君が誰であろうとも
「このまま結婚することに何の疑問もないのか?」
しかし、つい気になって聞いてみた。感情が欠落しているとは言え、彼にも考える頭がある。
「言っている意味がわからない。私と彼女はいずれ結婚する。それは生まれたときから決まっていた」
「だが、彼女が嫌だと言ったら?」
「有り得ない」
「なぜ?」
「私と彼女は結婚する。そう決まっているからだ」
「………だが、君の母上は気に入らないようだと聞いている」
それは秘密でもなんでもない。なぜならジルフリードの母親が、友人たちに常日頃もらしていることだったから。
「結婚は個人の意志で決められないこともある。君のお母上が…」
「お祖父様が決めた。私と彼女、ブリジッタは夫婦になる。母上は関係ない」
まるで取り付く暇がない。
しかし、何があっても結婚すると決めている意志は伝わった。
彼とはそれ以上のことは話さなかった。
一ヶ月滞在し、ひと通り調査を終えた。
いくつか備品の横流しなどや帳簿の誤魔化しはあったが、大きな不正は見つからなかった。
だが、風紀を乱す事案は多く、下級騎士の何人かは厳しい処分を受けるだろう。
ブリジッタ・ヴェスタを見かけたのは、エデルソン伯爵の夜会だった。
そこに彼は変装して給仕として参加していた。
眼鏡をかけて、髪を黒く染めてぴしりと後ろに撫で付ける。
伯爵は最近羽振りが良くなっていて、その原因を探るのが今回の任務だ。
高級ワインに贅を尽くした料理。客を接待する伯爵夫人の装いも、大きいアクセサリーが目を引く。
(これは税を誤魔化しているか、隠している収入があるはずだ)
財産が増えるとそれを狙って強盗も増える。それに対抗しようと腕の立つものを集めて見張らせたりする。そうすると、私兵を増やすことになり、反逆の意思ありとみなされる。
それがわかっていて、ここまでするとなると、伯爵は愚かだ。
ふと、入口の方に視線を向けると、ジルフリード・ルクウェルがやって来るのが見えた。
休暇かなにかで王都へ戻ってきているのだろう。
彼は母親だと一目でわかる、彼に似た女性と、若い女性を連れていた。
(あれがブリジッタ嬢か? 思ったより若いな)
ブルネットの髪に愛らしい顔、ジルフリードの母親と三人で仲良く歩いてくる。
簡単に変装はしているが、じっくり見られるとバレてしまうかも知れないので、エルネストは距離を取った。
しかしそこで、耳にした言葉に驚いた。
「あら、ルクウェル家の…珍しいわね。国境警備から戻られたのかしら。お隣の若い女性はどなたでしょう。ヴェスタ家の方ではないわね」
「あ、でも噂をすれば、ブリジッタ嬢よ」
ささやき声につられ、そちらを向くとブロンズ色の髪の女性が表情を固くしてルクウェルと向き合っていた。
「どうして他のご令嬢をエスコートされているのかしら」
「でももともとお二人の婚約って、かなり格差があって、ルクウェル伯爵夫人はお気に召していらっしゃらなかったものね」
しかしだからと言って、婚約者の自分を差し置いて他の令嬢をエスコートするのは違うだろうと、エルネストは思った。
ブリジッタ嬢は顔面蒼白になりながらも、必死に周りの憐憫や嘲笑に耐えていた。
金切り声を上げたり取り乱したり、泣いたりせず、ただただ耐えていた。
その姿がなぜか心に残った。
しかしその夜会で、彼女はルクウェルではない他の男とのふしだらな行為を、ルクウェル伯爵夫人に見咎められ、ふしだらな令嬢という汚名を着せられた。
そして婚約破棄の末に修道院へと向かう途中、転落事故で命を落としたと聞いた。
ふしだらな令嬢と言われ、婚約破棄され、修道院に向かう途中で儚く命を落とした。
どんなに無念だったろう。
二度と彼女を見ることが出来ない。悲嘆の中、命を落とした彼女のことを思うと、エルネストの胸が痛んだ。
そして三年近くが経った。
兄夫婦が娘のドロシーを残して死に、いきなりカスティリーニ侯爵家を継ぐことになり、騎士団も退役した。
忙しく日々が過ぎる中、今でも時折あの時のブリジッタ嬢の姿を夢に見る。
兄夫婦が同じ馬車の事故で亡くなったから、彼女のことを思い出すのだろうか。
凜と佇み、必死で周りからの視線に耐えながらも、けっして罵倒せず涙を見せなかった彼女のことを、自分は好ましく思ったのだと今になって気づく。
エルネストは自分が、あの時彼女のために何も出来なかったことを悔いていた。
だからアリッサ・リンドーだと名乗る女性を見て、自分が幻覚を見ているのだと思った。
同じ顔でありながら、あの時の俯き加減の気弱さはなく、まっすぐ堂々と自分に対峙してくるのは、本当にブリジッタなのだろうか。
信じられない思いで、思わず引き止めていた。
何か、何かしなければ自分はまた彼女を失ってしまう。
二度と失いたくない。
ブリジッタだろうが、アリッサだろうが関係ない。
自分が何も出来ないと、無力を嘆くなら、たとえ憎まれても鬱陶しがられても、彼女が生きてくれさえいれば、それでいい。エルネストはそう思った。