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5 キャロル、帝都に定住する

 カーヴィアル帝国には、二つの(こよみ)がある。

 ひとつには、帝国初代皇帝の御世から脈々と受け継がれている帝国暦であり、もう一つは、代々の皇帝の御世を表す皇帝暦である。
 キャロル・ローレンスが間もなく二十歳を向かえようとしていたこの年、カーヴィアル帝国暦九三五年は、同時にルーフェン暦十九年であり、当代皇帝は、第二十七代目となるクライバー・ルーフェン・カーヴィアル、公称クライバー2世だった。

 他国との無益な争いは避け、帝国民の生活維持に心を砕いたという点では、まず名君の部類に入ると言っていい皇帝だったが、この年の春、突然の吐血から病床に伏し、その年月は、はや半年になろうとしていた。

 宮廷内部から、果ては庶民にいたるまで、不安と不穏の空気が渦巻きはじめる、難しい時期に帝国はさしかかりつつあったのだ。

 11歳で生まれ育った街であるクーディアを出て、帝都メレディスの国立高等教育院に入学して3年、更に軍や宮廷での上位職、日本で言う所の、キャリア官僚のための教育機関である、国立士官学校へと推薦されて3年とを、それぞれ過ごした後、17歳からは近衛隊に配属される事になり、半年ほど前には、前任の近衛隊長の、怪我を理由とした退官の申し出を受け、満場一致で次の隊長として推挙され――今に至っている。

 国立高等教育院では、院長による助成金の着服を暴き、国立士官学校では、傍流ながら皇位継承権を持つ侯爵子弟の皇太子暗殺計画を未然に防ぐと言う、目立ち過ぎる功績を在学中に残していたせいか、私が女性であろうと平民であろうと、当時どこからも、異論の声は上がらなかったのだ。

 クーディアの街の警備隊長と、商業ギルド長の、教育の賜物とでも言うべきだったかも知れない。

 母親であるカレル・ローレンスはと言えば、定期的にカーヴィアル帝国とルフトヴェーク公国を「花卸(はなおろし)の老夫婦の後継、跡取り娘」として行き来するようになり、公国(ルフトヴェーク)滞在中は、レアール侯爵デューイが、それはもう歓待していたらしいのに、当初は、なかなか永住と言う結論に至らないと、執事長のロータスが呆れたように首を振っていた。

「キャロル様のお言葉を拝借するなら、結局はデューイ様も『ヘタレ』でいらっしゃるのでしょう」

 デューイの若い頃を、書物(クロニクル)越しとは言え知る身としては、ツンデレがヤンデレに変貌して、カレル(志帆さん)を閉じこめられたりしても怖いので、遠距離恋愛状態の、このあたりが限界だろうか…と思ってはいたのだが、月日が経ち、キャロルが国立士官学校に入学する直前になって、父デューイの執念が実った?のか、年の離れた弟が突然出来る事になり、その弟が生まれた後は志帆さんが、年のほとんどをルフトヴェーク公国のレアール侯爵邸で過ごすようになっていた。

 クーディアにある花屋は、キャロルの提案で所謂「フランチャイズ化」をして貰い、今は商業ギルド長の夫人が、その管理を引き受けてくれていて、キャロルは時々、休みの日に顔を出す程度だ。

(まぁ結果的に、志帆さん――カレル・ローレンスは、レアール侯デューイと幸せに暮らしました、で良いのかな?)

 執事長(ロータス)も年齢を重ねて、以前のようにカーヴィアルを頻繁に訪れる事は難しくなってきたものの、代わりにデューイ共々手紙をよく書いて、弟に遠慮せず、いつでもルフトヴェークに来るようと、言ってはくれている。

 とは言え、無駄にレアール侯爵家でお家騒動の種を撒きたくはないので、実際に公国(ルフトヴェーク)を訪れたのは、国立士官学校入学直前の春休み、弟が産まれたと聞いて、顔を見に行った時だけだ。

 こちらは、今までも、そしてこれからも、それくらいの距離感でちょうど良いのだと思っている。

 国立士官学校、近衛隊、当時のそれぞれへの推薦は、レアール侯爵領での暮らしを躊躇(ためら)うキャロルからすれば渡りに船で、弟は五歳になり、自分自身間もなく二十歳と言う今の状況に至っても、その距離感を変えようとは思っていなかった。

 特に今、政事の決裁をとるべき皇帝が病床にある。

 最も大きな負担は、そのすぐ下で皇帝を補佐していた宰相にかかっていた。

 実際には、宮廷の営みと国民の営みとの間には、海よりも深い隔たりがあり、不敬罪を承知で言えば、皇帝がいずとも日々は流れていると言う状況ではあるものの、王宮の中枢、近衛隊に籍を置く身としては、たとえルフトヴェーク公国に住む両親と暮らしたいと、もし願ったとしても、身動きなど取りようがなかったのである。

 ――何故ならカーヴィアル帝国の宰相職は、キャロルが籍を置く近衛隊の主である、皇太子アデリシアが兼務している職だったからだ。



 宰相兼皇太子と言う肩書きが表す通り、カーヴィアル帝国の宮廷には現在、人材が少ない。

 現皇帝であるクライバー2世は、さほどの艶福家ではなく、現在のところは、皇妃と側妃――第二夫人との間に、それぞれ一人ずつ子をもうけたのみである。そして第二夫人の子は皇女であり、既に隣国ディレクトア王国の第二王子の下へ嫁いでいた。

 どうやら先代も似たような状況だったらしく、帝室自体に、極端に人がいないのだ。

 加えて有力貴族の幾つかを、不正を暴いたり、暗殺計画を潰したりとしているうちに、総数を大きく落とす状況にもなっており、国家の政治経済を担えるだけの人材を任じるにしても、一つの一族に集中して、いらぬ誤解を招かないようにとの配慮をし始めると、あっという間に人材が尽きてしまうのだ。

 当時は、自分に火の粉が降りかからないようにとの不可抗力で、その不正を働いた貴族潰しに複数回手を貸したにせよ、現在、皇太子である筈のアデリシア・リファール・カーヴィアルが、実際には宰相として、国で誰よりも仕事をしていると言うこの状況に、胸が痛まないかと言われると、正直、痛い。

 そうでなくとも、クライバー2世ただ一人の息子、と言う立場自体が微妙で、次期皇帝としての地位は約束されたようなものだけど、同時にアデリシアが死ねば、他の縁戚の全てに、帝位が転がり込んでくるチャンスが生まれる。

 つい先頃、隣国マルメラーデ国の、妙齢の姫君との縁談がアデリシアには届いたばかりで、近隣の情勢や、マルメラーデ国の宮廷自体のパワーバランスはどうなのか…など、大臣達が対応に頭を悩ませているのが現状だ。

 実際問題、アデリシア自身は25歳にして未だ独身、カーヴィアル皇家(おうけ)の血は、現在極めて不安定な薄氷の上に成り立っていたのである。

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