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覚悟と恋の自覚 ②


****

 ――わたしの家は洋館だけれど、生活スタイルは玄関で靴を脱いでスリッパに履き替える日本式である。

 玄関でスリッパを履いていると、母と住み込みお手伝いさんの安田(やすだ)史子(ふみこ)さんがリビングから出てきた。

「お帰りなさいませ、お嬢さま!」

「お帰り、絢乃。今日はお疲れさま」

「……ただいま。パパは?」

 わたしはリビングに入るより先に、父の心配をした。

「さっき寝室を覗いたら、もう起き上がってたわ。……で、あなたが電話で言ってた『大事な話』って何なの?」

「そう。――じゃあ、ママもついて来てくれる? パパに話があるの。直接伝えたいから」

 わたしの表情が相当鬼気迫っていたのだろう。母は「分かったわ」と頷いた。

「実はね、ママ。パパのことなんだけど――」

 彼から助言されたことを母に話すと、母も表情を引き締めた。

「なるほどねぇ……。もしかしたら、桐島くんの言う通りなのかもね。それなら、話すのが早いに越したことはないわ」

「うん、わたしもそう思ったの。パパにもしものことがあったら……って」

 彼から初めてそのことを聞かされた時、わたしは目の前が真っ暗になった。それはあまりにも残酷な宣告で、できることなら耳を(ふさ)ぎたかった。でも、一番つらかったのは誰でもなく、それを言った彼だったのだと思う。

「――あなた、起きてる? 絢乃が帰ってきたわ。入ってもいいかしら?」

「パパ、大事な話があるの。聞いてもらえる?」

 母がドアをノックし、わたしが声をかけると、父の苦しそうな声で「どうぞ」と返事があった。

「おかえり、絢乃。心配かけてすまなかったな」

「ううん、いいの。わたしは大丈夫」

 ベッドの上で上半身だけ起こしていた父は、倒れた時ほどではないけれど顔色があまりよくなかった。
 自分が一番つらかっただろうに、わたしの心配をしてくれた父に、わたしの胸は締め付けられた。

「――で、大事な話って何だ?」

 父の様子を目の当たりにして、わたしは一瞬言うのをためらった。けれど、父のためにも一刻も早く伝えるべきだと思い、意を決して切り出した。

「あのね、パパ。今日倒れたでしょ? それでね、パパのことを心配してくれた一人の社員の人が言ったの。『お父さまは一度病院で検査を受けた方がいい』って」

「……検査?」

「うん。もしかしたら、命に関わる病気かもしれないから、って。病院嫌いなのは分かってるけど、一度キチンと()てもらった方がいいとわたしも思うの」

 父は病院が嫌いだった。ちょっと体調を崩したくらいなら、家でゆっくり休めばよくなると言っていた。
 でも、この時はそうも言っていられない状態だった。

「わたしもホントは無理()いなんてしたくないの。でもね、わたしもママも、パパの体が心配なの。お願いだから、それだけは分かって」

 わたしの真剣な眼差しを受けて、父はしばらく思案顔になった。母もわたしを援護するように、父に畳みかけた。

「あなた、私からもお願い。絢乃がここまで言うなんて、よっぽどのことよ。この子は心からあなたの体調を気遣ってくれてるの。アドバイスをくれた社員の方もそうよ。分かってるの? あなたは私と絢乃だけじゃなく、たくさんの人の生活を背負ってるんでしょう?」

 母の言い方がどことなく上から目線だったのは、この家の当主である母の方が立場が上だったからだろう。今思えば、両親の関係は世間で言うところの〝かかあ天下〟だったのかもしれない。 
 そしてそれは今、娘であるわたしにも受け継がれつつある。――それはさておき。

「……分かった。君たちの心配は、十分伝わったよ。早速明日にでも、検査を受けてくることにしよう。――加奈子、後藤(ごとう)に今から連絡を取ってみてくれないか?」

「ええ。分かったわ」

「ホント!? パパ、ありがとう!」

 父はわたしと母の願いを聞き入れてくれた。母は早速、父の大学時代の友人である大学病院の勤務医・後藤聡志(さとし)先生に連絡して、翌日診察を受けられないか訊ねていた。彼は当時、内科部長だったと思う。

「――えっ、本当ですか!? ――ええ。――はい。――では明日、午前中に診察をお願いします。――はい、ありがとうございます。では、失礼します」

 自分のスマホで通話をしていた母は、電話を切ると後藤先生とのやり取りの内容をわたしと父に報告した。

「後藤先生、明日の午前の診察で診て下さるそうよ。ついでに詳しい検査もしましょう、って」

「そうか。ありがとう」

「パパ、よかったわね。じゃあ明日、わたしも一緒に――」

 わたしも一緒に行く、と言いかけたわたしを、母が制止した。

「何言ってるの、絢乃。あなたは明日、学校があるでしょう? パパにはママがついて行くわ。検査が全部終わったら、ちゃんと連絡するから。あなたはもうお風呂に入って寝なさい」

「……は~い。じゃあパパ、ママ。おやすみなさい」

 本当は学校なんてどうでもよかった。一日休んで、父に付き添っていたかった。高校生という自分の身分が、このうえなく恨めしかった。 

****

 わたしは同じ二階の自分の部屋に戻ると、浴室のバスタブの蛇口をひねった。
 我が家は各部屋に浴室とトイレがあり、よく「ホテル並みだ」と言われる。この部屋のバスルームは、つまりわたし専用ということである。

 バスタブにお湯を張っている間にメイクを落とし、ドレスから部屋着のワンピースに着替えると、わたしはバッグからスマホを取り出した。
 母から来たメッセージ以降、着信も受信したメールもメッセージもなかった。……彼からも。

「――あ、そうだわ。桐島さんに連絡してみよう」

 わたしから男性に連絡するのは初めてのことだったけれど、彼は唯一父の病院受診をわたしにアドバイスしてくれた人だし、せっかく連絡先も交換したのだから……と、わたしは緊張と闘いながらスマホを操作した。

『――はい、桐島です』

「あ……、絢乃です。さっきはありがとう。――あの、今、大丈夫かしら?」

『はい、大丈夫ですよ。もう自宅ですから』

「……そう」

 わたしはホッと胸を撫でおろした。彼がゆっくり話を聞ける環境にいてくれたから。

「あのね、早速パパに話したの。『一度、病院で検査を受けたら』って。とりあえず貴方の名前は伏せたけど、社員の人が助言してくれたって言って」

『そうですか。別に、僕の名前を出して頂いてもよかったんですけど。多分お父さまは、社員全員の名前と顔を覚えてらっしゃると思いますから』

「えっ、そうなの? 知らなかった」

 わたしは本当に、父の記憶力の高さに舌を巻いた。
 〈篠沢グループ〉の社員の数は、全体で一万人以上。本社だけでも千人はいる。その全員の顔と名前を覚えていたなんて、父の記憶力には恐れ入る。わたしはまだ、その域には達していないから。

『実はそうらしいんです。絢乃さんはご存じなかったんですね』

「ええ……」

 父は仕事の話を、家ではあまりしてくれなかった。
 組織のトップということは、社員一人一人の個人情報も握っているということ。真面目な父は、それを家族に対してとはいえおいそれと話してはいけないと思っていたのだろう。

 わたしには、幼い頃から「経営者っていうのはな……」と、上に立つ者のノウハウを色々と聞かせてくれたのに。

『――で、どうでした?』

 彼自ら、脱線した話を元に戻してくれた。

「あ、うん。早速明日、大学病院でお友達の内科部長さんに診てもらうことになったって。わたしも付き添って行きたかったんだけど、『学校があるでしょ』ってママに止められちゃった」

『そうなんですか……。絢乃さんもお父さまのことご心配でしょうけど、お母さまはあえて心を鬼にして、そうおっしゃったんだと思います。ですから、お母さまのことを恨まないで差し上げて下さいね』

「それは……、わたしだって分かってるけど……」

 彼の言い分はごもっともだったけれど、わたしは口を尖らせた。
 父親が重病かもしれない。もしかしたら、命が危ないかもしれない。そんな時に、呑気(のんき)に学校で授業を受けている場合ではないと自分では思っていたのだ。

『ご一緒に病院へ行かれたところで、絢乃さんがお父さまのご病気を代わって差し上げられるわけじゃないでしょう? あなたが普段通りに過ごされる方が、お父さまも安心されるんじゃないですか? ……と、僕は思うんです』

「……」

 彼は子供をなだめるように言ったけれど、途中から説教臭くなったと気づいたのか、最後は取ってつけたように言い換えた。

『もちろん、これはあくまでも僕個人の考えで、お父さまが本当にお考えかどうかは分かりませんけど。僕があなたの父親だったら、多分そうだと思います』

「うん……、そうね。そうかもしれないわ」

 わたしまで思い詰めていたら、その方が父も悲しむかもしれないとわたしは思った。
 それに、お医者様から病名を告知された時、大人の母ならまだ冷静でいられるだろうけれど、わたしも果たして同じように冷静でいられるかといわれると、あまり自身がなかった。
 それなら、この件は母に任せておいた方がいいと、わたしは考え直した。

「明日はママの言うとおり、ちゃんと学校へ行って、おとなしく連絡を待つことにするわ。検査が終わったら、連絡をくれるって言ってたから」

『そうですね。その方がいいです。まあ、絢乃さんも落ち着かないでしょうけど、まずはご病気で苦しんでらしゃるお父さまを安心させて差し上げて下さい』

「うん、そうするわ。桐島さん、ありがとう」

 その時、バスルームから聞こえる水音が変わった。ちょうど、バスタブのお湯も一杯になる頃だった。

「じゃあ、そろそろ切るわね。お風呂にお湯を張ってるところだったから。桐島さん、おやすみなさい」

『はい、おやすみなさい。湯冷めしないようにして下さいね? 最近、夜はちょっと冷えますから』

「うん。……じゃあ」

 最後の彼の言葉は、まるで兄が妹に言うようだとわたしは思って何だかおかしかった。

 ――着替えを用意してバスルームに入ると、わたしはまずシャワーで髪のスタイリング剤を流した。すると、(ゆる)くウェーブがかかっていたわたしの髪は、少し茶色がかったストレートのロングヘアーに戻った。

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