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第56話 潤っていますかあなたの心と肌そして地球深部

 自分はあまり、この仕事に向いていないのかも知れないな――そんなことを、たまに思う。そして苦々しく眉を寄せ首を振る。そんなことを思うほど、時間に余裕があるわけではない。だが、気泡がぽこんと浮かび上がってくるように、その思いは突然姿を見せるのだ。
 この仕事――人の上に立ち、指導鼓舞して会社の運営、経営を司るという、仕事だ。この会社が目指すもの、その業務そのものというのは、好きなものだし面白いと思う。だがそれを“趣味”でやるのと“仕事”として、しかも“企業経営者”という立ち位置で“利益”を上げながら、さらに“人”を“雇用”しながらやるのとでは、気が遠くなるほどに違う。世界が、乖離し過ぎている。自分はあまり、企業経営者に向いていないのかも知れないな――そんな思いがどうしても、封印しきれずにぽこん、と浮かび上がる。
 本当は、もしも希望が叶うのなら、ヘルメットを被り地下に下りて行き作業に当たりたい。可能であれば岩を掘って鉱物を取り出し採集したい。岩石というものを眺めたり触ったりする事が、好きなのだ。
 けれど、今自分が経営者の位置に就いているこの企業の創始者である祖父、そしてそれを引き継いだ父、さらに現在会長として座している兄からは、経営者は現場に出るなと言われてきた。危険だからだ。
 経営者の身に万一の事があったら、従業員たちは路頭に迷うことになる。社会的にも多大なる影響を与える。株価にも。最悪の場合、経営が立ち行かなくなる。経営者である以上は地上にいて、企業内外を問わず常に関係各方面とコンタクトを取り、潤滑な業務運営をはかり、さらなる成長と発展そして利益を追うべく目を皿のようにして機を狙い続けなくてはならない。そこには、岩石の手触りも匂いも音も、存在していなかった。
 皮肉なことに、自分は一族の中でも飛び抜けてそういう“機”を読む才に長けていたようだ。対人関係を築くことが、比較的得意だからだ。対人関係――特に、社会においては重き存在とされてきていた、男性たちと。
 愛嬌もあり、会話のセンスも良い自分は、そういう存在の者たちに可愛がられた。けれど企業経営者と名乗り始めた途端、彼らの自分を見る目、その視線は、がらりと変った。もう自分は、可愛い女の子として見られることなど一生ないのだ。ある方面では上司として、ある方面では協力者として、そしてある方面では競争相手として、温かい目もあれば冷酷な目もあるがいずれにしても、経営者としての力量を測るという目で見続けられるしかないのだ。自分は貢がれる側でなく、逆にどれだけ利益をもたらしてくれるのかを問われる側になったのだ。
 初めて伊勢照護が磯田建機にやって来たのは、何年前だったろうか。数年前――十数年前? もっと前か――否、伊勢は三十になったかならないか位のはずだ、新人営業マンとして来ていたとしても、七、八年前くらいのものだろう。しかし、不思議なことにもっと前から――遥か昔から――知っているような気が、する。人懐っこい性格の男だからか。
「重力波の観測かなんかすか?」伊勢は本社オフィスに展示してある作業機械を見て、うわべだけでなく心から興味を持ってくれたようだった。
「その下請けの下請けの下請けよ」磯田は内心、嬉しくもありくすぐったくもあり、多少戸惑いと不安も覚えていた。
 この青年の提案は、どうだろう。地下作業に先んじて、岩盤の安全性を確認し保証する。つまり、掘ると危険な場所、立ち入り禁止とすべきエリアをあらかじめ指定しセーフティマップを作成し提示する。万一御社の業務中に落石などの事故が起きた場合、事前の確認不足という事で全面的に自分たちが補償する。簡単にいうと、そういう提案だった。
「まあ、お守りみたいなもんすね。破魔矢とか」伊勢はそう言って、少年そのままの笑顔で笑ったのだ。
 その笑顔だけで、自分の心は半分――否それ以上、決まった。無論それは誰にも明かしたことのない、自分の心の奥底にしまってある事実だ。
「お祓い儀式の、地質学バージョンと思ってもらえれば」さらにそんな説明も、伊勢はした。
 磯田は面白いと思い、そう口にし、それから細部の条件をあれこれ詰めて、今日のように“お祈りさん”たちがやって来ては地下で調査をしてくれるようになったのだ。今までやって来た“新人”たちは、すべて男子ばかりだった。皆希望と活力に満ちた、元気の好い好青年たちだった。だが今回、二十歳そこそこに見える女子が一人、混じっていた。
 磯田は正直なところ、不審に思わざるをえなかった。女子に、できるのか? それは偏見と言われればそうであろうし、嫉妬、と言われても否定はできないかも知れない。華奢な体に、トレーナーとジーンズ、トレッキングシューズという軽装で、ヘルメットもウエストベルトも実に重そうに見え、どこか痛々しくさえもある。
 磯田はあまりそちらを見ないようにした。自分がやりたくても出来ない事を、この小柄で危なっかしい娘がこれからやるのだという事が、やはり口惜しく面白くなかった。どうせこの娘が事故に遭うことなど、決してありはしないのだ。周囲の男たちが全力で守ってやるに違いないのだから。彼女は、護られる存在なのだ。自分とは違って。どうしようもない気持ちだ。そんな気分の中でも、業務は待ってくれたりしない。
 そしてそれから数時間後、何かトラブルが起きたらしく“お祈りさん”たちが一旦現場を離れたという報告が相葉専務から来た。だが天津が対処に当たっており、すぐに現場に戻る見込みだという話に、磯田はただ頷いた。彼らに全幅の信頼を寄せているのだ。それだけ彼らは、しっかりとした誠実な仕事をしてくれていた。
 相葉や城岡は不安そうに時折窓からエレベータの方や門の方を見やっていたが、無論特に変化もなく、報告も連絡も来なかった。だが一時間後、天津から電話が入った。車が動かなくなり、現場に戻るまで四十分要する見込みだという連絡と、これ以上申し訳なさそうな声はないと言うほどに申し訳なさそうな、謝罪の言葉。磯田は気分を害するどころか、どこか可笑しくなるほどだった。「気にしなくていいから、気をつけて帰っていらっしゃい」笑いながら、天津にそう告げた。
 そしてつい今しがた、伊勢が電話を寄越し、さらにこの現場事務所にやって来たのだった。事務の畑中が胸ときめかせ頬を染める様子が、そっちを見ていなくても判った。
 ――まったく、仕事も半人前の癖にこういう所だけは目ざとい。
 苦虫を噛み潰す思いは決して伊勢の前では顔に出さない。出すとしたら彼が帰った後だ。
「お世話になります。すいません、うちの新人たちがご迷惑かけてしまってて」伊勢は笑顔のあいさつの後、困りきった顔になって陳謝した。
 その困った顔さえも、磯田に安心と潤いをもたらす以外の何物でもないのだ。
「ううん、そんな事ないわよ。よくやってくれてるわよ、お宅の新人さんたち」磯田は、現場を見たわけではないが差し向き伊勢の心を解きほぐす言葉をかけてやりたいと思い、そうした。
「すみません、本当」伊勢はもう一度、困った顔のまま謝りながら笑う。「代車の手配に時間かかってしまったみたいで、もう今こちらに向かって来てるようなんで、もう少しで戻ると思います」
 そんな会話をしていた時、実はもうすでに新人たちが神舟に乗って地下に戻って来ていた事を、当然ながら磯田は知らなかった。そしてその後その神舟が、再びリソスフェアの中で引っ張りだことなり、最終的にその外殻を融かされ消されたことも。

     ◇◆◇

「どこだあ、ここ」結城が周囲をきょろきょろと見回す。「でもなんか、最初に下りて来たクライアントさんとこの洞窟に似てるよね」
 三人が今立っているところは、懐かしささえ呼び覚ます岩石に囲まれた暗い地下洞穴の中だった。整備もされていない、剥き出しのごつごつとした足下。当然灯りなどもなく、三人のヘルメットのライトが唯一の光源だ。もしここでそれが消えたなら、真の闇が彼らを襲うことになる。
「どっちに向かえばいいのか」時中が前後を交互に見遣る。
「神さまたちとは連絡がつかないのでしょうか」本原が端末の画面を見つめながら問う。
「おーい」結城が上方に向かって呼びかける。「誰かいませんかー」
「鯰はどうなんだ」時中が訊く。
「スサノオさまはいるのでしょうか」本原が訊く。
「鯰ー」結城が呼ぶ。返事はない。「スサノ」

「誰だ」

 それまで聞いたことのない野太い声が雷鳴のように響き、結城の呼びかけを遮った。三人は言葉もなく凍りついた。

     ◇◆◇

 ――また、出たな。
 地球は比喩的に瞬きした。
 ――部分熔融が、何か関係あるのかな。
 地球はそう思った。岩石が熱で融け始め、固体と液体の相が入り混じっている状態の時、液相の岩石の成分は元の固体の岩石の時とは異なる。それが冷却され固化すると、元とは組成の違う岩石となる。マントル物質のカンラン岩が、海洋地殻物質の玄武岩に変るというものだ。
 ――それから、熱水循環と。
 マグマによって熱くなった水が海の中に噴出するとき、海洋地殻に含まれる成分が削り取られ持って行かれる。
 ――神たちが人間に、あの新人たちにさせようとしている“イベント”というのは、結局それに似た行為なんだ。
 対話の為の空洞を造る時、岩石を一度融かし、空洞を穿ち広げ、周囲を固める。それを行うのは地球だが、それは本来の地球の物質循環システムからは当然逸脱した行為であり、その逸脱を助ける神たちの“非物理学的力”がなければ実現しないものだ。
 神の、助け――熱水の吹き出るあの深海底で有機化合物を生成した時のような、ほんの偶然とも思えるささやかな“変化”だ。そう考えると、強制的に岩石を融かしまた固める、その時に生成された物質の凝縮したものが、いわゆる“出現物”なのだと考えてもおかしくないのではないか。
 さらにその生成物であるマヨイガが「新人たちを空洞の防護壁に利用すれば」というような発想をし、あまつさえ実現しようとしたというのも、彼にしてみればごく当たり前の考察の流れの結果生まれた、奇妙な理屈なのだろう。
 ――そして。
 今また、奇態な“出現物”が、出現したようだ。自分が神舟を融かした後、新人たちを囲む周囲の岩石をすぐに固めた際に、生成された“物質”なのかも知れない。いってみれば、マヨイガの仲間だ。
 ――またこいつも、新人たちを融かそうなんて言い出すのかな。
 地球は比喩的に、ふ、と嘆息した。

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