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 これは夢なんだ。はっきりそう思える夢を見ることがある。

 目が覚めると、ストーリーも内容も溶け落ちた後で、ただ漠然とした不安のような居心地の悪さだけが残っている。まるで、自分が自分でないような。

 これもそういう夢なんだ。僕こと、如月キョウは、そう思って、目の前に立つ長身の何者かを見上げていた。

 「よく来たね。キョウちゃん。待ってたよん♪」

 ファンタジー映画の中から抜け出してきたような風貌、銀色の長髪で長身の男性が、草原に立って、細長い手を差し伸べている。もちろん、僕はその人物を知っている。でも誰だか思い出せない。だから夢なんだ。草原は鮮やかな緑色の森に溶け込み、紺碧の空に繋がっている。柔らかい草の穂を撫でるように僕は手を差し出し返した。

 「あれ? どうして、僕、女の子の服を着てるんだろう」

 袖にはヒラヒラのフリルと乙女チックな縫い飾り、草叢に立つ足元はスカートに覆われている。栗色の長い髪がふわりと風に舞った。小さな花びらの黄色い花が草原の至る所に群生していて綺麗だなと思った。

 「また派手にやらかしちゃったそうだね。キョウちゃん。異質なる者たちが目を光らせているんだから、もう少し能力をコントロール出来るようにならないとね。それに、骨も残さず吹き飛ばしちゃったら、狩った数さえ分からないでしょ」

 僕は、長身の何者かのおどけた口調の声を聞いて、クスクス笑った。そんなことを気にするなんて、ただ可笑しく滑稽に思えたのだ。

 「数える必要なんてあるの? あんな低俗な生き物」

 僕は、そう口に出そうとしたところで、体を揺り起こされた。




 「キョウ! いつまで居眠りしてるの? もう、授業終わっちゃったよ。起きなさいってば!」

 同級生の神無月沙羅の声だ。教室の机の上で僕は沙羅に肩を揺さぶられている。頭ががくがく揺れ、おでこが机にごつごつぶつかって、痛いんですけど、神無月さん。

 「本当、世話が焼ける子よね。私があなたの守護精霊でなければ、放っておくとこなんだけど」

 いや、マジで放っておいて欲しいんだけど。僕は、痛むおでこを手で押さえた。

 「なんだよ守護精霊って、神無月。こんな乱暴な起こしかたしといて」

 「サラって、呼んでと言ってるでしょ。真名は、サラ=エファソニア=ミショル=カンナ」

 沙羅は、僕に耳打ちするように小声でそう言った。うん。まあ、こんな子なんだ。転校生として教室で紹介された時は、すごい美少女だと思った。そう、艶のある長い黒髪を優雅に揺らしてキョウの前に立つまでは。

 「波動に導かれて来たの」

 初対面の転校生にそう言われた僕は、目をぱちくりさせるしかなかった。教室の中ではくすくす笑い声が聞こえる。

 「あの、波動って?」

 「旋律よ。そこに無自覚な秩序が生まれ、秩序からのゆらぎが自意識になるの。だから、あなたを認識した」

 これって、ボケ? ツッコミ入れなきゃいけない? つっこみどころ満載というか、どうして僕に? あたふたするばかりの僕を尻目に沙羅は僕の隣の机に座って、何事も無かったかのようなすまし顔を黒板に向けていた。


 「とんだ災難だったみたいね。キョウ。転校生の話、噂になってるよ」

 三ヶ日(みかび)梓は、吹奏楽部の部室で、笑いながらそう言った。幼馴染のフルート奏者だ。明るい色のショートヘアに包まれた卵型の顔立ちは可愛く見えることもある。

 「笑い事じゃない。あれは、典型的な中二病だよ。それもかなりの重症。高校生にもなってさ」

 「類は類を呼ぶってこと?」

 「呼んでない! 同類にするな」

 「案外、ネトゲ仲間だったりするんじゃない?」

 「そんなもん、いきなり都合よくリアルで出会ったりするものか」

 「いきなり転校生に告白されて、キョウ、しどろもどろだったって聞いたけど」

 「告白じゃない!」

 「って言いながら、まんざらでもなかったんじゃない? 女の子に告られたの初めてでしょ。すごい美少女だって話だし」

 笑顔でからかう梓に否定出来ないのが悔しいけど、あれは断じてそんなもんじゃないから。あんな、頭のネジが緩んだ女の子の言う事なんて……

 担当のチューバを両腕に抱えたまま、そう思って僕が反論の言葉を探している時、部室のドアが勢いよく開いて、沙羅が現れた。

 「はい、はい。みんな、新入部員を紹介しまぁす。一年三組に転入してきたばかりの神無月沙羅さん。担当の楽器はトランペットだよ。みんなよろしくね」

 部長に紹介されている間も、沙羅は、真顔で僕の顔を見つめていた。

 「如月キョウの守護精霊です。訳あって真名を名乗ることは出来ないことをお察しください」

 沙羅は吹奏楽部の全部員の前でそう言った。

 「キョウ君と同じクラスだよね。あ、はは……、お知り合いって、ことかな?」

 「はい。何か問題でも?」

 沙羅は、真顔で、部長にそう答えた。


 まあ、出会いはそんな感じだったけど、それから、僕と沙羅は、部活に打ち込む日々を共にしていた。


 うん。そうだったはずなんだけど、ある日、僕は、異世界で目を覚ましていたのだ。

 アンティークな飾り窓から外を見ると、西洋風でファンタジーな景色が広がっている。起伏の多い街並みに尖塔が目立ち、石造りの城壁もある賑やかな町だ。空を飛んでいるのはカラスではなく竜の様な生き物の姿だ。平和な日本に生まれ、普通の高校生だった僕の記憶の中にある世界ではない。

 不思議なのは目に映る風景だけじゃない。僕自身の姿も、男の子ではなくなっている。あろうことか、外見はファンタジー風の美少女なのだ。性別は正直なところ自分でも分かっていない。そして、生物学的には……、人間ですらないかも知れない。

 最初はもちろんいつもの夢だと思ったけどそうじゃなかった。僕は、この不思議な世界で沙羅に起こされた時のことを思い出していた。


 * * * * * ♪


 「キョウ、起きて。朝だよ」

 目を開けた僕の視界には、くすんだ色の天井をバックに神無月沙羅の顔が写った。夢? まばたきをしてまぶたを擦る。もう一度目を開けると、カーテン越しの朝日に照らされた室内で神無月のくっきりした瞳に焦点が合った。

 「どうしたの? キョウ。不思議なものを見るような顔。悪い夢でも見た?」

 そう言って、神無月は眩しいほど綺麗な笑顔を見せた。長い黒髪をまとわり付かせた透き通るような白い肌は胸から下が薄手の毛布にくるまれている。軽く胸に添えた手、柔らかな逆光が、彼女の女性的なボディラインを際立たせている。

 「今朝は、市場に行って、食料品を仕入れようって言ってたでしょ。たまには、まともな食事がしたいもの。あなたの料理の腕前に期待したわたしが愚かだったわ」

 ベッドで横になっているその室内に全く覚えが無かったし、同級生女子の神無月と一緒にお泊りをしたなんて、そんな大胆な記憶も僕には無かった。しかも、同じベッドで? 何が起こってるの? これって、夢? ずいぶん、リアルな夢だけど。それとも、電波な彼女の悪ふざけ?

 「神無月……」

 僕がそう言った時、自分の声が自分の声ではないように聞こえた。変声期前の声というか、女の子の声に近い。

 「サラって、呼んでと言ってるでしょ。真名は、サラ=エファソニア=ミショル=カンナ」

 神無月、いや、沙羅は、僕の上唇に人差し指を軽くあててそう言った。その長ったらしい名前は、彼女の中二病設定だ。

 「ゲルソニアの愚者って話、知ってる? ジャイルマでは、子供だましの教訓でしょ」

 と沙羅。ベッドの上に両手をついてのぞきこんできたので、黒髪の房がふわりと僕の顔に落ちた。か、顔近いって……。あ、あの……、胸の谷間が目の前で、毛布から乳房がこぼれ出そうですけど……

 「げるそ……、じゃいるって」

 僕は、ベッドの中で半身だけ起こした姿勢で固まったまま、寝ぼけまなこをぱちくりさせるしかなかった。ドッキリか何かだろうか? あり得ない程手が込んでるんだけど。それとも、誘拐されたとか? 誰に? 何のため?

 「キョウは、ジャイルマ出身だって言ってたでしょ。だから、サルサーンの朝市は、初めてだって」

 「なあ、沙羅。これって、ドッキリか何かのつもりか? いくら沙羅でも度が過ぎると思うけど……。僕、城南中の出身だよ」

 「何、寝ぼけているの、キョウ。昨日、オルタトロンボーンの狩りの時に頭でも打った?」

 「オルタ? 狩りって?」

 「そう、あのボーン、見かけ以上に強敵だったよね。キョウのチューバの支援がなければ、わたしでも苦戦したかも。最後は、力ずくでねじ伏せてやったけど」

 何がなんだか全く状況が理解出来ないまま、沙羅は沙羅のままだと、僕は妙に納得してしまった。もちろん納得している場合じゃない。冗談でも、奇行のレベルが僕の知っている沙羅とは段違いだ。異次元のレベルだと言っても過言じゃない。いや、異世界。……どっちでも同じか。沙羅の中二病に巻き込まれて、僕まで頭がメルヘンしてしまったとか……。それで、僕の声までおかしくなってるの?

 「マスター。ルゥ、お腹すきました」

 その時、何かが、ベッドの下で声を出した。三角に尖った犬の耳のような物がぴょこぴょこと揺れている。恐る恐るベッドの上からのぞきこんだ僕が見たのは、ツインテールの髪形の少女だった。いや、正確には少女そっくりの生き物の姿だった。小型犬ほどの大きさで、頭には犬耳がぴんと生えていて、尻尾まであるが、ちゃんと二本足で立ち、フリルのエプロン付きメイド服を着ている。

 「キョウちゃん、おはようございます」

 「え、ええっ! 何これ?」

 正体不明の犬耳生物と目が合った僕は、面食らって女の子みたいな声で叫んでしまった。

 「何言ってるの? キョウ。わたしが使役している使い魔のルゥ=サーミンでしょ。これ、だなんてペットか何かのように呼び掛けたら、機嫌を損ねるわよ。最初の第一声はちゃんとフルネームを使わないと」

 「ルゥ、不愉快です」

 「ほら」と、なぜか得意顔の沙羅。

 「え、あ、ごめん。そういうわけじゃなくって……」

 僕は、ふくれ面になった犬耳使い魔の機嫌を直そうと、顔の前で手を振って思いきり曖昧な笑顔を作った。

 「今朝のキョウは、いつにも増して変よ」

 「同感です。ラフレックスの粉を浴びた後遺症かもしれません。幻覚作用があるといいますから」

 とルゥ。ぴょこぴょこと犬耳を動かして、クンクンと鼻を鳴らした。沙羅は僕の肩に両手をのせて顔を近付けてきた。

 「サ、サラ、朝早くから、こんなところで……、僕たちまだ……」

 目と鼻の先まで近付いた沙羅に僕はドギマギした。沙羅は無言で額をぴったりと合わせた。

 「だいじょうぶ。熱は無いようね。すぐ正気に戻るわ。さあ、いつまでもこうしちゃいられない。市場に行かないと」

 沙羅は僕に背を向けて、朝日に輝く窓を逆光にその場で着替え始めた。

 「ちょっ……、サラ! いくらなんでも、いきなり目の前で着替えるなんて」

 僕は、慌てて声を出した。彼女の豊満な裸のバストまで見えそうになって目を手で覆うふりをした。

 「何、恥ずかしがってるの。女の子同士で。わたしの裸くらい見慣れてるでしょ。そりゃ、まあ、あなたがペチャパイをコンプレックスに思っていることは知ってるわ。でも、貧乳もステータスよ」

 「……? 女の子、どうし?」

 僕は、その時初めて、部屋の隅に置いてある鏡に映る僕自身の姿に気づいた。寝乱れたままの淡い栗色のストレートヘアをベッドの上まで垂らして座っている異世界的美少女の姿がそこにあった。ファンタジー物のエルフのような姿だ。碧玉のような緑色の瞳の目が大きく見開かれてこちらを見ている。

 「えっえええ!」

 思わず叫び声を上げてしまった僕は、沙羅とルゥに思いきり睨まれた。

 触ってみると微かに胸の膨らみがある。沙羅に言われる通りのペチャパイ。そして、恐る恐る自分の股間を触った僕は、叫ぶことも忘れて、絶句した。

 ちゃんと、付いているのだ。見慣れたアレが、一応。


【妖精ピクシー】

 「で、どうして、僕、チューバを担いで歩かなければならないの?」

 雑踏の中を歩きながら、僕は、愚痴をこぼした。

 元の世界の吹奏楽部では、僕の担当楽器はチューバだった。そして、なぜか今、僕はその巨大な金管楽器を背負って異世界の町を歩いている。あの世界よりだいぶ身体が小柄になっているので、まるでカタツムリが貝殻を背負って歩いているように見えると思う。

 沙羅に着せられた魔法少女のような飾り物の多いひらひらした服は動き難い。大きなリボンとかマフラーとか、絡みついて転びそうになるし、ミニスカートの足元はスースーするしで、僕は泣きそうになった。

 この世界の住人の記憶の中では、キョウという人間はずっと女の子としてこの世界で暮らしていたらしい。僕が男の子として生活していたあの世界の記憶を持っているのは僕自身だけなので、性別不明でも、言われるまま女の子として振る舞うことにした。この外見で、男だと言ってみても、全く説得力無いと思うし、かと言って、裸になってまで主張すべきではないと思えた。

 早朝だというのに、通りは人で溢れている。いや、中にはとても人間には見えない者もいる。まるで、ファンタジー映画の撮影セットの中に紛れ込んでしまったみたいで、僕のコスプレのような姿も目立つことはない。

 最初は驚き、恐怖も感じたけど、もう慣れてしまった。我ながら順応性の高さに驚く。

 「用心のためよ。町中でも油断は禁物」

 雑踏の中、真っ直ぐ前を向いたままの沙羅はそう言った。彼女は、片手にトランペットを持っているだけで、ショートパンツに普段着のような身軽な姿だ。

 「用心って……」

 僕は、近くを通りすぎた大男の姿を振り返った。身長は僕の倍近くあり、全身を黒い布で覆っているが、露出している部分は緑色の岩肌のようだった。背中に大きな剣を担いでいる。

 あんなのが暴れだしたらたまらない。恐る恐る見ているうちに振り返った大男と目が合ってしまい慌てた。

 一瞬立ち止まった大男は、厳つい風貌に不似合いなほど礼儀正しい会釈をしただけで歩き去った。

 この世界では僕たちは楽師と呼ばれ、特別な職業だと、市場を見て歩きながら犬耳使い魔のルゥちゃんが解説してくれた。彼女はとっても物知りだ。楽師は旋律魔法を使って魔物と戦ったりもするらしい。

 街角の喫茶店に入って、僕はようやく一息ついた。


 「いらっしゃい。沙羅。キョウちゃんも一緒ね。嬉しいわ」

 メイド服の店員さんが笑顔で迎えてくれた。柔らかそうなブルネットをボブカットにした笑顔の可愛いお姉さんだ。

 「アンヌ。仕事の依頼来てない? 出来れば、大口の案件がいいんだけど。今月ちょっとピンチなのよ。キョウに、お金掛かっちゃってさ。美容室でしょ。服に、食費も」と沙羅。

 「そうね、これなんかどう? 庭の木に巣を作った翼竜(ワイバーン)の駆除」

 アンヌと呼ばれた店員さんは、副業として楽師への仕事の紹介や仲介をしているようだ。むしろ、そちらの方が本業なのだろう。慣れた手つきで、紙の束の中から一枚の書状を選び出した。

 「わたし、飛び物苦手なのよね。それにしても、ワイバーンが巣を作るまで庭を放置していたって、どんな依頼主よ。まず、そいつから駆除したほうが世の中のためだわ。そういう輩に限ってつけあがるから」

 「じゃ……、これなんかどう」

 依頼主に危害があっては大変だと思ったのだろう。アンヌは笑顔でごまかしながらすぐに別の紙を選び出した。

 「報酬五千ルードル。いいわね! 依頼内容は、と……、ペットの捜索? 特徴、犬科、頭の数三つ。好きな食べ物、生きた牛、って、これペットじゃないでしょ。立派な化け物よね」

 「うん。まあ、でも人間にはよく懐いているらしいのね」

 「分かったわ。これにしましょう。行くわよ、キョウ」

 沙羅に手を引っ張られて歩き出す僕。異世界で目覚めた早々いきなり、化け物探しだなんて、不安と命の危険しか感じないんですけど。



 町の城門を出て、三十分ほど草原の中を歩くと、依頼者の家があった。周囲をぐるりと高くて頑丈な塀で囲まれている。農場主の屋敷らしい。ほぼ一時間ほど歩き続けで、僕すでにへとへと。

 「名前は、ケロちゃんって言うんです。これが写真です」

 依頼主は、この家の奥さんだった。差し出された光るガラス板には、奥さんの姿、そして、その背丈の二倍ほどの高さの三つの巨大な頭が映し出されている。うん、間違いなく化け物だ。

 「農場を荒らすオーガを狩るために飼ってたんですけど、三日前から姿が見えなくなって、どこかで狂暴な野獣に襲われていないかと心配で……」

 と、涙ながらに語る奥さん。どこかで善良な生き物を襲っている心配をした方がいいと思うんですけど。


 「ルゥ、足取りはつかめそう?」

 屋敷の庭のケロちゃんの小屋、と言っても普通の一軒家よりずっと大きい、をひとしきり調べた後で、沙羅が尋ねた。

 ルゥちゃんは、犬耳をピコピコ、鼻をクンクン鳴らしている。すごい、警察犬みたいな捜査が出来るんだと僕は感心した。

 「いま、目撃情報をネットで検索しています」

 とルゥちゃん。検索かい! この世界にもインターネットとかあるの? ま、そっちの方がすごいし、確実だとは思うけど、ファンタジー的にどうよ……。魔王がブログ作ってたり、SNSが炎上したりするの?

 「捜索対象のペットは、ケルベロスです。昨夜、近辺の集落で山羊三頭が襲われる事件が起こっています。幸い人的被害は報告されていませんが、出来るだけ速やかな捕獲が必要と判断されます」

 ルゥちゃんが突き止めたケルベロスの居場所は意外に近かった。依頼主さんと屈強な屋敷の使用人五人と共に向かった先はうっそうとした森。うん。どんな化物や妖怪が潜んでいても不思議じゃない。

 「出番よ。キョウ」

 沙羅はそう言って、トランペットを構えた。

 「出番って……?」

 「おびき出すの。合わせて」

 沙羅は、トランペットで旋律を奏で始めた。その音を受けて、僕は体が自然に反応しチューバでベース音を合わせた。あの世界の部活で毎日繰り返していた合奏練習。指と体が覚えている。女の子の体になって肺活量が足りないが、なんとか演奏を続けることは出来る。

 沙羅は何度も一緒に練習したことがある穏やかなリズムを刻む。すると、森の小鳥たちもリズムに合わせてさえずり始めた。これが旋律魔法? この世界では音が特別な意味を持つらしい。心が甘い旋律で満たされてゆく、そんな感じがした。

 しばらくすると、森の中から木の幹を揺るがす唸り声が聞こえてきた。そして、暗い森の中から目玉を光らせた三つの巨大な頭を持つ怪物が姿を現した。

 「ケロちゃん! 良かった、無事だったのね」

 依頼主さんが使用人と共に駆け寄ろうとした時、ケルベロスが三つの口から勢いよく炎を吹き出した。

 「……どうして? ケロちゃん。今まで炎なんて吐いたことないのに……」

 依頼主さんは、その場でへたへたと座り込んでしまった。ケルベロスは、森を揺るがすような吠え声を上げた。とてもじゃないが、人間に懐いているようには見えない。

 「近づかないで!」

 沙羅は、そう叫んで、トランペットで、攻撃的な旋律を奏で始めた。

 途端に、ケルベロスは巨体をもだえさせ、土煙を上げて地を這った。

 「マスター! これ以上の攻撃は対象の生命力を奪ってしまいます」とルゥ。

 「キョウ! ベース音の援護を続けて!」

 沙羅は、演奏を止め、ケルベロスに向かって猛然と走り出した。

 「我が真名は、サラ=エファソニア=ミショル=カンナ、光の旋律の使い手! その名をもって命ず、その息を氷とし地に伏せ、麻痺せよ!」

 土の上に片手を突いた沙羅の体が光に包まれ、ケルベロスは動きを止めた。しかし、その時、別の旋律がケルベロスの背後から聞こえてきた。甲高いピッコロの音色だ。

 「マスター! オルタの攻撃です!」

 「しまった! 避けて。キョウ!」

 沙羅の叫びを聞いた時には、すでに、ケルベロスの巨体が僕の目の前にあった。一瞬の出来事で、何が起こったのか分からないまま、僕の意識は遠くなっていた。


 気が付いた時は、ふかふかの毛皮の上に横たわっていた。半身を起こして、そこが森の中をゆっくりと歩くケルベロスの背中の上だと分かった。目の前に、とんがり帽子を被った小人が座っている。背丈は僕の半分ほど。目だけ異様に大きくぎょろぎょろと動いていた。背中には薄い半透明の羽根が生えている。

 「お目覚めかい。僕はピクシー。君は、男の子? それとも女の子?」

 そう言うピクシーは、悪戯っぽくクスクスと笑った。耳まで裂けそうな口の中に牙が並んでいる。人間じゃないことは確かだ。

 「どっちでもいいとは思うけど、人間って、そういうこと結構気にするでしょ。だから、一応聞いておこうっと思って。だって、君、どっちか分からないんだもの」

 うん。実は、僕自身にも分かってない。それはもちろん、問題だけど、今は、それよりも……

 「僕をどこに連れて行く気?」

 「別に。どこでもいいさ。ピクシーは気まぐれなんだ。知ってるだろ。今は話相手が欲しかっただけ。このケルベロスを捕まえたんだけど、この子話し相手にはなってくれないんだ。そこで、丁度良かったよ。僕好みの人間のとっても可愛い……男の子か女の子を捕まえることが出来て。

 君、僕と一緒に旅をしてくれるよね。もちろん、断ったら、ケルベロスの餌にするよ。君みたいに可愛い子を餌にするなんて、もったいないでしょ。

 それに、三つ頭があるから、食べさせる時は、三等分に切らなきゃだめなんだ。僕にそんな面倒くさいことさせないでよね」

 ピクシーは、そう言って悪戯っぽく笑った。いや、マジで、勝手に旅に連れてくとか、三枚おろしにするとか無理。でも、悪戯っぽい笑顔の裏の残忍な表情は、冗談で言っているわけではないことを物語っている。

 逃げるしかない。僕は、そう決心して、ピクシーが脇に抱えているピッコロに目を止めた。

 丁度その時、ケルベロスが何かにつまづいたように背中が大きく揺れた。僕は、ピクシーに飛び掛かり、ピッコロを奪った。そのまま、ケルベロスの背中から滑り降りる。

 「人間が、闇の旋律を奏でるオルタピッコロを奪ってどうするつもり?」

 武器さえ奪えば大丈夫と思っていた僕の前に、ピクシーは、余裕の表情で飛び降りてきた。あわれむような薄ら笑いを浮かべている。

 「返してもらうよ。可愛い人間の男の子か女の子相手に、あまり手荒い真似はさせないでね」

 飛び掛かってきたピクシーに向かって、僕は、思いきりピッコロを吹いた。ピッコロの練習は一度しかやったことないが、体が覚えていた。しかし、僕の頭の中のイメージとは全く違う音色が奏でられた。禍々しいとでも表現すべきだろうか。

 ピクシーは、素早く身をひるがえし、ケルベロスの体の反対側まで飛びのいていた。その顔には、さっきまでとは正反対の焦りと驚きの表情があった。

 「君、何者? 人間じゃないね。まあ、いいさ。残念だけど、ケルベロスの餌になってもらおう」

 ピクシーが口に指をあてて鋭く口笛を吹くと、ケルベロスが骨を揺るがす吠え声と共に僕に向かって襲い掛かってきた。僕は、再びピッコロを吹いたが、ケルベロスの動きは止まらない。どうして? さっきは、沙羅のトランペットで簡単に倒れたのに……。僕が下手だから?

 ケルベロスの巨大な口が僕の頭をぱっくりと飲み込んだ。終わった。僕の異世界生活。

 でも、様子がおかしい。ケルベロスは、まるで飼い主にじゃれつく子犬のように僕の全身をあま噛みしているだけだ。三つの頭が争うように僕にじゃれついている。

 「世の中には色々と規格外な生き物がいるものだね。僕のピッコロを返して。そうしてくれたら、僕は今ここで見たことを全て忘れて退散する。妖精の誓いは破れない。知ってるだろ。君はそのケルベロスと共にあの暴力娘のところに帰るがいい。いずれ、僕と一緒に旅に出ていれば良かったと後悔するだろうけどね」



 僕は、ケルベロスの背中の上で揺られて森を出た。ふわふわの暖かい毛に包まれていると途中眠くなってきた。ケルベロス、いやケロちゃんは、依頼主さんの屋敷まで自分で歩いて戻っていた。

 ケロちゃんから降りると、依頼主さんは涙をボロボロ流しながら感謝の言葉を並べた。僕は、ケロちゃんにすっかり懐かれてしまい、引き離すのに一苦労だった。不思議なもので、懐かれると、可愛い生き物に思えてしまう。


【魔人ダングレア】

 「楽師の方とお見受けしますが」

 翌日、町の雑踏で突然声をかけられた。そこには、中背の恰幅のよい老人が立っていた。

 「突然の無礼をお許し下さい。私は近隣で村おさを務めている者です」

 老人は仰々しいほどの会釈をした。

 「キョウ、上客よ。営業スマイル」

 沙羅はそう耳打ちした。そう言う彼女は澄まし顔で老人を値踏みするような表情をしている。ルゥは足元で尻尾をぱたぱた振っている。僕は、わけもわからないままひきつったような愛想笑いを作った。

 「こんな往来の立ち話では、自己紹介もままなりませんから」

 ついてこいとばかりに、老人は先に立って歩き出した。

 「サラ、どうするの?」

 「上客だって言ったでしょ。行くわよ」

 おどおどするばかりの僕を尻目に、沙羅は平然として老人の後について歩き出した。



 「魔人ダングレアが村の歌姫に一目惚れしましての、次の満月の夜までに引き渡さないと、村を襲うと」

 アンヌの喫茶店のテーブルで、村おさの仕事の依頼を聞きながら、沙羅は僕の顔を見て意味ありげな笑みを浮かべた。僕はまたとっても良くない予感がした。

 「分かったわ。歌姫と村人を魔人から守ればいいわけね。うちの楽団のホープ、ここにいるキョウに任せてちょうだい」

 と沙羅は、自信たっぷりに僕を指差した。

 「え、僕?」

 沙羅とルゥが、ウンウンとうなずいている。テーブルの横で話を聞いていたアンヌまで、トレイを胸に抱えたままうなずいている。

 ニンマリと僕に笑いかける村おさのエロジジイそのままの顔を見て、僕は背筋に冷たいものを感じた。やっぱり、もの凄く悪い予感がするんですけど。


 「さて、先ずはメンバー募集から。報酬は、リーダーのわたしが半分、残りを頭数で割るとして……」

 沙羅は、上機嫌で雑踏の中を歩き出した。

 「ねえ、キョウ、あなた助っ人に心当たりは……、ないわよね。聞いたわたしが愚かだったわ」

 だったら聞くなよ。僕は、内心ツッコミながら、チューバに押し潰されそうに、沙羅を追って歩いていた。

 「マスター、用心棒稼業の小次郎はどうでしょう」

 とルゥ。尻尾をパタパタさせながら沙羅の足元を歩いている。

 「トロンボーンの綾瀬小次郎か……。人斬りマニアと言われているし、この間は、依頼主まで真っ二つにするところだったけど……。まあ、候補に入れても良いかもね。今回は、キョウが主役だし」

 いや、その物騒な人物を仲間にして、僕が主役だなんて、そこはかとなく命の危険を感じるんですけど。

 「拙者を呼びましたか? キョウ殿」

 急に頭上でその声が聞こえると同時に、僕の肩がスッと軽くなった。

 見上げると、時代劇から抜け出して来たような着流しの侍姿で長身の男子が、僕を見下ろしている。背中にはトロンボーンとそれよりも長い日本刀を下げている。僕のチューバを片手で軽々と持ち、目が合うと侍男子はにっと笑った。僕は愛想笑いを返すのも忘れて、顔を引きつらせた。危険人物の香りがプンプンするのだ。

 「相変わらず、可愛いらしいですな。キョウ殿。毎度のつれない態度も、拙者の心にジャストミートでござる」

 言い換えよう。僕は、貞操の危機を感じた。


 「さて、あと一人は、出来ればフルートの子が欲しいわね」

 沙羅はぐんぐん雑踏をかき分けて行く。足元には小走りのルゥ。そして、僕と小次郎が後に続く。チューバは小次郎が持っていてくれるので、だいぶ歩き易くなった。

 「ルゥ、いい子いないかしら?」と沙羅。

 「三ヶ日梓はどうでしょう」とルゥ。

 それは、僕の同級生のフルート奏者の名前だった。あの世界では幼馴染。ショートヘアが似合うボーイッシュな女の子だ。

 「三ヶ日か……。わたし、あの子苦手なのよね。でも、まあ、選択権はキョウにあることだし」

 そう言って、沙羅は僕の顔を見ているが、これまでの展開から、僕の意見なんて無視されるのがオチだ。僕は曖昧にうなずくしかなかった。


 「きゃー! キョウだ! 生キョウだ!」

 ルゥが探し当てた家の中から飛び出して来た梓は、いきなり僕に飛びついてきた。絡んだリボンに足を取られて避け損なった僕は梓に抱きつかれた。

 「もう、可愛過ぎるんだから。今もヴァーチャルキョウにこうやって、頰ずりしてたの」

 と、抱きつかれたままオモチャにされる僕。この世界の梓は僕より頭半分ほど背が高かった。

 「あら、居たの? 神無月」

 沙羅の咳払いに振り返った梓は、急に冷めた目になってそう言った。

 「ええ、三ヶ日。今回はわたしがクエストリーダーよ。それから、わたしのルームメイトのキョウに汚い手でベタベタ触るのはやめていただけるかしら」

 「誰が汚いですって!」

 二人の少女は、僕を間に挟んで激しく睨み合った。

 「うププ。修羅場ですね。キョウちゃん」

 と、ルゥが、僕のスカートの裾を引っ張って楽しそうに笑っている。僕、どうしたらいいの? 何か悪いことした?

 「今朝だって、キョウはわたしのオハヨウのキスで目を覚ましたんだから」

 いや、そんな覚えはありませんよ沙羅さん。

 「ふん。キスくらい何よ。私は、いつもヴァーチャルキョウとあんなことやこんなことして愉しんでるんだから」

 いや、だからそのヴァーチャルキョウって何なんですか? 梓さん。キャラ崩壊し過ぎでしょ。

 「さあ、今日こそ、私とそこのビッチ、どっちをとるか決めてもらうわよ、キョウ!」と梓。

 「誰がビッチですって!」

 「あ、あのう……」

 居た堪れず、僕は蚊の鳴くような声を出した。

 「あなたが、はっきりしないのが悪いんだからね!」

 二人の少女は同時に、僕に向かってそう叫んだ。


 「紅顔の美少女一人の関心を求めて二人の少女がいがみ合う。人間の浅はかさここに極まれり。キョウ殿、拙者にお任せを。どちらか斬って差し上げよう。なんなら二人とも。そして拙者と駆け落ちを。嗚呼、愛する者のためとはいえ、罪を犯したこの身と薄幸の美少女の旅は、人目を忍び……」

 小次郎は刀の柄に手をかけて自分の世界に入り込んでいる。

 いや、お前が一番物騒で面倒な問題だ。僕は小次郎を両手で押し留めた。

 「とるとか選ぶとか、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ? えっと、そうだ、村の歌姫だよ。歌姫を助けに行くために皆んなで協力しなきゃ」

 僕は、そう言いながら文字通り火花を散らしている沙羅と梓の間に割って入った。二人の足元には火花に焼かれた哀れな虫たちが転がっている。

 「マスター。大変です。キョウちゃんがまともな事を言いました」とルゥ。

 「やっぱり熱があるのかしら。でも、もっともだわ。歌姫を助けないと報酬も貰えないし。三ヶ日、今日のところは引いてやるからありがたく思いなさい」

 と、長い黒髪を搔き上げて高慢な態度を崩さない沙羅。

 どんだけこの世界の僕のキャラ壊れてるの? 僕はそう思いながらも、先頭に立って歩き出した途端、石につまづいて転びそうになった。ところで、行き先どこだっけ? ……ルゥちゃん教えて。



 村までの道のりで、何体かの魔物っぽいものに遭遇し、僕は、この世界での戦闘システムについて学んだ。この世界では、楽師の奏でる旋律が魔法の波動となって敵のエネルギーを奪うのだ。

 いざ戦闘となると、沙羅のトランペットと梓のフルートは絶妙なアンサンブルを奏で、敵をなぎ倒す。あれだけいがみ合っていたのが嘘のようだ。ルゥちゃんの解説によると、沙羅の旋律戦闘力は、Sランクで、宮廷楽師に匹敵するレベルらしい。それがどの位すごいことなのか、僕にはイメージ出来ないが、魔物をなぎ倒す速さを見るだけでも敵に回したらヤバイということだけは理解出来る。

 小次郎のトロンボーンは、飛行する魔物に有効な飛び道具、僕のチューバは、後方からの攻撃支援と全体効果があるらしい。戦闘経験皆無の僕でも、吹奏楽部の連日の練習で身に着けた沙羅や梓の主旋律をサポートするベース奏法で戦闘に加わることが出来た。


 村に着くころには日が暮れていた。入り口で依頼主の村おさの出迎えを受けて早速、歓待の食事。畳のような物が敷き詰められた大広間だった。その席で、今回の事件の当事者である歌姫が紹介された。

 謎めいた美少女という表現がぴったりの子で、ブロンドに色鮮やかな髪飾りと黒い紗を付け、肌の露出の多過ぎる衣装で、金銀の鈴がついた杖を持って楽師達の前に座った。名前はセイナ。

 「歌姫は、神に仕える神聖な身で、各地方の守り神の依り代でもあるんです」

 と解説するルゥちゃん。

 なるほど巫女のようなものらしい。どうりで不思議な雰囲気をまとっている。

 「(わらわ)の身代わりになるというのはそなたじゃの。殊勝なり。褒めてつかわすであろう」

 歌姫は、僕の顔を凝視して、鈴を転がすような声でそう言うと、口に手を当ててホホホと笑った。

 雰囲気だけじゃなく、頭の中も不思議ちゃんだと確信する僕。いや、それよりも、今なんて?

 「ちょっと待って、身代わりって……」

 思わず身を乗り出した僕の肩を沙羅と梓が両側から手で押さえた。

 「安心して、キョウ。わたしたちがちゃんと守るから、あなたは箱の中で座っているだけでいいのよ。ね、楽な役でしょ? 魔人には、あなたに指一本触れさせないわ」

 「ええ、魔人ダングレアは高位のデーモン。指一本でも触れられたら即死級の魔力を持った怪物ですから当然です」

 と犬耳をピョコピョコさせながら真顔で怖い事を補足するルゥ。

 ルゥちゃん、ナイスフォローなんて言ってる場合じゃないよね。



 まあ、分かっていましたとも。僕の反論なんて聞き入れられないことくらい。僕は、歌姫の衣装を無理矢理着せられて、チューバを傍らに木の箱の中で座っていた。

 そりゃまあ確かに、主旋律の奏者二人が身代わり役では魔人と戦えないのは分かる。僕は言わば伴奏者だ。ベース音を出して旋律を支えるのがチューバの役割だ。吹き込む息の量も大量に必要な巨大な楽器では複雑なリズムなんか刻めない。

 だからって、どうして僕がこんな露出狂みたいな衣装とも言えないような薄布とゴテゴテした飾りを着けられる必要があるの?

 あの二人、沙羅と梓、絶対面白がっていたというか楽しんでいたよな。着せ替え人形遊びみたいに、きゃあきゃあ騒ぎながら。

 もちろん、腰の下着を脱がされるのだけは断固拒否したし、小次郎は厳重に鍵をかけた別室に監禁してもらった。

 僕は、手にした金銀の鈴杖を三度続けて振った。シャリリリーンと涼やかな音色が狭い箱の中で響く。準備完了の合図だ。


 作戦は単純。魔人に指定された月夜の晩、歌姫の身代わりとして僕が囮になり、魔人の洞窟入り口まで運ばれる。そして、誘き出した魔人を村人に扮した沙羅たちが攻撃し始めると僕も飛び出して攻撃に参加するというシナリオだ。

 すぐに木の箱は担がれたように動き出した。乗ったことは無いが籠にでも乗っているような気分だ。しばらくして、箱はごとりと地面に降ろされたようだ。動かなくなった。

 さすがに怖い。体が芯から震える。奥歯がガチガチと鳴る。本当に沙羅たちはついてきてくれてるのだろうか。今なら、あの小次郎にさえ縋り付きたい気分だ。

 でも、何事も起きない。いつまで待っても、辺りはシーンとして物音一つしない。まさか、指定の時間か場所を間違えたというオチ? そんな疑問が浮かんだその時、心の内側からゾワゾワとざわめかせるような禍々しい旋律が遠くから聞こえてきた。僕には絶対音感がある。それなのに、この旋律は周波数をとらえることができない。まるで違う次元で振動しているような音だ。

 「え? オルタ?」

 「そんなの聞いてないよ」

 箱の近くの方で沙羅と梓のささやくような声がする。

 「応戦しないと、囲まれたら全滅ですぞ。かなりの多勢とみた」

 「小次郎殿に同意します」

 とルゥ。

 「作戦変更! キョウを連れて逃げるわよ。キョウ出てきて!」

 沙羅が叫ぶ。

 僕は状況が理解出来ないまま、箱を蹴破ろうとした。アレ? いくら蹴っても叩いても箱が壊れない。簡単に出られるはずだったのに……

 その時、すぐ近くで耳をつん裂くような音が聞こえた。黒板をチョークで引っ掻いたようなあの不協和音だ。爆発的な音圧に、僕の意識は薄れていった。

 「しまった! 罠よ! 旋律地雷……」

 それが、その場で僕の聞いた最後の声だった。



 目を覚ました時、僕は魔人っぽいものに見下ろされていた。

 薄暗い洞窟の中、地下迷宮の一室だろうか。朽ちかけた柱や壁のような物も目に入る。

 その天井に頭がつくような巨体で、角も生えて、尻尾もある。その残忍そうな顔付き一つ見ても、意識を失って倒れた僕を介抱してくれている親切な通行人なんかにはとても見えない。そんな展開期待出来ない事ぐらい分かってはいたのに、いざ当の魔人を目の前にすると怖すぎる。いきなり頭からかじったりしませんよね。

 「思った通り、楽師を雇いおったか、村人どもめ。しかーし、我輩の方が一枚上手よ。ちゃーんと、手は打っておいたわ」

 魔人は独り言のように、そう言った。野太いダミ声が部屋中に響く。とりあえず言葉は通じそうで、ほんの少しだけ安心した。でも、状況説明ありがとうだなんて、言ってる場合じゃない。

 「愛しい歌姫よ。この日をどんなにか待ちわびたことか。そんなに怯えるでない。その可愛い顔をもっとよく見せるのじゃ。ほれ、今宵は初夜に適した月夜。我が嫁として、さっそくの共同作業の記念日じゃ。さあ、我輩の子を産むがよい」

 いや、勝手に記念日作られても、生理的にも生物学的にも無理ですから。

 「おや? 何故こんなところに楽器が……」

 魔人は、僕のチューバにようやく気付いたらしい。図体がデカい分、頭の回転は鈍いのかも。僕は少しだけ希望を持った。ここは、あれだ。昔話にあるように、とんちやなぞかけなんかで上手くごまかして、逃げ出すことも出来たりして。でも、上手いとんちなんて、咄嗟に思い浮かぶほど僕も頭の回転速くない。

 「おぬし、何者だ? 歌姫じゃないな」

 ほら、もう気付かれた。声の調子が怖くなり急に魔人の表情が険しくなったようだが、もともと狂暴な顔立ちなので、大した変化に見えなかった。

 「楽師の仲間か? おのれ、純真な魔人の心をもて遊びおって、許せぬ。偽歌姫めが……?」

 僕に向かって伸びてきた大きな鉤爪の手が、ふと止まった。

 「よく見ると、おぬし……、歌姫に劣らず、いんや、それ以上、いやいや、随分と、めんこい顔と姿形。一目で、吾輩のハートを鷲掴みじゃ」

 そう言う魔人の狂暴な顔はにやけて崩れ、もはや見るに堪えない。僕は、生理的嫌悪を通り越して、全身に悪寒が走った。冷や汗が僕の頬を伝い落ちる。

 「もはや、歌姫などどうでもよい。おぬしこそ、吾輩の求めた理想の花嫁。これで、田舎の母にも自慢が出来るわ」

 魔人の鼻息がフゴーっと荒くなる。あんた、親いたの?  というツッコミは置いといて、はい、そうきましたか。でも……

 「さあ、吾輩の子を産め」

 「無理! だって……」

 僕は息を溜めて、言い放った。

 「僕は、男だ!」

 一瞬、魔人の顔に当惑のような驚きのような表情が浮かんだ。大きな二つの目玉が僕の顔をぎょろぎょろと見つめ、肌の露出の多い僕の体を舐めるように見回した。いやだ、もう無理、僕、じんましん出そう。


 「……うーむ。よくよく見ると、おぬし、半妖であろう。ならば、問題無い。いーや、むしろ大好物じゃわ。力づくでも、吾輩の“嫁”にしてくれよう」

 そう言いながら、魔人はよだれまで垂らしている。

 この世界では、魔物まで変態なのか? 男だって、言ってるだろ。問題ありありだよ。大好物って、なんだよ? はんようって何それ、美味しいの?

 僕は、とっさにチューバを抱え上げ、マウスピースに思いきり息を吹き込んだ。近づきつつあった魔人の動きが止まった。効いてる? 効いてるよね? でも、一瞬で効果が切れたようだ。

 魔人の太い腕が振り上げられる。そして、僕に向かって振り下ろされたその時、聞き覚えのあるトランペットとフルートの音色が奏でられた。魔人の腕をかわした僕はその旋律に合わせて、チューバを吹き続けた。

 「キョウ、お待たせ!」

 沙羅と梓が部屋に駆け込んできた。怯んだ魔人は耳を押さえて、苦痛に顔を歪めている。そこに、小次郎も飛び込んできた。すでに、白銀の刀を抜いている。魔人は、床に這いつくばって、小次郎の鋭い一撃をかわした。

 「待った! 降参じゃ! 命だけは……」

 這いつくばったまま手を上げて命乞いをする魔人。さっきまでの凄みはどこへやら、随分、情けなく見える。もちろん、同情なんてしないけど。小次郎は、ちらりと僕の顔を見た。

 「キョウ殿。斬ります。斬っていいですね。拙者のキョウ殿に与えた辱めは死に値します」

 まだ、辱めを受けたってほどでもないから、疑いを招くような言い方はやめて。それに、拙者のキョウってなに?

 「命くらい見逃してやってもいいけど、あんた、出せる物、持ってるんでしょうね」

 そう言って、沙羅が、トランペットを手に、魔人の前に立ちはだかって、トンと足踏みを突いた。

 「地獄の沙汰も金次第って言うでしょ」

 沙羅がにっと笑うと、魔人は恐怖に引きつった顔を見せた。



【歌姫】

 「わたしの見込んだ通り。あいつ、随分貯めこんでいたわ」

 魔人から奪った金貨を積み上げて数えながら、沙羅は上機嫌。そこは、凱旋した村おさの屋敷の一室だった。

 「うちのキョウが受けた精神的苦痛への損害賠償は、また、別よ。お情けで、三十五年ローンにしてやったわ。やっぱり、わたしって、優しいのね」

 いや、十分鬼畜です。お金に関しては。沙羅さん。

 「本当にあれで良かったのでござるか。拙者、納得行かないでござる。斬りたかったでござる」

 小次郎、おまえはただの人切り狂だ。

 「大丈夫。今後、村も歌姫も襲わないって、証文も取ったから」

 「もちろん、破るともれなく死の呪い付きです」

 と、得意顔で指と尻尾をフリフリ、沙羅の言葉を補足するルゥちゃん。


 「ねえ、私も分け前もらえるのよね。ヴァーチャルキョウのバージョンアップにお金が必要なの」

 「だから、そのヴァーチャルキョウって、何なの? 三ヶ日」

 「仕方ないから、神無月にだけ少し試用させてあげる」

 梓は、町から抱えてきた荷物の中から、ごそごそとボディスーツのような物を取り出した。

 「何それ? 三ヶ日。あんた随分大きな荷物だと思ってたけど、中身そんなガラクタだったの」

 「まあまあ、旦那、まずはこれを」

 三ヶ日は、沙羅にVRヘッドセットのような器具を装着させた。

 「おおっ! これは! っごい!」

 「ね♪ さらに、ボディスーツを装着すると」

 「うんうん。これはいい! いけるわ」

 「今度、ビチョビチョのトロッとろ機能を追加しようと思って。どう?」

 「うんうん、わかる。三ヶ日。あんた天才かも」

 何やってんですか? 少女二人の騒ぎを呆れて見ている僕を、部屋のドアから覗く歌姫が、例の謎の眼差しで招いた。



 「こたびの働き、ご苦労じゃったの」

 歌姫は、僕を別室に呼びこんで、後ろ手にドアをぴったりと閉めた。隙の無いその動作に、僕は少し悪い予感を覚えた。

 「ええ、でも、僕、座ってただけで、歌姫さんの……」

 「セイナじゃ」

 歌姫は、僕の片手を握った。

 「謙遜とは、また、殊勝な。()いやつ」

 そう言いながら、セイナは、僕の手をぐいっと引き寄せたかと思うと、いきなりスカートの中に右手を突っ込んで僕の股間をつかんだ。一瞬の早業だった。

 「な……!」

 僕は、とっさに飛びのいた。ばれた? ばれたよね? どうして? 僕の顔から血の気が引いた。

 「やはりの」

 慌てた僕の顔を見て、セイナはにっこりと笑った。

 「付いている物も可愛いらしいの。そなた」

 そう言って目を細めるセイナの前で、僕は蛇に睨まれたカエルのようになった。

 「ぼ、僕、別に隠してたわけじゃなくて……。ただ、みんなが、僕を女だと信じて疑わないものだから、ついそのまま……」

 セイナの前で、慌てる僕。男だと、沙羅にバレたら、僕、殺されるかも。いや間違いなく殺される。一緒のベッドで寝てたし……。でも、僕、嘘は言ってないからね。みんな面白がって、僕に女の子の服を着せてただけで……

 「何をぶつぶつ言っておるのじゃ。初めてそなたを見た時から、妾には分かっておったわ」

 セイナは、上目づかいにクスクスと笑った。

 「そなた、男になるのか、女になるのか、まだ決めておらぬのか?」

 「え? 決めるって? 男と女? それって、自分で選ぶものなの?」

 この世界でも、性転換手術とかあるのだろうか。もちろん、僕、そんな気、皆無だけど。頭が混乱してきて何がなんだか。

 「自分のことじゃろ。そなた、ジャイルマ生まれであろう。しかも、妖魔の血を引いておるの。見たところ半妖か」

 確か、魔人も、僕を“はんよう”だと……、それって、どういう意味?

 「その、(ほう)けた顔、まさか、本当に知らぬのか? ならば、特別サービスで教えてやろう。そなたは、まだ、妖精体。男にも女にもなっておらぬ」

 「え?」

 「なんじゃ。知らなかった割には、大して驚かぬの。つまらん」

 「いや、驚くもなにも、そんな突拍子もない事、いきなり言われても……、つまり、僕って、男じゃないの? 女でもないって、えええ? 僕って、何者? 妖精? 人間じゃないの?」

 「今のところ人間には違いない。今のところはの」

 なに? その意味深な言い方。悪い予感しかしないんですけど。

 「強いて言えば、中性かの。幸い、まだ両性具有にはなっておらぬ。そなたのような年頃になるまでには自ずとどちらかの性を選ぶべきなのじゃ」

 「そ、それって、この世界では常識? みんなそうなの?」

 「そんなはずはなかろう。人間の妖精体は極めて稀なケースじゃ。そして、特殊な力を持っておっての。見る者の心を魅惑するのじゃ。だから、妾のような歌姫稼業の者と本人ぐらいしか知らぬ。営業秘密というものじゃな。妾とて、妖精体を見たのは初めてじゃ」

 「魅惑するって……」

 「魅了であったり、幻惑であったりすると聞く。詐欺師紛いの者もおるらしい。一つだけ言っておくぞ。妾からの助言じゃ。助けてくれた恩義があるからの。

 これまで通り少女として振る舞い、あの者たちには妖精体の事はくれぐれも秘密にしておれ。そして、出来るだけ早く、男か、女、どちらかを選ぶがよい。残された時間は少ないと思え。

 妾のお勧めは、もちろん女じゃぞ。そなたのような美少女が男になるなど勿体ないわ。美への冒涜というもの。と言うのは冗談」

 セイナは、言葉を区切った。彼女の顔から謎めいた笑顔が消えた。

 「流れている妖魔の血とその濃さによるが、男になると、妖魔の特徴が発現し、あのダングレアのような化け物になる可能性がある。ダングレアも遠い昔、妖精体じゃったそうな」

 「へ? えええええっ!」

 「妖艶な美少年だったと言い伝えられておる。魔王の呪いで魔人にされたと一般には信じられておるが、実のところは妖精体変幻よ」

 つまり、どういうこと? 僕もあの魔人みたいになるってこと? 可能性? いや、マジで無理なんですけど。そんなこと……。あいつが沙羅に恐喝されていた時、微妙に同情したい気になったのはそのせい? いやだ! 絶対いやだ! あんな怪物になるなんて。

 「危険な犬耳使い魔もおるから。用心せよ。妖精体だとバレたが最後。魔王軍に通報され、散々な辱めを受けよう」

 「ルゥちゃんが……? 辱めって、まさか……」

 「もちろん、妾は、そなたの味方じゃぞ。だから、……その」

 そこで、急にセイナの目にトロンとした表情が浮かんだ。顔が近すぎる。

 「も、もう一度、触らせてくれぬかの。そなたの、可愛いらしい物を……。一度触るも、二度触るも同じであろう。減るものでもあるまい」

 いや、減るかもしれない。もう、何も信じられない! こんな世界。僕は、吐息が荒くなったセイナを見ながら、また危険人物が一人増えたことを確信した。

 「これ。そんなに恥ずかしがるでない。妾を萌え死にさせる気か?」


【森の賢者ケンタウロス】

 「キョウちゃん、ルゥの顔に何か付いてますか?」

 村おさから提供してもらった僕たちの部屋は、僕が元いた世界の旅館の一室に良く似ている。座布団も浴衣もあるし、寝具も布団そのもの。八畳ほどの一間に沙羅と梓と僕とルゥちゃんが寝ることになった。もちろん、小次郎は別室に隔離してもらった。

 歌姫の注告を受けて以来、ルゥちゃんの視線が気になって仕方ない。その反面、ルゥちゃんがそばにいる限り歌姫に襲われる心配も無いように思えた。

 「いや、その……。可愛いメイド服だなって……。ルゥちゃんは浴衣に着替えないの?」

 「職務中ですので」

 と、ルゥはすまし顔。座布団の上にシーツを広げて、自分用の寝床を作っている。

 使い魔っていうから、魔妖石とか魔法のランプみたいな物の中に入って寝るのかと思ってたけど、違うんだ。わりと現実的だと、僕は思った。

 「なに、なに? キョウって、意外にメイド服マニアだったりする? 今度、ヴァーチャルキョウの設定に追加しようかな」

 湯上りの浴衣姿の梓が前かがみで話に割り込んできた。こうして見ると、彼女も案外胸がある。バストの谷間もしっかり見えている。少年みたいな体形だと思っていたけど、僕の今の体に比べるとずっと女の子らしい。当たり前だよね。

 「キョウ、なにそのぼさぼさ頭。綺麗な髪が台無しよ。梳いてあげるからいらっしゃい。ほんと毎日世話焼かせるんだから」

 と布団の上に座って手招きする沙羅は、浴衣を着てもさすがのボンキュッボンのお姉さま姿。出ているとこ出てます。長い黒髪はポニーテールに束ねている。

 「あーっ! 生キョウのブラッシング。私にもやらせて!」

 と駆け寄る梓。また、おもちゃにされてしまう僕。

 少女二人と一匹? に囲まれて、まるでハーレムのような生活。いや、違う。微妙に違う。僕は、今、女の子の生活を垣間見ているだけ。部屋の鏡台に映る僕の姿は、湯上りの栗色の長い髪を面白半分にいじられている美少女。人畜無害のお人形さんのようなこの姿だから許される生活。

 歌姫の助言通りなら、僕はこのまま女の子になり、今の生活を続けるべきらしい。でも、僕、確かに男だったんだ。あの世界では。そして、今でも男になれるらしいが、実は、その方法は分からない。セイナも、そんなことまでは知らないと言っていた。自分のことだから、自分が一番良く知っていようと。

 自分のことが一番分かってないから困ってるんだけど……。方法が分かったとしても、男になって、あのダングレアのような怪物になるなんて絶対ごめんだ。僕の中に流れている妖魔の血って何なの?

 正直なところ、突然で突拍子もない事態が多過ぎて、今は、まだ、今後のことまで考える余裕がない。ほんと、僕、どうしたらいいの?


 夜半、寝静まった部屋。僕は、まだ寝付けないでいた。右隣には沙羅、左には梓が、静かな寝息を立てている。布団の中でごそごそと寝返りを打つ僕。長い髪が邪魔になって、寝返りも窮屈だ。

 「まだ、起きてるの?」

 寝ていると思った沙羅が、隣でささやくような声を出した。

 「そっち行っていい?」

 そう言いながら、すでに沙羅は僕の布団の中に潜り込んでいる。

 「いつも、同じベッドで寝てるでしょ。ちょっと、狭いけど、こっちの方が落ち着くかなって……」

 浴衣が擦れ合い、柔らかい肌も触れて体温を感じる。

 「ゆうべは、悪かったわね」

 「え? 何が?」

 至近距離で顔を覗き込む沙羅の瞳に、僕はどきっとした。

 「魔人に襲われそうになったこと。怖かったんでしょ。あれ以来様子がいつもより変だもの」

 あ、そのことね。何だか、あのくらいのことは大した事件とも思えなくなっている自分の方が怖い。

 「旋律地雷とオルタの罠を仕掛けられていたなんて、わたしとしたことがうかつだったわ。でも、良かった。キョウがチューバを吹いてくれたおかげで、すんでのところで駆け付けられて。あの後、小次郎を押しとどめるのに苦労したけど」

 沙羅は少しだけくすくすと笑った。こうして、同じ布団の中で見ると、すごく可愛い。金貨を積み上げてにたついていた沙羅とは別人のようだ。

 「サラ、僕……」

 「ん?」

 「いや、なんでもない」

 「何よ。言いかけたなら、ちゃんと言いなさいよ。じれったいわね」

 あれ、僕、どうしちゃったんだろ。夜目に慣れた目で、沙羅の瞳を見ているうちに、意識が吸い込まれそうになって、何か重大なことを言おうとしたんだけど……。

 「ねえ」

 沙羅は、僕の手を握って、指を絡ませてきた。僕も握り返す。しばらくの間、二人無言で、指を絡み合わせた。

 「やっぱり、キョウは、キョウね。変わってないわ。安心したかも」

 くすっと笑って、そう言うと、沙羅は寝返りで僕に背を向けた。

 「明日も早いんだから。早く寝てよ。いつも起こすのに苦労かけさせるんだから。ほんと、世話を焼かせる子よね。……ま、そんなところが好きなんだけど」

 そう言う沙羅の背中の柔らかな体温に触れていると、うとうととまぶたが重くなってきた。好きという言葉が心に甘い余韻を残す。もちろんそれは、LOVEではない。わかってる。でも、こんな甘い日常も悪くはないと思えてきた。たとえ、それが刹那的なものだとしても……


 「ほっほー。これが生キョウの寝顔ですか。ヴァーチャルキョウの参考に、写真を撮ってと……。パチリ。せっかくなので、SNSにアップさせてもらおうかしら。ね、いいわよね、神無月」

 「ふぇ?」

 寝ぼけまなこを擦る僕の上に梓が屈みこんでいた。すでに室内は明るい。

 「キョウ、揺すっても起きないから、あなたまた、よからぬオモチャにされてるわよ」

 と沙羅の呆れたような声。

 「よからぬとは、なによ! まるで、いかがわしい目的でもあるみたいじゃない。私は、純粋な気持ちで、ヴァーチャルアイドルキョウのプロモーションに取り組んでいるんだから」

 何なんですか、梓さん。そのいかにも怪しい活動は。って、この世界にも写真なんてあるんだ。

 「寝ぼけた顔も可愛いのう。その写真、妾にもくれぬかの」

 いつの間にか、セイナまで、露出度マックスの歌姫衣装で輪に加わっている。

 「んじゃ、秘蔵写真のこれとセットで三百ルードルでどう?」

 「三百か、高いのう。でもどっちも欲しいのう」

 「なんだよ、その写真って」

 僕は、梓が自慢げに手でひらめかしている薄く光る硝子板のようなものを取り上げようとした。

 「ダメよ。本人には見せられないわ。恥ずかしくて。ちゃんと、モデル代金は神無月に払ってるんだから。文句があるなら神無月にどうぞ」

 「なんで、サラに?」

 それに、恥ずかしくて本人に見せられない写真って、どんな写真だよ。

 「保護者特権よ。あなたみたいに世話のかかる子を養うにはお金が必要なの」

 さも当然の事のように言い放つ沙羅を目の前に、僕、やっぱり、男になって、こんな生活から抜け出したくなった。



 朝練と称して沙羅に率いられた僕たちが向かったのは、村から歩いて三十分ほどの森。そこで合奏練習。パーツが足りないし、変な点を数え上げたらきりが無いものの、僕が元いたあの世界の日常が戻ってきたような気がした。

 魔物を狩る時のような攻撃的なリズムではなく、穏やか朝の景色にマッチした旋律の繰り返しに、森の鳥たちのさえずりも加わり、心の底から湧き上がる世界との一体感のようなものを感じた。ああ、僕やっぱりチューバやっててよかった、なんて、呑気なことまで思ってしまう。

 村からついてきたセイナの歌も加わった。セイナの歌を聴くのは初めてだ。言動からは想像出来ないような澄み渡る声で、僕には理解出来ない言葉の歌をつづった。

 「古代の妖精語です」

 というのはルゥちゃんの解説。耳をぴょこぴょこさせながら、歌の意味を簡単に説明してくれた。内容はよくあるおとぎ話だが、僕は、何故か、涙が溢れてきた。


 「どうじゃ。惚れ直したかの」

 歌い終えると歌姫はニッと笑った。

 その時、森の奥から響く不協和音が聞こえてきた。鳥のさえずりがぴたりと止まる。

 「出たわね。オルタ。ゆうべ邪魔してくれた礼、きっちり返すわよ」

 と沙羅。

 「え?」

 「闇の旋律を奏でる反転体。もちろん説明は不要と思いますが。相手はサクソフォン族、強敵です」

 とルゥ。

 「キョウ殿危ない!」

 と小次郎。いきなり、僕、ピンチ? まあ、もう慣れましたけど……


 不気味な騒めきと共に森の中から現れたのは、半人半獣のケンタウロス。人間の上半身に馬の体が繋がっていて、バリトンサックスを抱えている。弓を手にしているケンタウロスもいる。総勢、六騎。僕とルゥちゃんと歌姫は戦力になりそうもないので、数では相手の方が優勢っぽい。

 僕は小次郎に助けられて、つむじ風の攻撃をかわしていた。その風は僕が立っていた場所のすぐ後ろの木を引き裂き倒した。小次郎の片腕に抱きかかえられたままだが、こっちの方が安全そうなので、しばらくの間おとなしくしていようと強く思う僕。

 「ここが我等の領域だと知らぬとは言わせぬ。汝ら、なにゆえの所業だ?」

 金色に鈍く光るバリトンサックスを手にしたケンタウロスがそう叫んだ。

 「それはこっちの台詞よ。お馬さんたち、ゆうべ、魔人に味方したでしょ。しかも、いやらしくただの揺動作戦。どういう了見だったのかしら。我が真名は、サラ=エファソニア=ミショル=カンナ、闇を裂く光の旋律の使い手。返答次第では、頭を揃えて馬肉売り場に並ぶことになると思いなさい!」

 いきなりけんか腰の沙羅。朝練と言いながら、喧嘩売りに来たんですか?

 「名乗りまでされて売られた喧嘩を避けたとあっては末代の恥。死に急ぎたくば、お相手致そう。汝らがこの世で聞く最後の名を知るがよい……」

 凄みを効かせてそこまで言ったケンタウロスの視線が、小次郎の小脇に抱えられている僕に止まって、顔を凝視している。僕、また嫌な予感がするんですけど。

 「……なるほど、マルドゥクの半妖か。確かにこれは相手が悪い。決着は後日」

 くるりと背を向けるケンタウロス。

 「待ちなさい! 逃げる気?」

 「無益な争いを避けるまで。昨夜のことは、ダングレアへの恩義返し。他意は無し。それでよろしいな。光の者」



 「ねえ、何があったの? あのケンタウロス、キョウの顔を見て驚いてたみたいだけど」

 ケンタウロスが去った後、梓はそう言った。

 僕の顔をじっと見るルゥ。

 「ルゥちゃん、どうしたの……かな?」

 小次郎の小脇に抱えられたまま引きつった愛想笑いで誤魔化そうとする僕。

 「半妖は、妖魔の血を受け継ぐ者の一般名です。でも、歴史上マルドゥクという名前の妖魔の記録はありません。その名は、この世界を終わらせるという伝説上の魔獣であり実態は不明。つまり、相入れない二つの言葉を並べる森の賢者流の謎かけかと。半妖という言葉自体、幼い少女の例えで使われることが多いですから」

 と解説するルゥ。パタパタと尻尾を振り始めた。どうやら、気付かれずに済んだみたい。なにやら物騒な事を言ってるけど……

 「相変わらずいけすかない奴。わたしたちを煙に巻いたつもりかしら。ま、一文の得にもならない狩だったからいいけどね」

 と沙羅。だったら、始めから喧嘩売らなくても……

 歌姫は思案顔で無言。

 「キョウ殿を狙う不埒な輩が増えたかと拙者心配致しました」

 おまえが一番不埒なんだよ。いいかげん僕の体を放せよ。

 と、その時、僕は木立の中、素早く動く影のような物を見たような気がした。目を凝らしたが、何も見つからなかったので、その時はさして気にとめなかった。


 村に近づいたところで、小次郎が立ち止まって、沙羅に何か目配せした。

 「沙羅殿……」

 「ええ……」

 沙羅も立ち止まり身構えたかと思うと、振り向きざまトランペットを吹き鳴らした。

 「キャッ」

 子供のような悲鳴が聞こえた方向、木の根元に鹿のような生き物が倒れていた。髪の長い鹿?

 すぐに飛び上がって逃げようとした生き物は、小次郎の投げた縄に足が絡まってもがいている。

 「あんた何者? どうして尾けてきたの?」

 沙羅が馬乗りになって捕まえたそれは、上半身が裸の少女、下半身が仔馬だった。

 「ケンタウロスの子供?」

 「ウッ、ウ!」

 それは、沙羅の手から逃げ出そうとして暴れている。

 「そんな、乱暴に押さえつけたら、かわいそうだろ!」

 僕は、思わず手を出してそれをかばおうとした。

 「オニイチャン!」

 「へ?」

 それは、沙羅の手を振り解き、僕の懐に飛び込んで抱きついた。


 「おやおや、キョウには、ケンタウロスの妹がいたの? それにしてもお兄ちゃん属性までついてたなんて。うププ」

 梓は吹き出し笑いを漏らしている。

 お願いだから、これ以上話をややこしくしないで。誰なの? この子。

 「キョウ、あなたに、懐いているみたいだけど、そんな子、うちには連れて帰れないからね。すぐにケンタウロスの森に返してらっしゃい」

 まるで拾ってきた子猫のように言う沙羅。

 「いえ。その子はケンタウロスではありません。半人半獣のケンタウロスには女性体は存在しませんから」

 と真顔のルゥ。

 「そうじゃの。その子は、幻獣ケルピーの幼体じゃろ。妖艶な女性の裸体を水面にのぞかせ、近づいた男を水中に引きづり込んで食べると言われる妖怪じゃ」

 また物騒なことを平気な顔で言うセイナ。

 「そこを退いて、キョウ! 妖怪なら、この場で退治するわ」

 と凄む沙羅。

 「やめてよ! こんな小さい子を退治だなんて。そんな話、また、伝説に過ぎないんだろ。僕がちゃんと面倒見るからさ」

 僕はその子を両腕でかばった。

 「自分の事ですら何も出来ないあなたが、妖怪の子供の面倒なんて見られるはずないでしょ。小次郎、キョウをそこから引き離して!」

 「拙者も、退治には反対でござる。大義を感じられぬでござる」

 と小次郎は動かない。

 「梓、あなたは?」

 「私は、ヴァーチャルキョウに妹設定があっても良いかなって思うだけ。リアル妖怪には興味が無いけど」

 「ルゥ=サーミン、問います。この子は安全?」

 「差し当たっての危険は感じられません。マスター。もちろん、キョウちゃんには面倒見れないでしょうから、このまま放してしまうのが良いでしょう」

 「多数決に従うわ」

 沙羅はあっさり身構えを解いた。僕はホッとした。小次郎が近付いて、ケルピーの脚に絡んだ縄を解いてやった。

 少女の上半身に仔馬の体の美しい幻獣はぴょこんと飛び上がり、不思議そうな顔で皆んなの顔を見ていたが、すぐに木立の中に駆け込んだ。



 その日は、もう一晩、村おさの屋敷に泊めてもらうことになった。

 沙羅の部屋で目覚めて、まだ数日しか経っていないのに、色々な事が起き過ぎて、あの世界の事が遠い記憶に思えてきた。毎日学校に通っていたことも、吹奏楽の練習に明け暮れたことも。

 あの世界の最後の記憶。吹奏学部の遠征に向かうバスに乗っていた時、窓側の僕の席の前後に沙羅と梓が座っていた。僕たち、何かの事故に巻き込まれたのだろうか。

 僕だけがあの世界の記憶を持ちながら外見が変化してしまったのは転生事故? それとも何かの意味があるの? そんなことも考えてはみるが、それより今は、男になるのか、女になるのかが僕の大問題になった。



【光の聖獣王グリフォン】

 夕食の後、順番にお風呂に入り、浴衣に着替える。髪は、昨日同様、沙羅にとかして乾かしてもらった。毎日、こうしてもらっているらしい。慣れた手付きだ。時々、ルゥちゃんと目が合うのが気になる。

 髪を梳いてもらった後、僕は、一人で庭続きの屋敷の廊下に出て夜風にあたっていた。

 「キョウ殿、鏡月見とは風流ですな」

 声と共に、長身の小次郎が寸足らずの浴衣を着て、横に並んだ。僕は屋敷の池に映る月を眺めているところだった。こうして並ぶと、随分背丈が違う。ケンタウロスの森では、僕の体を片手で軽々と抱き上げていたし。そう言えば、あの時助けてもらった礼も言ってなかったっけ。

 「小次郎。その……、今朝はありがとう。助けてくれて」

 「礼などとは水くさい。いつもつれない態度のキョウ殿が、いつになく素直なご様子。何か悩み事でもあるのでござらぬか。何なりと、相談に乗りまするぞ」

 ふわっと全身を包み込むような小次郎の低い声の調子が心地良く聞こえた。

 「小次郎。あの、さ……、僕、男に見える? 女に見える?」

 小次郎の顔を見上げているうちに、ついそんな言葉が僕の口から出てしまった。僕は、慌てて口を手で塞いだが、もう遅い。小次郎は、一瞬眼光を鋭くした。

 「え、あの……、違うんだ……、今のは……」

 「何を言い出すかと思えば、ケンタウロスの謎かけの続きでござるか。森の賢者は、分かったふうな様子で、分からぬことを言うもの。隠れ住む者の常。気にすることはござらぬ。キョウ殿が、自身の胸が小さいことを悩む必要はござらぬよ。むしろ、貧乳フェチの拙者にとっては……」

 そこかい! それ、立派なセクハラ発言だからね。と、内心ツッコミを入れていた僕の目の前に突風と共に大きな影が舞い降りた。

 「ミ・ツ・ケ・タ」

 それは言った。女性の頭と見事な胸部に大きな翼を持った怪鳥だ。金色に光る眼で僕に刺すような視線を投げた。あの……、見つけたって、何を? 僕、食べても美味しくないと思うよ……


 僕は、小次郎に抱えられて飛んでいた。すぐ後ろで羽ばたきの音と激しい風圧を感じる。着地の衝撃と共に僕の体は宙に投げ出された。大きな物が木の床を転がる鈍い音がする。

 「不覚! こんな時に丸腰とは……」

 小次郎の叫びと呻き声に続いて床に打ち付けられ転がった僕の体は、さらに風圧で巻き上げられた。

 「痛ッ!」

 散々転がされた挙句、僕は強い力で腹を掴まれた。激痛で意識が薄れそうになる。


 トランペットとフルートの音色が聴こえた時は風を切って空に浮かんでいた僕の体。

 「ダメ! 遠過ぎて効かない!」

 「キョウ!」

 羽ばたきの風切り音と共に足下の灯りがぐんぐん遠くなる。立ち眩みを起こした時のように目の前が真っ白にになった。

 ほんの一瞬の出来事だったのだろう。僕は怪鳥に掴まれて空を飛んでいた。自分がどういう体勢なのかも分からない。頭を上にしているのか、逆さまか。ここで落とされたら間違いなく命は無い。何も掴まる物も無く、体の姿勢を制御することも出来ない。ただ、されるがまま。猛禽に捕まったウサギになった気分。

 その時、バサバサと羽ばたき音が乱れ、失速し、僕の周りで羽毛が大量に散った。辺り一面がキラキラと舞う光に包まれている。何が起こったのか分からないまま、僕は空中で反転、回転、急降下している事に気付いた。もう激しい風圧しか感じない。体の姿勢を気にしている余裕なんかない。

 「マスター! ツカマレ!」

 かすかな声に、僕の体が反射的に反応した。僕は何か毛深い物にしがみついていた。急に風圧から解放される。さっきの女の怪鳥じゃない。たてがみのある太い馬の首のような物だ。

 地上に降ろされた僕は、足に力が入らず土の上に倒れた。まだ体が浮遊している感じがする。それでも、地面の固い感触に僕は心底安心していた。うん、マジで死ぬかと思った。

 「マスター、ダイジョウブカ?」

 鷲のくちばしと鉤爪の足に馬の体と大きな翼の生き物が目の前に立っていた。淡い光に包まれているその姿はファンタジー映画やゲームの中で見たことがあるグリフォンだ。

 「……助けてくれたの?」

 僕は地面からわずかに顔を上げ、弱々しい声を出した。

 「マスターノコエヲキイタ。イトシイマスター、ブジデウレシイ。マスターヲ、ガイスルモノ、ユルサナイ」

 僕はグリフォンの鉤爪が掴んで地面に押し付けている物に気付いた。それは僕を襲った怪鳥の引き裂かれた体だった。すでに首は無くなっている。僕は地面に伏せたまま思わず身じろぎした。


 「キョウ!」

 沙羅が叫びながら駆け寄ってくる。

 「……光の聖獣王グリフォン。どうして……?」

 沙羅はだいぶ手前で立ち止まった。そこに梓と小次郎も走って合流した。良かった。小次郎も無事なようだ。僕はそう思った。

 「マスター、アレハ、テキカ、ミカタカ? テキナラクッテイイカ」

 「味方だよ! 食べないで!」

 「なにわめいているの? キョウ。何を食べるって?」

 と沙羅。その時、グリフォンが掴んでいる怪鳥の体に気付いたようだ。

 「ハーピーね。それはあなたを襲った怪物。味方じゃないわよ」

 「?」

 僕は、グリフォンの声が沙羅たちに聞こえていない事に気付いた。

 「マスター、ヒカリノハドウトトモニ」

 グリフォンは、そう言って、風を巻き起こし飛び去った。


 「良かった無事で!」

 沙羅は、僕に抱き付いた。

 「わたし、あなたに何かあったら、もう……」

 「拙者、一生の不覚。キョウ殿を助け、スペシャルイベントが発生するところだったものを、無念でござる」

 と小次郎。何を期待されていたのか考えたくもないけど、そんなイベント絶対無いからね。心配して損したと僕は思った。

 「安心したわ。ヴァーチャルキョウの設定が変わるんじゃないかって、心配したもの」

 あくまで、ヴァーチャル優先ですか。梓さん。



【闇の情報通】

 「ふむふむ、あれから色々あったんですね。特にキョウちゃん大変だったのね。怖かったでしょ」

 そこは町の喫茶店。メイド服の店員さんは、沙羅の話を聞き終わると、ハートの模様を描いたカプチーノのおかわりを洒落た仕草でテーブルに置いた。彼女の名前は、マリアンヌ、通称アンヌ。柔らかそうなブルネットをボブカットにした笑顔の可愛いお姉さんだ。

 「それで、この子は、ケルピーだったのね」

 とアンヌ。

 「そう。村からついて来ちゃったのよね。キョウから離れようとしないの」

 と沙羅は、頬づえを突いてさも不満そうな顔。

 ケルピーの少女は、ショートケーキを手で掴んで頬張っている。口の周りに生クリームをいっぱいつけたまま、目を丸くして嬉しそう。

 レイと名付けたその子は、裸のままでは困ると言う沙羅に上半身だけ無理矢理服を着せられていた。麻色の長い髪は僕が三つ編みにしてやった。下半身が仔馬の体で座ることは出来ないので、テーブルの横に立ったまま。


 「食費が増えて困るのよね。今借りている部屋も狭くなるし。キョウを養うだけでもお金がかかるっていうのに、こんな子まで連れ込んで」

 と沙羅は、カプチーノに息を吹きかけながらぶつぶつ。

 「ドケチ」

 レイはそう言って、沙羅に挑戦的な視線を投げた。

 「キョウ! あなた、またこの子にへんな言葉教えたでしょ!」

 「ドケチ!」

 怒鳴る沙羅を、レイは犬歯を剥き出して睨んだ。

 「ああ、もう! ケーキを口に入れたままで、ポロポロこぼして。それから、袖口で生クリームを拭かないで。その服高かったんだからね! 誰が洗濯すると思ってるの!」

 沙羅の剣幕に怯えたように大きな目を潤ませたかと思うと、レイは僕に抱きついて、ピーと泣き出した。

 うん、もうね。穏やかな日常なんて諦めましたけど、僕。


 「サラ、あのさ……、それより大事な用件が……」

 「そうそう、アンヌ、あなたなら何か知ってるんじゃないかと思って来たの。でも、これから話す事は他言無用ってことで……、ほらキョウ説明して」

 「依頼人の秘密を守るのは私の仕事よ。どんな用件かしら?」

 とアンヌが少し声のトーンを落とした。この喫茶店は、魔物退治の依頼人と請負い人の情報交換の場になっているシークレットスポットだと沙羅が教えてくれていた。秘密の案件の場合、アンヌが仕事の依頼を仲介することもあるため、彼女は裏事情にも通じた情報通とのことだ。予めそう説明を受けていると、メイド服の店員さんが裏の顔を持つプロに見えてしまって緊張する。

 「あの……、僕を助けてくれたグリフォンが言ったんだ。でも、その声……、僕にだけ聞こえてたみたい。“光の波動と共に”って。その、意味が分からなくて」

 ルゥちゃんにも、歌姫にもその言葉の意味は解けなかった。

 「うーん。それだけじゃ、私にも意味が分からないかな。特定の暗号ってわけでもないし。何かのメッセージには違いないんだろうけど、私もグリフォンになんて会ったことはないし」

 と首を傾げるアンヌ。

 あの夜、歌姫は、傷ついた僕の体を治療しながら、状況が切迫していると告げた。出来るだけ早く行動に移らないと、大変な事が起きるらしい。一番の問題は、その行動が分からない事だ。女になって妖魔の血を捨てろと歌姫は言うが、その方法も分からない。

 店を出る時、アンヌは、さり気無く目配せしながら無言で僕に何かを渡した。それは、小さく丸めた紙片だった。

 “一人で来て”

 住所と日時と共に、そう書いてあった。



 僕は沙羅とレイと一緒に賑やかな通りを歩いていた。重たいチューバはレイが背に乗せてくれているので雑踏の中でも歩くのが楽だ。フリルとリボン付きのスカートにもだいぶ慣れてきた。あれ? そういえば……

 「今日は、ルゥちゃんは一緒じゃないの?」と、僕。

 「使い魔のオフ会があるって、今朝から出かけたわ。キョウ、あなたはいつものように、寝坊して気付かなかったでしょうけど」

 「オフ会って……」

 この世界には、妙にあの世界のネットっぽい要素が混ざっている。魔網と呼ばれる情報網もあり、ソーシャルネットワークもあるらしくて、お店選びも口コミを参考にする。そんな時、使い魔はインターフェースのようなものだ。

 レイは、お菓子屋さんの前を通るたびに、華やかなショウケースに張り付くようにのぞき込んで、引き剥がすのに苦労する。沙羅はさんざん文句を言いながらも、時々レイにタルトや焼き菓子を買ってくれた。その時だけ、レイは無邪気な笑顔を沙羅に見せる。


 平穏な光景の中、アンヌから渡された紙片のメッセージに、僕、まだ迷ってる。

 のこのこ出かけて行って、歌姫の時と同じように妖精体の事がバレるのはごめんだ。その反面、沙羅にもアンヌにも秘密を抱えたままで、アドバイスを欲しいというのも虫が良すぎる気がする。

 いっその事、歌姫の助言を無視して、沙羅に洗いざらい打ち明けてしまった上で相談した方がいいのかな。しかし、アンヌは、一人で来いと指示した。沙羅を避けているのだろうか。

 「ねえ、キョウ。聞いてる? ほらあの淡い空色の服、とっても綺麗。キョウに似合うと思わない?」

 ブティックだってこの世界にはある。ウインドウショッピングをしながら、沙羅は、僕に試着をさせようとする。お金が掛かると文句を言っているくせに、この数日ですでに何着か僕の服ばかり買ってくれた。ダングレア退治の報奨金と分捕った戦利金で財布の紐が緩んでいるのだろう。

 正直なところ、僕、オシャレには興味持てないけど、試着した時の沙羅の目の輝きを見るのが楽しみになってきた。試着室の鏡に映る自分自身の姿の違和感もだいぶ薄れてきた。あの世界で男だった自分の記憶がどんどん遠くなる気がする。


 「あれ、キョウじゃん! ひっさしぶり!」

 緑のグラデーションに髪を染めた女の子が通りの向こうから駆け寄ってきた。

 「キョウも、サルサーンに出て来ていたんだね! びっくりしちゃった。相変わらず可愛いね。あれ、一緒にいるのは、もしかして、彼氏?」

 いや、沙羅さんです。男の子っぽい服は着てるけど、体形で間違えよう無いでしょ。って、あなた誰?

 「え、えっと……?」

 「クラリネットのシャルマだよ。隣村の」

 女の子は跳ねるような調子で言った。

 ごめん。全く覚えが無いけど、吹部仲間だったみたい。ここは愛想笑いで話を合わせないといけない場面だね。うん。隣では、沙羅が目を尖らせて両手を腰にしてるし、レイはフーフー唸ってるけど……


 「あは、ごめん。思い出した。久しぶり……だね。その、すごく……元気そうだね」と作り笑顔で顔を引きつらせる僕。

 「変わってないね! キョウ。キョドった感じが可愛くって、抱きしめちゃいたいくらい」

 「キョウ、誰、このバッタみたいな子?」と敵意丸出しの沙羅。

 「やだなー。バッタだなんて。うんうん。言えてるかも。あたい、跳ねるの好きだし」

 と、その場で、髪と服をなびかせてぴょんぴょん飛び跳ねるシャルマ。パンツ見えてますけど……。うん。頭のネジがかなり緩んでいるのは確かだ。

 「あんな事故があったのに、よく無事だったよね。キョウ。みんな、あんたのこと奇跡の生存者だって言ってた」

 シャルマの言葉に、急に、僕は何かを思い出しそうになった。

 「え? 事故……」


 「うん。残念だったね。キョウの村。隕石で全滅しちゃって」



 事故、全滅。二つのフレーズを聞いた時、僕の頭の中に、粉々に砕けたプリズムのような記憶の断片がフラッシュバックして渦巻いた。全身を焼き尽くす熱波。車の急ブレーキの音。悲鳴。絶叫。魂を切り裂く不協和音の洪水。ガシャガシャと歪み、収縮する世界。僕は、意識が遠のき、立っていられなくなった。

 「キョウ!」

 沙羅の声が遠くで聞こえる……



 目が覚めた時、僕は、沙羅の部屋のベッドで横になっていた。沙羅とレイと一緒に、緑色のグラデーションの髪の少女が僕の顔を覗き込んでいる。

 「ごめんね。キョウ。事故のことトラウマになってたんだね。もう大丈夫?」

 シャルマが心配そうにそう言った。

 「聞いたわ。あなたの生まれ育った村のこと……。どうりで、過去や自分の生い立ちの事を話したがらなかったのね。気付いて上げられなくてごめんなさい」

 そう言う沙羅の目には涙で赤く泣き腫らしたあとが見える。その隣でレイは、まだ泣いている。

 思い出した。僕は、あの世界、あの事故の時、最後に沙羅の名前を叫んだんだ。思い出せたのはそれだけなのに、今、こうして沙羅に手を握ってもらいその温かみを感じていると、なぜか落ち着いた気持ちになった。

 「ほんとうに、ごめんなさい。わたし、あなたをただの頭の鈍い可哀そうな子だとばかり思ってて。だって、世話ばかり焼かせるんですもの。自分では髪もとけないし、すぐ転んで擦り傷作るし、服は汚すし、食べ物はこぼすし、……」

 あのー、沙羅さん……、落ち着いて。心配するか、けなすか、どちらかにしてもらえます?



 キョウ=エスターシャ=ノヴァレンコア、その仰々しい名前が、この世界の僕の名前だった。如月キョウという人間はこの世界にはいなかったのだ。キョウは、北方の小国ジャイルマの小さな村の出身で、十六才の誕生日の当日、村を襲った隕石による大爆発事故の唯一の生存者。それが、シャルマから得た知識だった。

 おそらく、キョウは、その事故で死んだのだろう。そして、別世界の僕の事故と何かの仕組みでリンクし、僕の意識と彼女の実体がつながり、この世界で再生したのだ。それは僕の推測に過ぎないし、難しい理屈も分からない。だが、彼女を再生しなければならない、重大な理由があったことを僕自身の体が感じている気がする。

 やっぱり、僕、アンヌに会いに行こうと思う。ちょっと怖いけど……。歌姫の言う通りだ。自分の事は自分が知ってなきゃいけないと思う。



 紙片に指定された日時、昼下がりの街並み、アンヌの部屋はレンガ造りのとんがり屋根の棟続きの家の中だった。闇世界の人脈にも通じているという話だった彼女、もっと謎めいた場所かと思った。一帯が住宅地なのだろう。華やかな表通りと違って、落ち着いた雰囲気の家が多い。それでいて、庭や窓は色とりどりの花で飾られている。

 アンヌは、普段着で僕を迎えた。

 「ちゃんと一人で来たんだ。えらいね」

 そう言って、アンヌは香りの強い濃いめの紅茶を出してくれた。

 「どうぞ」

 花柄のティーカップとソーサーをテーブルに乗せた後、アンヌは、僕の髪を軽く撫でた。

 「それで、グリフォンの話だっけ? キョウちゃんが会ったのは、光の波動を司る聖獣だね。ちょっと調べてみたんだけど」

 アンヌは小さなテーブルを挟んで、脚を組んで座った。

 「何かわかったの?」

 テーブルに身を乗り出した僕に、アンヌはにっこりと笑いかけた。

 「分かったのはそれだけ。だって、キョウちゃん自身に秘密な部分が多過ぎるんだもの」

 「……」

 「ほら、そうやって、口を閉ざすでしょ。言葉に出来ない思いを抱えているのね」

 「あの……」

 「沙羅がいけないのよね。あの子、いらない事までしゃべり過ぎだから……。ところで、あなたボーイフレンドいる?」

 「え? ボ、ボーイ……」

 なぜか、僕の脳裏に小次郎の顔がよぎった。いや、絶対あり得ないから。そりゃ、抱きかかえられた時、頼りになるって思ったし、包み込まれそうだとふと思ったことあるけど……

 「あなたくらいの年頃で、その可愛さだったら、いない方が不思議だと思うけどな。じゃ、ガールフレンドは?」

 僕は口にしていた紅茶にむせて、咳込んでしまった。

 「ごめん。聞き方が悪かったかしら。じゃあ、言い換えるね……。沙羅とはどこまで進んでいるの?」

 「え? ええっと……、どこまでって……、あの…、その……」

 「思った通りの反応だわ。そんなに顔を真っ赤にしちゃって、可愛い。食べちゃいたいくらい」

 アンヌはテーブルの上で顔を近づけてきた。近い。近過ぎます……

 「私も、女の子が好きなの。特にあなたのような可愛い子が」

 そ、そっち系のかたでしたか。って、ツッコミ入れなきゃならない状況? 「も」ってどういう意味? これって、それなりにピンチじゃ……


 「そのために、呼び出したの?」

 警戒感をあらわにした僕の様子に、悪戯っぽい笑みを浮かべたアンヌは、甘い香水の香りを残してするりと身を引いた。

 「ううん。ちゃんと、キョウちゃんの相談に乗ってあげるためだよ。でも、こういう事は、最初に言っておきたかったの。私は、キョウちゃんが好きだって。あなた、言わないと分からない子でしょ」

 「相談?」

 「そう。迷っている事があるんでしょ? 目がそう言ってるもの。憂いを隠そうとする長い睫毛の目。思わず、キュンときちゃう。グリフォンの話はいわば口実で、あなた自身の事よね」

 「……僕、何をしたらいいのか分からないの。いつも沙羅の足手まといになってばかりで。頭の弱い子だって思われてるし、……そうかもしれないけど。誰も皆、僕のこと決めつけている……可愛いけど、か弱くて、可哀そうな、女の子って。でも……」

 「違うんだね」

 僕はただこっくりうなずいた。

 「それは、キョウちゃん自身はすごく悩むと思うよ。他人から決めつけられる事ほど苦しいことはないから。辛いけど、それが人間なの。みんな誰かを自分の枠にはめて生きている。だけど、信じて。私がキョウちゃんを好きだって言ったこと。もちろん今でも大好きだから」

 「アンヌ、優しいんだね。僕、ちょっと誤解してたかも」

 「うん。好きな子には特に優しいよ」

 アンヌは、立ち上がって、僕の髪を手にとった。

 「この髪、毎日、沙羅がブラッシングしてくれるんでしょう。服も凄く似合ってる。沙羅が選んでくれるんでしょう。悔しいな。私、沙羅にかなわないから。でも、私も諦めないよ。きっと、みんなそう。あなたのことが好きでたまらないの」

 「僕、アンヌのこと好きになった」

 「ありがとう。そう言ってもらえると、凄く嬉しい」

 アンヌは満面の笑みを見せたが、僕と視線を交わして表情を固くした。

 「注告もしとくね。歌姫のセイナに会ったでしょう。彼女は異質なる物。警戒して」

 「それって、どういう……」

 「意味なんて無いよ。ただ異質なの。悪意も善意も無いって言えば分かるかな。キョウちゃんのハートで感じて」

 そう言って、アンヌは僕の胸に手を当てた。

 うん。やっぱり分からない。だけど、無理に答えを出さなくてもいいような気がしてきた。僕が何者か。何をしたら良いのか。僕自身、そして、この体、キョウという少女が、決めることなんだ。



【辺境伯の縁談】

 翌日、アンヌの喫茶店に、沙羅、シャルマ、ルゥちゃん、僕、そしてレイがテーブルの片側に寄り集まっていた。

 テーブルを挟んで、身動きに苦労しそうな派手なドレスを着た少女が扇片手に座り、その横に黒い執事服に白手袋の若い金髪の男性が背筋を伸ばして立っている。

 はたから見たらかなり異様な光景に見える自信が僕ある。アンヌの人払いの魔法が無ければ、不用意に入ってきたお客さんが引きつった顔で逃げ出すことだろう。

 「今日は、大事な要件のため、庶民に身をやつし、お忍びで参りましたのよ。私」

 少女が苛立ちを露わに声を出した。年は十三か十四といった感じ。輝くような銀色の髪にカールをきかせ、レースの襟飾りの上でふわふわと躍らせている。口元を扇で隠しているが眼光も言葉同様きつい。これで、庶民を演じていると言うのなら、普段の姿を見るのが怖い。

 「マリアンヌ、分かっていらしてよね。私、楽師を呼んだつもりよ。サーカス団をたのんだ覚えなんて無くってよ」

 「はぁ! 誰がサーカス団ですって!」

 早くも喧嘩腰で身を乗り出す沙羅。目の前の少女は冷ややかな笑みを浮かべている。

 「まあまあ、沙羅ちゃん。ほら、お仕事依頼の契約書のこの部分、よーく見て。ほら、数字がいっぱい並んでて素敵でしょ?」

 さすが、アンヌ姉さん沙羅をなだめるツボをよくご存じで……。沙羅は、むすっとした表情のままながら椅子に座り直した。

 「キョウ、後はあんたに任せたわよ。わたし、営業スマイル苦手だから」

 「は……、はぁ……」

 急に話をふられた僕は、引きつった愛想笑いを浮かべた。

 彼女はロマノフェレン子爵家の令嬢、名前は、ジュリア。本名は長過ぎるので、省略しよう。正直言って覚えてない。貴族のお嬢様で、今回の仕事の依頼者本人だ。

 「あなたが、例のキョウね。ふーん……、大したことないじゃない」

 ジュリアは、僕の顔を無遠慮にじろじろ見るなり、そう言った。

 「はい?」

 「最近話題のネットアイドルでしょ。期待して損したわ」

 うん。ネット云々は梓の仕業に間違いない。僕の引きつった愛想笑いがこめかみ辺りでピクピクと震えた。

 「あなた程度の女の子くらい、お城のメイドの中に掃いて捨てるほどいるわ」

 「すごいね! 本物のお姫様だね。きっと、パンツまで豪華なんだろうね」

 と、物怖じという言葉を知らないシャルマ。ほら、執事さんが怖い顔してるってば。

 「下賎な平民の間ではそんな冗談が流行ってるのかしら。全く笑えないわ」

 ジュリアは冷たい侮蔑の視線を目の端からちらりとシャルマに投げた。まるで、見るだけで目が汚れるとでも言いたげだ。その表情を見て僕の中で何かがぷつん切れた。

 「下賎とか、平民とか、貴族とか関係無いんじゃないの?」

 僕の口からそんな言葉が飛び出していた。

 「これって、仕事の契約だよね。つまり、お互い対等な立場ってことでしょ? 身分なんて関係あるの?」

 感情を露わにそう言う僕を、ルゥちゃんが目を皿のようにして見上げている。うん。ツッコミを入れたい気持ちは分かるけど、今は黙っててね。


 「口を慎むがよい。女! ジュリア姫の御前で無礼な発言は許さぬ」

 執事が背筋をぴんと伸ばしたまま口を挟んだ。

 「なんだ、やんのか? 黒執事!」

 そう言いながら、僕、立ち上がっちゃった。自分でもびっくりしてるけど。

 「姫。お許しを。この跳ねっ返りの小娘、少しばかり調教の必要がありそうです。すぐに済ませますので」

 執事は、少しだけ身をかがめ、そうジュリアに告げると、僕に向かって一歩踏み出した。

 身構えようとした僕の横でガタリと音がして、風がふわっと舞った次の瞬間、背の高い執事はその背中を後ろに仰け反らせていた。その首にキラリと光る物が見える。レイが執事の腕を後ろに捩上げ、ナイフを首に押し当てているのだ。

 目にも止まらない早業だった。

 「やめて! レイ!」

 レイの無表情な目がちかっと光るのを見て、僕はとっさに叫んだ。命を奪うのに躊躇を知らない目だと僕は直感した。

 レイは、キョトンとした顔で僕を見て、仔馬の足で後ろに飛び退いた。

 「ま、そういうことだから、出す物出すんなら、仕事は受ける。嫌なら、とっとと出てってもらおうじゃない」

 と、どさくさに紛れて凄みをきかせる沙羅。さすがです。出どころは逃しません。

 「いいでしょう。良い余興にはなりそうね。曲芸団の座長さん」

 子爵令嬢は扇を口から離さないままそう言った。



 「私、ランドワール辺境伯に求婚されましたの。まあ、私ほどの美貌と由緒正しい家柄を併せ持つ身、世の高貴な殿方が放っておくはずがない事は分かりきった事でしてよね。

 でも、あのへんぴな田舎に二つ返事で嫁ぐなんて、私のプライドが許しません。確かに、家格では彼方が上ですけど、ロマノフェレン家は歴史ある武家。

 それで、依頼というのは、あなた方に、影ながらこの縁談の邪魔をしていただきたいの。もちろん極秘で。そして、破談にはしないように。

 お相手のランドワール卿は、美丈夫なお方で、お若いのに国王陛下の信任もあつく将来を嘱望されておりましてよ。だから、表立った妨害工作は出来ないの。

 少しばかり時間を稼いでいただきたいの。その間に、私への十分な誠意が試せるか、または、もっと高貴なお方からの縁談が持ち上がるかするまで。

 どう? お分りでしてよね? 話を聞いた以上、否応は命に関わると思いなさい。契約書通り、これは前金です」

 ジュリアは、話し終えると、重そうな袋をテーブルの上にドサッと置いた。

 沙羅は目を輝かせて、僕に右手の親指を立てて見せた。いや、今の話の内容でどんな自信を持てるのか、皆目見当がつかないし、僕、ただ悪い予感しかしないんですけど。



 「あのさ、ランドワール伯爵本人に接触しなければ話し始まらないんだよ。安請け合いしてどうするつもり?」

 子爵令嬢と黒執事が帰った後の喫茶店で、僕は、そう言っていた。貴族の縁談を妨害する仕事だなんて無謀としか思えない。Sランク戦闘力の沙羅が得意な魔物退治とは勝手が違うのだ。

 「簡単でしょ。色仕掛けよ」

 と、あっさり言う沙羅。椅子に座ったまま、子爵令嬢の前金を勘定するのに忙しそうで、目も上げようとしない。

 「あ、そう。じゃあ、沙羅頑張って。僕、影ながら応援してるし」

 「何言ってんの。わたしがそんな破廉恥な事するわけないでしょ! キョウ、あなたがやるのよ」

 ようやく顔を上げた沙羅は、僕と目が合うと、にっと笑った。毎度の事ながら、金貨を前にすると人格が変わる沙羅。今、破廉恥って言いましたよね。ハッキリと。それを僕にやれと? 僕、色気なんか使えるわけない。ぜーったい無理だから。まだ完全に女の子になったわけじゃないし……

 「まあまあ、キョウちゃん、そんなに深刻に考えなくても。サクッと気を引くだけでいいんじゃない? ね、潜入した後は、沙羅ちゃんに任せればいいんだから」

 プルプルと震わせている僕の肩に軽く手を置いて、笑顔でフォローしているつもりらしいメイド服姿のアンヌ。あんたもグル? 味方だと思ってたのに……

 相手は、あの子爵令嬢に求婚するような男だよ。正常な神経と健全な精神の持ち主とはとても思えない。そんなのに色仕掛けだなんて、万が一、捕まりでもしたら、僕、色々な意味でやばいんですけど。

 「もしもだよ、相手が変に誤解して、ややこしい事になったりしたらどうするの? バレちゃうかもよ、その……、妨害工作とか……」

 「だいじょぶ。問題ない」と、簡単に受け流す沙羅。

 「うん。だって、ほら、キョウちゃん、女の子にしか興味無いから」

 と、さらりと笑顔で言うアンヌ。

 いや、問題ありありなんですけど、その発言自体。事実と言えば、事実ですけど……

 「まあ、僕達一般人が、貴族にお目通りなんて、そう簡単に出来っこないし……」

 と独り言で安心しようとする僕。

 「その点は任せて」

 いつの間に現れたのか梓。

 「三ヶ日、あなたまでどうしてここにいるの?」と沙羅。

 「コーディネーターに頼まれたんだよ。今回は、私、後方支援だけど、ランドワール伯爵との接点は私が手引きしてあげる」

 と梓。コーディネーターって……、ニコニコ笑顔で立っているアンヌだよね。今回のようなお仕事紹介の場合、彼女が仲介手数料として、報酬の一割を取ると、ルゥちゃんが補足してくれた。やはり、地獄の沙汰も金次第ですか……。梓の手引きだなんて、例によって嫌な予感しかしないんですけど。



 ランドワール伯爵領までは定期便の駅馬車に揺られて三日間の道のり。確かに遠い。この世界、インターネットっぽいものまであるのに、電車とかバスは無いの?

 ガスも電気の灯りも無いので、町を離れると、夜は漆黒の闇の中。満天の星空は言葉をなくすほどに綺麗。月は低く、星が落ちてきそうな迫力がある。あの世界では写真でしか見たことがなかった天の河もはっきりと見える。

 不思議と言えば不思議かも。何もかも変わっているように思えるけど、これは僕の知っている地球なんだ。星座は見知った星座のままだし、月の形も満ち欠けも同じ。体感する一日の長さも同じ。それなのに、違う世界。パラレルワールドというものだろうか?

 ネット環境も電気信号ではなく、ルゥちゃんのような使い魔を媒体にした魔力通信網らしい。見渡す限り続く原野の中でも、圏外になったりせず情報にアクセス可能なので、通過中の土地について常時ルゥちゃんが解説してくれる。名物料理とか、名所、旧跡などの観光情報も。

 馬車での旅行なんて初めの経験だ。固い車輪のゴツゴツした感触を予想していたけど、バネ代わりの革のスリングに支えられた客室の乗り心地は揺りかごのようだ。ついうとうと居眠りしてしまっては、沙羅に突つかれて起こされる。

 「魔物や盗賊団の襲撃への警戒が必要です。金目の物を運ぶことが多い駅馬車は彼らの格好の餌食ですから」

 などと、怖いことまで説明してくれるルゥちゃん。危険なフラグ立てるのはやめてね。


 馬車に揺られるのが苦手なレイは、自力で走ってついてくる。半身仔馬だからね。でも、走り続けで疲れないのかな。

 「大人のケルピーは一日千里を馳けると言われていますから、幼体にとってもこの程度は散歩のようなものでしょう」

 と、ルゥちゃん。何気にいろいろすごいレイちゃんだ。ケルピーのような幻獣が人間に懐くことは極めて希で、人前に姿を現すこと自体が非常に珍しいらしい。ずっと一緒にいるので、そんなに珍しい生き物だとも思えなくなっている僕、身体だけじゃなくて、頭までファンタジーしてるな。


 途中、宿場駅で二泊するので、日中ずっと馬車に揺られた疲れも少し癒せる。


 「キョウは、ランドワール領、初めてですか?」

 駅馬車に同乗している少年が休憩所で話しかけてきた。全身を覆う黒っぽいローブを着て、その記章は魔導士のものだとルゥちゃんが言ってた。彼も、ルゥちゃんと同じ大きさの犬耳使い魔を連れている。その使い魔が僕の顔を無表情な青い瞳でじっと見上げていた。

 少年の名は、カウル、使い魔の名前はイフ=レーミン。同乗した時、そう自己紹介してもらった。

 「うん、たぶんね……」

 記憶に無いとも言えないので、僕は曖昧な愛想笑いを浮かべた。

 「いつもブログ見てますよ」

 「へ?」

 「私の兄がファンなんです。ネットアイドルキョウの」

 「あ……、はは」何の事だろうって、もちろん見当は付いてる。梓の仕業だ。僕は愛想笑いのこめかみをピクつかせた。

 「特に無防備な寝顔が可愛いって言ってました。駅馬車で一緒だったなんて言ったら、羨ましがられます」

 カウルはそう言って、クスクス笑った。頭をすっぽりと覆うフードからのぞいた顔立ちは幼顔で可愛らしいものの整って気品さえ感じられる。金髪の美形の少年だ。

 僕にプライバシーは無いのかい、梓。帰ったら、とっちめてやりたいけど、返り討ちにされるのがオチだろうな……。彼女も準Sランクの戦闘力を持っているとルゥちゃんが言ってた。僕はこぶしを握りしめて肩をプルプルと震わせるしかなかった。

 まあ、寝顔くらい、居眠りしている間、この少年にもしっかり見られているよね。べ、別にいいけど……、見られていたと意識すると、妙に恥ずかしい。だらし無く口開けたりしてなかったよね。

 「キョウ、もしよろしければ、私の兄の家に寄ってもらえませんか? 田舎ですし、異郷で女の子ばかりでは心細いでしょう。大したおもてなしは出来ませんが、暖かい食事とベッドくらいは提供できます」

 「え? でも、そんな急なお招きで……、いいの?」

 僕にとっては異世界のさらに辺境の見知らぬ土地、心細いのは確かだし、旅は道連れ世は情けとは言うものの、そんな、いきなり……、話が旨すぎるような。

 「これも何かの縁です。ぜひ。あ……、それから念のために言っておきますけど、下心とか全く無いので安心して下さい。俺、男の子にしか興味無いので」

 かなり大胆に聞こえるBL発言を明け透けに口にする少年。カミングアウトって意気込みでもなく、さらりと言い切った。アンヌといい、この世界では、人前でこういう宣言をするのは普通なのだろうか。だとすると、驚いた様子を見せるのは変に怪しまれるだけだ。男の子を好きだという発言自体、僕にとっては微妙に危ない感じがして、気になるけど。

 「うん。じゃあ、サラに相談してみる」

 出来るだけ平静を装って言った僕の言葉に、カウルは、クスクスと笑った。無邪気で天衣無縫な笑顔。そんな感じがした。

 「あなたと沙羅はどういうご関係なんですか?」

 自身に関する発言も直球だけど、質問もど直球なカウル。

 「特別な関係のようにも見えるし、保護者と被保護者のようにも見えて、不思議なんです」

 「べ、別に、特別とかそんなんじゃなくて、僕たち……」

 「その慌てぶりからすると、告白する前の特別な関係ですね。自分の感情は口に出して言える時に言っておいたほうがいいですよ。ことわざがあるでしょう。愛は後悔する前に語れって」

 ずいぶん立ち入ったアドバイスだけど、本当に、そんなんじゃないから、僕たち。

 正直なところ、あの世界ではそんな想いもあった……、たぶん、お互いに意識し合っていたと思う。そして、僕の沙羅への想いは、今でも記憶のまま。それは、今の生活とは相容れない想いなのだ。

 僕にも、この世界の自分の事が少しずつ分かってきた。記憶だけが別世界の如月キョウのもので、体はこの世界のキョウ=エスターシャのもの。男でも女でもないが、外見はほぼ女の子。そして、たぶん、心も……。

 如月キョウは、年頃の男の子並に優柔不断で引っ込み思案なところもあったが、周りに流され易く、こんなにマイペースではなかった。同調して上手く立ち回る方で、こんなにドジっ子ではなかった。こんなに優しい性格でもなく、見て見ぬ振りが得意で、如月キョウなら、身を盾にしてレイを守ることもなかっただろう。

 記憶が失われているけど、キョウ=エスターシャにも、カウルのような想いを寄せる男の子がいたかもしれない。ふと、そんなことを思ってしまった。

 「互いに同性が好きな者同士、いいお友達になれそうですね」

 屈託の無い笑顔でそう言うカウルに、僕は素直にうなずくことは出来なかった。その笑顔は、逆光のせいで眩しく見え、いつも愛想笑いでごまかす自分が恥ずかしく思えた。


【エディバラ=ランドワール殿下】

 駅馬車はランドワール領に着いた。伯爵の居城を囲む城下町はそれなりの賑わいと活気にあふれていた。

 途中、心配していた盗賊団の襲撃も無く、安心したのもつかの間、終着駅で、馬車はものものしい完全武装の衛兵に取り囲まれた。

 「どうしたのいったい? わたしたちまだ騒ぎを起こしてないわよ」

 いち早く異変に気付いた沙羅は馬車の中で身構えている。やっぱり、騒ぎを起こすつもりだったんですか? 

 馬車の馭者はうろたえて辺りを見回している。馬たちも落ち着かない様子で足掻き始めた。

 僕の前の座席に向かい合って座っていたカウルが不平そうな顔で舌打ちと共に立ち上がった。

 「どうも様子がおかしいと思ってたんだ。オシリス! 街道に防御結界を張ったのは君だね。せっかくハプニングを期待していたっていうのに、ぶち壊しだよ」

 「ご酔狂と悪戯が過ぎますぞ。エディバラ殿下。お忍びで駅馬車などに乗った事が伯爵に知れましたら、叱責を受けるのは守役の私めです」

 赤に金字の刺繍のローブに身を包んだ背の高い男が衛兵の前に出て来てそう言った。

 「やれやれ、空気が読めないのは宮廷魔術士の悪い癖らしい」

 カウルは、そう言って、唖然としている僕に振り返った。

 「フルネームの紹介が遅れたことをお詫びします。私の名は、カウル=エディバラ=ランドワール。そして、当領主の伯爵は私の兄です」

 「……」

 「やはり、驚かせてしまいましたか。まずは、ランドワールにようこそ。キョウ=エスターシャ嬢」


 「人気のネットアイドル本人が地方巡業のためランドワール領に降臨するという噂がネットで拡散されていたんです。イフに頼んで情報ソースを調べてもらったら、旅程表までリークされていて、急いで、同じ駅馬車に乗り込んだというわけ。俺も、サルサーンに滞在中だったから丁度良かった」

 と、屈託の無い笑顔のままのカウル。騙したんだね。口には出せないが、僕はそう思った。驚いたと言えば確かに驚いた。気品がある少年だと思っていたけど、それが伯爵の弟、つまり貴族のお忍び旅行だったなんて。

 ここには厳然とした階級社会がある。生まれ持った身分の違いが人の在り方を決める世界だ。カウルの言葉は、それを感じさせないよう繕っているが、正体を知ってしまった後では、道楽で庶民のふりをするのを隠していたとしか受け取れない。

 本当に、友達になれそうだと思ってたのに。

 ま、騙すのが目的で乗り込んで来た僕に言える筋合いは無いけどね。


 先に馬車を降りたカウルは、近づく屈強な体格の衛兵を軽く左手で制し、僕に右手を差し出している。最初意味が分からなかったけど、その手につかまれということだと僕は察した。映画でしか見たことの無い社交界の男性が女性をエスコートする仕草だ。

 なんだか癪だ。友達にすらなれない人間だということを匂わせる生まれ持った気品と自然過ぎる態度。男女の違いを決めつけるカウルと彼を取り囲む衛兵の威圧感を目の前に、僕はためらっていた。カウルに従うしかないことくらい分かってるけど……

 「キョウ、いつもの営業スマイル。笑顔よ。え・が・お」

 馬車のステップで固まってしまった僕に、背後から沙羅が言った。

 「梓さんからチャットが届いています。ファンサービスを忘れないようにと」

 と、同じく馬車の中から指示するルゥちゃん。

 衛兵が盾になって駅馬車を取り囲んでいる外側には、大勢の野次馬が集まっていた。

 ファンって、この群れ集まった男たちのこと? この状況で僕何を求められているの?

 僕は引きつった笑顔を浮かべ、カウルの手に左手を乗せた。そして、右手を上げて振って見せた。野次馬の中から大きなどよめきと歓声が上がる。こうなったら、ネットアイドルとやらになりきるしかない。もう、どうにでもなれだ。

 「いい感じで恥じらって、挙動もいつも通り不自然です」と抑揚の無い声で言うルゥ。

 「か、可愛い! キョドってて」とシャルマ。

 「キョウ、その調子よ。やっぱり、変に媚びるより、おどおどしていた方が良いわ」と沙羅。馬車の中から顔だけ出して、好き勝手言ってる。

 三人とも他人事だと思ってるよね。自分では結構堂々と振舞っているつもりなのに、そんなに不自然に見えるのかな。


 「エディバラ殿下、このお方は?」

 赤いローブの男が近づいてきて怪訝そうにたずねた。

 「キョウ=エスターシャ嬢。兄上の客人だ。馬車に乗っているお三方共に楽師の一行だよ」

 と、素っ気なく言うカウル。

 「ご来訪の予定も目的も伯爵より伺っておりませんが」

 「決めたのは私だ。文句あるかい? オシリス」

 オシリスと呼ばれた男は、馬車の中で顔を並べている沙羅、ルゥちゃん、シャルマを順繰りに見回している。沙羅は無愛想、ルゥは無表情、シャルマは思いっきり笑顔でポーズまで決めてる。僕の顔に再度視線を留めたオシリスが眉間に皺を寄せたまま、眉毛だけを微かに動かした。何故かそこにほんの少しだけ奇妙な間を感じた。

 「得体の知れない者共を招いて伯爵の叱責を受けるのは私めですからな。少しでも不審な動きを見せたら、拘束だけでは済まされぬと思うがよい」

 オシリスは、表情を崩さないまま、僕たちに向かってそう言った。

 「待って! 僕たちまだ行くって決めたわけじゃないし。うん、そう。決めた。僕、招待には応じられない! ごめんね、カウル」



 「伯爵の居城に潜入出来るせっかくのチャンスだったのに、あなたって子は……」
 城下町の宿屋の一室に落ち着くと、沙羅はそう言って頭を抱えている。

 「だって、あのままホイホイついて行くのは嫌だったんだ。なんか癪って言うか」と僕。あの後、カウルは再三、城に滞在することを勧めたが、それを強引に断ってしまったのだ。

 「妙なところで意地を張っちゃて。まさか、惚れたとか?」と沙羅。

 「へ?」

 「なになに? キョウが? 誰に? あの、オシリスっていう怖そうな人?」

 普通にあり得ないから。勘違いのレベルもそこまで行くと悪意を感じるよ、シャルマ。

 「ほら、あの伯爵の弟君。可愛い男の子。旅行の間、親しげだったし、キャビンの中ではずっとキョウと向かい合った席だったでしょ」

 シャルマのオシリス発言はあっさりスルーの沙羅。

 「い、いや、あり得ないから……。そんなこと、僕……」

 「うん、確かに。休憩時間も、二人だけで話し込んでいたよ」と、急に訳知り顔のシャルマ。

 「キョウ。あなた、まさか図星? 冗談で言っただけなのに、顔真っ赤よ」

 「だから、違うってば!」

 「じゃあ、どうしてあんなに意地張ったの? 好意で招待してくれただけでしょ。むげに断って、失礼だと思わなかった?」と沙羅

 僕、そんなことを、あなたに指摘されたくありません。失礼の意味分かって言ってる?

 「なんか、さ。子爵令嬢もカウルも、お忍びでとか言って、無理に庶民に合わせてやってる的な感じが嫌と言うか……。それを黙ってたんだよ。三日間、ずっと」

 「そうかな、そういうふうには感じなかったけどな。わたし、あなたみたいに親しく話してないし。黙っていたのは気を使ってくれただけじゃないの。それに、あなた、伯爵の弟をファーストネームで呼んでるわよね。やっぱり、怪しいわ」

 「ち、違う、そんなんじゃないって言うか……」

 「キョウ、照れてる。可愛いい!」とシャルマ。

 だって、カウルは、女の子に興味が無いからとは言えなかった。そういう発言は、本人の口からしか言ってはいけない気がするし、僕自身の言い訳にはならない。

 ちょっと強引なところがあるカウルの態度も嫌いじゃない。だけど、身分を隠して、ずいぶん踏み込んだ話までしていたのは許せない。その上、いい友達になれそうだなんて……、どんなつもりで言ったのだろう。

 「ま、いいわ。ただし、キョウには責任とって、色仕掛け作戦を実行してもらうわよ」と沙羅。

 「だから、何なんだよ、その怪しい作戦って」

 「スパイの定石、ハニートラップよ。先ずは、手短なところから、あの弟君に罠を仕掛けてもらうからね」

 「無理! どんないかがわしい罠を考えているのか分からないけど、絶対、嫌だ! 何? スパイって」

 「何が無理なの? 大金がかかったビジネスなんだから、割り切ってもらうわよ。私情をはさまないで! いかがわしいって、何よ。キョウが勝手にいやらしい事考えているだけでしょ」

 と、いつにも増して有無を言わせない態度の沙羅。

 「沙羅、ヤキモチ焼いてるの?」

 シャルマが急にそんな怖いもの知らずの発言をした。

 「はあ? わたしが誰にヤキモチですって?」

 「だって、キョウにずいぶん辛く当たってるから」

 「わたし辛くなんて当たってません! べ、別に、キョウが誰を好きになろうと、わたしには関係無いんだから。変なチャチャ入れて混ぜかえさないで! これは、ビジネスなの」

 「マスター。イフ=レーミンから返信が来ました」

 そこで、ルゥちゃんが口を挟んだ。とても悪い予感がする僕。それって、カウルの使い魔の名前だよね。

 「思ったより早かったわね。返事は?」

 「待つ。と」

 「商談成立ね」

 そう言って、コロリと機嫌を直した沙羅は僕の顔を見てにっと笑った。

 「今度は何? 商談って?」

 「大したことじゃないわ。デートの申し込みをしただけ。出番よ、キョウ。早速、着飾ってもらうわ」

 デ、デート? カウルと? 僕? 嫌だって言ってるのに……。こんなこと、勝手に決めていいの? 僕の意思は? 無視、だよね……


 人生初のデートの相手が男の子で、しかも貴族の子弟だなんて……

 うん。毎度のことだから分かっていましたとも。僕の、意見なんか聞き入れられない事くらい。沙羅の着せ替え人形にされながら、そう思った僕。ため息なんてつこうものなら沙羅に怒られるので、無理に笑顔を作って、ぎこちないポーズまでとりながら。

 自分ではシンプルな男の子っぽい服しか着ない沙羅が、こういう時だけはコーディネートに異常なまでの執着を見せる。まるで我が娘をモデルデビューさせるために気合の入った母親のようだ。



 「良かった。怒らせてしまったのかも知れないと心配していたんです。だから、キョウからお誘いを受けた時はすごく嬉しくって、即答しちゃいました」

 待ち合わせ場所で会った開口一番、カウルはそう言って、茶目っ気のある笑顔を見せた。そんな風に屈託無く笑われると、色々悩んでいた事が、無意味だったように思えてしまう。指定されたのはアンヌの喫茶店みたいな場所だ。たぶん、人払いの魔法とか結界とかに囲まれているのだろう。中はとても静かで、客は僕たち二人だけ。

 「誘ったのは僕じゃないけど……」

 「知ってましたよ。沙羅の使い魔からの着信だったので。でも、こうやって、キョウが来てくれたんだから、同じことです」

 カウルは、駅馬車の時と同じローブを着ているが、フードは脱いでいるので、笑うと、金髪がふわふわ揺れる。

 「カウル様が、女の子とデートだなんて、珍しいわね」

 メイド服姿の店員さんがそう言って、ホットココアを二つテーブルに並べた。

 「デートじゃないよ。アメリア」

 カウルは、照れた様子もなく、そう言った。ま、そりゃそうだよね。と思う僕。

 「可愛い子ね。ジャイルマ出身でしょ。顔立ちで分かるわ。北国のジャイルマには美人が多いから。古代の妖精の子孫だって伝説もあるのが分かる気がする」

 アメリアと呼ばれた店員さんも情報通なのだろう。僕は、うつむき加減の曖昧な笑顔でうなずくしかなかった。出来れば、その話題は避けたい。デートじゃないと言われた僕への気遣いか、ただのお世辞だと思うけど、僕の体、キョウという少女に関する事は、僕には応える記憶すら無い。

 「あのさ、カウルは、どうして来てくれたの? あ……、僕も会えて嬉しいよ。今は、本当にそう思ってる。でも、カウルは……」

 僕は、思い切って話を切り出した。

 「直接会って、謝りたかったんです。黙っていたこと。領主の弟だって。結局、キョウを騙したみたいになったから」

 「僕も、謝りたかったんだ。せっかく招待してくれたのに、断って。その……、悪いことをしたなって」

 「じゃあ、お互いさまだね」

 屈託の無い笑顔でそう言って、カウルは、無言でアメリアに指図を送った。彼女は別室に移り、部屋の中、二人だけになった。

 「本当のことを言うと、沙羅の使い魔からの着信には驚いたんだ。キョウは沙羅が好きなんだよね? それなのに彼女からキョウの名前でデートのお誘いだなんて」

 「あ、あれね。あれは……、そう、沙羅のいたずら。勝手に面白がってさ。デートだなんて、め、迷惑だったよね」

 「俺はもう君に気持ちを伝えたよ。デートに誘われて嬉しかったって」

 「でも、デートじゃないって、さっきはっきり言ったし……」

 僕の言葉に、カウルはまた悪戯っぽくクスッと笑った。

 「アメリアの前ではそう言わないとね。俺、女の子には興味が無いことになっているから」

 「ん?」

 「キョウはどうなの? 俺の質問にまだ答えてくれてないよ。沙羅のこと、どう思ってるのか」

 僕、沙羅が好きだった。今でも、気持ちは同じだと思う。でも……

 「……僕、もう、資格が無いから」

 「何の資格? 女の子同士だからってこと?」

 僕は、ただ首を横に振った。

 「人が人を好きになるのに資格なんていらないでしょ?」

 「僕、自分でも自分の事よく分かってないから……、変なこと言うけど、驚かないで。僕、人間じゃないみたいなんだ」

 カウルはしばらく無言のまま、濃い青の海のような瞳で僕の目をじっと見た。何? この沈黙。気まずいんだけど。やっぱり、言わなければよかった。僕が後悔した時、カウルは吹き出すようにクスクスと笑い出した。

 「笑ってごめん。キョウが、あんまり深刻そうに言うから、つい、可笑しくって。あのケルピーの女の子が一緒にいた時点で、そのくらい気付いていたよ。幻獣がただの人間に懐くはずないもの。やっぱり、キョウは面白い」

 「面白いって……」

 「一緒にいて、楽しいってこと。駅馬車での一緒の旅はすごく楽しかった。だから、あのまま終わりにしたくなかったんだ」

 「カウルはいいの? 僕が人間じゃなくても、いいの?」

 んんん? 自分でも色々と話を飛ばしている気がする。でも、僕にとっては、カウルに受け入れてもらえるかどうかが、今、一番の関心事に思えた。人間として? それとも、友達として?

 「俺が今、こうして、君の前にいることが、その答えになってない?」

 「カウルは、やっぱり優しいんだね。僕、誤解してた。身分の違いがあるから、友達になんてなれないって、勝手に思い込んで、意地を張ってた」

 僕の言葉に、カウルの表情が一瞬険しくなった。

 「キョウもそんなことを思うの? 伯爵家の子弟は、自分の意志で友達も恋人も作ってはいけないって。俺は嫌なんだ。産まれついた家柄に縛られる形式だけの生活なんて。男の子にしか興味が無いって、公言してるのも、カモフラージュのため。そうでもしないと、すぐに、政略の道具として婿養子にされてしまうから……、あ……」

 気色ばんだカウルが、そこで、口ごもった。

 「ごめん。キョウに言うべきことではないね」

 「カウルが謝る必要なんか無いよ。思い込んでた僕が悪いんだから。僕、カウルと友達になりたい。いいよね、こんな僕でも」

 「もちろん。そのつもりだよ。友達から始めましょう」

 「え……? え、えっと……」

 ……から? から、が付け加わっただけで、ずいぶん意味が違う気がするんですけど……。僕、友達になりたいって思ったけど、始めるって、何を? そう意識した途端、僕、顔が火照って、赤くなっているのが自分でも分かった。あれ、僕、大胆なこと言っちゃったのかな、そんな意味じゃ……

 「どうしたの? 急に顔を赤くして」

 「あ、あの……、ともだち、から?」

 「うん。今はまだ、友達以上、恋人未満だよね」

 にっこり笑うカウル。こ、こ、こ、こいびと? 何それ? む、無理なんですけど……。顔から火を噴きそう。いや、噴いてる。カウルの笑顔を見ると目がチカチカするし、頭がぼっとしてめまいがするもの……



 「カウル様のせいね。こんなウブな子に刺激の強い言葉を使うなんて」

 「アメリア。俺、ただ、恋人未満って言っただけで……」

 「ジャイルマのエルフは、とても純真なの。特にこの子は、存在自体が奇跡と言ってもいいわ。恋愛関係には全く免疫が出来てないみたいだから、言葉一つにも気をつけないと」

 「分かったつもりではいたけど、まさか、こんなに繊細だなんて……。あ、目を開けた。良かった」

 カウルが初めて見せる心配そうな顔で、覗き込んでいるのに気付いた。僕、気を失っていたみたい。喫茶店のソファに寝かされている。

 「はい。気つけのハーブティを飲んで。むせないようにゆっくりね」

 アメリアが僕の背中を支えて身体を起こしてくれた。ソファに座って、差し出された香りの強いお茶を飲むとお腹が暖かくなって気持ちが落ち着いてきたけど、まだ、カウルの顔は直視出来なくて、思わず目を背けてしまった。



 「で? 首尾はどうだったの? カウル君とのデート」

 「お友達になれた」

 宿に戻った僕は、沙羅にそれだけ言って、ベッドに顔を伏せた。

 「あのね、わたし、あなたのおままごと遊びに付き合う気も暇もないの。ちゃんと、伯爵に会うきっかけ作れたんでしょうね!」

 「その点は、問題ありません。マスター。今、イフ=レーミンから、着信がありました。兄上に紹介したいから、城で待つ、と」

 いつも通り抑揚の無い声のルゥちゃんが、パタパタ尻尾を振りながらそう言った。

 「なんだ。ちゃんと話しつけてきたんじゃない。上出来よ。キョウ。……でも、服が皺になるから起きてね」

 と、ベッドにうつ伏せのままの僕の背中を撫でる沙羅。

 「カウル」

 と、シャルマが僕の耳元でささやくように言った。

 「ねえ、沙羅。面白いよ。キョウに、カウルって言うと、耳を赤くして、体をプルプル震わせるんだよ」

 「キョウをおもちゃにして遊ぶのは止めて。シャルマ。それより、作戦会議。どうやって、全員で伯爵の居城に乗り込むか。宮廷魔術士のオシリスもいるから、用心しないと」

 「オシリスは、怖いから、沙羅に任せた。ハニートラップっていうのしかけたら?」

 パシッと、鋭い音がして、シャルマの小さな悲鳴が聞こえた。沙羅に思いきり叩かれたようだ。

 「ひどいよ。沙羅。ぶつなんて。本気で言っただけなのに。沙羅、胸が大きいから、そういうの得意なんじゃないの?」

 さらに大きな音と共にシャルマの悲鳴が上がったので、僕、沙羅を止めに起き上がるしかなかった。シャルマが殺される前に。



【ランドワール辺境伯】

 「付き人、その一」

 片手を腰に、トランペットを持ち、背を反り返らせて言う沙羅。いつもの私服スタイル。

 「その二、です」

 と、ルゥちゃん。片膝を折ってスカートを持ち上げ、バカ丁寧にお辞儀をした。

 「付き人番号、その三。またの名をシャルマ!」

 緑色の髪をなびかせたシャルマは、クラリネットで謎のポーズを決める。

 「むー、むむっつ!」

 と、今日はメイド役のレイ。仔馬の下半身にもリボン飾りを付けて、僕のチューバを背中に乗せている。

 険しい表情で愛想笑いの影すら見せないオシリスの前に、こうして、僕たち顔を並べていた。

 「ご来客は、エスターシャ嬢一人とお聞きしておるが」

 「そうもいかないのよ。わたし、キョウの保護者だし。楽師の団長だし。この子一人での外泊は許可出来ないの」

 「城には美味しい食べ物がいっぱいあるって聞いたし」

 と言って、沙羅から横目でにらまれるシャルマ。

 「ケーキ!」とレイ。

 「立ち返れと言って聞き入れる様子も無いな。得体の知れない者が二、三人増えたところで体勢に影響はすまい。ついてくるがよい」

 険しい表情を崩さないまま踵を返したオシリスは、僕たちを先導して大股で城の中を歩き出した。中庭と大きな部屋を幾つか抜け、螺旋階段を上がると、長い廊下があり、両側にドアが並んでいる。その一室に、案内された。

 「夕食までの間、この部屋で控えておるがよい。勝手な外出は許さぬ。廊下には見張りの者を立てておるからな」

 そう言い残して、オシリスは部屋を出て行った。

 「相変わらず、いけ好かない奴。でも、上手く潜り込めて良かったわ」と沙羅。

 「見て見て! すごく大きなベッドがあるよ」

 と、天蓋付きのベッドに、早速、ダイブするシャルマ。

 「キョウ、一人のために、こんな大きな部屋を用意していたなんて、どんな魂胆があったのかしら」

 腕組みをして、いぶかしげに言う沙羅。いや、魂胆なんて無いと思うんですけど……。何か、とっても変な想像をしてませんよね?

 「残念だったね。キョウ。出迎えたのがカウルじゃなくて」

 そう、僕の耳元で言うシャルマ。わざと言ってるのが分かっていても、顔を赤くしてしまうのが悔しい。ただの友達なんだから、意識しないように思えば思うほど、変に動悸が耳に響いてしまう。

 「大丈夫。キョウの貞操はわたしが守ってあげる!」

 と、無駄に意気込む沙羅。

 「だから。そんなんじゃないってば! お友達として、招待してもらっただけなんだから」

 「そんなの、分かってるわよ。何、むきになって、顔真っ赤でいやらしい想像してるの? 冗談くらい聞き流してよ」

 しらじらと言う沙羅。いや、あなたの場合、どこまでが冗談だか分かりません。


 「さあ、これからが本番。伯爵と子爵令嬢の縁談を邪魔するの」

 「はい。沙羅、質問。どうやって邪魔するの?」

 と手を上げて言うシャルマ。

 「そ、それは……、大丈夫、ルゥ=サーミんがなんとかしてくれるから」

 と沙羅。ここまで来て、まさかのノープランで、ルゥちゃんに丸投げですか? ルゥちゃん、首を横に振ってますけど。

 そんなこんなで、いつものように騒いでいると、ドアをノックして、メイドさん四人と執事が、フルーツ満載のケーキに焼き菓子とお茶を運び込んできた。

 「ご夕食前のお茶のお時間です」

 メイドさんの一人がそう言った。

 レイは、目を輝かせてケーキに釘付けになっている。

 「すごい、こんなにいっぱい! でも、これ全部食べたら、せっかくの夕食が喉を通らないんじゃない?」とシャルマ。

 「ふん。それが上流階級のお作法なんでしょ」と沙羅。

 「はい、ディナーの時、女性は、小鳥がついばむ程度にしか口にしないというのが慣習です。そのため、食事前にお腹を満たしておくのです」とルゥちゃん。

 「馬鹿バカしい。わたしには関係無いから、がっつり夕食をいただくわ」と沙羅。

 「あたいに任せて! お菓子と食事は別腹だってとこ見せてやる。小鳥舐めんな」と、小鳥に怒られそうな発言のシャルマ。

 「ケーキ! ケーキ!」と、沙羅に切り分けてもらうのが待ちきれないレイ。

 僕は、彼女たちの騒ぎも上の空で、一番後ろで立っている執事に目を奪われていた。変装しているが、それはカウルだった。僕の視線を受けて、カウルは目配せを返した。そして、部屋を出てドアを閉める際、目で差し招くサインを送ってきた。

 「僕……、トイレ」

 「いっトイレ」とクッキー片手に手を振るシャルマ。

 急いでドアを出ると、屈強な衛兵が六人、廊下を挟んで二列に並んでいた。一瞬立ちすくんだ僕の手を強引に掴んで、衛兵の間をすり抜けるように走り出すカウル。

 廊下の突き当りを幾つか曲がった先の一室に、カウルと僕は駆け込んだ。

 「上手く連れ出せた。こうでもしないと、二人で話をすることすら出来ないもの」

 肩で息をしながら、そう言うカウル。走って乱れた金髪が上気した額にまとわりついている。駆け込んだ勢いで、顔が近すぎるけど……

 「カウル、僕、すぐ部屋に戻らないと。いなくなった事に気付いたらサラが暴れ出しちゃう」

 「大丈夫。今、沙羅の使い魔にメールを送ったから。夕食までの間、キョウを借りるって」

 「でも……」

 「そんなに、沙羅のことが気になる?」

 「うん、だって、あの子、普通じゃないから。特に、僕の事になると……」

 「俺、決めたんだ。沙羅と争ってでも、キョウの、……特別な存在になるって」

 そう言う真剣な表情のカウル。変に意識してしまって、顔もまともに見れない気がしていたけど、会ってみると平気だ。その代わり、カウルの濃い青色の瞳に磁力があるように目が離せなくなった。

 「ここで待ってて、すぐ着替えてくる。城内を案内してあげるよ」



 「肝心なことはもう言っちゃったけど、俺、本気だから。そのつもりで、今夜、兄上に君を紹介する。キョウには予め、そのことを言っておきたくて。その……、また、倒れられたりしたら困るから」

 美しい花と水路に囲まれて迷路のような城内の庭園を歩きながら、カウルはそう言った。倒れるようなことを言うんだ。と僕は思った。なんとなく予想はしていたから心の準備は出来ている……と思う。

 カウルは、この世界の街頭で見かける中世風の男性の軽装に着替えていた。華美ではないが、しっかりと気品が感じられる姿だ。沙羅が毎晩念入りにとかしてくれる髪を風になびかせながら、沙羅が選んでくれたドレスを揺らして花の小道を歩く少女に、カウルは歩調を合わせてくれる。 

 カウルは、花の名前や花言葉を交え、庭園の設計について分かり易く説明してくれた。その言葉に、微笑みながら相槌を打っている自分自身に僕は気付いた。そうすることがごく自然な事のようにさえ思えてきた。キョウ=エスターシャという純真無垢な少女そのままのように。

 「見て。キョウ。この景色を君に贈りたかったんだ」

 そこは小高い丘の上だった。背後には、登ってきた花の小道と迷路のような水路に続く石造りの城。そして、前方には眼下に広がる城下町と田園風景。夕焼けに染まり始めた空の境界まで地平線が広がっている。薄く色づいた雲が音符のように、遠い空に旋律を描いていた。

 その美しさに僕の心と体は息を呑んだ。世界の全ての事象は共鳴する楽器が奏でる波動で出来ていて、その振動によって影響を及ぼし合っているって聞いたことがある。そんな話に納得出来るような景色だった。振動とは円運動、巡っては帰り、形を変えながらも巡り合う。自然に僕の頬を涙が伝っていた。


 「絶景と人気のネットアイドルを独り占めとは、贅沢なひと時だね、カウル」

 突然の声に振り返ると、背の高い優雅な青年の姿が逆光の中に浮かんでいた。生まれついた品位が生い立ちの中で純粋培養され、威厳と風格を形作る。そんな天然オーラを感じさせる人物が誰なのか、名乗られなくても、僕には分かった。

 「キョウ。俺の兄のランドワール伯爵だ。兄上、こちらが……」

 「紹介だなんて、野暮は要らないよ。あなたのことは何でも知っているつもりだ。実際に動いている姿を見るのは初めてだけど」

 いや、それ、梓が勝手に作ってるブログだよ。かなり偏見と捏造があると思うから。僕、思わずカウルにしがみついて後ろに隠れてしまった。

 あの子爵令嬢に求婚するような男だ、見かけは思ったよりずっとまともに見えるけど、どんな危険人物か知れたものじゃない。外見がまともなだけに余計に怖い。うん。自信に満ちた笑顔に、本能的な恐怖さえ感じる。

 「怯えられているの……かな?」

 伯爵は苦笑を漏らした。

 「兄上の権力に媚集まる世間一般の女性とは違うのです。そんなに急に近づいたら警戒されても仕方ありませんよ」

 「相変わらず手厳しなカウル。しかし、今は、礼を言おう。私も、簡単に手折れる美しいだけの庭園の花には飽きていたところだ。仮想世界育ちで世間擦れしていない蕾を摘み取るとは面白い趣向だ」

 伯爵は余裕の表情で近付いて来る。誰が蕾だって? 摘み取るってどういうこと?

 うん、お約束通り、立派に変態だ。いや変態だなんて言ったら小次郎に失礼だ。あいつは変態なりに良いところもある。

 「待って。兄上。俺そんなつもりでキョウを連れてきたんじゃなくて……」

 カウルは、手を広げて僕を伯爵から庇っている。

 「狂言を弄してキルギリア領への養子縁組から逃げ回っているおまえの都合なんか聞く耳は持たぬ。カウル。またどうせ戯言だろう」

 生まれて以来一度も挫かれたことのなさそうな自信を全身から漂わせる伯爵。婚姻を政治の道具としか考えない一方で、領民の結婚式に招かれたら新婦との初夜を過ごす特権は領主にあるだなんて平気で言い出しかねない。そんな人物に見えた。

 「心配するな。一ファンとして、歓迎したいだけだ。夕食の後は、私の部屋でじっくり可愛がってやるのも一興」

 いや、あんたのその頭の中を心配するよ!

 「僕、花でもつぼみでもネットアイドルでもないからね! 勝手に触るんじゃないよ! なんだよ、可愛がってやるって、それが初対面で言う言葉?」

 「ほう。思った通り、愛でがいがありそうだ。このぐらい威勢が良い方が、屈服させた時の満足も大きい」

 「ふざけんな! 誰が、屈服なんかするもんか! 貴族だか特権階級だか知んないけど。頭沸いてんじゃない?」

 そう言う僕はカウルにしがみついたまま。背後は崖、逃げ場は無い。言い過ぎちゃったかな。いまさらそう思った僕。でも、もう遅い。

 「オシリス。カウルを押さえておれ。このお転婆に作法というものを少しだけ教えておいてやろう」

 「御意」

 いつの間にオシリスが伯爵の後ろにいた。うん。ちょっとやばそうな雰囲気。

 何故って? オシリスがここにいたら、沙羅を見張ってるのは誰?

 「マスター。ルゥ=サーミンからの緊急通信です。即刻退避を勧告すると。魔術結界が破壊されました」

 同じ声だから、ルゥちゃんかと思ったけど、それは、カウルの足元に現れたイフだった。

 「キョウ!」

 ほらね。もう沙羅の叫び声が聞こえる。

 「沙羅! レイ! 僕大丈夫だから、暴れないで!」

 僕の叫びに構わず、レイはすでに戦闘モードでオシリスに疾風のように襲いかかっていた。

 「レイ! やめて!」

 第一撃をオシリスにかわされたレイは跳び退いて身構えている。

 「お前たち。見張りの兵を付けていたはずだが」

 オシリスが沙羅の前に立ち塞がった。

 「あら、あの人達、見張りだったの。お疲れのようだったから、ちょっと休ませてあげたわ」と沙羅。

 「うん。泡を吹いて倒れてたけど、死んではいないと思う。たぶん」とシャルマ。


 「どういう事か説明してもらうわよ! うちのキョウに手出しは許さない! 勝手に連れ出して、寄ってたかってどんな酷い事をしたの?」と、沙羅は臨戦態勢。

 「何か妙な事を期待されているようだが、まだ、指一本触れてないぞ。私は」

 白々しく落ち着きはらった態度も堂々としている伯爵。

 「無理やり連れ出したのは俺だ。でも、こんなはずじゃ……」

 カウルは目を伏せてそう言った。

 「お坊ちゃん。その子はエルフよ。人間の男が気軽に相手出来るはずないわ。キョウも、いつまで、坊やにしがみついてるの? こっち、いらっしゃい」

 「知ってるさ。知った上で連れ出したんだ」とカウル。

 「あら、そう。だったら、諦めて」

 僕の手を引っ張りながら、冷たく言い放つ沙羅。

 「この子は、わたしのものなの。誰にも渡さない。いえ、渡せない」

 「なるほど、エルフかどうりで」

 しげしげと僕の顔を見て、何か納得している伯爵。

 「あの……、エルフって、僕のこと?」

 「マスター。またキョウちゃんが壊れてます」

 なぜかイフと手をつないで並んでいるルゥちゃんは、双子の姉妹のよう。二人一緒に尻尾をパタパタ振っている。

 「熱が出たのね。むさ苦しい男たちに囲まれて無理もないわ。引き上げるわよ。その前に、オシリス、あんたの魂胆は何? わたしたちを焚きつけておいて、わざと防御を薄くしたでしょ。まるで、わざわざここにおびき出すように」

 「さて、いわれなきことを言うのは、女のさがのようだな」

 顔色一つ変えることなくそう言うオシリス。



 「あれだけ騒ぎを起こして、よく追い出されずに済んだね。あたい、てっきり夕食はおあずけだと思ってた」とシャルマ。

 「むしろ、拘束されていると見るべきかも。あのオシリスは曲者よ。何を企んでいるのか分からないわ」と沙羅。

 僕たちは、元の部屋に戻されていた。当初の予定通り夕食にも招待してくれるらしい。

 「まあ、目的の伯爵にも会えたわけだから、結果オーライってことね」

 「サラ、あの……。僕がエルフだって、知ってたの?」

 歌姫は、僕のことを半妖の妖精体だと言った。沙羅は、エルフだと言う。それが同じことなのかさえ僕には分からない。グリフォンからはマスターと呼ばれ、レイには懐かれて、普通の人間ではないことは僕も自覚している。僕の知っているエルフは空想上の亜人種だったり妖精だったりするけど、この世界ではどういう意味があるんだろう。


 「初めて会った時、あなたが自分でそう言ったの。封印が解けかけていたあなたをなんとかなだめてわたしが保護したあの時よ。すでにあなたは記憶障害を持っていたから、今でも後遺症で記憶が不明瞭になるのね。シャルマから聞いた事情では無理もないことだわ。可哀そうに……」

 「封印って?」

 「エルフが人間に危害を加えないよう能力を封じることです。特にキョウちゃんのような緑色の瞳のエルフは危険種のため、魔術局による定期的な封印ワクチンの接種が義務付けられています」

 ルゥちゃんが、いつもの調子で解説した。

 「かつての終末大戦当時、戦略兵器として開発されたエルフ族の名残です。一人のエルフが機甲師団を制圧したという記録も残されています。誇張を伴う伝説的なものと考えられ、軍事的な攻撃能力を持つ個体は確認されていません。また、機甲師団というのは古代史上の名称であり、現存するオブジェクトに該当するものはありません」

 本当だとしたら僕って、かなり、やばくない? 危険なの? 実は兵器だったの? 開発って……。やっぱり、人間じゃないんだね。

 「あ、でも、キョウは、大丈夫。ほら、おつむも少し弱いし、ドジっ子だし、保護した時も、わたし平気だったし……」

 「はい、マスターは、あの時、あばら骨三本と頭蓋骨を骨折しましたが、命はとりとめました」

 僕が……、沙羅に、そんなこと……

 「サラ……、ごめん。僕、知らな……、ううん、覚えてなくって、そんな酷いことをしただなんて」

 まさか、沙羅の肌にその時の傷が残ってたりしたら、一生かかっても償いきれない。それなのに、僕、沙羅のことを守銭奴だとか、勝手に保護者面してるとか思ってた……

 「いまさら、何を謝ってるの? あれは事故みたいなもの。キョウが謝る必要なんかないの。結局、誰がキョウの封印を解こうとしたのか、どんな目的があったのか、分からないままだけど」

 「状況から判断すると、犯人はあの時すでにキョウちゃんに始末されていたものと考えられます」

 「ルゥ! あの事件についての憶測は控えなさい」

 「はい。マスター」

 珍しくしょげた様子で尻尾を垂らしてしまったルゥちゃん。今まで、ルゥちゃんの意見が間違っていたことはない。僕、この手で人を殺しているのかも知れない。人畜無害のお人形さんみたいな体だと思っていたのに、とんでもなく危険な生き物、いや、化け物なのかも。

 「あの時、わたしは、キョウを一目見ただけで、ほっとけない子だと思って、何が何でも保護しなければって、なぜか意地を張っちゃったのよね。でも、あなたが先に正気を取り戻してくれたから助かった。今でも不思議なんだけど、あの時、あなた、知らないはずのわたしの名前を呼んだの。“サラ”って。覚えてる?」

 僕は首を横に振った。もちろん、そんな記憶は無い。僕が記憶しているのはあの世界のことだけ。そして、最後に沙羅の名前を呼んだのは……

 「それって、いつのこと? 僕が保護された日っていつ?」

 「如月の二十二日。まだ寒い日だったでしょ。わたしの誕生日だから覚えてる」

 それは二月。そして、あの世界で沙羅と如月キョウが同じバスに乗っていたのも、二月二十二日で同じく沙羅の誕生日。この世界の時間軸がどうなっているのか分からないけど、暦は、あの世界と同じなのかもしれない。平行世界ってやつ? 如月キョウとキョウ=エスターシャが平行世界の同一人物だったりもするのかな。彼女の意識が消滅したのは、彼女の誕生日……

 「シャルマ。隕石事故があったのは僕の誕生日だって言ってたけど、神無月の二十九日だよね?」

 「うん、そうだよ。あの日の事は忘れない」

 神無月は十月。そして、十月二十九日は如月キョウの誕生日でもある。如月キョウの別世界の記憶が、この世界のキョウに引き継がれたとすると、沙羅を傷付けたのは、僕自身になってしまう。

 その時、ノックと共に現れたメイドが、夕食のためダイニングルームへの移動を促した。



 大きなダイニングルームでは、伯爵とカウルが出迎えた。オシリスも側に付いている。

 「先程の事は水に流すとしようではないか」

 伯爵がそう口火を切り、コース料理が運ばれてきたが、もとより、この面子で共通の話題などあるはずもない。僕は、ナイフとフォークが上手く使えないレイのために料理を切り分けてやるのに専念していた。それをフォークで突き刺して食べて、レイだけ満足そうな笑顔。

 カウルも無言でうつむいたまま、目も合わそうとしない。明らかに気まずい雰囲気の中、沙羅がシャルマを肘で突いた。

 「ほら、シャルマ、あなた聞きたい事があったでしょ」

 「あ、うん……、えっと、ところで、伯爵の結婚式っていつ?」

 と、ずいぶん藪から棒の質問をするシャルマ。沙羅からの事前の打ち合わせで無茶振りをされたままだ。案の定、伯爵は眉間に皺を寄せた。

 「何の話だ? と言うより、カウル、お前、そんな身内話までしてるのか?」

 「え? そうだったかな……、そうかも」

 可哀想にカウルが悪者にされている。カウルから聞いた話じゃないのに。

 「お前のことだから、どうせまた、不自由な政略結婚だとか、散々悪態をついたのだろう。まあ、半ば公にしているし、こんな席で隠し立てしたり、建前を並べる必要もあるまい。その通り、婚姻は政治の重要な道具だ。相手側のロマノフェレン領からの返事待ちだから、時期は未定だ」

 政治の道具だって、言い切っちゃったよ、伯爵。案外、気さくな一面もあるかも。

 「伯爵からプロポーズしたって、本当? 相手のお姫様に会ったことあるの?」

 なぜか積極的に食い付くシャルマ。こういう話好きなのだろか。乙女だもんね。半面、影で手を引いているくせに沙羅は、全く興味無さそうな顔で聞き流す表情を装っている。こんな会話でも無いよりずいぶんましなので、僕は内心ホッとして耳を傾けていた。

 「ダンスパーティーで一度だけ会って、お相手を申し込んだことがある。年少の割に臆せず承諾してくれたから、後日、求婚の使者を送ったのだ」

 「すごーい。そんな理由でプロポーズしちゃうんだね、貴族って。年の差だってかなりあるのに」

 まあ、あの子爵令嬢が臆するはずないけどね。本人の目の前でそんなことまで言っちゃうシャルマも十分すごいよ。

 「陛下の御前だったからな。当然のことだ。それに、相手も庶民ではないから、年の差は気にしない。家と家の結びつきが最優先だ」

 「でも、はっきり返事が来ないって可能性もあるよね。考えさせて欲しいとか」

 「それはないな。正式な使者だ。承諾、あるいは、拒否、必ず態度を明確にする必要がある。もし拒否すれば、相手領は多大な政治的代償を求められる」

 「相手のお姫様には選択権は無いってこと?」

 「そういうことになるな。ただし、別口で正式な求婚があれば、話は別だ。どちらの申し込みを受け入れるかの選択は求婚を受けた側に委ねられる。それが公開求婚のしきたりだ」

 なるほど、それで子爵令嬢は高額の報酬で時間稼ぎを依頼したわけだ。その間により良い選択肢が生じる可能性もある。しかも、一生の問題だ。それにしても、あの令嬢がどんなしおらしいお姫様を演じてこの伯爵のダンスの誘いを受けたのやら。黒執事の喉首がレイに掻き切られそうになった時も眉一つ動かさなかった彼女の冷徹な顔を僕は思い起こして、伯爵が少し気の毒にさえ思えた。


 「ふーん。貴族って、美味しいものを食べて、好き勝手出来ていいなって思ったけど、案外、不自由なものなんだね」とシャルマ。

 「既得権益を守るための社会の仕組みを前提とした生活だからな。多少の不自由は我慢するさ。中には、耐えきれずに放浪生活を送る者もいるが、いずれ分かる時が来る」

 伯爵は、カウルを見ながらそう言った。

 「シャルマ、お前のようにずけずけ思った通りものを言う女も珍しい。肩肘張る必要の無いこんな会話も良いものだな。面白い」

 「気が合うってこと? あたいと伯爵」

 「いや、それはないな。水と油のように決して混じり合うことがないから面白いのだ」

 声に出して笑う伯爵。

 「なーんだ。せっかく、ハニートラップを仕掛けられると思ったのに……。痛っ! ひどいや、沙羅、おもいっきりつねるなんて」



 「依頼主からの伝言です。梓さんから届いています」

 ディナーの間、ずっとイフと手を繋いで部屋の隅で並んでいたルゥちゃんが、そう言った。僕たちは寝室に戻っていた。状況は逐次依頼主のジュリアに報告することになっている。隠密行動のため彼女の使い魔は使えないので、梓のネットワークを通じてやり取りしている。

 「あのガキ、何の用? 伯爵との接触には成功したと報告済みだけど」と沙羅。

 「変更要求です。伯爵に求婚を辞退させ、代わりに、カウルをロマノフェレン家への婿養子に出すよう仕向けるようにと」

 「はあ? 何それ!」

 沙羅と僕がそう声を合わせた。

 「追加要求だったら、報酬アップしてもらわないと無理!」

 すぐにそう付け足した沙羅。お、お金の問題ですか? ブレませんね。

 「マスター、報酬は百パーセントアップを提示されました」

 「受けた! 作戦変更よ」

 「ちょっと待って、サラ。そんなの、カウルが可哀そうだよ。相手は、あの子爵令嬢だよ」

 「どう可哀そうなのよ。キョウ。また私情を挟む気? あの坊やに連れ去られたりして、まさか、本当に惚れたとか言い出すんじゃないでしょうね。もちろん、そんなこと許さないから」

 「でも……」

 「あばらが三本」

 言いよどむ僕の耳元で沙羅がそうささやいた。

 「ど、どうして、今、それを?」

 「さあね。ただ言ってみたくなっただけ。わたしがあなたの保護者だってこと忘れられたら困るから。時々痛むのよね、あの時の傷跡。見てみる?」

 僕はうつむいたまま首を横に振った。

 「マスター? 傷跡は完全に修復したはずですが、痕が残ってますか?」

 不思議そうな顔で、目をぱちくりさせているルゥちゃん。

 「まあ、そんな気がしただけ。それより、問題は、カウルよ。あの世間知らずの坊やを婿養子に出してもらうわよ」と、少しだけばつの悪そうな沙羅。

 どうやって? どうせ、ノープランでしょ。僕は、心の中でそう思うしかなかった。カウルが婿養子になることを承諾するはずない。

 ルゥちゃん情報によると、ジュリアは、王国内きっての軍事派閥ロマノフェレン子爵の正妻の一人娘。側室二人との間にそれぞれ腹違いの幼い弟が二人いるが、誰が爵位を継ぐのか決まっていないらしい。ジュリアが、ランドワール伯爵に嫁げば、弟の一人が爵位を継ぐことになるものの、領内には反対意見も多いとのこと。

 反対派の筆頭はもちろんジュリアの母だが、それにも対抗勢力がある。貴族らしい内輪揉めだ。側室の一人に影響力を持つランドワール家としては、子爵夫人派の勢力を抑えたい思惑もある。

 一方、カウルがジュリアの婿養子としてロマノフェレン家の跡継ぎになるのも、子爵家の内紛を防ぐなかなかの妙案らしい。って、本当に、政略だけで結婚相手を決められちゃう世界なんだ。


【御使】

 僕たちは、そのまま伯爵の城に滞在することになった。沙羅は軟禁状態だと言うが、ある程度自由に城の中を歩くことも許された。

 オシリスの僕たちへの監視の目以上に厳しいのは、沙羅による僕の監視だった。常時、沙羅は僕を目の届く範囲に置きたがった。過保護だと僕は思う。もちろん、カウルと二人で会うことなんて出来ない。必然的にレイとルゥちゃんも一緒について歩く。

 一方、シャルマは自由に、伯爵の居室まで一人で出入りしていた。珍しいお菓子をもらって帰ってレイにおすそ分けをくれることも多い。


 ある時、僕たちはオシリスに呼び止められた。

 「女。エスターシャ嬢を借りるが、よいか?」

 オシリスは沙羅に向かってそう言った。

 「どうぞ」

 沙羅は即答した。思いもよらない反応だ。



 「あの女には話をつけてある。交換条件としてな」

 一室で赤いローブを着た大男のオシリスと二人きりになる展開に驚いたままの僕に、彼は言った。

 「人払いの結界を張った。言葉が漏れることもない。あの犬耳使い魔にも」

 「どうして、こんなことをするの?」

 「一つだけ確認したいことがある。“あなた”は、何者だ?」

 とオシリスは、険しい表情を崩さないまま。立ち塞がるように僕を冷たい目で見下ろしている。

 「ぼ、僕のこと?」

 「キョウ=エスターシャ=ノヴァレンコア、本当に私を覚えていないのか? 攻撃を受け、一族の拠点は全滅。当の本人一人が生き残ったと聞く。最強の破壊者にして暗殺者一族の王よ。何故、こんな辺境に現れた? 拠点を攻撃したのは我らではないことを知っていよう」

 え? どういうこと? オシリスと僕が知り合いだったってこと? 本当、僕って何者なの? 暗殺者って、人を殺してたってこと? そして、攻撃を受けたの? シャルマは、事故だって言ってたのに。オシリスが冗談で言っているはずないことだけは分かるけど……


 「ぼ、僕、なんのことだか、さっぱり……。破壊者とか暗殺者とか、なんのこと? 攻撃ってなに? 隕石の爆発事故じゃないの?」

 オシリスは厳しい眼光で僕の顔をじっと見ていた。

 「なるほど。擬態の術式か。あの長老の考えそうな手だ。ならば、委細承知、何も問うまい。用件はこれまで」

 オシリスは踵を返そうとした。

 「待って、オシリス! 僕について何を知ってるの? 僕に会ったことがあるの? 僕って、何者? 人殺しなの?」

 「人殺し? まさか、数多(あまた)の殺人鬼を怖れさせたあなたの声で、あなたの口からそんな言葉を聞くとは」

 オシリスは微かな笑みのような得体の知れない表情を浮かべた。

 「マスター、あなたは、人殺しなどではない。生命リズムの狩り人。旋律を奪う死の天使。最強最悪の危険生物である人間を狩るために遣わされた御使だ」

 オシリスはそのまま深々と頭を下げた。その仰々しい態度を見て僕は血の気が引く思いだった。

 「誤解の無いよう、一つだけ言っておこう。あの隕石は事故ではない。あなたを狙う明確な意思を持った攻撃だ。異質なる物にとって、隕石の軌道を変えることぐらい容易(たやす)いこと」

 僕ってやっぱり相当やばいやつらしい。そして、もっとやばいやつがいる。異質なる物。アンヌがそう呼んだのは、歌姫セイナだ。まさか、彼女が黒幕? とてもそんなふうには見えない。別の誰かを指す言葉だろうか。ルゥちゃんが言ったことがある。その事故には不審な点が多いと。一つの村が全滅しているのに、犠牲者に関する公式の記録がほとんど残っていないらしい。まるで意図的な情報操作があったように。

 相変わらず分からないことばかり。誰かが僕の命を狙って隕石の軌道を変え、村を一つ破壊しただなんて話、信じられるはずないけど……。現に僕がこんな訳の分からない姿で異世界に転生しているのがその結果なのだろうか。しかも、僕、キョウ=エスターシャは、沙羅に重傷を負わせただけじゃなく、この手で数多くの人命を奪っているらしい。オシリスは、その時の僕に会ったことがあるのだろう。

 沙羅がどんな交換条件の見返りとしてオシリスに僕との密会を許したのか、なんとなく分かる気がする。きっと、伯爵とカウルがらみの事だ。それを沙羅に問い質したいと思っていたが、今はもう、そんな気分もなくなってしまった。

 カウルに会いたい。カウルなら、僕のこの不安、何に頼ったらいいのか分からない落ち着きの無い混沌とした居心地の悪さから連れだしてくれる。何故かそんな気がした。友達から始めようと言ってくれたカウル。僕、カウルが望むなら、彼が求める何か別の存在になってもいい。

 そうだ、僕、女になろう。

 僕が男になると世界を滅ぼしかねないと、歌姫は言った。グリフォンに助けられた僕を治療している時だ。冗談や誇張に過ぎないと思っていたけど、本当にそんな危険があるのかもしれない。もしそうなら、沙羅を傷付けるだけじゃ済まない。

 自分が何者かも分からない。何をしてきたかも分からない。エルフだとか半妖だとか死の天使だとか、そんな得体の知れないものであるくらいなら、変われるとしたら、誰かから求められるものになりたい。もう二度と沙羅を傷つけたくない。

 「オシリス、僕をカウルに会わせて。あなたなら出来るよね?」

 大男は、その高い目線から僕の顔を凝視した。言葉を選んでいるようにも、彼が初めて見せる戸惑いの表情にも思えた。しかし、それは束の間のこと。オシリスは、再び深々と頭を下げた。

 「御意に」



 「運動の秩序だよ」

 沙羅がそう言った。彼女は高校の制服、冬服を着ていた。

 「全ての事象にはリズムがあるの。呼吸にも、鼓動にも、月の満ち欠けにも、一日にも、あんたの声にも。振動し、巡り、回転することで、自分ではない何かに遷移して行く」

 思い出した。沙羅は、学校でもそんな事を言い出す変わった女の子だった。僕の守護精霊だと言ったこともある。周りは、そんな彼女を電波系だとか中二病だとか言ったものだ。僕もそう思っていた。思い出して、それが夢だと意識した。何故なら、僕は、この世界の少女の姿だったから。


 目を覚ますと、沙羅は、僕と同じベッドの中で静かな寝息を立てていた。肌の温もりが心地良い。寝顔を見ていると、旋律魔法で魔物を狩る彼女とは別人のようだ。

 魔物も血の通う生き物だ。狩ることは命を奪うことに他ならない。ゲームのように倒した魔物が光の塵になって場に帰るなんてことはない。沙羅は狩った獲物を魔法で小さく縮め、集めて、市場に売りに行く。狩人でもある。そして、僕は……

 「眠れないの?」

 「うん」

 沙羅の言葉に、僕は肯いた。彼女はいつの間に目を開けて、澄んだ瞳で僕の顔を覗き込んでいた。常夜灯の蝋燭の揺らめきを受けて、目だけが別の生き物になったみたいだ。

 「色々あって」

 「カウル君のことを考えていたとか?」

 「シャルマ、まだ帰ってこないね」

 僕は、沙羅の問いに答えなかった。

 「否定しないのね」

 「否定できないから」

 「エルフが、将来のロマノフェレン子爵の愛人にでもなるつもり?」

 問いに答えなかった僕への報復のような響きを伴う言葉に、僕は口を閉ざしたが、訪れた沈黙に不快な余韻はなかった。

 「ごめんなさい。酷いことを言っちゃった」

 こんなに素直に謝る沙羅は初めてだ。

 「サラのことを考えていた」

 僕は、あえて、脈絡の無い言葉を続けた。

 「サラのために、男になりたかった。意味分からないと思うけど、夢だと思って、聞き流して。でも、女になる。サラのため」

 「決めたのね。女の子になるって」

 「知ってたの?」

 「毎晩こうやって一緒に寝てるのよ。あなたが普通の女の子じゃないことも、それを隠そうとしてることも分かってたわ。エルフだからはっきりした性別が無くても不思議じゃないって思ってた。あなたがその姿でわたしの目の前にいる事実は否定しようがないし。わたしにとってはキョウはキョウなの」

 「僕、サラが好きだった。あの世界でも」

 「あの世界?」

 「僕の記憶の中だけに残された世界。その世界では僕、男だったから」

 「夢の世界のことを言ってるの? 夢でもあなたが自分のことについて語るなんて珍しいわね」

 夢? そうかも。僕の記憶は、キョウ=エスターシャの見ている夢の世界かも。傷付け合う必要もなく、誰の命を奪うこともない平和な夢の世界。

 それが本当にあったことなのか、僕には分からなくなってきた。平和という幻影を見せられていただけかもしれない。僕の知らないところで、常に何億もの人間が飢え、何千万もの人命が理不尽に奪われていながら、平和そのものに見える虚構世界だったのかも。

 「この世界の僕の記憶は失われているみたい。ううん。魔法で封印されているのかも。僕、サラだけじゃなくて、たくさんの人に随分酷いことをしてきたみたいだから」

 「封印ワクチンは、エルフの力を封じるもので、記憶を奪うことはないはずだけど、あなた自身に事故や色々酷いことが起こっているから、無理も無いわね」

 「僕、サラの名前を呼んだんだよ。あの事故の時」

 沙羅は珍しく曖昧な笑みを浮かべて、言葉の間をとった。

 「覚えてる。バスの事故の時でしょ」

 駅馬車で移動するこの世界にバスという移動手段は存在しない。僕は、ベッドの中で沙羅の手を強く握り締めた。勢い余って顔が触れ合いそうな程近付いた。

 「覚えてるの? バスの事故の事!」

 「何のこと? バスって、どこかの地名?」

 「今、サラがそう言ったんだよ」

 「わたしが言ったのはエルフの事。何かの聞き違いじゃないの?」

 聞き違いだろうか? 沙羅が嘘をついて誤魔化している様子も無い。それとも夢? 夢のような温もりに包まれて、僕の意識は淀みに浮かぶ木の葉のように夜の闇に呑まれた。


 その夜、シャルマは部屋に戻ってこなかった。


 シャルマの行き先は伯爵の居室しかない。年頃の女の子が男の部屋で一夜を明かしたことになる。それがどういう意味を持つのか、もちろん僕にも分かる。ただ状況として想像は出来るけど、現実味は無かった。不自然で、あり得ない事のようにさえ思えた。



 「おはようございます。キョウちゃん」

 ルゥちゃんの声がハモってる。見ると、ベッド脇でカウルの使い魔イフと手を繋いでいる。もう見慣れた光景だ。二人が特別に仲良しなのか、使い魔はこういうものなのか。

 僕は部屋の中を見渡した。沙羅の姿が見えない。

 「マスターは、オシリスと打ち合わせがあると、出掛けました」とルゥちゃん、言葉の後ろはイフとハモっている。

 オシリスと打ち合わせだなんて、僕は驚いたが、他でもない僕が仕向けたことなのだろう。

 「マスターの部屋にご案内します」と、イフ。

 「キョウちゃん、一人でお着換え出来ますか?」と、ルゥちゃん。

 今まで、毎日、沙羅が僕の着替えをしてくれた。服ぐらい一人で着られるけど、選び方が分からない。僕は正直にルゥちゃんにそう言った。

 「マスターの好みに合わせて、お手伝いします」と、イフ。



 「あのさ、本当に、これがカウルの好みなの?」

 イフが選んだ服を手にして僕はそう言った。超ミニスカートと、丈の短すぎるキャミソール。その薄布は肌を覆うにはあまりにも小さすぎる。こんなものを着て歩くくらいなら、パジャマのままの方がずっとましだ。

 イフは、ルゥちゃんと手を繋いだまま、顔を見合わせている。困っているようにも見えたが、しばらくすると二人揃ってクスクスと笑い出した。

 「冗談です」と、すまし顔に戻ったイフ。

 笑うことすら殆どない使い魔の口から冗談という言葉を聞いたのは初めてだ。二人揃っているとなんだか楽しそう。

 「ルゥちゃんとイフちゃんは、仲良しなんだね」

 僕がそう言うと、不思議な事を聞いたように二人顔を見合わせた。

 「別に。普通です」と、ルゥちゃん。僕は沙羅から聞いた使い魔のオフ会の様子を想像していた。同じ姿で集まって、無言で手を握り合っている様子が目に浮かぶ。



 カウルの居室には大きな本棚が並んでいて、小さな図書館のように見えた。並んでいる本の背表紙には象形文字のようなものが綴られている。ぼくは、この世界の言語を、マザータングとして理解し発音している。文字体形は表意文字のようで、簡単なものなら頭に意味が浮かんでくる。例えば本を読むとして、理解し記憶しているのは文字ではなく意味だ。キョウ=エスターシャの深層意識の一部を共有することによって、その意味を理解しているのだと思う。

 初めてのデートの時と同じ空色のワンピースを着て、僕はカウルと二人きりで向かい合ってソファーに座っていた。どうしても僕から離れようとしないレイの世話はルゥちゃんとイフに任せてきた。

 「ロマノフェレン子爵家から正式な打診があった。兄は既に大筋に合意している。俺が婿養子に入ると同時にロマノフェレン子爵家の爵位を継承する事を条件として」

 長い沈黙の後で、カウルは短く言葉を区切る口調で話し始めた。

 「君たちがランドワール領に来た目的が分かったよ。半ば仕組まれていたんだね」

 「僕、そんなつもりじゃ……」

 僕は言葉を詰まらせた。仕組んだのは沙羅と梓だけど、そんな事は問題ではない。

 「いいんだ。騙したのはお互いさまだから。俺は庶民を装い君に近付き、君たちはネットアイドルの地方巡業を装って兄に近付いた」

 「……」

 「でも誤解しないで。キョウを責めているわけじゃないから。俺が君を好きだという気持ちは変わらない。沙羅を見くびっていたのは俺の失敗だけど、まだ諦めたわけじゃない。俺、絶対諦めないから」

 「僕……」

 「ロマノフェレン子爵令嬢がランドワールを訪問することになった」

 「え?」

 「三万人の軍隊を護衛という名目で伴って来るから、訪問というよりあからさまな示威行動だ。軍隊を動かすと通過地域の緊張が高まり、不測な事態も起こりかねない。それを承知の上の行動だから、相手は本気だ。もちろん、我々も本気で対応する必要がある」

 「ごめん」

 何について謝っているのか分からないまま、僕はそう言うしかなかった。

 「キョウが謝る必要なんて無いよ」

 そう言って、カウルは僕の手をとって、射るような青い瞳と真剣な表情で顔を覗き込んだ。

 「謝るのは俺の方だ。キョウを誘拐するんだから」

 カウルの言葉の意味に僕は、呆然としたが、自分でも不思議なことに驚いてはいなかった。そして、ただ意味を確かめるかのように、カウルの言葉を繰り返した。

 「誘拐?」

 「キョウ。俺と駆け落ちしてくれ」

 カウルは、片手を僕の肩にかけた。

 「俺が姿を消せば、子爵家の名目は無くなる。もちろん、相手は激怒するだろうけど、それは俺一人の素行のせいになって、ランドワール家とロマノフェレン家との間の問題にはならないはずだ。貴族の放蕩人がネットアイドルと恋仲になって失踪したなんて、スキャンダルになるだろうけど、世間の目を俺たちに注目させれば、ロマノフェレン家も矛を収めざるを得ないだろう」

 駆け落ち、そう言われて、僕はその状況を理解するため想像を巡らせていたので、カウルの言葉が虚ろに響く。この世界、どこに行っても僕にとっては異郷だ。どこでも良くて、どこでも無い世界に行って、カウルと二人きりで隠れ住む生活。

 カウルは伯爵家の人間ではなく、僕もエルフでも死の天使でもない一人の女の子として暮らせる場所。追っ手の影に怯えなければいけないし、喧嘩したり、病気になったりするかも知れないけど、つかの間でもいいから平穏を幸せだと感じられる生活。

 生活のために働き、二人でささやかな食卓を囲み、二人で夜の生活……。ん?

 む、無理! カウル、顔が近過ぎるってば!

 僕の肩にかけられているカウルの手に力が入る。僕は顔が火照って火を噴きそう。また、目がチカチカする。僕は、必死で顔を背け、握られていない方の手でカウルの胸を押し退けようとした。

 「君が心を開いてくれるのを俺は待つよ。でも、今は時間が無いんだ。だから、俺は君を誘拐することにした。無理やり駆け落ちってこと。すでに、オシリスが手はずを整えてくれている」

 「オシリスが?」

 「宮廷魔術士というのはあの男の隠れ蓑の一つ。別の顔は、御使の守護の一人だと、彼はそう自分で言ったよ。詳しいことは知らないけど、君の過去に関係する人物らしい」




 巨大なくちばしにキリンのように長い首を持った翼竜が城の裏庭にいた。長い翼を畳んだ前脚と大きな後ろ脚で立って、僕たちを見下ろしている。デカい。とにかく巨大で、目とくちばしの下の喉が動いていなければ、博物館の恐竜の模型にしか見えない。カウルに連れられるまま、僕はその裏庭に出ていた。

 「ケツァールに乗るのは初めて?」

 翼竜の姿に驚いている僕に、カウルは悪戯っぽく笑った。僕はブンブンと首を横に振った。まさか、乗るの? これに?

 「エディバラ殿下、お急ぎを。あの女に気付かれぬうちに」

 くちばしに繋いだ手綱を持ったオシリスがそう言った。彼でさえ翼竜の前では赤い服を着た小人のように見える。

 「オシリスいいの? 本当にこんなことして」

 すれ違いざま僕は、そうオシリスに尋ねた。僕、カウルに会いたいと頼んだけど、こんな展開になるなんて思ってもみなかった。

 「これも長老の指示です」とオシリス。

 「長老って誰?」

 「会えば分かります。マイマスター。隠れ里であなたをお待ちです」

 そう言って、僕の前で丁寧なお辞儀をするオシリス。

 「言っただろう。これは、誘拐だって。キョウは、黙って俺についてきて」

 オシリスに割って入るようにカウルがそう言って、僕の手を引っ張り、片手と両足で翼竜の前脚によじ登ろうとした。

 『かわいらしいマスター、こわがらないで』

 恐怖で尻込みしている僕に翼竜が語りかけた。

 「しゃべれるの?」と僕。

 「誰が?」とカウル。

 「今、この子が声を出したでしょ」

 「この子って、ケツァールのこと? 竜はしゃべったりしないよ」

 ケツァールは、巨大なくちばしの横に付いている不釣り合いなほど小さな目で笑って、僕のために這いつくばって体を屈めてくれた。

 「驚いたな。ケツァールが、こんなに身を低くするなんて」

 カウルは、ケツァールの首と翼の付け根にまたがって、僕をさし招いた。

 「おいで、キョウ。ケツァールも君を歓迎しているようだ」

 『よいたびをたのしんでね、かわいらしいマスター』

 カウルの背中にしがみついて背中に乗った僕に翼竜は僕にだけ聞こえる声でそう言った。いつの間にイフはカウルの腕の中に収まっている。翼竜は大きな後ろ脚で立って、巨大な翼を広げた。ドカドカと助走の振動に全身を激しく揺さぶられた後、僕たちは翼竜の背中で大空に舞い上がっていた。


 こうして、僕は、カウルに誘拐された。この不思議な世界で彼と共に生きてゆくことになるのだろう。僕は翼竜が切る風の中、カウルの温かい背中にしっかり抱きついたままそう頭と体で感じた。

 けっして安易な旅でも生活でもないことは分かっている。

 僕を待っているとオシリスが言った長老とは誰なのかも分からない。

 カウルを婿養子にするため三万人の軍隊を動かしたロマノフェレン子爵家令嬢のあのジュリアが黙っているはずがない。

 キョウ=エスターシャのエルフの体がどうなるのか、僕自身にも分からない。オシリスが言う人間を狩る魔人のようなものになってしまうかも知れない。

 そんなキョウを村ごと抹殺するために隕石の軌道を変えてしまったという超自然的な力を持つ異質なる者にも追われるだろう。

 そして、沙羅。

 沙羅、怒るだろうな。怒るだけじゃなくて、彼女もどこまでも追ってくるに違いない。沙羅は、あの世界で自ら僕の守護精霊と名乗った通り、次元を超えて僕に会いに来たのかも知れない。

 でも、僕、カウルが好きになっちゃったんだ。

 翼竜から降りたら、カウルにそう言葉で伝えよう。たぶんこれは僕にとって未経験の異性への愛だ。

 僕は、そう思いながら、翼竜の背中の上で振り向いたカウルと唇を重ねていた。まるでそうすることが自然であるかのように、彼の鼓動のリズムと荒い息遣いを肌で感じながら、二人一つに溶け合うように舌まで絡み合わせていた。その時、僕のお腹の芯で何かがとろりと溶け落ちたような気がした。

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