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1-15 Faust

LTR1-15
 フランスでの2週間は、流雫にとっては面白かった。家族とはゆっくり過ごせたし、気晴らしに出掛けたりもした。ル・マンのユノディエールと云うコミューンに建つペンションが母親の実家で、其処に両親と3人で顔を出したりもした。
 レンヌの家では、今日本で何が起きているのか、両親に改めて細かく説明する必要が有った。そして、トーキョーアタックで辛うじて難を逃れたことにも触れなければならなかった。その時だけは、気が重く、美桜のことは最後まで言わなかった。
 ……渋谷。流雫は昨日、その一角に聳え立つビルの展望台に行きたいと澪に言った。しかし、避けては通れない場所が1箇所だけ有る。あの日、美桜が地球から去った場所。そこには、今は慰霊碑が建っているとネットで見た。
 慰霊碑前を避けるルートは有るし、澪が慰霊碑に寄る理由は無い。しかし、流雫はもう一度だけ美桜に会いたかった。自分なりの決着を付けたかった。……付けられるのか。
 流雫は窓の外から地上を見つめた。座席に備え付けのモニターのフライトマップが示した現在位置は、ハバロフスク。……東京まで、2時間半。

 離陸から12時間。飛行機は東京湾の真上を通って、東京中央国際空港の滑走路にタイヤを落とす。今日は到着も定刻だった。
 何時もそうなのだが、長時間のフライトは座っているばかりで、時々身体を背伸びでもして動かさなければしんどい。洗面所に行く度に、背や腕の関節あたりから音が鳴る。そして今も、シートベルトを外して背を伸ばすと複数の関節が勢いよく音を立てた。
 先を急ぐように降りようとする乗客を尻目に、ゆっくり降りる準備をした流雫は最後に降りて、イミグレーションへと向かった。
 イミグレーションは混んでいたが、特に前が詰まったりすることも無く、意外とスムーズに進めた。スーツケースを手荷物返却場のベルトコンベアから引き取ると、流雫はすぐに近くの宅配便カウンターで送る手配をする。これから遊ぶには邪魔だったし、何処かのコインロッカーに預けるのも引取が面倒だった。
 あの時乗らなかった地階へのエスカレーターに乗ると、シルバーヘアの少年はあの日乗らなかったからこそ、助かったことを思い出す。もし、あの時些細な違和感を無視して乗っていれば……と思うと、こう云う時の運だけは持っているのだと実感する。だから、九死に一生を得てきた。ただ、これが何時までも続くとは思わない。
 銃が手元に無いことは、フランスでは当然だったが日本では急に心細くなる。去年の今頃は、無いことが当然だったのだが。
 各地からの便も軒並み乗客は多く、駅も混雑していた。流雫は、モノレールを選びスマートフォンを自動改札機にかざす。
 すぐに来たモノレールも混んでいたが、1人掛けの座席は1席だけ空いていた。進行方向を背にすることになるが、流雫はそこに座った。進行方向右側は、空港の敷地を見ることができる。そして、それはやがてコンテナターミナルに変わっていく。モノレールは列車より揺れるが、それは別に気にならない。
 終点で列車に乗り換え、秋葉原駅へ向かう。その車内は流石に座れなかったが、数十分も乗るワケではないし、疲れるワケでもない。何よりも、この前より緊張するが澪に会えるのは楽しみで、それに比べれば座れないことなど些細なことだ。

 秋葉原。商売の神様として知られる神社、神田明神のお膝元。アキバと呼ばれ、オタクの聖地として国内外で有名だが、古くは電気街として知られてきた。後にコンピュータ、そしてアニメやゲームなどのサブカルチャーの中心へと移り変わり、現在に至る。一方で大通りを越えると、途端に閑静な住宅地が現れる。街の顔が極端に変わるのも、この界隈の魅力だ。
 その中心地、秋葉原駅は複数の鉄道路線が乗り入れる交通の要所でもある。次の目的地、渋谷へも乗り換え無しで行ける。
 待ち合わせは正午。少しだけ早く着いたが、改札を出ると後ろから少年の名を呼ぶ声がする。
「流雫!」
その主が誰か、彼にはすぐ判った。
「お帰り!」
「ただいま」
澪は微笑みながら言い、流雫はそれに微笑みながら返した。何だろう、その顔を見ると落ち着く。
 澪の案内で向かったカフェ。秋葉原でカフェと云えば、メイド服のコスプレをした店員が接客するメイドカフェが或る意味サブカルチャーとしても有名ではある。
 しかし、澪が見つけたのは正統派のカフェで、コーヒーは全てサイフォンで淹れられる。店としては真新しいが、近年近くの別の場所から移転してきたらしい。
 ランチタイムは小さなカフェも混雑していた。2人は少しだけ待って店内に通されると、コーヒーとホットケーキをオーダーする。
 流雫はフライト中、機内食こそ堪能していたが、如何せん量は少ない上に、それからもう3時間以上が経っている。ランチがホットケーキになる形だが、それでも構わなかった。
 「……はい、これ」
そう言って澪は、白い紙袋を鞄から出して渡す。流雫は袋を開ける。2週間前、澪が手に入れた御守りだった。1604年に徳川幕府の2代将軍、徳川秀忠が定めた五街道……東海道や奥州街道など…の起点として定めた、日本橋の絵と旅守の文字が刺繍されている。
「これ、わざわざ……」
「日本とフランスの往復は長旅だから、無事に着けるようにって」
「サンキュ」
流雫は礼を言ったが、その好意が逆に少し怖くなった。
 澪は確かに、唯一何でも話せる存在だ。そして、とにかく献身的に接してくる。理由は、恐らく流雫の力になりたいから……だけだろう。
 ただ、だから彼女がいなくなるのが怖くなる。美桜の時のような、最悪の限度を超えた別れだけは、形振り構わなくてもいい、とにかく避けたい。
「フランスの写真、他にも有るなら見たいかな」
澪は言った。
 流雫はスマートフォンのアルバムアプリを開き、澪に送らなかった分まで見せて、これが何処でどんな場所で……と語っていると、1時間が経っていた。
「今年のオリンピックはパリで、この前の東京と違ってチケットは完売だし、大歓迎ムードだから、多分国外からも相当人が来ると思う。その人混みで大変なことになるのがね……。だから春休みに行って正解だったよ」
と言った流雫は、トゥール・モンパルナスからの夜景を最後に見せる。
「夜景も綺麗……」
澪は画面に見入った。その間に、流雫は残っていたコーヒーを飲み干す。既に冷めていたが、それでも彼好みの風味を残しているらしく、満足げな表情を浮かべた。
「……ところで、次は何処に行く?」
澪は流雫の問いに答えた。
「展望台、18時からだっけ?それまでは特に決めてないから……何処でも行けるわよ?」

 それからは、特に買い物も無いが、東京の繁華街を回ってみる。臨海副都心はこの前、予定は大幅に狂ったが行ったことで、今回は外した。澪が同級生と行った場所も有ったが、流雫と一緒だとまた違って見える。誰と行くかで、その街の景色が少なからず変わって見えるのは、面白い。
 東京の日没は18時。それに合わせるように、展望台の前売りチケットは入場時間を指定してネットで購入してある。その前に、2人は渋谷に向かうことにした。そろそろ帰宅ラッシュが始まる頃だったが、座れない程度で特に混んでいる感じはしない。
 渋谷に着くと、17時直前だった。まだ1時間有る。展望台を据える超高層ビル、渋谷インタースクエアは駅舎からペデストリアンデッキで直結だったか。
 しかし、流雫はそれとは反対に進む。それは、あの日自分が通ったのと同じだと澪は思った。
「行ってみたい場所が有るんだ」
と彼はデートの約束をした時にも言っていたが、しかしその方向は……。
 改札を先に出た流雫は、数秒だけ立ち止まり、そして歩き出す。そして再び立ち止まったのは、まさかの場所だった。澪の息が一瞬、止まった。

 改札を出ると、流雫の目に目的地が映った。深呼吸を一度だけして、歩き出す。
 スクランブル交差点の手前、駅前広場の一角に設置された、トーキョーアタック……2023年東京同時多発テロの慰霊碑。この目で見るのは初めてだった。
 「……美桜」
流雫は名を呼ぶ。それは、この地球にいない名前だった。
「色々、思い出すよ。……こんなことになるなら、もっと一緒に遊べばよかった。……日本にいればよかった」
 初対面から美桜が常に主導権を握り、流雫はそれに任せている感は有った。しかし、流雫は今まで他人と遊んだことが無く、好意を寄せられることがどう云うものか知らなかった。彼女からの告白も、その好意を裏切れない……だから受け止めた。
 自分からはどうしていいのか判らず、戸惑いながら少しずつ知っていくような感じだった。
 それも、1学期を通じてようやく判ってきた気がしたから、日本を発つ直前にデートの約束もした。……しかしそれは、叶わなかった。もし毎年恒例だったフランスへの帰郷を止め、日本にいたのなら、美桜は死ななくて済んだのではないのか……と、今でも時々思う。
「寂しくない、と言えば嘘になる。でも、今は……助けられて、救われてばかりだけど、だから大切にしたい人がいる。最初は、美桜の面影を重ねそうになったりしたけど」
「でも、だから何としてでも生き延びたい。もう、あんな経験はイヤだから」
「……いずれ、そっちに行かなきゃいけないんだっけか。……当分行く気は無いけど、会った時は遊ぼう。あの日から今まで見てきたこと、今から見ること、全部話したい。美桜に自慢したいんだ」
慰霊碑に語り掛けるように呟く流雫。その様子を澪は、斜め後ろに立ったまま見つめていた。そして思わず、彼の名を呼ぶ。
 「流雫……」
「あ……、……聞いてた?」
そう言って澪に顔を向ける流雫は、少し後ろめたいような表情を浮かべていた。澪は彼の隣に立って、一呼吸置いて言った。
「……流雫がパリに着いたあの日、あたし此処にいたの。……何か、……何も言えなかった。何を言ったところで、ここで命を落とした人たちの弔いは、あたしにはできない……」
「……僕だって、こうして美桜に会うのは、本当はダメなんだろう。でも、どうしても行ってみたかった。美桜がどう思うかは知らないけど」
そう言って、流雫は目の前のレリーフに人差し指で触れる。
「美桜が生きていれば、今日なんかもデートしたりして、楽しい1日を過ごしてたと思う。……今はこうして澪がいるけど、それも美桜がいないからってのは……何と言えばいいんだろう……」
「……流雫……」
澪は名を呼ぶ……それしかできなかった。

 ……不可抗力、それは至極乱暴な言い方だとは、流雫自身判っている。しかし、何らかの拍子で思い出すクセが有ったし、今も思っている。……自分がいなかったから、彼女は命を落としたのだ、と。そして、それは美桜だけでなく、澪が相手でもそう思うだろう。
 悲劇のヒロインを演じたい……そう見えても仕方ない。しかし、もし悪魔が彼の前に現れ、世界の破滅と美桜の復活を天秤に掛けられたとしても、流雫は後者を選ぶだろう。それほど、言葉では取り繕っていても、未だ吹っ切れていなかった。吹っ切れるワケがなかった。
 人との別れは、記憶に残っている限り会う前と同じに戻ることはない。その別れの言葉さえ言えない、聞けないのは、どれだけ残酷なのか。澪には想像もつかない。
 「……そろそろ、時間だよ?」
澪は言う。展望台の入場時間には未だ早いが、流雫の落ちていく意識を引き戻す術を、他に見つけることはできなかった。流雫は頷くと
「……また、来るよ」
とだけ言い残し、澪の隣で慰霊碑に頭を下げる。澪も続くように頭を下げた。

 シブヤソラ。大手私鉄が指揮を執る渋谷の再開発事業の一環で建設された超高層ビル、渋谷インタースクエアの最上階に位置する、屋外展望台だ。地上46階、高さ約230メートル。前売りチケットはデジタルチケットで、スマートフォンのアプリで表示したQRコードをリーダーにかざすだけでよい。
 エントランスと展望フロアを結ぶ窓無しのエレベーターには、流雫と澪の2人きり。やがて展望フロアに着くと、貴重品もバッグもエレベーターホール隣の専用コインロッカーに預ける。
 転落防止用の柵は有るものの、ケージで囲まれたりもしていない上に、周囲に風を遮るものが無い。風で飛ばされたり地上に落としたりと云う事態になると、ボールペン1本でさえ危険だから、と帽子も預けなければならない。ジャケットやカーディガンはボタンを留め、カメラはネックストラップで首から提げていればよい。スマートフォンはストラップが有り、しっかりと手首や指に掛けるのが条件だった。
 その理由で、風が強い日や雨の日は閉鎖される。今日は少し風は有るが、閉鎖されるほど強くない。
 そこからはエスカレーターで更に上がる。分厚いガラス越しに見るだけでも凄いが、最上階に上がると、360度東京の街を見渡せる。
「うわぁ……っ!」
澪は声を上げる。写真では見ていたものの、実際に上がるのは初めてだった。その隣で、流雫は言葉にこそ出さないが驚きを隠さない。
 夕陽はそろそろ沈む。オレンジ色に染まる空は、やがて深めの碧を経て黒く染まる。そのグラデーションのショータイムが、もうすぐ始まる。
 最上階は、下のフロアより一回り小さな正方形になっている。そして、中央の最も高い場所は緊急用にはヘリポートとしても機能するようにペイントされているが、その周囲を斜めに配置されたハンモックのようなベッドが有り、寝転んで空を眺めることができたりもする。
 エレベーターホールとエスカレーターの動線、その真上だけ胸の高さまでのガラス板だけしか無く、フォトスポットとして有名だった。
 トゥール・モンパルナスで見たパリの景色も凄かったが、このシブヤソラから見た東京の景色も、全く見劣りしない。古くからの伝統的な街並みを頑なに守り続けるパリ、高層ビル街と住宅地のコントラストがアクセントの東京。対照的だが、それが流雫にとっては面白く、どっちも大好きだった。
 その表情は、1時間前、慰霊碑の前で言葉を失っていたのと同一人物だとは思えない。心が息詰まった時は形振り構わなくても強制終了させ、紛らわすのが何よりだと、澪は思っていた。そして、それは今に限っては当たっていた。

 やがて、空の色はブルーブラックから黒へと変わっていく。建物の照明がイルミネーションのようだ。少し風は強くなったが、閉鎖されるほどではない。
 流雫はヘリポートになった部分の端に、コンパスのようなオブジェクトが埋められているのに気付く。淡く光るそれはジオコンパスで、この東京……渋谷から世界の主要都市までの距離と方位を、正距方位図法……距離と方位が正しく記される……の地図と共に示したものだ。
 思わず探したパリまでは、約330度の方向に9700キロ。それほど離れた地から、今日戻ってきたばかりなのだ。
 その中心に立ち、パリの方向に立つ。見つめた先は東京の中心を走る山手線の西側の景色だった。……その地平線より、もっと遠い先にパリが有る。この場所からだと、世界の果てのような感覚さえする。
 夜中に飛行機から見るよりも綺麗な夜景に、ふと流雫は手を伸ばした。

 流雫が手を伸ばした先は、東京の夜景……ではなく故郷フランスだった。そして、今彼が何を思っているのか、澪には判らない。
 何かが掴めそうで掴めない。それは、もう二度と銃を握らなくて、人を撃たなくて済む日々の再来か。泣かなくて済む日々か。
 澪は雨が降る3月、この街の地上で、慰霊碑に手を合わせた。そこで思うことは有ったが、流雫が先刻思っていたことに比べれば、薄いものだと思った。彼が抱える悲しみは、自分が思うより遙かに大きい。
 流雫は目を開けた。左右で異なる色の瞳は、微かに滲んだように見える。澪は無を掴もうとした流雫の右手に、そっと左手を重ねた。

 ゲーテの有名な戯曲、ファウスト。悪魔メフィストフェレスは神とのとある賭けで、学問を究めながらも人生の充実を満たせず嘆いていた博士、ファウストと契約を交わす。悪魔は彼に人生のあらゆる快楽や知識を与えるが、代わりにその魂を求めた。それは、ファウストは死後、魂を悪魔に支配されることを意味していた。
 作中でのキーワードでもある、ファウストの死の間際の台詞
「時よ止まれ、汝はいかにも美しい」
はあまりにも有名だ。至上の幸福の瞬間を人に喩えて、呼び掛けるような、美しい台詞。しかし、それは魂をメフィストフェレスに捧げるための、謂わば自分への死の呪文だった。
 ……澪はその話を、流雫から聞いたことが有る。知り合って間もない頃だったか。何がきっかけは覚えていないが。
 もし、流雫の正体がメフィストフェレスなら、澪はファウストになりたかった。彼から与えられる力で実現できるだろう、銃を持たなくてよい日々、泣かなくて済むような平和な日々なんてどうでもよくて、ただ目の前の彼……宇奈月流雫をこの手で抱きしめたかった。愛や喜びだけでなく、悲しみも悩みも苦しみも全て。
 そのために悪魔に魂を捧げ、支配されてでも一緒にいたかった。一緒にいられるのなら、永遠に地獄に落ちると知っていても、何も怖くない。澪はそう思っていた。

 流雫の冷たい手の甲に、澪の手が重なる。もどかしいような温もりが宿っていく。
「……流雫」
澪はその名を囁く。
「澪……?」
その優しい声に、澪と名を呼ばれた少女は言った。
「あたしは、流雫といっしょだよ」
 アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳は、イルミネーションと化した周囲の光を映しつつも、少しの切なさを滲ませていた。吸い寄せられそうな流雫の瞳に、澪は息が止まる。
 澪は、下げようとした流雫の手を離すと、心臓の真上あたりで握りしめていた自分の右手を包み、囁くように言った。あの夜、夜景の綺麗さに後押しされたものの、弱さ故に最後まで言えなかった言葉。
 手に伝わる、自分の大きく早くなる鼓動が、背中を押した気がした。行け、と。
「流雫……大好き……」

 その言葉に、流雫の心臓は少しだけ鼓動を早める。時々、重く、怖くさえ感じるような、澪の流雫への好きと云う感情に、何一つ嘘は無かった。どんな時でも味方で、何度も救われてきた。澪がいなければ、初めて銃を手にしたあの日、既に正気を失っていただろう。
 あの日に流雫を支配したモノクロームの世界を鮮やかに染める、たった1滴のレインボーカラーのインク。室堂澪と云う少女がどんな存在か、と問われれば、その答えが流雫にとって何よりしっくりくる。
 重く怖く感じるのは、このディストピアに似たような世界で、それだけ彼女に生きていてほしいから。彼女を美桜のように失うことが、自分が死ぬことより怖かった。だから。
 流雫は小さく溜め息をつく。吐き捨てたのは、躊躇いだった。
「澪……好きだよ。大好き……」

 流雫が初めて言葉にした澪への「好き」の言葉に、オッドアイの瞳を見つめていたダークブラウンの瞳は、フォーカスを失い、そして滲んでいく。
「流雫……」
澪は流雫の頬に触れる。少しだけ珊瑚色に染まり、ほのかに熱を帯びていた。少しだけ目を細めた澪の額に、流雫の額が触れる。
「大好き」
「……流雫……」
再び囁いた流雫の声に呼応するように、澪は消えそうな声でもう一度彼の名を呼ぶ。目蓋を閉じると、頬に冷たい感覚が走るのを感じた。
 澪の左手は、流雫の右手に無意識に指を絡め、流雫の頬に触れる右手には、流雫の掌が重なる。
「……ありがと……流雫……」
額を離した澪は、滲む視界にオッドアイの瞳を宿しながら、途切れ途切れに囁く。一線を越えた瞬間、音も無く空に舞い上がるような感覚に包まれた。
 少し冷たさも残る風が、2人を祝福するように包む。世界中から掻き集め、掻っ攫っても敵わないほどの、抱えきれないほどの愛と幸せが、今2人に降り注ぐのを澪は感じた。
 ダークブラウンのセミロングヘアをなびかせる少女は、今この瞬間が永遠に続くのなら、あの言葉を囁いても思い残すことは無かった。
「時よ止まれ、汝はいかにも美しい」
と。

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