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ブリジッタの死

 アリッサがそれとなくブリオール卿に調べてもらったところ、ブリジッタを襲った御者らしき男と馬車が谷底に転落していたらしい。
 落ちてから約一ヶ月経っていて、遺体は獣に食い荒らされていたそうだ。
 そして馬車にはブリジッタの荷物もあったので、どうやら彼女も死んだことにされていた。
 とは言え、荷物にはブリジッタ・ヴェスタのものだという証拠は何も残っていなかったので、幸いブリオール卿にもアリッサがブリジッタだとは勘づかれなかった。
 トリゲーの修道院からはいつまで経ってもブリジッタが来ないということで、ヴェスタ家に問い合わせが行ったかも知れない。はたして両親は彼女がどうしたか、調べようと思ってくれただろうか。
 もしそうなら、馬車の事故のことを聞き、彼女は死んだと思ってくれるだろうか。
 ふしだらな娘と烙印を押し、厄介払いした娘が不慮の事故で死んだと聞いた両親は、少しは悲しんでくれるだろうか。
 そしてジルフリードの耳にその話が届いたら、少しは彼も悼んでくれるだろうか。
 看護学校の寮の一室で、皆が寝静まった中、ふと目が覚めて空に掛かる月を見上げた時、彼女はそんなことを考えたこともあった。

 オルノー看護学校の入学試験は、有紗とブリジッタ二人の知識があれば楽勝だった。
 当然と言えば当然かも知れない。
 ブリジッタは腐っても貴族の娘。最低限の読み書きは習っている。そして有紗として日本の義務教育を受けてきた一般教養は、この国の高等教育にも匹敵した。
 高校での成績は至って普通だったが、そんな彼女の頭でも、ここではかなり優秀な方だった。
 アリッサは満点の成績で入学し、その後の二年間もずっと成績トップを爆走した。
 卒業後の進路について聞かれ、彼女は個人の家での住み込みを希望した。

「あくまで個人の希望優先だが、君ほどの成績なら騎士団や王宮でも充分やっていけるのに」

 校長にも周りにももったいないと何度も言われた。
 しかし騎士団も王宮も、絶対に遠慮したい。
 アリッサ・リンドーと名乗っているが、アリッサとしての身分を保証するものはなにもない。
 騎士団や王宮で働くとなると、やはり身元をきっちり調べられるだろう。
 見かけはブリジッタ・ヴェスタである以上、そういうところは避けなければならない。
 幸い、この世界では戸籍と言ったものはない。今のところブリオール卿が彼女の身元保証人になってくれており、それで何とか凌いでいる。
 この先問題を起こさなければ、うまくアリッサとして生きていけるだろう。

「私は天涯孤独で帰る家も頼る家族もいません。いくら成績が良くても、騎士団や王宮では孤児同然の私では家柄で冷遇されてしまいます」

 この国ではまだまだ実力より家柄が重視される。騎士団は多くが貴族の出身だし、王宮勤めともなれば、確実に身分を問われる。彼女がそう主張すれば、校長達も納得せざるを得なかった。
 個人の家でも同じような状況が考えられるが、使用人は平民が多い。
 そうして卒業を迎え、彼女の卒業後の勤め先は、元外交官のベルトラン家に決まった。
 六十歳になるそこの奥方が数年前に倒れて半身が不自由で療養中という。いわゆる脳梗塞だ。

「卒業おめでとう、アリッサ」
「ブリオール卿、ありがとうございます」
「よく頑張ったわね」

 卒業して彼女はブリオール邸を訪れた。
 ブリオール卿夫妻は、彼女の卒業を祝ってくれた。

「もし休暇が取れたらいつでも家へ来てくれればいいのよ。ここをあなたの実家と思って」
「そうだ。私たちには子供がいないから、こうして訪ねてくれる娘が出来たみたいで嬉しいんだ」
「ありがとうございます」

 ブリジッタの時は彼女をそんな風にして迎えてくれる人はいなかった。
 アリッサとして第二の人生をスタートさせてから出会った人は、ブリオール卿を初め、共に学んだマリア達も含めて皆彼女に親切な人ばかりだった。

(有紗としての記憶を思いだしてから、本当に人に恵まれてる)

 ブリジッタとしての人生で楽しいことがひとつもなかった訳ではないが、辛いことが多かった。
 その最たるものがジルフリードとの婚約だった。
 彼と婚約さえしなかったら、ジルフリードがもう少し彼女を婚約者として親切に対応してくれていたら、こんな結果にはならなかった。
 一方的に顔も見せず婚約破棄をされて、それまでも笑顔もろくに見せてくれなかった婚約者。
 それでもいつかは夫婦になるのだからと望みを持っていた自分を、今なら馬鹿な子だったと思う。

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