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戦闘服は制服! ③

 三十四階は重役専用のフロアーで、専務執務室・常務執務室・社長室があり、このフロアーで最も広い会長室は一番奥にある。会長室の中には会議用の大きなテーブルも設置されている。
 そして、彼がこの日から在籍することになった秘書室もこの階の会長室の隣にあり、二つの部屋に挟まれるように小さな給湯室がある。

 ただし、常務は村上社長が、専務は人事部長の山崎さんが兼任することになったので、この二つの部屋はしばらく使われなくなり、実質機能していたのは社長室・秘書室・そして会長室だけだった。

「――会長、どうぞお入り下さい」

 ドッシリした木製のドアの前で立ち止まった彼は、ドア横のセンサーに自身のIDカードをタッチした。
 この社員証はカードキーの役割も果たしていて、このカードを持っている社内の人間でなければ、このフロアーを含めたどの部署にも入れないのだ。――もちろん、わたし専用のIDカードも作ってもらった。

 わたしはドアの上部に取り付けられている「会長室」と彫られた金色のプレートを、感慨深く見つめていた。
 父が守ってきたこの部屋の、新しい主に自分がなったことへの喜びと、本当に自分でよかったのかというほんの少しのためらいとが入り混じり、なかなか足を踏み入れられなかった。

「……会長? どうされました? さ、中へどうぞ」

 ドアを開けたままでわたしが入るのを待ってくれていた彼は、わたしのためらいを察していたのだろうか。再び優しくわたしを促してくれた。

 わたしが勇気を出して室内に足を踏み入れると、彼がその後から入室してパタンとドアを閉めた。音では「パタン」だけれど、重いドアだけにその閉まり方には重厚感があった。

「うん……、ありがとう。――ここがこれから、わたしの仕事場(せんじょう)になるのね」

 わたしはしばらく目を細めながら、室内のインテリアを眺めていた。

 まず、西側は全面が大きなガラス窓になっていて、その窓に背を向ける形で会長のデスクと大きな背もたれとキャスター付きOAチェアのセットがあり、デスクの上には備え付けのデスクトップ型のパソコンもある。

 南側の壁は一面が書棚になっていて、父の愛読書だったらしい経営学の本やビジネス書がビッシリ並んでいる。これは(のち)にわたし自身の愛読書にもなった。

 そしてデスクの横に、会議スペースとして使われるテーブルセットがあり、部屋の一番奥がペパーミントグリーンの布張りの二人掛けソファーが一対と、木製のローテーブルがセットで置かれている応接スペース。
 堅苦しさのない、ゆったりと来客をおもてなしできるこの応接スペースは、営業畑出身の父らしいセンスだなとわたしも感服した。

「――絢乃会長、お疲れになったでしょう。とりあえず、お座りになってはいかがですか?」

「うん、そうね。ありがとう」

 わたしが彼の勧めに従って会長の席に着くと、彼はドアの側にある秘書席に着くことなく、わたしのところへやって来た。

 どうでもいいけれど、秘書になった途端、彼は急に他人行儀というか(かしこ)まった態度を取るようになったので、わたしはちょっと淋しかった。
 そんな心境が、顔にも顕れていたらしい。彼が少し態度を和らげてこんな提案をしてくれた。

「……あの、よかったらお父さまの葬儀の日のお約束、今日果たしましょうか?」

「えっ? 約束……って」

「絢乃会長、おっしゃってたでしょう? 僕が淹れたコーヒー、一度飲んでみたいって。今日頑張られたごほうびにといってはなんですけど、今からお淹れします。――えーっと、お味の好みは……」

 〝ごほうび〟という言い方が上から目線みたいだと思ったらしい彼は、気を遣いつつ言い直した。
 彼の方が年上なので、そんなことで気を遣う必要なんてないのに。彼は〝秘書〟という自分の職務に忠実でいたいらしかった。そういう不器用な真面目さが、わたしの胸をほんのり温かくしてくれた。

「ありがとう! じゃあお願いするわ。味は……、お砂糖とミルクを入れて甘めにしてもらえたら嬉しいな」

 火葬場の待合ロビーで、わたしがカフェオレを飲んでいたことを覚えていてくれた彼は、すぐに理解してくれた。

「ああ、なるほど……、了解です。では、少し――そうだな、十分くらいですかね。お時間下さい」

「分かったわ。楽しみに待ってるね」

 彼はそのまま会長室を離れ、給湯室へ行った。

「――パパ、さっきのスピーチ聞いてくれてた? わたし、ちゃんと株主のみなさんに会長だって認めてもらえたみたい。だから安心して見守っててね」

 ひとりになったわたしは、父が温めていた席に着いたまま、心の中で父に話しかけていた。
 父はもういないのに、不思議とこの室内には父の気配が感じられた。まだこの会長室内で仕事をしながら、わたしに笑いかけてくれているような気さえした。
 わたしが不安がっていたから、「お前なら大丈夫だ」とそっと背中を押してくれたのだろうか? ――父は今でも、わたしが何かに悩んでいたり、困っていたりすると、時々気配を感じさせることがある。

 ――コンコン。

 十分ほど経った頃、ノックの音が聞こえた。ちょうど、彼が言っていた時間ピッタリだった。

「はい! ドア開けるから、ちょっと待ってて」

 彼はトレーを持っているはず。そう思ったわたしはノックに大きな声で応答して、ドアの側へ駆け寄った。この部屋のドアは、外からはIDカードをスキャンしなければ開かないけれど、中からは普通に開けることができるのだ。

「――お待たせしました、会長。開けて頂いてありがとうございます」

「ううん、いいの。トレー持ったままじゃ、ドア開けるのも大変でしょ?」

「はい、片手ではちょっと……。気づいて頂けて助かりました。――さ、どうぞ」

 彼は入室すると、まずは第一声でわたしの気遣いに感謝の気持ちを伝えた後、デスクの上にピンク色のコーヒーカップをそっと置いた。
 カップからは湯気とともに明らかにインスタントのものとは違ういい(かお)りが漂っていて、彼がコーヒー豆から(こだわ)っていることがありありと窺えた。

「すごくいい薫り……。ありがとう。いただきます」

 わたしは熱すぎず(ぬる)すぎない中身を一口すすってみた。すると、ちゃんとわたし好みの甘さになっていて、それでいて丁寧に淹れたらしいコーヒーの薫りがちゃんと楽しめる、上質のミルク入りコーヒーになっていた。
 父も大のコーヒー好きで、わたしも普段からコーヒーには親しんでいたけれど、これだけ美味しいミルク入りコーヒーを飲んだのは初めてだった。

「美味しい……! コレ、すごく美味しいよ! わたしも、こんなに美味しいコーヒーは初めて飲んだわ。きっと豆にも拘ってるのね」

 あまりの美味しさにテンションが上がり、興奮ぎみに感想を言ったわたしに、彼はちょっと照れたように答えてくれた。

「ええ、まあ。実家の近くに、懇意(こんい)にしてるコーヒー専門店がありましてね。そこで焙煎(ばいせん)して()いてもらった豆を分けて頂いてるんです。もちろん会社の経費では落ちないと思うので、僕の自腹です。ここまで来たら、もう仕事というより僕個人の趣味を会社に持ち込んでるようなものですね……。お恥ずかしい」

 そこまで言った後、彼はすぐ真顔になった。

「でも、それはすべて、絢乃会長に美味しいコーヒーを飲んで頂くためですから」

「桐島さん……」

 わたしを喜ばせるために妥協(だきょう)を許さないという彼の真摯(しんし)な姿勢に、わたしは心打たれた。彼ならきっと、仕事の面でも誠実にわたしを支えてくれるだろう。……わたしは自然とそう思えた。

「ありがとう! これからもよろしくね!」

「はい! ――ではさっそくですが、会長には覚えて頂かなければならないことが……。このパソコンにログインするためのIDと、パスワードなんですが」

「IDって、IDカードのコードでしょ? パスワードは……、付箋で貼り付けられてるコレね?」

 起動させたパソコンのキーボードをわたしが手早く叩くと、彼は感心していた。

「さすがは会長、お若いですね……」

 彼の反応にわたしはクスッと笑い、こうしてわたしの闘いの日々は、上々のスタートを切ったのだった。

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