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君の姿に未来の私を発見した。

工場の労働を終えて、俺は自分の住んでいる公団住宅の近くにあるチャイナレストランで食事をすることにした。大豆を主成分とする代替肉のステーキは最高の料理だ。過去には本当の牛肉が普通の人たちも食べれたという。そんな世界もあったのか。それから刀削麺を食べて心も体も満足してウイスキーバーに移って静かにアルコールをちびちびと味わう。マスターとはもう五年の付き合いになる。
「ここのところ、月評議会の連中が月に帰還して地球からの独立を画策しているっていう話だけど、ここにもそんな人たちが飲みに来るのかい?」私はマスターに聞いてみた。
「ええ、彼らも大事なお客様ですから詳しいことは言えません。ただ、彼らはチップを地球に住んでいる人よりも余計に渡してくれます。キップが良いんです。私もいつか月への旅行をしてみたいものです」マスターはグラスを布で拭きながら言った。
「俺は惑星に行ってもなにも変わらないと思うんだ。荒涼とした大地に愛着が湧くなんて思わないしね。ただの何処にでもある街並みに興味なんてない。そこが地球との違いだ。美しい森林、それが惑星には無い」
「そうかもしれません。ただ違うことがあります。彼らには郷土愛があるということです。それは以前地球にもあった思想です。私はその事に興味があります。地球が昔百以上の国に別れていた時代の世界に。私は祖先は中国の上海市というところに住んでいました」マスターは後ろにある棚から一つの瓶を取り出してカウンターの上に置いた。
「それは何?」俺は手に取ってじっくりとラベルを観察した。
「紹興酒と言います。今もチャイナ評議会の地区で作られています。とても懐かしい、まるで故郷の土の匂いを嗅いだみたいな感じって言うんでしょうか、心が暖かくなります」
「核戦争後のこの時代でも、まさかその当時、核が使われるなんて本当に思っていた人間なんていなかったからな。それが契機となって世界が統一に向かって、月世界に植民地を作ってから世界が一体だという気分が盛り上がってきた。みんな一つの世界だという気持ちがほとんどの人に根ざしてきた。ヨーロッパが昔、連合体を築いたのと同じようにね。確かに今、世界にはパスポートなしで何処にでも行けるし、言葉の壁さえなければ親しい友人にもなることができる。ただ、富をたくさんもっている人と、僅かしたもっていない人との差がひらいたという感じは否めない。俺みたく自動車製造工場で部品をラインに供給するという単純労働だけれど、体力がいる仕事では、自分の暇というものはほとんど無いし、家に帰ったら疲れて寝るくらいだしね。こうして心を落ちつかせるためにバーにたまに通うことが、まるで風呂に浸かっているような感じで、マスターと話し合い、情報をもらうことが心に浄化をもたらすものになっているんだ。今世界は第二変革期にあると思うんだ。俺も一人の政治家として、端末を駆使して自分の考えを人々に伝える役目がある。だけど仕事が忙しくてそこまで手がまわらないのが現実でね。そう言えば、火星人や金星人が地球に不満をもっていて、彼がは自分の窮状を改善するためにテロ行為に訴えかけているともいう。どうにか和解できないのだろうか。俺の職場にも、月、火星、金星の労働者がたくさんいるんでね。でも彼らは業務改善を訴えているんだけど、なかなか上には達しないみたいだ。それで不満分子たちが怒りのほこさきを経営者に向けてかかってきた。そのなかには殺害されたケースもある。これから先、俺たちにも、何らかの影響が現れてくるだろう。気をつけたほうがいい。おそらく俺たちにも何らかのアプローチがあるかもしれない」
「ケイスケさん、さっきからあなたのことを見つめている人がいます。入口の扉の近くに」マスターは自然な口調で言った。
「俺、なにかやらかしたかな?公安警察かもしれないな。でも評議会に楯突くことなんてやってないし、ひょっとしたら、このあいだネットで評議会のことを否定的に書き込んだのが原因かもな」
「タクシー呼びましょうか」マスターは機転を利かせてそう言った。
「ありがとう、今日は楽しかったよ」十秒も経たずにタクシーが玄関に横づけされた。俺はなに食わぬ顔で店の中を通りすぎようとした。
「ちょっと待ってください。ケイスケ・ダコタ。君に聞きたいことがある」二人のうち、大柄な三十才くらいの男が俺の肩に手をかけた。咄嗟にその手を取って一本背追いをかけて、その男を床に叩きのめした。もう一人の男は背広の懐から電子銃を取り出して俺に狙いを定めようとした。俺は肩からその男に突進して、そいつを壁際まで追い込んで、顔面に右ストレートをかましてやった。その右拳は男の顎に完璧にヒットして、奴はドスンと床にへばりこんだ。俺は玄関からタクシーに乗り、行き先を告げた。後ろを振り向くと、バーの玄関から二人組が出てきて路上に止まっていた車に向かって走って行くのが見えた。
「運転手さん、後ろの車に追われているんだ。適当にまいてくれるかい」
「ああ、任せときな、俺は弱きの味方なんだ。近頃何処ででもそういう人を見張る輩が多くてね。不満に思っていたところだ。きっと心のどこかでは、自分達の終焉を脳裏に描いているんだろうよ。ねえ、だんな、そう思わないかい?」運転手はミラー越しに私を見つめた。初めて会ったのに、その眼差しは兄弟のような感じがした。
「このまま議事堂まで走らせてくれ。久しぶりに政治家として真剣に働きたくなった。運転手さん、名前は?」私は若干酔っていて、気分がとても良かった。最高のドライブだ。
「タカシ・ソエジマと言います。歳は45。元は警察官ですよ」
「へー、じゃあ、この界隈には詳しい訳だ」俺は後ろを振り向いて、奴等が追って来ていないか確かめた。たくさんの電気自動車が視界に入った。まだ追跡はされていないようだった。後部座席のシートに目深に座り、大きくため息をつく。これから長い人生を送ることになる。そう感じた。そして心のうちになにかジェットコースターに乗っているときの恐怖を楽しむような感覚が沸いてきた。その出来事に対して最終的な結末は用意されているのだろうか。自らの命を削るほどの覚悟はできているだろうか。答えは否だ。だったら最初から生まれてこなければよかった。俺は議事堂に向かうなかで、たった一人で戦いを始めなければいけなかった。でも、今はっきりとわかることは、たとえ一人でも、どんな困難な状況でも、決して後ろを振り返ることなく前に進むということだ。いや、ひょっとすると後退することもあるかもしれない。しかし、何度転んでもその度に起き上がっていくことだ。
議事堂が見えてきた。タクシーは正門前で停車した。
「ありがとう。おつりはいらない」
「ありがとうございます。あなたに良い一日が訪れますように」
自動ドアが開いて俺はタクシーを降りた。生暖かい風が吹いていた。議会のまわりには警備員が何人も立っていた。夜遅く議会に入っている人の数はおそらく百人にも満たないだろう。でも俺は誰かと話したかった。自分の心の底に澱んでいる沈殿物がなにか分からなかったが、少しでも吐き出せる役割をしてくれるのではないだろうかと思ったからだ。正門に近づき宿直室の警備員に手を挙げて挨拶を済ませると、議事堂に向かって歩いた。こんなに薄暗いのに、思っていたより人の数が多い。第一会館には煙たいほど大勢の人々が席に座っていた。その光景を見て俺は心底穏やかな気持ちになった。まわりの評議会議員の人たちは端末を使って中枢にアクセスしている。自分達の考えを入力してできるだけ多くの賛同を得ようとしているのだ。俺は彼らの座席に座って熱心に集中している姿に感銘を受けた。こんなに真夜中にもかかわらず世界のことを考えているのだ。空いている席に座ってから天井を見上げる。なぜかどこか遠くに来た気分がした。俺はこの光景をあと何十年見られるのだろうか?いや、ひょっとしたら数年かもしれない。想像の世界では、自分の思考をインプットしたマイクロチップが永遠に生き続けると伝えていた。しかし、それはあくまでも想像の世界だけで、人間は最長でも百歳程度でみな死んで逝く。俺が今生きている証拠は、あくせくと働きながら、その痛みにも似た苦しみを、この体に味わうことによって、生きている証拠を刻むことだった。この世界ではみんなが公平で幸せを享受するために、すべての人間が政治家として自由に発言できる機会が訪れたはずだった。しかし、今でさえ、ごく少数の人たちが既得権を受けて他の人たちを手足で動かしている。ああ、喉が渇いた。私は自動販売機を探すため廊下に向かった。ドアのそばには制服を着た警備員が立っている。明日になればなにか状況は変わっているだろうか?いや、いつもと変わらぬ日常が淡々と続いていくことだろう。しかし、地球外人種は俺たち以上に変革を待っている。いや、待ちわびているといったほうがいいだろうか。彼らは故郷を離れて、この地球にやって来た。きっと生まれ故郷である火星や月にはほとんど魅力的といえるものは存在しないだろう。でも望郷の念といった気持ちも幾分かあるに違いない。この地球のようなたくさんの自然物には愛着があるけど、故郷の人工物だらけのなんの美しさもないけどそこにノスタルジーを感じることはあるだろう。彼らの状況は理解することができる。そりゃそうだよな。故国を離れてきっと自分の心が張り裂けそうな感じなんだろうな。それでも生きていかなきゃいけない。でも一度でいいから月や火星に行ってみたいな。どんな感じなんだろう?

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