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47、目的と手段

「いやですわ、ミロスワフ様ったら。何のことでしょう?」

 アリツィアはとぼけて見せたが、それで引くミロスワフではない。

「誤魔化しても無駄だよ。伊達に四年間も喧嘩しながら文通をしてない」

 ーーどうして。

 アリツィアは、たまに不思議に思うことを、今も思った。
 金髪に青い瞳、がっしりした体躯に魅力的な微笑み。公爵家嫡男。
 
 ーーどうして、こんな完璧な人が、わたくしに執着してくださるのかしら?

 ミロスワフはアリツィアの考えを読んだかのように、顔を近づけた。

「ひゃっ」
「君のことだ、どうせ、サンミエスク公爵家のためを思って身を引こうなんて考えているんだろう?」

 お互いのまつ毛の影さえはっきり見える距離。

「ち、近いですわ! ミロスワフ様!」

 アリツィアは仰け反り、それならばとミロスワフはアリツィアの腰に手を回した。

「こ、腰、手! 腰! ミロスワフ様、近い! 近いですって!」
「君が、そんなことないって一言言えば離れるよ?」
「そ、そ……」

 ーーそんなことありますわ。めちゃくちゃそのつもりでした。
 
 だが、今は己の正直さに従っている場合ではない。
 先ほどから、ドロータとロベルトが目のやり場に困った様子で、それでもこちらを凝視している。
 ウーカフに至っては、苦いものを大量に噛み潰した顔だ。
 
 ーー万一、お父様がここに来たら?

 アリツィアは、この場を逃れるつもりで、ミロスワフの望む嘘をつこうとした。

「そ、そ、そん」

 腰に回された手の体温を感じられる。どこか心配そうなミロスワフの青い瞳の中に、自分が映っている。
 この人のためなのだ。
 一緒にいるつもりだと嘘を言えばいい。
 そして何食わぬ顔をして、フィレンツェに行こう。
 それしかない。
 だって。
 
 ーーだってわたくしには魔力がないのだから。
 
 貴族でありながら魔力がないことは、アリツィアにとって決して抜けない棘なのだ。
 この人はその棘ごと愛してくれた。それで十分だ。
 ただでさえ、非難されがちなクリヴァフ家の醜聞にこれ以上付き合わせるわけにはいかない。
 アリツィアはしゃんと背筋を伸ばした。

「そんなこと」
「アリツィア?」
「そんなこと、ありませんわ……」
「アリツィア様?!」
「お嬢様!」

 見守っていたドロータやウーカフが飛んできた。
 アリツィアはしくじった。
 笑顔を作ろうとしたのに、頬を濡らす涙を止められなかった。

「ごめん、いじめすぎたね」

 ミロスワフが強く抱擁した。

「君が嘘をつけないのを知っていたのに」

          ‡

「アギンリーだけどね、だいぶ元気になったよ」

 その後ミロスワフはウーカフに睨まれながらも、カップ片手にそんなことを話した。

「良かったですわ!」

 アリツィアは目を輝かせた。アギンリーのことはずっと心配だったのだ。
 もちろん家を通じて見舞いや謝罪はしていたが、怪我が長引いていたので気になっていたのだ。

「今朝から訓練も再開したって。やられっぱなしだったアギンリーの不甲斐なさを嘆いていたナウツェツィエル将軍もホッとしていたよ」
「まあ。アギンリー様はイヴォナを助けようとしてくださったのですから。不甲斐ないなんてことはありませんわ」
「どうかな。本人も早く復帰して、今度こそイヴォナを取り戻すって息巻いていたよ」
「まあ……」
「あいつも僕と一緒だよ。諦めるつもりなんてないからね」

 アリツィアは思わず声が詰まった。ミロスワフはそれには気づかないふりをして、カップをソーサーに戻した。

「そんなナウツェツィエル将軍からの提案なんだけどね」

 ミロスワフはソファの肘掛けに腕を乗せて、微笑んだ。

「今後、ナウツェツィル家としては、ジェリンスキ公爵関連の物流の警備を断るそうだ」
「え?」
「元々、気が進まない仕事だったらしい。だが、息子をボロボロにしたカミル・シュレイフタを娘婿にした家に、手を貸せないとの判断だ」
「まあ……」
「何気にどんどん味方を失っているよな」
「本当に」
「カミルに関わるとこれだ」

 アリツィアはほんの少し、疑問を抱いた。
 まるでカミルがわざと、ジェリンスキ家から手を引かせてくれているような?
 まさかね。

          ‡

「思った以上に、ジェリンスキ公爵家のやり方に忸怩たる思いをしている貴族や商会が多かったみたいね」

 イザは優雅に微笑んだ。

「クリヴァフ商会やナウツェツィル家に賛同する声も多いわ」

 クリヴァフ伯爵家を辞したミロスワフは、自宅のサロンで、母のイザにだけ、経過を報告した。サンミエスク公爵家の名前を借りて色々と動いている以上、報告を義務付けられているのだ。
 それに。

「ジェリンスキ家も、うちに助けを求めてくるなんて、よっぽど追い詰められてますね」

 クリヴァフ商会に抗議しても聞く耳を持たないと知ったジェリンスキ家は、付き合いのあるサンミエスク公爵家になんとかしてくれと泣きついてきたのだ。
 だが。

「僕とアリツィアはすでに婚約を破棄している。何を言われても関係ないで通せます。それにしても、見事なほど、肝心なときに誰もいなくなるのですね、ジェリンスキ家は」
「それはわたくし達にも言えることよ。肝心なときにそばにいてくれる味方を作りなさいね」
「心得ています」
「まあ、王太子殿下と王弟殿下が改革派なのはありがたいわね」

 そう、ジェリンスキ公爵家が周りから手のひらを返されているのには、それなりに理由があった。
 王国の中枢でも、保守派の現国王と、改革派の王太子殿下と王弟殿下でうっすらと分断されている。
 ミロスワフやアギンリーを初めとする若い世代は、王太子殿下と王弟殿下の派閥に入っていた。

「魔力保持協会の言いなりになるだけの政治は、もうカビの生えた古い世代でやめたいところですよね」

 魔力に固執するジェリンスキ家は保守派の象徴であり、長い間権力を保持していたせいか、その足元が崩れていることに気づいていなかった。
 最近になって慌てたのか、魔力保持協会とのつながりを強化しようと、言われるまま高い札を買ったり、カミル・シュレイフタと娘を婚約させたりしたが、遅すぎた。
 ミロスワフ自身も、アリツィアと出会ってなければ、あるいは、先進的な大陸に留学していなければ、旧態依然とするこの国のやり方に疑問を抱かなかったかもしれない。
 でも、知ってしまった。
 今までとは違う価値観を。
 知った以上、知らない状態には戻れない。
 そう思って恐る恐る周りに呼びかけたら、同じ志の若い連中が集まってきた。
 
 イザが、そういえば、と付け足した。
 
「アリツィアちゃんのことはどうするの?」
「どうするとは?」
「あらやだ怖い顔。違うわよ、わたくし、あの子のこと気に入っているわよ。でも実際問題、婚約破棄した相手ともう一度婚約するのはこの国ではまだまだめんどくさいことが多いでしょう」

 ミロスワフは頷いた。カミルに対して法を説いた自分が、それを破るわけにはいかない。
 アリツィアも、このままでは素直にもう一度ミロスワフと結婚する気にならないだろう。

「手は打ってあります」
「じゃあ、任せるわよ?」
「はい」

 懸念がなくなったのか、イザはほんの少しだけ、視線を遠くに向けた。

「あのジェリンスキ家がねえ……時代の潮目が変わったわ」
「違いますよ、母上」

 ミロスワフはいつの間にか母親をとうに越した上背で、告げた。

「変えているんです」          


          ‡

 クリヴァフ商会が発売した発火装置は売れ行きが好調で、ユジェフもロベルトも忙しい日々を送っていた。
 今や、庶民も貴族も、高いお金を払って魔力を増える札を買うより、安価な発火装置を欲しがった。
 商売だけでいえば大成功だ。
 その影響力を懸念した魔力保持協会から、当然のことながら、発火装置の批判が出たが、一度浸透した便利なものを誰も手放したがらない。
 しかも、魔力保持協会から販売された魔力が増える札の方が効果がないと、購入した各国の王から批判が高まっていたのでなおさらだ。
 慌てたようにジェリンスキ家がうちは効果抜群だと声明を出したが。

「没落しかけの公爵家のことなど、誰も信じやしない」 

 スワヴォミルが冷たく言い放った。
 だが、どんなに発火装置が売れても、アリツィアとしては何も達成できていないも同然だった。
 アリツィアの顔を覗き込んだウーカフが、そっと口を挟んだ。

「旦那様、お嬢様はお疲れのご様子。そろそろ休みになっては」
「そうだな、アリツィア、顔色が悪いぞ。私も元気になってきたし、今日はもう早めに横になりなさい」

 ウーカフとスワヴォミルに口々に言われ、アリツィアは部屋に戻った。
 ドロータが鏡台に座ったアリツィアのブルネットの髪をブラシで梳いてくれる。会話が少ないのは、アリツィアの体調を慮ってのことだ。

「お休みになる前に、温めた牛乳でもお持ちしましょうか」
「……そうね、お願い」

 一礼して出て行くドロータを見送ってから、アリツィアは鏡の中の自分にポツリと話しかけた。

「そんなに疲れてるかしら」

 もはや疲れていることもわからない。鏡の中の自分はいつもと同じに見える。
 気になるのはそんなことではないのだ。

「これじゃダメなのよ……」
 
 発火装置が売れようが、ジェリンスキ家が没落しようが、それは目的ではない。

「イヴォナはどこなの……?」

 アリツィアは、鏡の前で背を丸くして俯いた。
 すべてはイヴォナを取り戻す手段でしかないのに、イヴォナはどこにもいないままだ。
 ミロスワフに協力してもらい、魔力保持協会やジェリンスキ家にそれとなく聞いてもらったが、芳しい答えは得られなかった。
 どうやら本当に知らないようだ。
 
「寝なきゃね……」

 睡眠など取れるはずはないが、アリツィアは自分まで倒れるわけにはいかないと、立ち上がって義務のように寝台に横になろうとした。
 だが。

「え? まさか……」

 寝台の中央の上の空間に、あるはずのないものを見つけたアリツィアは目を丸くした。
 
「これは……」

 そこには、ふわふわと、突然現れて浮かんでいるーー渦があった。
 とっさにアリツィアは周りを見渡した。誰もいない。
 渦だけ。
 
「急がなきゃ」

 悩んでいる暇はなかった。ドロータが今にも戻ってくるし、こうしているうちに渦が消えてしまうかもしれない。

「待ってて、イヴォナ」

 アリツィアは部屋着のまま、渦の中に飛び込んだ。

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