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【書籍発売記念SS】その後のお話

 男のいた場所を、エミリアは目を丸くしてじっと見つめた。
 さっきまで、確かにここに男はいた。
 黒髪でグレーの瞳の。
 でも、もういない。
 
「消えた……」

 ——ということは、やはり本物!

 こうしてはいられない。エミリアは駆け出した。

「お母様にお知らせしなきゃっ!」

 ——いつも寝る前にお話してくれた「お友だち」が来ていたことを、伝えなきゃ。

 使命感に溢れたエミリアは、一目散に屋敷まで戻る。
 拾うはずだった鞠のことなど、すっかり忘れて。

「どうしたの? そんなに急いで」

 自室で手紙を読んでいたアリツィアは、エミリアに驚いた顔を向けた。
 エミリアは、なんとか息を整える。

「お母様……今日……お母様……の……お友だち……に……お会いし…ました」
「あら? そうなの?」

 そんな予定はなかったけれど、と思いながらアリツィアは愛娘に問いかける。

「どなた?」

 やっと落ち着いたエミリアは、アリツィアと並んで腰かけ、一生懸命説明する。

「お名前は聞かなかったの。でもすぐにわかったわ。お母様がおっしゃっていた通りだったもの。黒い髪にグレーの瞳。そして真っ黒な服装。『井戸の魔力使い』ですかって聞いたら、すうって消えたの! 本物ね」
「井戸の……そして消えた? エミリア、本当に? お会いしたの? その方に?」
「ええ」

 エミリアから場所を聞いたアリツィアは、すぐに庭園の端に向かった。
 だが、そこにはやはり、誰もいなかった。
 エミリアの鞠だけが転がっていた。

          ‡

 その夜。
 アリツィアは、夫婦の部屋でお茶を飲みながら、ミロスワフにその話を打ち明けた。

「あいつが?」

 ミロスワフは、カップを持ち上げて眉をひそめた。

「よかったわ……元気なのね」

 アリツィアは頷きながら、お茶を飲んだ。
 この6年、カミル・シュレイフタの動向は、生死も含めまったくわからなかった。
 
 ——無事でよかった。

 アリツィアは心からそう思っていた。

「もちろん、エミリアには誰にも言わないように念を押しているわ」 

 夫の懸念を察知したアリツィアは、安心させるように言い添える。
 だがミロスワフは、何かを考え込むようにカップを置き、そっとアリツィアの肩を抱き寄せた。

「アリツィア……頼むから」

 どうしたのかしら、とアリツィアは自分もカップを置いてもたれかかった。
 ミロスワフは真剣な口調で囁く。

「もう、一人で渦に飛び込まないでくれ。本当に。頼むから」

 アリツィアは、きょとんとしてから声を立てて笑った。

「嫌ですわ。ミレク、わたくし、そんなことしませんわ」
「そうだといいが……」

 ミロスワフは、しばし言葉を選ぶように沈黙してから続けた。

「人々の意識から魔力が薄れつつある昨今だが、あいつだけは安心できない……これだけは言っておくよ。君が何回渦に飛び込んでも、僕は絶対探しに行くからね」

 アリツィアは柔らかく答える。

「大丈夫ですわ。わたくし、二度と渦には飛び込みません。約束します」
「アリツィア……!」

 嬉しそうに妻を引き寄せるミロスワフだが、アリツィアはにこにこと付け足す。

「だって、あなたもわたくしもいなくなったら、エミリアが寂しがるでしょう?」
「ん?」

 ミロスワフは、よせばいいのに念を押した。

「つまり、エミリアが寂しがるから渦には飛び込まない?」
「もちろんです。エミリアをひとりぼっちで待たせるのはかわいそうだもの。そうでしょう?」
「うん……そうだね?」

 ミロスワフはなんとなく腑に落ちない顔で頷いた。

          ‡

 そして数日後。

「お姉様! 井戸のあの方に会ったんですって?」

 サンミエスク邸を訪れたイヴォナは、アリツィアの顔を見るなりそう言った。

「イヴォナ、どこからそれを?」

 もちろんここには身内しかいない。それでも声をひそめるアリツィアに、イヴォナはあっけらかんと答えた。

「アルベルトがエミリアから聞いたって」
「エミリア!」
「内緒って言ったのに! ちびのアルベルト」

 エミリアは、イヴォナに連れられて部屋に入ってきた年下の従兄弟に舌を出した。

「そんなふうに言っちゃだめでしょ!」

 アリツィアは追加で叱る。
 イヴォナとアギンリーの息子アルベルトは、エミリアの1歳下で、子分のようにエミリアの跡をついて回っていた。
 イヴォナが取りなすように言う。
 
「まあまあ、お姉様、いいじゃない。わたくしたち以外、わからないわよ。井戸の魔力使いが誰かなんて。正直、もっと格好いい名前にしてあげた方がよかったと思うけれど」

 アリツィアが不思議そうに呟く。

「十分、格好いい名前だと思うのだけど……」
「そういうことにしましょうか」

 イヴォナは笑い、そして付け足した。

「でも、結局、彼が今どこでどうしているのかわからないのね」

 アリツィアは頷く。
 
「魔力保持協会もすっかり弱体化して、かつての威光はありませんものね」
「ええ。カミル様を匿って利用しているなら、もう少し威勢がいいはずですもの。やはりそこにもいないのよ」

 イヴォナは、遠くを見るように目を細めた。

「世の中が急速に便利になっていくから、カミル様も居場所がないのかしら?」

 アリツィアがこの国で広めたライターをきっかけに、人々は魔力ではなく、誰でも使えて誰でも便利な「道具」に、一気に頼り始めた。

「大通りにガス灯がついたわね」
「ええ。お父様もお喜びでしょう?」

 そしてそれには、大抵アリツィアの実家のクリヴァフ商会が絡んでいる。

「アギンリー様も褒められたんじゃなくて?」

 イヴォナの夫アギンリーが婿に入り、クリヴァフ商会はさらに勢いを増していた。
 だが、イヴォナは首を振る。

「まだまだよ。お父様ったら、アギンリーには相変わらず厳しいの」
「お父様もお元気そうね」
 
 思わず苦笑するアリツィアに、イヴォナは思い出したように言う。

「ミロスワフ様は? ずっとお忙しいの?」
「そうね……国王陛下が代替わりしたばかりだから何かと呼ばれているわ」

 公爵の位はまだ継いでいないが、ミロスワフは、国王が王太子だった頃から片腕として働いていた。

「ミロスワフ様は本当にご立派だわ。公共事業にも力を入れて、庶民にも仕事を与えるよう腐心していらっしゃるもの。さすがのお父様も感心していたわ」
「そうね」

 確かに、その通りだ。
 ミロスワフは今すごく忙しい。
 だから。

 ——あそこには、一人で行こう。

 アリツィアは決意した。
 
           ‡

 その翌日。
 アリツィアはひとりで外出した。

「いいお天気ね」

 馬車の中でアリツィアは呟く。
 この分なら、すぐに到着するだろう。
 行き先は、カミルがかつてアリツィアを連れてきた家だ。
 
「ここでいいわ。すぐに戻るから待ってて」

 近くまで来ると、護衛を馬車に置いて、森の中を歩く。
 護衛も心得たもので、頷いて見送った。
 アリツィアがここに来るのは初めてではないので、慣れているのだ。

 あれから何度も、アリツィアはこの家の様子を見に来た。
 主のない家は放っておくと、すぐに傷むから。風を通し、埃を払うために足を運んだのだ。
 歩き慣れた道を抜けると、変わりなくその家は建っていた。
 
 ーーお掃除もしたほうがいいわね。

 玄関ポーチのクモの巣を見上げながらアリツィアが扉を開けると、中から声がした。

「やっぱり」

 家の中。
 薄暗がりで、ミロスワフが苦笑して立っていた。

「ミレク?! どうしてここに?」
「君が一人で出かけると聞いたから、先回りしたんだ。やっぱり、気になったんだろう?」
「ええ……もしかして、と思って」
「奴が、何かのついでで、ここにも立ち寄るかもしれない。そう思った?」
「お見通しね」

 ここが見張られていることに気付かないカミルではないだろう。
 だけど、もし。

 ——ここを訪れることがあるなら。

 アリツィアは手提げから一枚の紙を取り出した。

「会えるとは思ってないわ。ただ、これを置いておきたかったの」

 覗き込むミロスワフに見えるように、台所のテーブルの上に置く。

「これは……?」

 ミロスワフが首をかしげる。

「たまねぎとかぶのスープのレシピよ。これさえあれば一人でも作れるわ」

 最後までカミルが作って欲しがったのがこのスープだった。もしかして失った記憶に触れる味だったのかもしれないと、アリツィアはずっと気になっていた。

「……素直に作る奴じゃないだろう」

 その通りだと思いながら、アリツィアは微笑む。

「でも、今まで、あの人に誰もレシピを教えなかっただけかもしれない」

 呆れたようにため息をついたミロスワフだが、君がいいならそれで、と反対はしなかった。

「用事は済んだ? じゃあ、帰ろう——」
「まさか?! まだ何もしてませんわ! ですが、ミレクはご多忙の身。後はわたくしにお任せください」
「お任せって……何を?」

 アリツィアは、黙って天井を指した。
 そこにも、蜘蛛が巣を張っていた。

「お掃除です」

 その後、ミロスワフはひとしきり、アリツィアの手伝いをした。
 あちこち埃を払ったり、窓を開けて風を通したり。

「あいつのために……なんで僕まで」
「まさかミレクが手伝ってくださるなんて! エミリアが聞いたら、お母様ばっかりずるいって怒るでしょうね」

 納得できないような気もするが、アリツィアが楽しそうなのでまあいいかとも思うミロスワフだった。

          ‡

 そして帰りの馬車にて。
 並んで座りながら、ミロスワフはようやく本題を切り出した。

「実はアリツィア」
「はい?」
「つい、この間のことなんだが、私腹を肥やして子どもたちを虐待していた孤児院の院長が、証拠とともに、身動きとれない状態で王宮に転がされていたんだ」
「転がされて……? どなたかが連れてきたのではなく?」

 目を丸くするアリツィアに、ミロスワフは肩をすくめる。

「ああ。まるで最初からそこにいたかのように、文字通り、縛られて転がっていた。不思議だろ?」
「ええ。とても」

 ミロスワフは、さらに付け足す。

「それだけじゃない。実は、南の地方では、ひどい条件で子供たちを働かせている親方たちが、ここ数年、匿名で突き出されている」
「それって……」

 もしかして、と思いながら問いかけると、ミロスワフも頷いた。

「この六年間、似たようなことは何度もあった。状況は違う、人も違う。でも、どこかで誰かが、辛い目にあった子どもたちを助けようとしているのは確かだろう」

 ミロスワフは、やれやれと腕を組んだ。

「エミリアの前に奴が現れたのは、孤児院の院長を転がすついでだったんじゃないかな?」

 そんな、と思いかけたアリツィアだったが、あり得ると思って頷いた。
 ミロスワフも苦々しく呟く。

「懸念があるとすれば、奴がその力を悪い方向に働かせないかってことだな」
「ミレクの気持ちもわかりますが」

 アリツィアはミロスワフの手に、自分の手を重ねて微笑んだ。

「わたくしは大丈夫だと、信じています」
「本当に……君たち姉妹は奴に甘い」

 ミロスワフはため息をつきながらも、奴がアリツィアの期待を裏切らないよう祈っていた。

          ‡

 そしてその夜。

 エミリアは、不思議な夢を見た。
 なんと、あの井戸の魔力使いが目の前に現れて自分を屋根の上に連れ出してくれたのだ。

「夜なのに寒くない! やっぱりこれ夢なのね?」

 はしゃぐエミリアに、井戸の魔力使いは頷いた。

「そう。夢だよ。ところでエミリア」
「見て! 宮殿がここから見えるわ!」
「だから、エミリア」
「港までは見えないのね。残念」
「ねえ、エミリア。どうしても君に聞きたいことがあるんだけど」
「なあに?」
「君は魔力なし? それともあり?」

 エミリアは首をかしげる。

「わからないわ」
「わからない?」

 エミリアは、屋根の上から夜の町を楽しそうに見下ろしながら答える。

「使ったことないから、わからないの」
「使ったことない? 一度も?」
「ええ。お父様もお母様も、エミリアはエミリアだから、それでいいって」

 井戸の魔力使いは小さく呟いた。

「……だから僕はあいつが嫌いなんだよな」
「あいつ? 誰のこと?」
「まあ、いいさ」
「ふうん……ねえ、魔力使いさん」

 今度はエミリアが質問した。

「どうして、お母様に会わないの?」

 井戸の魔力使いは、ちょっと驚いた顔をした。

「さすがに合わせる顔がないことくらいわかってるよ」
「ふうん?」

 お友だちなのに? とエミリアが再び口を開く前に、魔力使いは苦々しく言い放った。

「それに絶対、あいつがすぐに駆けつけるだろうしね」
「だからあいつって誰よ?」

 井戸の魔力使いは、長すぎる前髪を風になびかせて笑った。

「いいからもう眠りな」
「寝てるのに?」
「ああ……そうだった。これは夢だった」

 もしかしてもう覚めてしまうのかもしれない。
 そう感じ取ったエミリアは、慌てて頼んだ。

「井戸の魔力使いさん、わたくし、空が飛びたいの! お願い! 飛ばせて!」

 井戸の魔力使いは、瞬きを繰り返してから呆れたように呟いた。

「……この突拍子のなさと、怖がらなさはさすがというか……わかった」
「やった!」
「ただし、夢のことは誰にも言っちゃいけないよ」
「ちびのアルベルトにも?」
「ちび?」
「従兄弟なの」
「あー、あの妹の……だめだ」

 仕方ない。今度こそアルベルトにも内緒にしよう。

「わかったわ」

 だってこれは夢だから。

「よし。じゃあ、お嬢様。飛べるって思ってごらん。鳥みたいに」

 井戸の魔力使いは、お姫様をエスコートするみたいにエミリアに手を伸ばした。
 エミリアは喜んでその手を取った。

「飛べるって思っているわ! 鳥みたいに!」

 次の瞬間。

 ——エミリアは鳥のように、滑らかに夜空を飛んだ。

           ‡

 翌朝。

「おはようございます。お父様、お母様」
「どうしたんだ、エミリア。今日はやけに眠そうだな」
「夢の中で大騒ぎしたから……ふぁあ」
「お行儀が悪いですよ!」

 エミリアは大きなあくびをひとつして、アリツィアにたしなめられた。

          ‡

 数カ月後。
 ミロスワフが一人で確認しに行くと、あの家の台所に置かれたレシピはなくなっていた。

「ふん、へそ曲りめ……」

 ミロスワフは、自分もスープを作る練習をしようか考えながら立ち去った。
 

しおり