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44、責任

「アリツィアちゃん……アリツィアちゃん? わかる?」

 意識を取り戻したアリツィアの目に最初に飛び込んできたのは、心配そうなイザの顔だった。

「イザ……様」

 出した声はかすれていた。身を起こそうとしたが、ズキン、と頭が痛み、思わず身を固くした。慌てたようにイザが止めた。

「無理しちゃダメよ。まだ寝ていて」

 イザは振り返った。

「水を持ってきてちょうだい」

 ささっと人の動く気配がする。徐々に明瞭な意識を取り戻したアリツィアは、自分が寝台の上にいることに気づいた。

「ここは……」
「ジェリンスキ公爵家の客室よ。アリツィアちゃんが倒れたから、急遽貸してもらったの。ミロスワフは別室でボレスワフ様と喋ってるわ。さっき到着したのよ」

 ボレスワフとは、イザの夫で、ミロスワフの父、つまり、サンミエスク公爵現当主のことだ。寝ている場合ではないのが、思うように体が動かない。アリツィアは途切れ途切れに言った。

「ご当主様が……そんな、申し訳ありません……わたくしがしっかり、しない、から」

 イザは困ったように眉を下げた。

「こんなときまで、あなた謝るのね」
「それは……だって、わたくしの……」

 もういい、と言わんばかりに、イザは手のひらでアリツィアの瞼を覆った。

「目をつぶって。寝ていて」

 その声は、不思議な安心感があった。使用人が水を持って戻ってきたときには、アリツィアは安定した寝息を立てていた。

          ‡

 数時間後。
 
 ようやく起き上がれるようになったアリツィアは、イザに心配されながらも身支度を整え直し、ジェリンスキ家のサロンのソファに座った。
 そこには、イザとミロスワフ、ボレスワフ、ラウラにシモンが集まり、サンミエスク家とジェリンスキ家が一堂に会する格好となった。
 アリツィアは、自分だけがそのどちらにも属していないことを胸を痛ませた。もうすぐ、自分もその一員になれると思っていた。だが、まずは頭を下げる。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「まったくだ」

 すぐにそう答えたのはシモンーージェリンスキ公爵だ。一人用のソファでは体が収まらないのか、別に長椅子を用意し、そこに座っている。

「アリツィアが謝ることはない」

 ミロスワフが反論した。ジェリンスキ公爵が不機嫌そうに腹を揺する。

「しかしね」
「アリツィアは巻き込まれただけです。ラウラ様の婚約者であるカミル・シュレイフタがアリツィアをどこかに連れて行き、戻った途端倒れたんですから」

 ムッとした表情のジェリンスキ公爵だったが、サンミエスク公爵の手前のせいか、何も言わなかった。

「冗談じゃないわ」

 父親の代わりに口を開いたのはラウラだ。

「こっちから言わせれば、クリヴァフ伯爵姉妹がカミル様を巻き込んだのよ。自分たちに魔力がないから利用したかったんじゃない? なにせあの方は大魔力使いに一番近いんですから。でもお生憎様。うまくはいかなかったようね」
「カミル・シュレイフタを利用したいのはあなたでしょう。浅ましい」
「なんですって」
「ミロスワフ」

 ラウラとやり合うミロスワフを、ボレスワフが制した。両者とも、瞬時に口を閉じる。ジェリンスキ公爵とそう年齢は違わないはずなのに、鍛えた体をしたボレスワフは、若々しさと老練さの相反する二つの雰囲気を醸し出す人物だった。数回しか会った事のないアリツィアは、親しく言葉を交わしたことはなかったが、ミロスワフから漏れ聞く様子で家族を大事にしていることは感じていた。
 今から自分が言うことで、イザや、ボレスワフにまで迷惑をかけると思うと辛かった。だが、言わねばならない。
 約束したから。
 アリツィアはゆっくりと口を開いた。

「ご迷惑をおかけしておきながら、今、こんな事を申し上げるのは慚愧の念に耐えないのですが」

 全員がアリツィアに注目する。アリツィアは一言一言、絞り出すように告げた。

「……わたくしとミロスワフ様との婚約を解消していただきたいのです。できましたら、それを、すぐに表明してくださいませ」
「ほほう?」
「アリツィア」

 ジェリンスキ公爵とラウラが好奇に満ちた目を向けたが、ミロスワフが先にアリツィアの手を取ったことで何も言えなくなった。その青い瞳は優しげにアリツィアを見ていた。

「理由を聞かせてくれないか?」

 怒られても仕方ないのに、まずは理解しようとするミロスワフの態度に、アリツィアは目頭が熱くなるのを感じた。だが、泣いている場合ではない。約束を履行しなくては。花が、どんどん枯れる前に。

「……イヴォナがカミル様に囚われているのをはっきり見ました。イヴォナを返して欲しければ、ミロスワフ様との婚約を解消しろ、そしてすぐに表明しろと……カミル様はおっしゃいました。ですから……」
「本当にそれはカミル様か? そもそもクリヴァフ伯爵家はーー」
「今はアリツィアの話を聞きましょう」

 ジェリンスキ公爵が口を挟みかけたのを、ミロスワフが遮断した。

「イヴォナはどうしていた?」
「寝かされていました。ただ、生命力をカミル様に支配されている状態です」
「なるほど。それを見せられたんだね。かわいそうに」

 アリツィアほどではないが、サンミエスク家にとっても婚約破棄は醜聞になるのに、未だこの人は優しい。謝っても謝りきれないのに、こんなに優しくされるとどうしていいかわからなくなる。
 ミロスワフがアリツィアの顔を覗き込むように聞いた。

「念のため聞くけど、僕が嫌になったわけじゃない?」

 アリツィアは力強く頷いた。

「もちろんです」
「母上がうるさすぎて辟易したとか」
「……お母様と呼ぶ日を心待ちにしておりました」
「父上の顔が怖かった?」
「端正だと思いますわ……あの、ミロスワフ様?」

 真剣さに欠けたミロスワフの応答に、アリツィアがようやく疑問を抱いた。ミロスワフは笑っていた。ミロスワフだけじゃない。ボレスワフも、柔和な表情だ。イザだけが拗ねたようにミロスワフに言った。

「ミロスワフったら。旦那様の顔は怖くないわよ?」
「一般的には怖いですよ」

 ボレスワフも異を唱えた。

「む……若い時はともかく、最近はそこが渋いと評判だ」
「どこの評判ですか」
「騎士団」
「父上以上にいかつい顔の集団から言われても」

 当主の顔について論ずるサンミエスク公爵家を、ジェリンスキ公爵もラウラもぽかんと見つめている。

「……なんの話ですかな」

 ジェリンスキ公爵は遠慮がちに水を差した。これは失礼、とボレスワフが答えた。ミロスワフが一同をぐるっと見回した。

「お聞きのように、カミル・シュレイフタの卑劣な要求で、アリツィアと僕は婚約を解消しなければいけません」
「お気の毒ですな」

 口先だけでそう言うジェリンスキ公爵を、ミロスワフは睨んだ。

「なのに、ここにカミルはいない」
「それが何か?」
「わかってらっしゃらないようですね」

 ミロスワフはラウラを見た。

「カミル・シュレイフタはそちらのラウラ様の御婚約者でしたよね」
「ええ……まあ」
「では万一イヴォナが戻ってこなかったら、こちらに責任をとっていただきます」
「責任? なぜ?」

 それにはボレスワフが答えた。

「我がサンミエスク公爵家の嫡男の婚約解消に、ジェリンスキ公爵令嬢ラウラ嬢の婚約者、カミル・シュレイフタが関与しているのは明らかですからな。カミル・シュレイフタの所在が不明な以上、こちらに責任を追及する」
「もちろん、カミルがすぐに約束を履行すれば話は別です。あるいは」

 ミロスワフはジェリンスキ公爵にも鋭い視線を投げかけた。

「ジェリンスキ公爵家が、イヴォナを見つけてくださっても構いませんよ」
「馬鹿な! 魔力なしの娘の一人や二人、いなくなったからって、何が問題なのだ。うちには関わりのないことだ」

 イザが扇で口元を隠した。

「未来の娘婿の尻拭い、ご苦労様ですわね」

 さらに、片眉を上げて言い放った。

「けれど、覚えていてくださいませ。イヴォナ嬢が戻らなければ、サンミエスク家もクリヴァフ家も、容赦いたしませんわよ」
「な……」

 アリツィアは、驚きを隠せなかった。

「あ、あの、皆様……?」

 ミロスワフがいつもの笑みを浮かべる。

「婚約を解消しても、僕と君の関係は変わらない」

 イザも頷いた。

「頑張って、イヴォナちゃんを取り返しましょうね」

 ボレスワフも同意する。

「いくら実力者といえども、卑劣すぎる方法だ」

 サンミエスク公爵家の人々の反応は、アリツィアにとっても予想外のものだった。

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