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空蝉心中

 正午の、真上から木漏れ日が降り注ぐ中、歩く者あり。方向音痴で半人半妖の、辻ヶ先遊行(つじがさきゆぎょう)である。頬を伝う汗は、拭ってもすぐにまた垂れるのを繰り返す。
 蝉が、短い余生を、懸命に謳歌するように鳴いている。その声を煩わしいと思う者もいるが、遊行はそうは思わない。彼らだって生きた証を残すため、番を見つけるために、命を燃やして相手に訴えかけているのだ。
 遊行は、道すがらの泉で一休みをした。手甲を外して、水を掬って飲む。御山(おやま)からの雪解けである泉の水は、真夏であっても冷たい。その水が喉を通り、五臓六腑に染み渡って、火照った体を体内から冷ましてくれる。生きた心地がする。夏は、様々な時に「生」を実感させてくれる。夏場の旅は過酷ではあると思うが、遊行は夏という季節は嫌いではない。
 遊行が、蝉時雨を聞きながら、一息ついていると、すぐそばの木に蝉の抜け殻がくっ付いているのを見つけた。その抜け殻を壊さないように、優しく摘まむ。これはあの子へのお土産にしよう。遊行は立ち上がって先を急いだ。
 遊行は、湖底の竜宮へ続く洞窟へと入っていく。外とは打って変わって、洞窟の中はひんやりとしている。春でも夏でも秋でも、この洞窟はいつも変わらない。遊行は洞窟の中を進む。竜宮へと辿り着き、九角竜天子(くかくりゅうてんし)への謁見を求めた。
 謁見の間で、九角竜天子はいつもと変わらず、微笑んで謁見に応じて下さった。
「遊行、今回も長旅お疲れさまでした。ここは涼しいですが、外はとても暑いでしょう。体の不調などはございませんか」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。天子もお忙しいでしょうが、ご自愛ください。」
天子の遊行への労いと体調を気遣う言葉に、遊行は感謝の意を伝える。天子は、まず最初にこういったお言葉をかけてくださる。
「外がとても暑いと御存知なのですね」
「たまに、竜宮の外へ出かけるのです。一人で。ここに居ては、気が滅入ることもありますので。私は水場を好む性分なので、本来の姿になって、湖を泳ぎもしますよ。ここの者には内緒ですよ」
天子があの湖を泳いでいるだなんて、遊行は知らなかった。竜宮で多くの竜を従えている天子にも、一人になって自由に動き回りたい時があるのだ。
「そういえば、森の外は如何ですか」
「特に、江戸や京で大それた事件はございません。ところで、天子は、ヒトの流行りものには興味はありますか。実は今回の旅で、巷で流行っているという草子が手に入ったのですが……」
「あまり触れたことはございませんが、知っておくのも良いかもしれませんね。お借りしてもよろしいですか」
遊行は、天子に草子を恭しく手渡した。そして、一礼をしてから謁見の間を後にする。
 遊行は、いつものように奥座敷へ向かう。奥座敷の格子の中で、蚕月童子は、相変わらず独楽を回している。蚕月童子は、格子戸の向こうの遊行に気がついた。
「あっ、遊行。こんにちは。今回の旅はどうだったの?」
遊行がまだ格子戸の外にいるにも関わらず、早速、童子は遊行の旅での話が気になって尋ねてきた。遊行は、ゆっくりと狭い格子戸を窮屈そうに潜り抜けて、奥座敷へ入る。
「はいはい、こんにちは。まあ、そう慌てなさんな。それよりも、今日は童子にお土産があるんだけど」
「お土産?」
童子は、小首を傾げて遊行を見上げる。遊行は慌てる様子もなく、笠を脱いでから胡坐を掻く。童子は、思いも寄らないお土産に、ワクワクしながらその向かいにちょこんと正座をする。
「お手々出して」
遊行がそう促すと、童子は両手を前に差し出した。遊行はその小さな手の上に、蝉の抜け殻を乗せた。乗せられたものに、童子は興味津々に、抜け殻を指でつついている。
「何こ()?」
「あんまり強く握ったり、突いちゃだめだよ。すごく壊れやすいものだから。これは蝉の抜け殻といって、蝉っていう虫の脱皮した殻だよ」
「脱皮の(かや)かぁ。僕たちも脱皮する(しゅゆ)けど、その(かや)とは全然(じぇんじぇん)違うね」
 遊行はこの時、初めて竜が脱皮することを知った。しかし、よく似ているとされている蛇が脱皮をするのだから、竜が脱皮をするのもあり得る話だと納得する。そして、蛇の抜け殻が縁起物なのだから、竜の抜け殻もかなりの縁起物になるに違いない。今度森の中を探してみようと、遊行は心の中で誓った。
「蝉の抜け殻は、空蝉(うつせみ)ともいうんだ。そして、それは儚いものや虚しいもの、現世に似ていると、ヒトは考えている」
現世(げんしぇ)ってなーに?」
「簡単に言えば、こうやって今生きていること。そうだなあ。ヒトは体と魂ってものがあって、その二つが合わさって初めて生きているって考えている。童子も脱皮が分かるなら、脱皮する前は殻も一緒だろう?これがヒトのいう現世であり、生きていること」
遊行は、ヒトの生き方に対する考えを、脱皮に例えて話してみる。難しい話だとは思うが、童子も脱皮のことが分かるからか、頷きながら聞いている。
「そして、殻を脱ぐ。この時が死だ。殻は体で、抜け出た虫が魂。この蝉だと、脱皮をすると飛ぶことができるようになり、あちこちに行く。殻はそのまま朽ち果ててしまうんだ。同じように、魂も彷徨って次の生になり、体は朽ち果てて骨と土になる。分かった?」
「うん。なんとなく分かった」
身近な話に例えたとはいえ、理解できるかと思ったが、童子は分かったようだ。幼いながらに賢い子だと、遊行は感心した。
「かなり難しい話をしたんだけど。童子はお利口さんだね」
遊行は童子の頭を撫でる。その童子の手は、優しく蝉の抜け殻を包んでいる。
「じゃあ、ヒトの間で流行っている恋の話でもしようかな」
今日も遊行が語りだす。


 今回、旅をしていたら、俺は大坂へ辿り着いた。大坂へ行くのは久方ぶりだった。大坂は、江戸で幕府を開く前に一時、政の中心にもなった都市であり、今では商売が盛んである。そんな大坂は、様々なものが行き交っている。それは、ヒトであったり、地方からの特産品であったり、物珍しい生き物であったり、はたまた情報であったり。少し、大坂に滞在し、面白いものでも見て回ろうかと思った。辿り着いたばかりで、疲れた体を休ませようと、茶屋に入って一服することにした。縁台に腰掛けていると、茶屋の娘が一杯の茶を持ってきたついでに話しかけてきた。
「旦那さん、旅の方ですか?どちらからお越しになったんです?」
「江戸ではありませんが、坂東からです」
「まあ、坂東から。それはそれは長旅ですなあ」
「昔、来たことがあるんですが、相変わらず賑わってますね」
「そうですね。これから西国へ行くんですか?」
「いや、折角来たんだし、少し大坂を見て回って帰ろうかと。面白いものはいっぱいあるでしょうから。この辺に数日泊まれそうなお宿はありますか?」
そんな会話をしていると、どこかから視線を感じた。派手な着流しを着て、髪を結いもしない優男がこちらを見ている。俺が奴を見ていると、向こうはにっこり笑った。茶屋の娘も気がついたようで、俺に耳打ちした。
「あの人、最近流行りの草子、『空蝉心中(うつせみしんじゅう)』の作者ですよ」
「『空蝉心中』?」
「坂東では流行ってませんか?すごく素敵な恋物語ですよ」
「ふーん」
興味なさげに返事をした。男はこちらに向かって歩いてきた。そして、俺と娘の前にやってきて、話し始めた。
「そこの旅の方。己は外折刈野(そとおりかるの)といいます。相席してもよろしいですか?」
刈野と名乗った男は、俺に用事があるらしい。茶屋の娘は、きらきらとした様子で、刈野を眺めている。その視線に気がついた刈野は、娘に微笑みかけて、話しかけた。
「そこの娘さん。お話しているところすみませんが、己にもお茶を一杯と、心太を二つよろしいですか?」
「はい、すぐにご用意いたします!」
驚いた様子の娘は、声を裏返して返事をし、そそくさと店の裏に引っ込んでしまった。刈野は、通りに面する縁台に座る俺に、小声で話しかけた。
「ここは人目に付きますので、店の中に入りませんか?」
俺は相席を許していないにも関わらず、勝手に座ろうとし、剰え席を変えようと言い出した。俺は眉を顰め、断ろうと思ったが、ふと視線を通りに移すと、行き交う人が足を止め、こちらを見てひそひそと話し合っている。片や著名な作家であり、自分はただでさえ目立つ形をしている。そんな二人に注目が集まっているのだ。これはまずいと思い、渋々刈野の提案に乗り、店の奥まった席へと変えた。
「改めまして、己はしがない物書にございます。今回お声掛けしたのは、貴方様が今までに見たことのないほどの美丈夫でありまして、少しお話を伺うことが出来れば勿怪の幸いと思った所存でございます」
「そりゃどうも」
著名な作家に褒められたら、嬉しいと思うのが一般的な態度だろうが、こいつの勝手な振舞に辟易した俺は、素っ気ない態度をとった。刈野も整った華のある顔立ちをしており、俺に言わせれば、こいつの方が色男だと思う。そんな話をしていると、お茶と心太が二つ運ばれてきた。
「お近づきのしるしにどうぞ召し上がってください」
どうやら心太は、刈野の奢りらしい。ありがたく頂戴する。心太を一口啜ると、甘くて吃驚した。今まで食べた心太は酢醤油がかかっていたが、ここの心太は黒蜜がかかっていた。俺は少し噎せる。何故、心太で噎せるのか不思議に思った刈野が尋ねてきた。
「大丈夫ですか。心太は初めてですかね」
俺が心太に意表を突かれて噎せたのが、茶を一口飲んで落ち着きを取り戻す。
「いや、心太は初めてじゃないが、今まで食べた心太は酢醤油がかかっていたものだが、此処の心太が思いがけず甘かったものだから驚いただけだ」
ただ、俺がそう答えただけなのだが、刈野は目を輝かせている。
「心太に酢醤油をかけるんですか!?」
刈野が心太の味の違いに興味を持ってしまったことに、厄介なことになりそうだと俺は思った。そして、一応答えてやる。
「まあ、江戸とか坂東では酢醤油に芥子(からし)だな……」
「酢醤油に芥子(からし)。味が想像できない。今度試してみよう。他にも江戸と上方で違う物とかありますか。大坂には何日か滞在しますよね。家に泊まりませんか。出来ればお話聞かせてもらえませんかね」
興奮冷めやらぬ様子の刈野は、俺の手を握り、矢継ぎ早に提案してくる。正直困る。大坂では著名な作家かもしれないが、俺自身はこいつのことを知らない。だから、俺にしてみれば、胡散臭い優男に絡まれているだけだ。しかも、何故俺の手を握ってくるのだ。身の毛がよだつし、背筋が凍る。周りを見渡せば、いつの間にか客が増えており、こちらを見ていた。居た堪れない気持ちになる。注目を集めるのは好きではない。半ば焦った俺は言った。
「いや、こっちじゃ有名かもしれないけど、俺はあんたのことも知らなければ、あんたの草子も知らないよ。というか手を離せよ」
店内に静寂が広まった。刈野はその一言で言葉を失ったようで、なんとも言えない顔つきをしている。手は離してくれた。
「『空蝉心中』を知らないんですね。これはとんだ御無礼を働きました」
自分が無礼を働いている自覚はあったのかと、俺は呆れた。有名人だから多少許されがちな横暴な態度も、知らない人にしてみれば無礼でしかない。俺はさっと手を引っ込めて、顔を背ける。
「いや、こちらも田舎者だから、流行り廃りには疎いもんで。文学は特にな……」
ちらりと刈野を見ると、瞬きもせずにじいっと俺の顔を見ている。背中に嫌な汗が垂れる。
「じゃあ内容を教えますから、家に来ませんか」
「なんでそんなに家に呼びたいんだよ。行かないよ」
「なら、貴方の宿泊先に通います」
「それは宿に迷惑がかかるだろう」
「お話を聞かせていただくまで、己は地の果てまでついて行きますよ」
俺と刈野は問答を続けた。刈野の顔が、本気だと語っている。冗談ではない。こんな作家が自分の素性や、俺の棲む森のことを知ったならば、面白おかしく草子にする気だ。そんなことをされては困るなんて、こちらの事情は知ったこっちゃないのだろう。まあ、こいつにしてみれば、俺みたいなのは想定外なんだろうが。この手の輩は本当にいけ好かない。とりあえず、どうやったらこいつを巻けるかが問題だ。俺は痛くなる頭を抱え、肺腑にある息を全て出し切るくらい、深い深いため息を吐いた。
「わかった。『空蝉心中』の話教えてもらおうじゃないか」
「はい。では我が家へ来ますか」
刈野はくすりと笑った。
「そうだな。どうやら積もる話になりそうだしな」
正直なところ、もうどこでもいいから、早くこの店を出たかった。
 刈野の家は、茶屋を出てから近い所にあった。川に面した町家である。家には女中と思われる年配の女性がいて、挨拶をした。女中は俺を見て魂消た様子だった。中々、こんな大男を見る機会も無いだろうし、心の臓が止まらないかが心配である。女中は気を取り戻し、刈野に文を渡した。刈野はこっそりと文を開いて、中身を読んだ。その顔はどこか嬉しそうである。切った髪の束が垣間見えた気がした。
「恋文かい?」
俺が揶揄う様に後から声を掛けると、刈野は驚いた様子で文を閉じた。そして、笑みを浮かべて振り返った。
「違いますよ。妹のお軽からですよ。嫁いで二児の母になるのに、こうして時折、文を送って来るんですよね。そんなことより早く行きましょう」
二階に上がって、刈野の部屋に入った。物がやたらとごちゃごちゃしている。執筆をしているであろう文机と、やたらと乱雑に積まれた草子の数々。部屋の片隅には、衣紋掛けが五つくらいある。どれにも派手な色合いの着物が掛けられていて、しかも最も奥の衣紋掛けにあるのは、女物であろう。部屋の窓から眺める景色は、川と柳が見える。ずっと窓の外を眺めていたい。刈野は、草子をどかして、座布団を二つ置く。どうやらここに座れということらしい。女中が茶を二つ、菓子と共に運んできた。
「ところで、貴方様のお名前を伺っていないのですが、お聞きしてもよろしいですか」
俺は逡巡した。この男に本名を名乗ってもいいだろうか。何か面倒ごとが起きそうだと思い、偽名を名乗ることにした。
「俺の名前は遊戯(ゆうぎ)ね。遊びの遊戯」
「遊戯さんですか。面白い名前ですね」
こいつとの会話が長引けば、俺の素性やら何やら訊いてくるかもしれないので、先手をとることにした。
「で、件の『空蝉心中』とはどういった話なんだい」
「せっかちですね、遊戯さん。まあでも、そのために来てくださったんですものね。ではお教えしましょう。『空蝉心中』について」
刈野は、茶を一口啜ってから語りだした。


 これは、実際にあった儚き恋の物語です。豪商の材木屋・坂田屋(さかたや)の末娘である露は、箱入り娘であり、とても美しい女性であった。また、気立てが良くて、身分の貴賤を問わず微笑みかけるので、世間からの彼女の評判は良かった。そんな坂田屋では、露の相手を誰にしようかで悩んでいた。彼女の兄は、京の錦問屋から嫁を貰い、三人の子に恵まれた。二人の姉は、江戸の材木屋や大坂の廻船問屋(かいせんどんや)など、矢張り豪商へと嫁ぎ、幸せに暮らしていた。ゆくゆくは、露を武家奉公に行かせ、豪商に嫁がせるか、願わくば奉公先でお眼鏡にかなって武家の妻にするといった、誰もが羨む幸せな婚姻が、坂田屋の両親の願いであった。
 当の露は、三味線と茶道に華道、作法に踊りと、日がな一日稽古に明け暮れ、息苦しい生活に不満を抱いていた。裁縫をしていると、格子の窓から見える子どもが駆け回る姿を、羨ましいと思うのであった。そして、余所見をするなと、裁縫の師範に叱られる我が身を憂いていた。
 ある日、露は義姉の勧めで源氏物語を読んだ。そこで、夕霧と雲居の雁が、親の勧める婚姻ではなく、相思相愛で結ばれる話に衝撃を受けた。次第に、露は自らの気持ちに正直に生き、己の好いた殿方と、相思相愛で結ばれることを望むようになった。
 こうして美しい年頃の娘になった露は、両親の勧めで武家へ奉公するようになった。気立てが良く、奉公先ではよく働き、芸事にも通じていたため、奉公先の主人の覚えが良かった。奉公先の日入家(ひいるけ)には三人の息子がいた。長男の権門(けんもん)は、露よりも五つ上である。武家の長男で甘やかされて育ったからか、自分の思い通りにならないことが許さない男であった。既に武家の許嫁がいる。次男の角門(かくもん)は、露よりも三つ上である。この次男は天邪鬼であり、露に気がありながら、よくちょっかいを出していた。三男の吉伊(よしかれ)は、露よりも五つ下である。上の兄二人とは腹違いであり、産みの母は幼くして亡くなったためか、甘え癖が強く、露に亡き母を重ねた追慕か、恋慕なのかが自覚出来ていなかった。
 露は、奉公先によく出入りする魚屋の手代(てだい)(奉公人の位で丁稚と番頭の間)・陰郎(かげろう)と仲良くなった。陰郎は父なし子であり、母親は真面目に働きもせず、金のある男に言い寄っては無心する女であった。男に無心するのに幼い息子は邪魔になると、早々に奉公先へ陰郎を出した。そんな性悪女の子とは思えないほど、陰郎は真面目に働いた。手代に成りたての陰郎を、失礼があってはならない、武家の得意先へ出入りさせることに、魚屋の主人の陰郎への期待が見て取れる。ゆくゆくは魚屋の主人は、陰郎を番頭にし、暖簾分けさせたいと思っていた。
 陰郎は、時折、露に花を持っていった。道端の草花ではあったが、それは露にとっては牡丹や芍薬にも、錦の小袖にだって劣らないほど、嬉しい贈り物であった。魚を届けに来た際には、二人で他愛のない話をすることが、至上の時間であった。二人はお互いに懸想していたのであった。しかし、陰郎は露との身分の差の恋に悩み、想いを伝えることが出来なかった。父なし子であり、性悪女の息子である自分と、武家奉公が出来る程の大店の娘である露とでは、釣り合わないと。しかも、露の奉公先の子息たちが、皆露のことを恋慕していることを知り、露の今後の幸せのためには、武家の子息と結婚することだと思った。陰郎は、露への想いは諦めようと考えた。しかし、陰郎の恋心は、結び目を解こうと思えば思うほど雁字搦めに絡まり合うように、諦めようとすればするほど強まっていってしまった。一方の露も、陰郎に対する恋心は日に日に燃え上がるのであった。
 ある日、陰郎と露が内緒で語り合っている所を、次男の角門が目撃してしまった。角門は、露を呼び出し、陰郎との仲を問い質した。そして、角門は露のことを恋慕していることを彼女に告白した。彼女は自分の胸の内を伝えた。
「私めは、陰郎さんをお慕い申しております。彼を思うと、胸の内が暖かくなります。こんな気持ちは初めてでございます。こんな私めを慕って下さってありがとうございます。しかし、私めは貴方様のお気持ちにはお応え出来ません」
角門は、彼女の顔を見た。陰郎を恋い慕う彼女が、こんなにも美しく、楽しそうに微笑っている。願わくば彼女にここまで慕われたいものだと、角門は思ったが、奪いたいとは思わなかった。きっと彼女と陰郎を引き離そうとすれば、この美しさは曇り、彼女が悲しむだろう。角門は、露と陰郎の仲を応援することを心に決めた。
 とある年の七月のことであった。後の藪入り(やぶいり)(七月十五日は盂蘭盆会(うらぼんえ)のため、奉公先では奉公人を休みにし、実家へ帰ることを許されていた)ではあったが、陰郎も露も実家へは帰らなかった。その代わり、貴重な休日を二人で過ごすことにした。二人は互いにお仕着せ(しきせ)に身を包んだ、普段よりも小綺麗な恰好であった。二人は芝居を見に行ったり、露店で買い物をして楽しんだ。大きな木の陰で、二人は腰を下ろした。その日はとても暑い日であり、蝉が忙しく鳴いていた。
「こんなに楽しい日は、生まれて初めてでございます」
露は、満面の笑みを浮かべていた。陰郎は、その花の綻んだような笑顔に見惚れていた。
「今まで、お稽古事ばかりで窮屈に暮らしておりました。しかし、陰郎さんのお陰で、こんなにも楽しいことがあるんだと知りました。これからも陰郎さんと色々なことをしとうございます。私は、陰郎さんをお慕い申しております」
そう言って露は、隣に座る陰郎の手を握った。その顔は赤く染まっていた。しかし、陰郎は露の手を振り払った。
「いけません」
露は、陰郎の言葉を聞いて驚いた。
「何故ですか?他にお慕いしている女子がいらっしゃるのですか?」
「いいえ、違います。あっしも貴女様をお慕いしております。しかし、貴女は大店・坂田屋の娘で、あっしは父なし子であり、魚屋の奉公人でございます。あまりに家柄が違います。それに、貴女の奉公先の息子たちも、貴女に惚れています。貴女様には貴女様にお似合いの家柄の方と、婚姻された方がお幸せになります」
「それは違います。家柄なんて関係ありません。それに、私めは好いた殿方と結ばれることこそ、女子の幸せだと思うております。好きな方とであれば、どんなに貧しくても、苦しくなど御座いません」
「何も食べれず飢えるのですよ」
「それでも胸は満たされます」
「寒さに凍えてしまうのですよ」
「寄り添えば温まります」
露は、陰郎の手を掬い、両の手で包み込んだ。陰郎は露の顔をはっとした様子で見た。露は涙を流していた。
「陰郎さんとなら、どんな地獄も露は耐えます。それよりも好き同士であるにも関わらず、添い遂げられぬことの方が、露には地獄でございます」
陰郎は、露の手を解き、抱きしめた。
「あっしも、露さんのことが好きです。でも、露さんの幸せのためには、あっしは身を引き、他の殿方と結ばれた方が幸せだと思っていました。諦めようと思えば思うほど、強く恋してしまった。他の方と貴女が結ばれると思うと、この身が引き裂かれてしまいそうな心地がします」
露は驚いた。しかし、陰郎の言葉を聞き、露が流す涙は、悲し泣きから嬉し泣きへと変わった。至上の幸福に笑みを浮かべ、露は陰郎の背にその手を回した。互いの心臓の鼓動が伝わってきた。蝉がしきりに鳴いている。二人を祝福しているのか、二人に負けじと番を探さんとしているのか。蝉時雨は鳴り止まなかった。顔に、首に、腕に汗が流れるのが分かる。じわじわと茹だるように暑い中、想いが通じた二人は、時を忘れるほど抱き合っていた。
 夕暮れになり、二人は燈篭流しへと向かった。その手はしっかりと結ばれていた。二人の後に伸びる影は、寄り添い合う。遠くで蜩が鳴いていた。二人に優しく吹く風は涼しい。二人が歩いていると、露店の主人たちがお似合いだとか仲がいいねと茶化す。二人はその茶化しに頬を染め、照れてしまう。
 夜になり、二人は燈篭を川へ流す。そして、手を合わせ、互いに先祖への祈りと感謝、そして二人で末永く暮らすことの願いをこめた。燈篭が海へと流れていく。流れに沈むことなく、果てまで行ければいいと、二人で見送った。
 帰りがけ、二人は夜道を歩く。とても楽しい、忘れられない一日が終わろうとしていた。明日からはまた、いつも通りに忙しく奉公しなければいけない。露は俯いた。
「露さん、見て御覧」
陰郎の声に、露が顔を上げると、そこには蛍が飛び交っていた。七月も半ばの時期にしては珍しい光景だ。今にも消え入りそうな明滅を繰り返す光りに、露は見惚れ、思わず呟いた。
「綺麗……」
「そうですね」
陰郎は、握っていた手を更にぎゅっと握った。
「世の中には、綺麗なものがたくさんあります。月も花も雪もそして今日見たこの蛍も。そんな美しいものを、あっしは貴女と見たい」
露は、そう呟いた陰郎の横顔を見た。そして、想像した。春の桜や夏の蛍、秋の紅葉や月に冬の雪景色。今までも美しいと思っていた四季折々の景色は、愛しい人の隣で眺め、共に楽しむ未来は、格別なものとなるであろうことを。
「私めも陰郎さんと、たくさんのものを見たいです」
露は、今日のことを胸にとどめ、陰郎と歩む今後のために、明日からの日々を頑張って過ごす決意をした。陰郎が、露を奉公先の近くまで送り届けた。繋がれた手を、二人は惜しみながら離す。
「陰郎さん、今日は本当にありがとうございました。私、今までこんなに楽しい日を過ごしたことはございません」
「あっしも、凄く楽しかったです。これからまた、より楽しい日を二人で過ごしましょう。それじゃあおやすみなさい」
「おやすみなさい」
 露は、奉公先の武家へと帰り、戻ったことを報告する。そして、今日のことを思い出しながら、床へと入った。思い出すと笑みがこぼれ、なかなか寝付けずに何度も寝返りをうった。
 それから二人は今まで通り、忙しい日々を過ごしていた。そして、陰郎が配達にやって来ると、二人で内密の逢引をし、語り合った。秘めやかな二人の関係が続いた。
 ある日、露の奉公先の奉公仲間のお(とく)が、露に話しかけてきた。
「露ちゃん、この間の藪入りの時、魚屋の陰郎さんと一緒に過ごしたんですって?」
露は驚き、口をぽかんと開けてしまった。
「何故、お徳さんが御存知なのですか」
「何故って、知り合いから聞いたのよ。露ちゃんと陰郎さんが一緒に居たって。ひょっとして二人は恋仲なの?」
露は恥ずかしそうに微かに頷いた。
「あの日、告白されまして。でも、内密になさってくださいね」
「分かったわ。だけど、露ちゃんと陰郎さんがねえ」
本当に内緒にしてくれるか、露は不安であった。何故なら、お徳はお喋りで、物事を大袈裟に話すと評判だったからだ。お徳は、露の両手をがっしりと握った。
「家柄違いの恋なんて素敵ね。草子の中の話だと思っていたけど。二人ならきっと上手くいくわよ。あたい、応援するね」
「お徳さん、声が大きいですよ」
露は顔を真っ赤に染めて言った。しかし、内心は嬉しかった。自分と陰郎の仲が認められ、応援して貰えたからだ。この時、この話を密かに聞いていた者がいた。長男の権門である。
 権門には、許嫁がいた。親に決められた相手であり、この縁談は、お家のためになるものだとわかってはいた。しかし、相手の女は華のない顔立ちであり、貞淑といえば聞こえがいいが愛想に欠け、面白みがない。芸事も、彼女の琴の音よりも露の三味線の方が好ましかった。武家の正妻としてはいい女なのかもしれないが、あまりにもつまらなかった。だから、権門は彼女を正妻としつつも、ゆくゆくは露を妾に迎えようと考えていた。商家の娘が武家の妾になるのは、露にとっても坂田屋にとっても喜ばしい話であるはずだ。ところが、露は賤しい魚屋の奉公人と恋仲になっていた。このことに権門は、怒りを募らせた。彼はまず、弟の角門の所へ向かった。同母弟である角門も、露に気があることは分かっていた。露が欲しい権門ではあったが、角門と結ばれるのであれば惜しくはないと思っていた。
「角門。お前は、露が魚屋の奉公人と恋仲であると知っておるか」
「兄者。ああ、あの二人は恋仲になったのですか」
角門は、好いた女が他の男と恋仲になっているにも関わらず、どこ吹く風であった。その態度が、権門の怒りを助長した。
「お前も露に惚れていたであろう。悔しくはないのか」
権門は、角門に詰め寄った。
「兄者。確かに俺は露に惚れていました。しかし、露の陰郎と話すときの嬉しそうな顔や、愛しい気持ちを吐露した時の顔に、悔しくも見惚れてしまいました。だから、俺は身を引き、露の思いを汲み、二人が幸せになることを願います」
「情けない。愛しい女を奪い取る甲斐性は、お前にはないのか」
「惚れた女には幸せになってほしいだけです」
「そうか」
権門は、角門の部屋を立ち去ろうとした。
「兄者。まさか二人を引き裂こうとはしませんよね」
角門の問いに、権門は何も答えずに出て行った。
 それから、露が陰郎と恋仲であることが奉公先で広まってしまった。露は頭を抱えた。矢張り、お徳は自分たちの関係を言いふらしていたのだ。しかし、意外にも皆が、応援すると言ってくれた。ただ一人、(てる)だけは反応が違った。輝も、大店の娘であり、面倒見がよくて、露は姉のように慕っていた。
「露ちゃん、陰郎さんとお付き合いしてるって本当?」
「輝さんまで御存知なのですか?」
「お徳さんが、ここだけの話って言って、奉公仲間に言ってるよ」
内緒の話を言いふらすお徳には、呆れて物も言えなかった。
「今すぐ、別れた方がいいと思うの」
露は衝撃を受けた。そして、悲しかった。姉のように慕っていた輝に反対されたからだ。
「どうして、そんなこと仰るのですか」
「陰郎さんは、真面目に働く、とってもいい方よ。だけど、貴女と彼では家柄に差がありすぎるのよ。分かるでしょう。必ず、坂田屋のご両親が反対なさるわ」
「父と母は関係ないじゃないですか」
「いいえ。結婚は家と家との繋がりよ。坂田屋のご両親は、貴女に相応しい嫁ぎ先を考えていらっしゃるわ。貴女の幸せを願ってのことよ」
露は怒りに震えた。露にとっての「幸せ」は、愛しい人と添い遂げることである。しかし、姉のように慕う輝が、陰郎と別れろと言う。優しい輝のことなので、露のことを慮っているのは露にも分かる。しかし、露が親の言いなりになって決められた相手と結婚することも、別れた陰郎が他の女と結婚するのも、露には耐えられないことであった。
「そうよ。父と母に陰郎さんを紹介するわ。屹度、陰郎さんの人柄を気に入ってくださるわ」
「駄目よ。陰郎さんがどんなにいい人でも、お許しにはならないわ」
露は魂が抜けたようにふらつき、その場に座り込んだ。そして、泣き出した。輝は、露を抱きしめた。
「ごめんなさいね、露ちゃん。貴女の気持ちは分からなくないの。だけど、貴女が苦労して不幸になるのを見過ごせないの」
輝が、さらにぎゅっと抱きしめる。その手は微かに震えていた。彼女は、露のために心を鬼にして、露に辛いことを言っているのだ。
 露は、暇を一日だけ貰おうと、主人を探していた。しかし、主人は出かけており、一日不在にしていた。そこへ、権門がやってきた。
「父上なら、一日不在だぞ」
「ありがとうございます。その、一日だけお暇を頂戴したいと思っていたのですが」
「そうか。一日だけだな。了解した。父上へは、某から話をしよう」
「よろしいのですか。ありがとうございます」
深々と、露はお辞儀をし、礼を述べた。権門は、露の手を握ってきた。
「その代わり、今宵某の部屋へは来てくれないか。久しぶりにお前の三味線の音が聞きたい」
「三味線ですか。わかりました。では、後ほど向かいます」
露は一礼をして、後にした。露は、休みを貰えたことを嬉しく思った。
 翌日、実家である坂田屋へと陰郎を連れて向かった。輝には言われたが、陰郎との仲を諦めきれなかったのだ。屹度両親は、陰郎の人柄を気に入ってくれると信じていた。陰郎は、不安だった。
 玄関口で露を出迎えた露の母は、相変わらず息災であった。しかし、久しぶりにお会いしたというのに、難しい顔をしている。
「母上、お久しぶりでございます」
「露、息災で何よりです。そちらの方は?」
「陰郎さんと申しまして、私と昵懇の仲でございます」
「初めまして、陰郎と申します」
「立ち話もなんですから、早くお入りなさい」
急いで入るように二人に促す。それは、街中で二人を見られると体裁でも悪いかのように。屋敷に入った露と陰郎は、すぐに座敷へと入った。そこには、険しい顔をした父親と、悲しげな顔をした母親が並んで座っていた。重い空気の中、先ず口を開いたのは露の父親であった。
「露よ。お前の奉公先より、御長子様がお前を妾にしたいが、お前は魚屋の奉公人に騙され、現を抜かしていると。これは誠の話であるか」
露は驚いた。妾の話は初耳だったからである。隣の陰郎も、非常に魂消た顔をしている。
「それは、出鱈目でございます。妾の話は初耳です。陰郎さんは、魚屋の手代でございます。お店の主人からの信頼も篤く、後々には番頭にし、暖簾分けも考えていらっしゃいます」
「うむ。私もこの文を貰い、この奉公人については調べた。父なし子であり、母親は阿婆擦れで、金の無心ばかりしている女であると。世間知らずの露を唆し、この坂田屋にも頼ろうという魂胆であろう。母親譲りの小賢しい手口であるな」
陰郎は、悔しそうな顔をしている。露への思いは純粋な恋心であり、疾しい気持ちは一切ない。それが、よりによって幼い頃より嫌悪している母親と同じく、露を騙していると露の両親に思われてしまった。露は、父の勝手な言いがかりに腹を立てた。
「父上、それは決めつけでございます。陰郎さんときちんとお話になってください。きっと真面目なお人柄を気に入っていただけます」
「気に入ったところで、このような下賤な者との仲を、私は認めないぞ。お前は、武家の妾になるのだ」
父親は、激昂した。重苦しい沈黙が座敷に広まった。その沈黙を破ったのは、陰郎であった。
「あっしは、確かに父なし子であり、母は阿婆擦れで、あっしを置き去りにして、男の家に入り浸ることもありました。哀れに思ったあっしを、魚屋の(だん)さんが拾ってくださいました。旦さんは、あっしに厳しくも優しく、商売や手習いを教えて戴きました。ありがたいことに、お武家様のお宅へ、魚の配達までさせて貰っています。そこで露さんとお知り合いになりました。露さんは、下賤なあっしを慕ってくださった。そんな露さんの心根に惹かれました。貧しいあっしと苦楽を共にしたいと、露さんに言われたときは、それはそれは嬉しかったです。露さんには幸せになってほしいと思っております。たとえ、それが他の殿方であっても」
露は、陰郎の言葉に心を打たれた。こんなにも陰郎は、自分のことを思っているのだ。
「それでは、あっしは失礼いたします。露さん、これでお別れです。どうか、末永くお幸せに暮らしてください」
陰郎は、深々と礼をした後、露に呟き、坂田屋を後にした。露は、陰郎を追いかけようとした。しかし、玄関を出たところで、陰郎を見失ってしまった。露は、玄関先で泣き出した。露の母は、露を抱きしめ、優しく髪を撫でながら諭す。
「恋心は誰でも抱くものよ。されど、貴女のためよ。忘れなさい」
露は、いつまでも泣き続けた。
 翌日、露は奉公先へ戻った。奉公先では、やたらとひそひそ話をしていた。昨日休んで世話になった礼を、他の奉公人に挨拶をしたが、やたらと素っ気ない態度だった。角門が、露の姿を見つけると、露に声をかけた。
「この度は、お暇を頂戴し、感謝いたします」
「露、兄者の件で話がある。こちらへ来い」
「か、角門様」
角門は、強引に露を連れ出した。そして、角門の部屋に通された。
「露よ、兄者の妾の話は聞いているな」
「はい、昨日実家で耳にしました。急なお話で、未だに信じられませんが」
「そうか。すまなかった」
角門は、いきなり土下座をしだした。これには露も驚いた。何故、角門が自分に謝らねばならないのか分からなかった。
「頭をお上げください。角門様」
「俺は、お前が陰郎に気があり、陰郎と恋仲になったと聞いたとき、兄者が俺の元へいらした。お前に愛しい女を奪い取る覚悟があるのかと。俺にはそんな気は毛頭なかったし、俺はお前たちの仲を認めている。しかし、兄者は違った。兄者は、お前の実家に妾の話を文にして出した。また、お前が兄者と情を交わしているにも関わらず、陰郎とも通じていると、ありもしない噂を流した」
露は、角門の思いも寄らない話に、ついていけなかった。権門と情を交わした覚えは、全くない。それなのに、そんな噂が立っているなんて信じられなかった。今朝の奉公仲間のひそひそ話は、その噂によるものだったのかと気がついた。
「俺は否定したのだが、この間の夜、お前は兄者の部屋へ行ったであろう。お前が出ていくのを見たという奉公人が数名いた。それが、噂を裏付けてしまったんだ」
「あの日は、三味線を権門様に頼まれただけです」
「あの時、兄者をお止めしなかったのは、俺に責任がある。俺を怨め、露」
目の前の角門は、頭を下げた。露は、震える手を握りしめた。涙を堪え、唯々気丈に振舞う。今の彼女にはそれしか出来なかった。
「貴方様を怨んでも、どうしようもないじゃないですか」
露は無理をして笑った。それは、かつて角門が見惚れた笑顔とは異なるものであった。
 魚屋が配達にやって来た。しかし、来たのは陰郎ではない。露は残念そうに思う。配達に来た青年に、陰郎のことを尋ねた。
「あの、陰郎さんは?」
「陰郎なら辞めたよ。あいつ、お武家様の女に手を出したって噂になって、店も評判を落としちまって。店に迷惑かけらんねえってよ。全く、真面目に働く奴だと思ってたのに、とんでもねえ奴だ。阿婆擦れの子もろくでなしってこったな」
露は驚き、また哀しかった。陰郎がかつて語った、番頭になって店を支えるか自分の店を持つという夢が、露との関係により叶わなくなってしまったからだ。
 坂田屋から妾請状が届いた。これで、露は権門の妾となることが正式に決まった。露は悲嘆にくれていた。露の着物の袖は涙に濡れ、眠れぬ夜が続いた。見るからに窶れていく露を、奉公仲間は表向きは敬い、裏で陰口を叩いた。ただ一人、輝だけは彼女を心配した。秋も深まり、冬が近い夜のことだ。輝は、露と二人で銭湯の帰りの夜道を歩く途中で話しかけた。
「露ちゃん大丈夫?最近顔色が優れないようだけど」
その問いかけに、露は立ち止まった。
「心配しなくても大丈夫ですよ、輝さん。ちょっと夢見が悪かっただけですから」
露は元気なく笑った。その顔が痛々しいと、輝は感じる。
「陰郎さんが忘れられないの?」
輝は核心を突くように問うた。露は目を見開いた。
「矢張りそうなのね」
泣き濡れた夜を過ごし、枯れたと思った露の目からは、涙が零れ落ちる。露は力なく輝に寄り添い、輝はしっかりと抱き留める。
「お武家様の妾になるのは、誰もが羨むことだと分かっていても、どうしても私は陰郎さんがいいんです。あの方といると、楽しいことも、嬉しいことも、美しいものも、より一層際立たせたんです。もう、私はあの方以外の方と、添い遂げる気は御座いません。しかし、私といることで、陰郎さんの夢が叶わなくなったかと思うと、辛くて悲しくて……」
露はしゃくり上げてしまった。輝は、露の髪を優しく撫でる。少しでも露の心を労わるように、露は悪くないことが伝わるように。風は冷たく、虫が鳴いている。体が冷えるのも気にせず、露が泣き止むまで、輝は辛抱強く待った。泣き止んだ露を、輝は手を引いて歩く。輝は密かに決心をした。
 翌日から輝は行動に移した。露は、外出はおろか部屋から出ることも難しくなっていた。お使いを買って出た輝は、防寒の袖頭巾(そでずきん)を纏って魚屋へと向かった。魚屋では男衆が忙しく働いている。輝は声をかけ、店の主人を呼んでもらう。店の主人が出てきた時、輝は袖頭巾を取り払い、何者であるかを話した。店の奥の一室へ通される。
「この度は、御無礼ながら突然押し掛けてしまい、失礼いたします」
先ず、輝は突然の押し掛けを詫び、深々と礼をする。恐縮した主人は、輝に顔を上げるように言った。
「私は、陰郎さんの恋仲である、露の友人に御座います。露が、我が主君筋の御手付き(おてつき)にも関わらず、手を出したと風聞が立っておりますが、それは誤解で御座います。陰郎さんと露は元々恋仲であり、我が主君筋がそれを横恋慕したのです」
「そうですか。矢張り、陰郎が人様の女に手を出したのでは無いのですね。しかし、それが真であっても、今更信じる者は少ないでしょう」
噂というものは、一度流れてしまうと正しい情報に改めるのは難しい。しかも、今回は情報の出所が、身分が上の武士である。恐らくは出来る限り大事にせず、下火になった方が早い。だが、それでは渦中の二人は報われないのだ。
「露は、未だに陰郎さんを愛しております。陰郎さんがお店をお辞めになったと聞いて、陰郎さんの夢が叶わなくなったと、涙を流していました。そして、他の殿方とは添い遂げる気は毛頭ないと申しております」
「しかし、御主君筋の妾の話はどうなさるおつもりですか」
「それはこの文に書かれております。これ以上のことは、私からは申し上げることは出来ません。どうか、お分かりになることが御座いましたら、お教えください。お願いします」
輝は、手を床について深々と礼をする。魚屋の主人は、何かを察した。逡巡した後に、重い口を開いた。
「熱りがさめるまではと、知り合いの駆込寺に身を隠しております」
「ありがとうございます」
輝は、深々と礼をして、土産の魚を買って、魚屋を後にした。そして、寺へと向かった。
 寺についた輝は、寺の住職に事情を話し、陰郎を呼んでもらった。陰郎は、姿を現した。魚屋に奉公していた頃とは異なり、少し疲れたような顔をしていた。矢張り、噂による彼への風当たりも、強かったようだ。輝は話もそこそこにして、露からの文を渡した。陰郎は、急いで文を開いては読んだ。

陰郎様
拝啓
 肌寒い日が続いておりますが、恙なくお過ごしでしょうか。私めは、貴方様の温もりを恋しく思い、眠れぬ夜を過ごしております。お店をお辞めになったと伺った時は、在りし日の貴方様が語って下さった、自分の店を持つか、番頭として魚屋を支えたいという夢が叶わなくなってしまったと、心が痛くなりました。私めの所為で、陰郎様が不幸になってしまったことが、辛くて悲しくて仕方がないので御座います。
 私めに妾の話が決まりましたが、私めは貴方様以外の殿方と添い遂げるつもりは毛頭ございません。
 貴方様と結ばれた藪入りの日を、昨日のことのように覚えております。あの日忙しく鳴いていた蝉のように、あの夜美しく飛び交っていた蛍のように、貴方様と結ばれた幸福のまま、すぐに死に絶えたいと願っております。私めは、貴方様がほかの女子とお幸せに過ごして戴ければ嬉しく思います。今後も貴方様の御多幸をお祈りしております。
空蝉の 世に憚れり 我が恋路 落ちて消えたし 月草の露
                                        敬具
                                       露より

 露からの文を読んだ陰郎は、涙した。彼もまだ露を愛していた。
「露の主人となる権門が、ひろめ(妾の存在を家中に披露すること)の前に、許嫁との婚礼の宴を行います。その夜に命を絶とうと考えております」
陰郎の腹は決まった。生気のない目に火が着く。彼は、露に対する文を急いで認めた。輝は、陰郎からの文を受け取り、急いで奉公先へと帰った。日の入りの時間は、日に日に早くなっており、輝が帰ったときには暗くなっていた。輝は、陰郎からの文を、急いで露へと渡した。
 冬の寒い日のことである。雪が降る中、日入家では、婚礼の宴が行われた。宴の途中に、権門が席を外した。権門は、露の部屋へと向かった。そこには、彼が贈った錦の小袖を纏った、愛しい女がいた。主人が部屋へ入ってきたにもかかわらず、彼女は後を向いた儘であった。権門は後から彼女を抱きしめ、睦言を言う。
「露よ。某が愛しているのはお前だけだ。これからあんな女と初夜を迎えなくてはならないが、今宵だけだ。必ずや明日にはお前の元に帰ろう」
彼女は、振り返りもせずに力なく三味線を弾いている。
「なあ、妬いているのは分かるが、そろそろこちらを向いてはくれないか」
強引に、権門は彼女を振り向かせる。そこにいたのは、露ではなく輝であった。輝は、睨むかのように権門を見た。
「お前は露ではなく、輝。何故、お前が此処に居る。露は何処へ行ったのだ」
「露でしたら、もうこの屋敷には居ませんよ」
「どういうことだ」
「陰郎さんと出ていきました。もう戻っては来ないでしょう」
「貴様、主人を騙して駆け落ちの手助けなどと、許される所業だと思っているのか」
権門は、今にも輝を殺さんと刀に手をかける。すると、押し入れから角門が出てきた。
「兄者。先に二人を騙したのは兄者の方ですよ。それに、輝に、露と陰郎を逃がそうと命じたのは俺です」
「なんだと」
「俺は日々、陰郎を思って嘆き悲しむ露に、目も当てられなかった。輝もそれを感じていた」
「本当は、露は今宵、自害しようと決めていました。しかし、陰郎さんから、それならば二人で心中しませんかという旨の文が参りました。そしてこれが、私たちに宛てた露の遺書に御座います」
輝は、文机の上の遺書を恭しく権門へと差し出した。そこには、どうしても陰郎との仲を諦めきれない露の気持ちと、先立つ不孝をお許しくださいという両親への謝罪、私たちのことはそっとしておいてほしいという露の願望が、綺麗な文字で書かれていた。権門は、雨戸を開けて、草履も履かずに外へと降りる。二人の足跡を探したが、既に雪が降り積もって消えてしまっていた。権門はその場に座り込んで慟哭したが、その声も雪がかき消してしまう。
 一方の露と陰郎は、陰郎の羽織を傘代わりにして、二人で歩いていた。凍てつくように寒かったが、それでも二人の心は満たされていた。僅かに持ってきた銭で、二人は海へ向かって舟に乗り込んだ。相客たちは、やれ駆け落ちだだのとひそひそ話をしていたが、もう二人は気にも留めない。露は、流れる雪景色を眺めていた。屋根や木々、河岸に降り積もる雪が、息を呑む様に美しい。唯々その光景に見惚れ、ほうっと白い息を吐いた。陰郎は、露の髪に、肩に降った雪を払い、露が冷えないようにと肩を抱く。
「露さん、冷えますよ」
「ありがとうございます。それにしても綺麗ですね。矢張り陰郎さんと見る雪景色が、今まで見た中で最も美しいです」
「そうですね。子どもの頃は嫌っていた雪が、露さんとなら好きになれます」
海に近づき、二人は舟を降りた。海へ行こうと決めたのは、露が海を見たことが無かったからだ。雪駄(せった)も履かずに、二人は歩いた。冬の日暮れは早い。海に辿り着く前に、辺りは暗くなり始めていた。
 二人が海に辿り着いたのは、日没前であった。空と海の境目が分からないほど、眼前には灰色が広がっていた。
「本当は、露さんに夏の海をお見せしたかった」
「いいんですよ。こうして、最期に陰郎さんと一緒に海を見ることができて、もう思い残すことは御座いません」
手をつなぎながら、脛が隠れるほど海に浸かる。もう海水の冷たさを感じない。そして二人は向かい合い、互いの両手を固く結んだ。
「陰郎さん、来世も同じ蓮の上に生まれ変わって、また結ばれましょうね」
「そうですね。今度生まれてきたときは、誰にも反対されず、結ばれる運命でありたい」
一際大きな波が押し寄せてくると、二人は同時に波に飲まれるように倒れこんだ。倒れ際の二人の顔は、互いを見つめて笑っていた。
 二人の遺体は上がることは無かった。固く結ばれた二つの亡骸は、誰にも邪魔されることなく、海底に唯々静かに眠っている。


「どうですか。切ない二人の恋模様」
語り終えた刈野は、俺に感想を求めてくる。俺は、顎に手を添えて考え、浮かんだ疑問を述べた。
「これって本当にあった話なんだよなあ。周りの連中から聞き込みでもしたのか?」
「そうですね。己がこの話を知ったのは、噂や瓦版ですね。そこから坂田屋や、日入家の面々に陰郎の奉公先の魚屋等々。皆が泣きながら話してくれました。結構、苦労しましたよ」
「そうか。周りの面々は、自分たちが二人を追い詰め、死に追いやっただけでなく、『そっとしておいてほしい』という、露の最期の願いも叶えてやらないんだな」
俺は、湯呑を持ったまま、遠くを見つめていた。刈野は、はっとしたような顔をした。
「追い詰めた?」
「だってそうだろう。二人の恋を周りが祝福してやれば、ささやかながらも、幸せな暮らしが出来た。それが二人の願いだったはずだ。しかし、その幸せを周りの連中は、悉く無視した。露の両親だって、娘のためとか言ってるけど、結局自分たちの欲のためでしかなく、娘の気持ちを踏み躙っている。奉公仲間の連中も、最初は二人を応援してたくせに、嘘か真かも定かではない噂に掌返し。そんで死んだら泣くのかよ。全くもって気味が悪い。家柄だとか身分の差とかいって、反対してるけど、そんなものは恋路を邪魔する理由にはなりはしない。他人の恋路を邪魔する奴は、馬だけじゃなく鹿にも蹴られて仕舞えばいい。二人は何も悪いことはしていない。懸命に恋をしただけだ」
俺は、湯呑の中の茶をぐいっと飲み干し、畳に力強く置いた。辺りを静寂が包む。窓越しに町の喧噪が聞こえてきた。
「遊戯さんにとっては、許されない恋なんて無いんですね」
「愛しいって思う気持ちに、嘘は吐けないだろう。ちなみに俺は、来世なんて不確かな物に縋って自害したり、諦めるのも好きじゃない。それならば悔いのなく、今生を精一杯に生きてほしいね。蝉や蛍を見習えよ。あいつら命縮めてでも、悔いなく天寿を全うしてるぞ」
刈野は、俺の話を聞いて突然笑い出した。
「あはは。己が見込んだ通り、遊戯さん、貴方は面白い方ですね。素敵な恋の話の一つや二つ無かったんですか」
「話のネタになりそうな物は一つもないね」
俺は、半人半妖の身の上で、ヒトとも妖怪とも慣れ合うことが無かった。だから、特定の誰かと愛し合うことも無い。
「じゃあ、『空蝉心中』の話も聞けたし、俺はお暇しようかね」
「えっ、帰っちゃうんですか。酒でも一緒に吞みましょうよ」
「断る」
「そんなあ。遊戯さんのお話聞きたかったのに……」
刈野は、不満を漏らしている。俺はそれを無視して、さっさと帰り支度をする。本当は久々の大坂を堪能したかったが、早く帰ろう。
「遊戯さん。良かったらこれどうぞ」
そう言って差し出されたのは、『空蝉心中』の草子であった。俺は眉を顰めながらも、それを受け取った。
「貴方に逢えて本当によかった。次、大坂に来たときは、必ず寄ってくださいね」
二度と来るもんか。今後、数十年は大坂には来ないと、出来そうもない誓いを立てる。俺は、刈野の家を後にした。


「今回の話はこれにて御終い。恋っていう、ヒトの番に纏わることだけど、分かった?」
童子は小首を傾げている。
「ほゆー。よく分か()ない」
まだ幼い蚕月童子には、番の話をしても実感がわかないだろう。これは仕方ないことだ。遊行は、難しい話をした詫びを兼ねて、童子の頭を優しく撫でる。そして、真剣な表情になって童子に話す。
「だろうね。今回は番の話だったけど、俺が童子に伝えたいのは、周りの反対を押し退けてでも、悔いなく生きることの喜びだ」
「ほゆっ」
童子は少し吃驚したような顔をした。遊行は居住まいを正す。童子もそれに従って、緊張した様子で座り直した。
「いいか。周りに従って、気持ちを押し殺して生きるっていうのは、窮屈で息苦しく、耐えがたいものだ。魚に陸で生きろと言っても、無理なものは無理だ。魚は水の中でこそ、活き活きとしているものだ。自分の思うがままに生きてこそ、生命は輝かしく見える。俺は、童子には今生を大切に生きてほしい」
童子は銀朱色の目をぱちくりさせて、遊行を見つめている。遊行は奥座敷を見回した。竹の天井に木の格子戸。真夏であっても涼しい奥座敷は、居心地がいいが、季節感に欠ける。外では忙しい蝉の鳴き声も、此処には響いてはこない。
 遊行は竜宮を後にする。出た瞬間にもわっとした熱気に包まれ、すぐに汗が滲み出た。手甲で汗を拭っても、すぐに汗が顔を伝う。じりじりと太陽が照って眩しい。蝉が沢山鳴いている。ミンミン、ジリジリ、オーシーツクツク。日暮れ近くには、蜩が鳴き、夜には蛍が飛び交う。湿り気を帯びた草の独特な匂いがした。不快とも感じるが、これが何よりも生きていると感じさせるのだ。

しおり