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悪い冗談

 有紗の時に後輩を指導したことはある。
 だが、看護師として勉強をしてきた者を教えるのと、小さい子供を指導するのは違う。
 勉強が出来ても、教えることが上手かどうかもわからない。
 でも期待した目で見つめられ、一度泣いた彼女を見た後では、無下に断ることも出来ない。

「そんなことが…迂闊だった」

 ドロシーのことを伝えると、エルネストは見るからに落ち込んだ。

「そうだな。私も十代で父と母を相次いで亡くして寂しい思いをした。それでも兄がいたし…でもあの子はまだ八歳だ。頭ではわかっていたのに…」
「閣下も侯爵位を継いで、色々と大変だった筈です。無理もありません」
「しかし、彼女らがそんなことを…人を見る目には自信があったが、それも曇っていたようだ。実は人選は義姉の実家である、ドロシーの祖母、ディレニー伯爵夫人に任せてあった。私は経歴と彼女の推薦状を信用していた」
「そうだったのですね」
「しかも私があの子のことを邪魔者などと…あの子がいてくれたことで、私がどれほど救われたか…それも伝わっていなかったのだな」
「今度、お二人でゆっくりお茶でも飲まれては? 必要なのはお互いの気持ちをちゃんと伝え合うことです。私が言うことではありませんが」

 それをしなかったからこそ、今があるのだった。
 ジルフリードとそう出来たなら、ブリジッタの人生はもう少し違ったものになっていたただろうか。アリッサはそう思った。

「ありがとう。君のお陰だ。君は私達の救世主だ」

 整った顔立ちのエルネストに、まっすぐに見つめられ、そのような言葉をかけらて、アリッサは心臓がどきりと鳴った。

「それは大げさです。でもお役に立てて良かったです」

 慌てて平静を装った。

「それで、ドロシーは君でいいと言ったのだな」
「お疑いなら…」 
「いや、疑ってはいない」

 座っていた椅子の背に背中を預けた侯爵の顔に、安堵の笑みが広がる。

「では、早速工事の手配をしよう。一ヶ月もかからないだろう」
「え、そんな急にですか?」
「まだ何か条件が? あ、そうだ君への報酬だが、待っている間に契約書を書いた。目を通してこれで良ければサインしてくれ。名前はアリッサで書いてくれていい」

 そう言って紙を目の前に差し出された。
 無駄になるかも知れないのに、契約書を作成していたことに、アリッサは驚く。
 しかしもう出した条件はクリアしてしまった。彼女に拒む理由がなくなってしまった。

「拝見します」

 それを両手で受け取り、立ったままさっと目を通した。
 こういった書類は苦手だ。
 最初はこの契約書がアリッサ・リンドーとエルネスト・カスティリーニとのドロシー・カスティリーニの教育指導のためにする契約であることを謳っている。
 そして契約期間、雇用条件などが続く。

「あの…侯爵様」
「エルネストだ」
「エルネスト様、この契約期間がドロシー様の成人までと言うのは?」
「教育指導なら、当然社交界デビューの十六歳までに決まっている」
「でも、一時のことだと…」

 八歳のドロシーが十六歳になるまで、まだ八年ある。マージョリー様との契約は一応ニ年。アリッサはてっきりこれもその間のことだと思いこんでいた。

「誰がそのようなことを言った?」
「いえ、その…お兄様の喪に服すのは一年です。それが明ければ侯爵…エルネスト様も結婚されますよね」
「まだ何も決まっていないことだ」
「でも、いずれは…まさか独自主義というわけでは…」
「カスティリーニ侯爵を名乗るからにはいずれはしなくてはならないだろう」

 自分の結婚をまるで取引のように言うのだのなと、アリッサは思った。
「したい」のではなく「しなくてはならないこと」だと思っているようだ。
 お相手が気の毒になる。貴族同士の結婚は利害の一致で決まることもある。しかし花嫁はそれなりに夢を抱いている筈だ。
 まして爵位や財産がなくても、エルネストは十分魅力的だ。
 結婚に夢を抱けなくなったアリッサでなければ、さっきの彼の提案を真に受けるところだ。

「せめて、契約期間は侯爵がご結婚されるまでにしてください」
「私の結婚とドロシーの教育指導とは別だ」
「そうかも知れませんが、お相手のことを考えれば、私のような者が侯爵家に出入りしているのは不愉快に思われるでしょう」
「『私の…ような者』とは?」
「私は準男爵の『ブリジッタ・ヴェスタ』ではなく、平民の『アリッサ・リンドー』です。そんな私がご令嬢の教育係などと幅をきかせていては、お相手は面白くありません」
「そのようなことで目くじらを立てる相手なら、こちらから願い下げだ」
「そんなことを仰っていては、見つかるものも見つかりませんよ。とにかく、この契約期間は、せめて閣下…エルネスト様のお相手が見つかるまでにしてください」
「ならいっそ、君では?」
「何がですか?」
「君と私が結婚するのはどうだ?」

 その発言にアリッサはぎょっとした。

「それこそ悪い冗談です」
「私との結婚が悪い冗談だと?」
「当たり前です。そのようなこと、人前で決して仰らないでください。ベルトラン卿たちやドロシー様の前でもです」
「悪い冗談か…傷つくな。そんなに嫌か?」
「そうではありません。私が侯爵様と結婚ということがです。たとえブリジッタだとしても、身分が釣り合いません」
「伯爵とは結婚できても、私とは無理か」

 思い切りさっきのように落ち込まれても、今度は慰める気にもなれなかった。

 

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