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「…エーレ…?」

 まずその名前に反応したのは、クルツだった。
 口述筆記をしていた手が、一瞬、止まる。

「知り合いか?」

 話が終わるまでは、口を出さないと約束しているため、エルフレードはクルツに小声で問いかけた。

「恐らく公国(ルフトヴェーク)の…首席監察官の事だ。きっかけまでは知らないが、少なくとも4年半くらいは、手紙のやりとりをして、ルフトヴェーク語を含めた、色々な事を彼女は学んでいる。しょっちゅう、単語が分からないと、典礼省の書庫に調べに来ているから、典礼省では、既にちょっとした名物だ」

「……道理で、ルフトヴェーク語がペラペラな訳だよ」

 エルフレードの隣で、オステルリッツも頷いている。

深傷(ふかで)…第一皇子派で、叛乱(クーデター)に巻き込まれて負傷したとでも…?」

 顔を上げたクルツと、ヒューバートの視線が交錯する。

 ルフトヴェーク語で、確かめるべきかとクルツは思ったが、ヒューバートはそのまま何も言わずに、キャロルの方に向き直った。

『カーヴィアルへ来る事を、躊躇(ためら)わなかった訳じゃない。来れば国際問題になる事くらいは、俺でも分かる。だが俺も、お嬢ちゃんに確かめないといけない事があった。だから事後承諾で、俺の判断で、あの方をここまでお連れしたんだ』

『確かめたい…こと…?』

 ヒューバートの胸倉から手を離して、キャロルが顔を上げる。

『……ここで話して良いのか?建前だけでも、個人の話としておく方が――』

『ううん。ウチの殿下には、自分が誰の部下なのか――公人であると言う自覚をしろ、何をしたところで、一個人としての話では通らない――って言われてるから…もう、誤魔化しは効かないと思ってる。って言うか、エーレが()かって言う、そもそもの事を、私に教えてくれたのって殿下だから』

『……マジか。何者だよ、帝国(カーヴィアル)の殿下…』

『掛け値なしの〝天才〟だと思うよ?公国(そっち)の第二皇子とか、側近レベルじゃ、絶対に歯が立たないって断言出来る』

『なるほどなぁ……』

『だから、教えて?エーレに、何があったのか。ううん、そもそもどうして、()()()()()()()だって、私に言わなかったのか……』

『⁉』

 口述筆記をしていたクルツが、驚きのあまりペンを滑らせた。

 エルフレードとオステルリッツも、第一皇子、と書きかけていたクルツの文字を見て、弾かれたようにキャロルに視線を投げた。

『…皇族の気まぐれで、庶民を揶揄(からか)っているとか、思われたくなかったんだよ、()()()は。――本気だった』

『…っ』

『お嬢ちゃん、何か〝約束〟をしていなかったか?その為に、絶対に頑張っている筈だから、負けていられないと、ずっと、ルーファス公爵としての、首席監察官職も続けていたんだ。本来なら、皇太子になった時点で、監察は外れても良かったのに。まあ、監察で公都(ザーフィア)にいない事が、ある意味縁談避けにもなっていたから、そう言う意味でも、監察官辞めるつもりはなかったのかも知れないがな』

 キャロルは完全に絶句しており、書き起こすクルツの文字も、震えている。
 他国の皇子、それも皇位継承者であるなら、尚更一連の手紙は、納得だ。

『どのみち今度の外遊で、全て明らかになる筈だった。多分そこでなら、自分が本気でいる事も分かってくれる――そう言って、準備をされていたのは、俺も見てた。だからカーヴィアルへ行くのを、俺も楽しみにしてた』

 もしかして…と、小声でクルツに呟いたのは、エルフレードだ。

「アイツが、アデリシアとの噂を歯牙にもかけなかったのって……」

 ()()()()()には疎い自覚があるクルツも、さすがに、何とも言えない表情を浮かべている。

「手紙の大半は、語学から政治経済までを説いているような代物(しろもの)で、そんな()()()なものじゃなかった。さすがに一言一句、中を見て訳を教えた訳ではないから、断言はしないが……いや、そうか…手紙の〝彼〟が頻繁に帝王学を説いていたのは、むしろ自分の為だったのか……」

 彼女に〝天才の通訳〟としての価値を教えたのは、もちろん、国の中でキャロルの立ち位置を確保させる為だろう。

 だが〝王と同じ目線で物が見れる〟事に関しては、ルフトヴェーク公国皇位継承者にも、同じ事が言えるのだ。

「その第一皇子が、手紙の〝彼〟と同一人物であったなら、間違いなく、アデリシア殿下と互角に渡りあえる……」

 マジか、と呟くエルフレードの率直さを、さすがに今はクルツも咎められない。

 キャロル自身も、こちらの声は聞こえているだろうに、何も言わない。――言えないのかも知れない。
 ポツポツと話す、ヒューバートの声だけが場に響く。

叛乱(クーデター)は…いきなり第二皇子が、宮殿で叛旗を翻した訳じゃない。少し前に陛下の病が篤くなって、皇弟(おうてい)殿下が臨時に政務を()られるようになってから…少しずつ、歯車が狂い始めたんだ』

『……皇弟(おうてい)殿下?』

 キャロルも初めて聞く単語――登場人物に、怪訝そうに首を傾げた。

『ミュールディヒ侯爵領から毎年多額の上納を受けている、筋金入りの、第二皇子派。エーレ様が監察で不在がちな事を利用して、実権を握ったんだ。とは言え、それでも後継者は、あくまでエーレ様だ。一時的に政務を()ったところで、よほどの無茶をしなければ、冬を前にわざわざ争う必要もないと、エーレ様も、しばらくそのまま、任せておられたんだ』

『……無茶、したんだ』

『本人は、無茶だとは思っていなかった筈だ。今の内にと、第二皇子派を増やそうとしただけだっただろうから。ただ、その皇弟殿下からの申し入れを、一顧だにせず切って棄てた()()が、いただけだ』

『…一顧だにしないって、何か凄い。仮にも相手は皇弟殿下なのに』

『元から、中庸派の人だったからなぁ…正室を持たず、跡継ぎは、平民の寵姫との間に出来た子供。国家式典以外には、公都(ザーフィア)にさえ来ない。長男は、いずれ侯爵領を継ぐだろうから良いにせよ、病気がちと言われる長女は、()()()()()で療養中。とは言え、第二皇子とは、年齢が1歳(ひとつ)しか違わない。皇弟殿下にしてみれば、この上ない親切だった訳だ。平民の母を持つ、後ろ立てのない「可哀想な侯爵令嬢」を、第二皇子の妃にしてやろう!と』

『………んんっ?』

 途中までは、深刻に話を聞いていた筈のキャロルが突然、素っ頓狂な声をあげた。

 中庸派。平民の寵姫。貴族社交界とは、ほぼ没交渉。1男1女。長女はルフトヴェークにはいない――そんな「侯爵」は、大陸広しと言えど、1人しかいない筈だ。

『うわぁ……』

 キャロルは、ここがどこかも一瞬忘れて、頭を抱えて膝から崩れ落ちた。

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