表情からは何も読み取れない。
 しかし結果からいえばそれは大した事件でもなかった。エリッツが投了を告げ、賭けの結果による怒号が渦巻いている。十本の駒落ちはまさに妥当なものだったと言わざるを得ない。
 ゲームを初手からさらうと、例の「悪手」で若干乱されたようではあったもののおおむね順当にシェイルの策中にはまっていたことがよくわかる。負けたというのに清々しく感じるほどの見事な手筋だ。この手筋を学べば五回に一回は兄に勝てるくらい腕があがるかもしれない。兄に会ってまた一緒にゲームの相手をしたい。そのときエリッツが強くなっていればきっとエリッツをずっとそばに置いてくれる。なにせ強い相手とゲームをするのが大好きな人だ。
「これ、教えてください」
 駒を片づけていたシェイルは聞こえなかったのか首をかしげてエリッツを見た。
「弟子にしてください」
 その瞬間、もとのように騒音を発生しはじめていた男たちがしんと静まり返った。
 先ほどはエリッツが分不相応な勝負をふっかけたからだと理解したが、また何かとんでもないことを言ってしまったのかと、辺りを見渡すが誰も何も言ってはくれない。エリッツと目が合いそうになると屈強な男たちは面倒くさそうにふいと目をそらすのだ。
 当の本人は駒をすべて小箱におさめると、なんでもないことのように「いいですよ」と言いながら席を立つ。なぜかわからないが心なしか表情がやわらかい。
 紙幣をテーブルに置くと、ぼんやりとしているエリッツに「何をしてるんですか、帰りますよ」と言いさっさと店を出て行こうとする。
「え、泊めてくれるんですか」
「うちのお留守番をしてくれるんでしょう」
「それ、本気だったんですか」
 エリッツは慌ててシェイルの後を追った。
 留守番がどれほどの重労働か知らないが、この街で居場所ができればゆっくりと兄を探すことができる。エリッツにとっても悪い話ではなかった。

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