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6 玉生のリ・ハウス




「ちいたまだけ連れていくとチャトが暴れそうだから、心配だけど仕方ないね」
「どのみち明日には、日尾野が学校でその間は留守番だし」

 ちいたまにミルクを飲ませて、チャトにも玉生に断って譲ってもらった冷凍庫のささみを水と鰹節で煮て子猫用の猫缶にボリュームを持たせて食べさせながら「俺が戻るまで、ちいたまから目を離さないでね」と頼む寿尚に詠が冷静に突っ込んだ。




 玉生たちは引っ越しに先立ち、この週末を利用して敷地内を一通り見て回り、屋敷のどこにも修復や整備の必要は無さそうだという結論に達した。
その確認ついでに玉生が家屋と一緒に譲渡された録画機器で、そこにあったテープの中から気になった映画を鑑賞して、一晩過ごしてみたのだ。
 結果、いっそそのまま暮らしはじめてみるという意見の一致で、即入居するという事になった。


 実はそう決まる前に、家のライフラインが生きていると聞いていた玉生は、余程の問題がなければすぐにでもここでの生活に入るつもりでいた。
孤児院の荷物はもうまとめて、院長にはすでに話も通している。
それでみんなが入居する前に、できるだけ家の手入れを済ましておこうと考えていたのだった。
予定では、今晩中に荷物の手配を終えて早朝に発送の手配を済ませてから、この家へと直接帰宅。
そして時間を指定しておいた荷物を受け取り、引っ越しを完了させるつもりでいた。
 それが玉生の認識だ。
しかしどうやら彼らには、玉生の考えはある程度お見通しだったらしい。
それで彼らとしては、入居するに当たっての手配やらを平日に済ませて、実際の引っ越しは次の週末辺りになるだろうと検討を付けていたのだ。
ところが、なんの問題も無くすぐに生活をはじめられるという事で、つまりは玉生を週末まで待たせる理由が無くなったのだ。
孤児院の方を退院する手続きを済ませていた場合、一週間位は理由を付けて友人たちの家で宿泊を――という話はしていたのだが……

 それで予定より早いが、どうせすぐに行き来できる程度の距離なので、最低限必要な荷物を持って一緒に引っ越しを済ませてしまうつもりだと、玉生が寝落ちした後にそれぞれが言い出したのだ。
 ただ全員まだ学生の身であり、明日すぐ必要な制服や教科書などの荷物もあるので、やはりこれから一度現在の住居に戻る必要がある。
それについても玉生の様子を見て、それぞれの判断で行動をするという事で就寝となった。

 それも結局は、傍野が引っ越しの足になるという提案からなし崩しに、全員が一斉に引っ越す事になった。
後見人の傍野に、孤児院の方から玉生の退院について確認の連絡があり、それで退院と引っ越しは同日だろうと大体のタイミングをみて電話機で連絡を入れてきたらしい。
彼の方でも引っ越しを手伝うつもりで予定を空けたので、荷物の移動に車を出してくれるという。
しかも今回は、依頼主やその関係者の送迎用に所有しているミニバンで来るので、どうせみんな近場だろうと玉生のついでに引っ越しを手伝っても構わないというありがたい申し出であった。



「せっかくだから荷物だけ載せてもらって原付二輪こっちに持ってこようかと思うんだけど、ここって駐車についてはどうなってんだろうな?」

 以前に傍野と来た時には柵の外に駐車していたと玉生から聞いて、それならとそこで待っている事にした。
ジャージから元の服に着替え、玄関アプローチを全員でぞろぞろ歩いていると、腕を組んだ駆がふとその言葉を口にする。

「ミミ先輩、三輪に乗って買い物行ったんじゃなかったすか? ここ突っ切ったんすよね?」

 翠星に言われ「う~ん」と首の後ろに手を掛けた駆は、「でも柵の向こうのスペースは明らかに駐車用って感じだから、自転二輪はともかく自動二輪は……ん?」と丁度その柵を通る時、何気なく見た駐車スペースの先が行き止まりではないのに気が付いた。
緑が隠れた道を遮る角度が絶妙で、今も偶然覗き込む形でなければ柵の外側にぐるりと回り込む道に視線が届かなかったかもしれない。

「駐車用に舗装したスペースじゃなくて、舗装された道だったって事、か?」
「オレはたった今、舗装された道になった疑惑を……いや、いくらなんでも」

 寿尚が顎に手を当てて道の先に向けて目を細めると、また「う~ん」と唸っている駆を詠が横目で胡散臭そうに見た。

「ミミ先輩が気になるなら、自分ちょっとどんな感じか見て来るっすけど」
「ん? いや原付二輪で戻って来るつもりだから、後でオレが行くわ。うん」
「まあ、自分も裏庭の辺りとか温室とか、どっちかってーとそっちの方が気になるんすけどね」

 害意には過敏なほど勘の働く面子が一晩過ごしても危険性を感じなかったので、単純に引っ越し先の新居としてどうかという話になる。
明らかに普通の家ではないが、むしろこちらに対して好意的だという印象をみんなが持っている様だ。
人を好感度で選ぶ家といえば、それなりに知られている迷い家的な、民間伝承が頭に浮かぶ。
実際に玉生などは、昼食の片付けをしながら仮称ブラウニーに供えたパンケーキの皿がキレイに空になっていたのを確認してから、もうすっかりその存在に慣れる方に意識は固定されて、不思議が不可思議ではなくなっているのだった。


「気になる事は多少なりと事情を知っていそうな奴に聞いてみればいい」



 それからそう待たず黒のミニバンで傍野がやって来て、スムーズにUターンをしてから柵の手前で停車した。
その車体を興味津々に眺めて「あー、このサイズなら色々持ち歩けていいな。免許取ったら欲しいな」「自分は軽トラの方が希望なんすけど、こうやって見ると迷うっすね」などと言っているアウトドアな二人に、寿尚はやれやれという目を向けている。
そのミニバンの運転席から、目が合った玉生に「よっ」と手を上げて挨拶した傍野は、揃えた指でちょいちょいと扉をスライドさせる様な動きで、ドアを引いて開けるように合図をしてきた。
それを見た駆が「あ、オレが開けるな」と意外と丁寧な手付きでドアをスライドさせると、後部だけでもシートが六席ある広い車内が現れる。
しかし、寿尚はあえて助手席のドアをコンコンと軽くノックした。

「今日はお世話になります。傍野さんにお尋ねしたい事もありますので、俺は助手席で構いませんか?」

 肩をすくめて助手席のロックを解除する傍野を見て、空気を読んだ翠星が、玉生を誘って後部座席二段目のシートに乗り込んだ。
傍野がどの程度の事を知っているのかは不明だが、寿尚が彼に尋ねるのは例の家についてだろうから、詠は間違いなく会話に参加するだろう。
好奇心の強い駆も黙って聞き手に回るかというと怪しい。
この場合、その二人を前列にした方が話がスムーズにいくだろう。
翠星も当然その内容には興味があるが、彼や玉生はどちらかというと聞き手に回るほうが気楽なタイプだ。
第一、個人の意見が必要な時でもなければ、一人をこの人数で問い詰めるのも却って非効率だろう。

「この前の傍野さんのキャラバンは、座席が高くて外見るのが面白かったんだよ。今回の車は乗りやすくってシートがフカフカだし、すごいね!」
「こっちは依頼人を万全に運べる様に選んだヤツで、リクライニングでベッドにもなるからさ。登らないと乗れないキャラバンと比べて車体も低いから、お客さんには評判いいね」

 挨拶のタイミングがつかめないでそわそわしていた玉生が、座席に着いたその座り心地の良さについ隣にいる翠星に興奮気味に語っていると、運転席からバックミラー越しに傍野が笑う。
それにわたわたとして「あ、あの、今日はわざわざお手伝い、ありがとうございます。その、よろしくお願いします!」と慌てる玉生に、傍野はひらひらと手を振って答えてからエンジンを掛けた。
 そして静かに車をスタートさせる様子を見ながら、奇妙な話題なだけにどう切り出そうかと考えている寿尚に、傍野の方が直球で話を振ってくる。

「やあ、日尾野君。君たちも一緒だから大丈夫だとは思っていたけど、すぐに入居と決断したという事は問題なく“受け入れられる”んだな?」
「……それは、問題があるのが分かっていて自分は立ち会わずに、たまをあの家に送り出したという自白なんですか?」
「いや、俺はまだその許可があやふやでね。ペナルティーがなかなか容赦ないから、君たちを当てにしていたんだが――やっぱりそう思うよなあ」

 あえて直球で返した寿尚にそう言って苦笑した傍野は、「そうだな」と改めて口を開いた。

「俺も実は、そう詳しいわけでもなくてね。それに、どう説明しても胡散臭い話になるから躊躇するというか、うん」
「その感じでは緊急性も危険性もないのでしょうが、知らない事で不利益を被る可能性は無視できません」
「とにかく言うだけ言えば、判断はこちらがする」

 背後の席から詠にも情報を請求され、「そうだね。君たちの場合、知っていたら上手く活用はできるだろうなあ」とまだ少し躊躇っていた傍野だが、玉生が彼なりに気を遣って「ブラウニーがいるんですよね?」と口にしたのに力が抜けたらしい。

「気付かなかったらそれで済むという事もあるだろうし、宿命的なものに巻き込まれるにしても知らなければそれを引き延ばせるかもしれないと、俺とかは思ってたんだが、最悪なパターンもないわけではないんだろうなあ。だよなあ」
「思わせ振りだな。言霊を恐れるなら言葉を選べ」
「ああ、そっちの心配もあった」

 ガリガリと頭を掻いた傍野は一度大きく息を吐くと、車を停車させた。

「それに、どうやら話が済むまで“ここ”から出してもらえないらしい」
「あ、やっぱり。いつまでも公道に出ないと思ったのは、気のせいじゃなかったんだな」

 買い出しでこの道を通った駆の言葉を聞いた玉生も、昨日みんなでバス停から歩いた時の方が、はじめて傍野の車で来た時より屋敷までの道が短く感じたのを思い出した。

「そういう規模で事象を操る存在だと?」

 詠が声を低めて確認をすると、「ああ、いや。どう言うのが正解なのか……」と顎に手を掛けて視線を上に向けた傍野は一つ頷いて、手のひらを彼らの方へ向けた。

「君たちは問題なく一晩過ごしているところを見ても、もう条件をクリアできていると思うが俺はちょっと微妙なんだ。迂闊な発言をした場合、悪影響を及ぼすと判定されたら、その関連の記憶だけ上手い具合に消去される可能性がある」
「記憶を弄れる存在って……明らかにそれは危険なのでは?」

 記憶の消去という不穏な発言に、寿尚の眉間にしわが寄る。
当然の様に無言の詠だけでなく駆も「頭の中弄られるのはちょっとな」と首の後ろに手をやって、伏せ気味の位置から傍野に胡乱な視線を向けた。
その後ろでは「催眠術の『目が覚めたら忘れています』、みたいなのかな?」「それはどっちかってったら忘却じゃね? 消去は思い出そうとして脳神経に負荷が掛かるのを、無効化する親切って考えも微レ存」とクラスメートらしい呑気と紙一重な会話をしている。

「今の状況を破綻させないために、秩序を乱す要素を排除するというか。とりあえず日尾野君も知ってる弁護士の奴も、大分前に“倉持宝の家”が存在しているという記憶自体を消去されたけど、本当にその部分だけで問題なく宝本人との付き合いは続いたしね。俺もアウト判定されたら、学生時代の同級生に便利屋として仕事の依頼を受けていて、そのフットワークの軽さを見込まれて甥の後見人を任された関係者とかになると思うよ」
「それは家に関する宝さんの事情と繋がっている部分が消えてしまうという事ですか?」
「ああ、宝本人に対して過去に家に訪ねた記憶が家の近くまで送って用事は車内のやり取りで済んでいるとか、消去の前後で辻褄が合う様に上手く消える。以後は家に入ろうとしたら柵にまで戻されたり、柵にまで辿り着けない場合もあるといった具合かな」
「ああ、家人に追い返されたとか道に迷ったとか、そこも込みで辻褄が合うんだな」

 傍野の説明に寿尚と詠はその法則性を頭に入れ、今後それがこちらの不都合になる可能性をしばし脳内でシミュレートした。
その間に「あ、それじゃあ」と、駆が気になった事を傍野に尋ねてみる。

「あの家には住人以外に人は呼ばない方がいいとか、そういった感じですか? 後、それで郵便物とか配達物は届きますかね?」
「確実に必要な用事があるなら外で済ます方が無難ではある。勝手に追い返されてしまうかもしれないからね。郵便物に関しては宝がバス停前の郵便局と、大きい荷物用にその近所の私設企業で私書箱をキープしているから、そのまま使える手続きが済んでる筈だ」
「それは配達人によっては家まで辿り着けないって事ですか?」
「まあ、そういう事だね。出前関係は――玉生君の言うところのブラウニーが解決してくれるよ。ただ好みがあるなら、まずそれを家に持ち込んで分析させる過程が必要だけどね」
「ああ、化学実験っぽいのに、『料理は科学』って言うアレっぽいですね」
「“誰がやっても結果が同じという再現性”が科学」
「店で出す料理は変わらない味を提供できてこそ一流という意味では正しいね」


 その会話を聞いていた玉生には思い当たる事があって、思わず「あ!」と声に出してしまった。

「あのね、初めに水道の水の味がミネラルウォーターみたいだなって思ったの、駆君の冷蔵庫に入れたボトルがあったからかなーって……え、と、違うかな?」
「ああ、確かにいつもの水道の水と比べたらしっかりミネラル入ってた。キッチンだけならともかく、風呂場のシンクもそうだったっすね」
「そうそう。そんな感じで調整しているらしいんだ」

 傍野がその会話に頷いて、「“あの家”に味覚があるわけじゃないから、実物を持ち込むとそれを基に“調整する”んだとか」と説明した。

「実際に家に聞いたみたいに言うんですね? って、まさか会話できるっていう?!」
「う~ん、実際この辺から先は俺が話してしまっていいのか微妙なんだよ。多分ね、自己紹介したがる――あ、君、三見塚君ならデッサン人形とか持ってるんじゃないかい?」
「はい、一時期凝っていたんで色々と。なんなら球体関節人形も、ってアレは親戚の子に、貰われていってしまったんだったなあ」
「いや、まずはあのよく見る、木のヤツでいいと思うよ。俺の場合は宝との会話に混ぜてもらったけど、会話の相手が見えないと話しづらくてね」
「ああ、いわゆる天の声ですか。なるほど、確かに仮にでも姿がある方が付き合いやすい」

 そこで寿尚が、傍野と駆の会話に待ったをかけた。

「決まった範囲内での事かもしれませんが、色々な事が可能なのでデッサン人形なら自力で用意できるのでは? それとも何か規制みたいなものがあって引っ掛かるんですか?」
「日尾野君は鋭いね。なんというか一度パペットのイメージをリセットしないと、上手くいかないと思うんだよ」
「パペットのイメージですか? はあ、まあとにかくあの家とは対話が可能で、友好を築いた方が良さげではあると――」

 その時、黙っていた詠が「見ろ」と前方を指差した。
 
「会話の方向性として正解だったらしい」



 見ればフロントガラスの先はもうすぐに公道で、丁度目の前を横切ったバスが停留所に停車するところであった。




 ひとまず明日にでも必要な分の荷物をまとめるため、彼らを順番に家の前で降ろして回る。
孤児院で玉生の退院の手続きを済ませて、正式に退院してからまた逆に回り、まとめた荷物を持った彼らを拾って一緒に蔵地に戻るのだ。

 孤児院に着き傍野が後見人として必要な書類に署名をしている間に、玉生はまとめておいた荷物を取りにこれまで暮らしていた部屋へと向かう。
そこで同室の院生たちと別れの挨拶をしていると、ほかの部屋からも玉生が思ったよりも多くの者が顔を覗かせてくれた。
最後に今までのお礼として配ろうと、空になったロッカーにこっそりとお菓子を隠しておいたのだが、取り出したそれが足りるか少し焦ってしまった位だ。
つい先日、ハロウィンという外国のイベントに合わせたセールがあって、色々なお菓子を日尾野の店の割引で購入できたので、寿尚の部屋を借りて小分けにばらして小袋に詰めた物だ。
最後に顔を合わせた人に挨拶のついでとして渡すつもりだったので、当初はそんなに数を用意する必要はないかと思っていたが、寿尚に「きっとね、必要になるよ」と言われて『余ったら恥かしいな』と躊躇しながら用意したのだが、予想外だった。
院では学校の学期を基準に、その間の長期休みを利用して班や部屋割りを入れ替えるという方針のため、現在の同室者はそう長い付き合いにはならなかったが一応は彼らの分は少し多めに、それと個人的に付き合いがあった何人かには「蔵地郵便局留めで僕宛の郵便、受け取れるから何かあったら手紙を送って」と伝えておく。

 そうしているうちに、院長に先導された傍野が引っ越しの荷物運びを手伝おうと、部屋の方まで玉生を迎えに来た。
それを早いと感じたという事は、意外とこの場所を名残惜しく思っているのだと気付き少し驚く。
 そして譲れるものは欲しいという者に譲っても、残った持ち物で大き目な箱が三つ埋まり、傍野が荷物を運ぶのを手伝いに来てくれたおかげでそれが一度に済むのはありがたかった。
特に書籍類の箱は玉生の手に余る重さで、玄関まで休み休みにでも運んで運送会社の受け取りサービスに頼もうかと思っていたのだが、傍野はもう一つ別の箱を載せても余裕で持ち上げると悠々と運んだのだった。
残る雑貨類を詰めた箱を抱えて改めて最後の挨拶をする頃には、院生たちは食事や風呂の時間に追われて、実に慌ただしい別れとなった。

 最後に車に乗り込む前に、外出から戻ったここでは一番に付き合いの長いバイト仲間に会えたので、「もうお菓子みんな配っちゃったよ」と言いながら、メモしておいた電話番号を「お守り代わり」と言って渡しておく。
まだ自覚はなくても生活に余裕のできた身なので、現在の小学校の高等科を卒業するまでは続ける事も可能だったミルクホールのアルバイトも、次の定員枠待ちの院生に譲り渡してしまったのだ。
件の友人たちとの交流で外出の多かった玉生と、常に忙しくして落ち着かなかった彼では顔を合わせる時間が圧倒的に足りなかったが、機会があれば改めて交流を持てたらいいと思う相手なのである。



「別れたと思っても案外すぐに鉢合わせして、気まずい思いをしたりするもんだよ?」

 少し感傷的な気持ちになっていたところに、最後尾のシートをスライドさせて作った空間に玉生の箱を仕舞いながら傍野は笑う。
言われてみれば、玉生は少し前までこの土地から離れるかもしれないとまで考えていたのだ。
それで変に引きずっているのかと思い至ると、明日にも学校の往復で見掛ける程の距離でしかない別れに赤面しそうになった。
バイト先のミルクホールには、これから先も客としては行けるのだ。

「ははは。さあ、みんな拾ってさっさと君のうちに戻るとしよう」

 スライドドアを閉じて運転席に回り込む傍野が、それで流してくれたのでほっとした玉生は、運転席と会話しやすい様にすぐ斜め後ろの座席に座った。
 予定通り行きとは逆に、まずは一番目的地から遠い詠の屋敷から寿尚の館、駆の工房を兼ねた住居、そして翠星の下宿と順に回って蔵地の玉生の家に向かうと傍野に言われて頷く。

「そうですね。尚君がちいたまの事で心配しているだろうし、急がないと」
「あー、ちいたまっていうのがあの時の子猫なら、『後から追いかけてくる“多分、三叉の猫っぽい”のがいるから、子猫を任せておけば大人しくしてる筈だ』って伝言が……というか、あの子猫は君に拾ってもらって、できればあの家で飼ってほしいという希望で狙って置いたらしいんだよね」
「え? 猫っぽいって、チャトって猫じゃないんですか?」
「あー、引っ掛かるのはそこなんだね」

 あの家の温室で発見された虎猫が寿尚にチャトラッシュと名付けられ、その尻尾が三叉だった事から妖ではないかという疑問になり、そこから常世のものが見える見えないという話になったという会話をしているうちに詠の家に着く。
 相変わらず愛用のずっしりとしたインバネスコートを羽織った彼は、既にぐるりと塀で囲まれた日本家屋の門の前で待っていた。
そのミニバンのヘッドライトに照らされた彼の隣には、和風の門構えからは浮いて見える四輪駆動車と長身の影が並び立っている。
 玉生が少し緊張しながらインナーハンドルを引くと一瞬の抵抗の後、触れた感触で予想したよりもスムーズにドアがスライドしたので、思わずにこにこしながら出迎える事になった。

「お待たせ、詠君!」
「ご機嫌だな、玉生。いい事でもあったのか?」

 寸前まで面倒な家人の事でへそを曲げていた詠だったが、長く暮らしていた孤児院の別れに意気消沈してはいないかと気になっていた友人の機嫌がいいのにほっとして、すっかり気が逸れてしまった。
そうなると家人の男の傍若無人さなどは、いつもの事で勝手にやっていろという気になる。
むしろ、男がどの程度“あの家を構成するもの”に関われるかのサンプルの一つになるのだと考えれば、留飲も下がるというものだ。
 そう言われた玉生の方はというと、傍野と話しているうちにすっかり今後の生活へのドキドキとワクワクの気持ちで普段より気分が高揚し、スライドドアが開けられただけであの様子だったのだと、説明しているうちに恥ずかしくなってしまった。
これがほかの者なら「単細胞」と一言で切って捨てる詠だ。
しかし、玉生の生い立ちから淋しさ慣れし過ぎて、それを当たり前にしているうちはその状況に置くのはよくないと思っている。
それでわざわざ水を差さずに、「ガルウィングという真上に開く構造で、開けるのはともかく閉じるのは人にやらせないと格好がつかないというドアもあってな」と以前に見掛けた車のドアにまつわる話で会話を肯定側の方に転がす。
そうやって「スーパーカーとかカッコいいデザインだと思ってたけど、座ってから上から下に閉めるの大変そう」と友人を笑わせる詠を見て、家人の男が意外そうな顔をしているのが面白くなかったが、無視してミニバンの方に乗り込むとドアを閉じて運転席の後ろにさっさと座った。
フロントガラス越しに男と目の合った玉生が、ぺこりと頭を下げるとあちらも目礼したのがヘッドライトの明かりの中に見える。
詠が荷物を持ち込まなかった事から、どうやらその家人が引っ越し先まで送り届けるつもりだと判断して、アイドリング状態にしたままで傍野はその男の側に歩み寄っていく。


「詠君の荷物は? 運ぶの手伝わなくてもいいのかなあ?」
「奴が一度家を見ておきたいと譲らないで、あっちの車に積まれたから放って置いていい。いざとなったら入り口に置いて帰る事になっている」
「え?! そんな所に置いて大丈夫なの?」
「軍用コンテナに入れて台車も用意してあるから問題ない」

 車中でそんな会話をしている間に、保護者同士はどの程度の情報をやり取りする必要があるか、互いの値踏みをしていた。

「もし君が物騒な人なら、これから行く場所は人を選ぶので蔵地のバス停前に置いていかれると思うんだが、承知の上だろうか?」
「その場合、郵便局向かいの歩道側にある私道の標識裏に、台車ごとコンテナの荷を置いて行く様にと対策済みだ」

 実は傍野も男の方も直接の知己ではないが、“止ん事無いお方”のお声掛かりの一件に巻き込まれた時に互いを認識している。
片や富本伯家の家人、片や知る人ぞ知る倉持宝の助手としての肩書きで、各々の手順をスムーズに進めるために裏で走り回っていただけなので、その名の通りの顔見知り止まりでしかないが、これで身元だけは保証された様なものだ。
それでも、「これから彼らの同居人たちを回収して回らないといけないので」「気にせず先行してくれたらいい」とまともに名乗り合いもしない両人は、どちらも相手を「胡散臭い奴だ」と思っているに違いない。
とりあえず最低限の礼儀は済ませたとばかりに双方共にさっさと運転席に乗り込む。

「お待たせ。次は日尾野君の家の方に回るよ」
「あの茶虎が猫ではない上に、家ではなく子猫の方に憑いていると受け取れたが、どういう事情がある?」

 車を走らせるまでは辛うじて待っていたらしい詠は、玉生に聞いた話で気になったらしく、すぐにその質問をしてきた。
傍野は「やっぱりまずはそこなのかい?」とルームミラー越しに彼らに目を向けて苦笑した。

「とりあえず、“ここ”では間違いなく“猫科という縛り”で“呼んだ”からあくまで猫だそうだ。そうでなければ元の所に帰すという契約で、あえて本能と共に本来の知能も抑制して賢い動物レベルでいるんだとか」
「猫男は似非猫でも守備範囲だろうか……玉生はどう思う?」
「テレビの番組でメインクーンっていうおっきな猫見た時は、『大きくても可愛いな。牛サイズでもきっと可愛い』って。あっ、虎とか豹とか獅子とかも『見てるだけでもいいよね』って言ってたから、チャトがちいたまとゴロゴロしてるだけでも見てて楽しいんじゃないかなぁ?」
「彼は見た目はハスキー犬みたいなのに、そんなに猫が好きなんだ?」
「尚君の家は全員が猫大好きですよ。いっぱい家にもいるし、犬好きの人と保護したら届ける協定してるって、僕たちも放置されている犬猫は拾って日尾野家に届ける様にって言われてるんです」
「まあ、猫男のあれは遺伝だな。それで、猫科ぶって子猫の追っかけをしている方の理由は?」
「いや、そっちは俺もよく分からない。ただ子猫を見付けた先に呼ぶなら、大人しく一緒に飼われるって契約をしていたらしい」

 子猫をどこかから見付けてきて玉生に拾わせて、それを茶虎に知らせて呼び寄せた本人は? と、黒縁眼鏡の下からでも分かるじっとりとした目で傍野を見た詠は、それでもおそらく彼の人の生存を隠すのには理由があるんだろうとその追及を口にはしなかった。


「あ、尚君!」

 ヘッドライトの向こうに見付けた姿に玉生が手を振る。
すると、一見ベビーカーの様なペットカートに大きく丈夫そうなキャリーやカーゴなどを載せ、大きなドラムバッグを担いで立っていた寿尚が手を振り返した。
蔵地にある玉生の家に置いてきた、ほとんどちいたま用の荷物だった物より、全体的に大柄なペット向けのグッズである。

「チャトが大人しく入ってくれるかはともかく、一応はね。それにこれから使う子たちが増えるかもしれないからさ」

 そう言って玉生が開いたドアから乗り込んだ寿尚は、ペットカートを後部に載せてタイヤをロックした。
その寿尚の後をカートに大きな箱を載せた尾見が玉生たちに挨拶をして続く。
テキパキと畳まれた座席も使うと、ペットカートとカートの両方が動かない位置に抑えあう様に上手く収めた。

「では、機会があれば新居の方へご挨拶に伺わせて下さいませ」

 車内に頭を一つ下げてから日尾野の家に戻ろうとした尾見に、はっとした玉生が「あ! そうだ、尾見さんに頼みごとがあって……っ」と慌ててコートのポケットからキーケースを取り出した。
尾見に預かってもらうのを忘れないようにと、ダッフルコートを着る時にポケットに入れておいたのだ。

「あの、家の予備の鍵は預けておくものだって、それで信用できてどこに連絡するかハッキリしてる人に頼むのがいいって聞いたので……」

 気が焦って捲し立てるように願いを口にした玉生は、声をかけられてドアの向こうで待ちの姿勢で立つ彼にそれを差し出す。

「うちの予備の鍵っ、尾見さんが預かっていただけませんか?!」
「はい、私でよろしければ。大事にお預かりいたしますので、必要な時はどうぞお声をおかけください」

 先に寿尚に聞いていたので、尾見は躊躇なくそのキーケースを受け取って、「お守りだと思って持ち歩く事にいたしますので」と微笑んだ。
もう何年も日尾野の家に出入りし、末っ子の友人でその家族一同にも気に入られ下にも置かない扱いを受けても、変わらずに控えめに歓待を受ける少年は尾見にとっても歓迎に値する人物である。
つまり、この程度の頼み事は、尾見個人としても引き受けるのにやぶさかではないのだ。

「では寿尚坊ちゃま、いってらっしゃいませ。傍野様、よろしくお願いいたします」

 数歩下がり改めてこちらに向き直った尾見に見送られながら傍野が車を発進させると、その後ろを四輪駆動車が付かず離れず追従して来る。
その運転席の男を見て「富本のご夫婦は筑波に参られるとの事だが……本家から彼を番人としましたか」と呟いてから、尾見は大事そうにベストの隠しに預かり物のキーケースを仕舞った。




 次に迎えに向かう駆のいる三見塚家は、工房を兼ねた住居で山寄りの自然が多い場所にある。
家族の中でも社交的な者がカルチャースクール的な事をしていて、結構な数の生徒が時間を作って通って来るので、地元の振興にも一役買っているのだ。
そのおかげで近くのバス停留所からの道もレンガで綺麗に整備され、僅かながら夜道を照らす外灯もあって近所の人の散歩道にもなっているが、この季節ではなかなかそんな奇特な人はいない。
そんな少し寂しい玄関先に、ガラスの扉を通して工房の光が漏れている中、原動機付自動二輪車のシートに腰を下ろし手元を覗き込む駆が待っていた。
ヘッドライトの光が届き、傍野の運転する車の到着したのに気付いた駆が立ち上がって手を振ってくる。
そこに車のリアウィンドウを照らす光が、付かず離れずの距離で追走している四輪駆動の存在を知らせてきた。


「つまり後ろから付いて来るのは詠の家の者で、どういう家に引っ越すかのかチェックしたいんだって。過保護な保護者が付いたもんだよね」

 背後に視線を向け、運転席に目を凝らす寿尚に詠がムスッとする。

「問題があれば、蔵地のバス停留所で消える」

 一度家に戻りすぐに学用品関係と適当な着換えに一箱、手元にある私物を手当たり次第に詰めて一箱という大雑把な荷物を両脇に抱え持って来た駆が、ミニバンにそれを乗せながらふんふんと事情を聞いている。

「基準が分からないからなんとも言えないけど、チャトが実際よりも能力を下げて許容されているというなら、まあその辺りが関係しているんじゃないかとは思うんだけど」
「う~ん、チャトはある意味、野生の部分を去勢されてる感じなんだよな。本来はもっと猛獣でもおかしくないというか……感覚的にそう思うってだけだから、ちょっと言葉ではどう説明していいか分からん」

 寿尚の推測に、駆が自分の感じた個人的なチャトの印象を語ってから「そういう部分の何かに、家が受け入れられない要素があるのかもな」と話を締め、傍野に「じゃあ、オレは原付で追って行きますんで」と言い残してドアを閉めた。



 最後に回った翠星の下宿は、駆の家からそう離れていないもう少し緑が多い場所にあった。
大家から許可を貰い建物の裏に家庭菜園レベルの畑を作って、新鮮な物はなかなか入手の難しいリーフレタスやルッコラなどを自分で賄っていたのだが、家具家電と一緒にそれもそのまま近所の苦学生に譲るなどしたそうだ。
それでも持ち物をまとめるのに中サイズの箱が六つは必要だったらしく、在室中だった近所の学生たちが「くれぐれも水遣りだけは忘れないでくださいっす」と言われながら見送りに出たついでに、車まで荷物を運ぶのを手伝ってくれたのだった。



「後ろのあれって、ああやって使う物だったんだ」
「後から追っ掛けるつもりだったんで、助かったっす」

 誰か一人は自転車を持ち込むだろうと、予想した傍野がミニバンの後部に取り付け式のサイクルキャリアを設置してきたおかげで、翠星は愛用の自転二輪車をそこに積んで本人は車内でゆったり移動できる事になった。
 それでみんなが合流する間の話として聞かされた内容は翠星にとって、驚きよりは納得だった。

「チャトがわけありなのは納得って感じっすね。なるほど、よそから来たんすか」
「おや。意外と現実主義な翠星にしては、あっさり流すんだね?」

 見た目で騒がれるのに対して、自ら「似非エルフ」と名乗るファンタジークラッシャーの翠星にしてはサラッと認めているのは、どういう風の吹き回しか。

「それがっすね。引っ越し先を実家に知らせたら、うちの父が『ああ、宝が持ち帰ったアレか。まあ翠星は私の兄に似て、典型的な森人だし案外気が合うんじゃないか?』って言われたんす」
「森人って、森の人か? オラウータンがどうした」

 唐突な父親の話に詠が返した発言に、まだ以前のゴリラネタを引きずるのかと自然に目が座る寿尚を見て「いや、そうじゃなく」と翠星が否定する仕草で顔の前に手のひらを立てた。

「森人っていうのは父の故郷での呼称で、こっちで言うところのエルフだそうで、自分ハーフエルフだったんす。『まだその話はしてなかったか?』って言われたっす」

 一瞬の沈黙の後、「――今後は、似非エルフと名乗るのは詐称」と詠に言われた翠星は、「ホントにな」と呻き声を上げるのだった。
翠星のカミングアウトに玉生は目を丸くしているが傍野は特に驚いた様子もないので、おそらくエルフであるという父親と面識があるか宝から聞いているかで、その事情については既知だったのだろう。

「うん、まあそれはともかく。つまりたまの家は、宝さんがよそから持ち帰ったモノである可能性が高いという話だよね」
「気が合うという仮定は、遣り取りが可能というだけでなく、人格らしきものがあると」
「人格……僕と仲良くしてくれるかな?」

 そう玉生が呟いた時、丁度彼らの乗るミニバンが右折して私道に入った。



 

しおり