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(7)

 八月が終わりを告げる。
 帰ってくると約束した珠雨はその言葉の通りちゃんと帰ってきた。

「おかえり。少し大きくなったのかな?」
 ジェノ所有のキャンピングカーでヒトエの前まで送って貰った珠雨は、店内で待っていた禅一を見るなり唇を尖らせた。

「まーた子供扱いしてる」
「体の大きさじゃないよ。精神的に成長したのかなって意味でさ。もう店仕舞いにするから、立ってるついでに入口の施錠をして貰ってもいい?」

 既に客は一人もいなかった。珠雨が帰ってくるのをただ待っていただけで、既に外にはクローズ札が下がっている。
 請われるまま入口の施錠をして、禅一のところに歩いてゆく。

「帰りました」
「うん、おかえり。お疲れ様……おいで? 一緒にコーヒーでも飲もうか。夜だからノンカフェインの淹れといた」

 穏やかに笑んだ禅一の顔は、ビデオ通話では見ていたので別段久し振りというわけではない。それでもやはり、実物の方が良いに決まっていた。既にサーバーに落とされていたコーヒーをカップに注ぎ、テーブルに置いている。いつもの光景に、珠雨は本当に帰ってきたのだとほっとする。

「遅くなってごめんなさい。駅前で演奏したあと、打ち上げしてたんで」
「うん、駅前には僕も見に行ったよ。前より上達したね。人も増えてる気がした」
「この前ちょろっとテレビで紹介されたからかな……あのあとSNS軽くバズったし」
「バズ……? まあいいや。……メイクも似合ってる。自分でしたの?」

 ジェノにコツを教えて貰って、自分でも出来るようになった。珠雨は頷いて、禅一の隣に腰を下ろす。

「どっちの珠雨も好きだよ」
 すっと禅一の手が伸ばされ、頬に触れた。あ、キスされる、と思った次の瞬間にはその通りになっていて、珠雨の心拍数が上がった。
 相手の存在を確かめるように、最初は控え目に優しく重ねられた唇は、何度もついばまれ、珠雨の反応を見るように敏感なところを探る。

「……禅一さ……なに、このエロいキス」
「あ、ごめん。久し振りだったから、つい」
 ふと我に返り、禅一は名残惜しそうに唇を解放した。

「……疲れただろ。コーヒー飲んで、お風呂入ったらもう休むといい」
「それ本気?」
「ん?」
「ただ寝ちゃうんですか? やっと帰ってきたのに。俺はずーっと我慢してたのに。禅一さんに、……最後までして欲しくて」

 帰ってきたばかりで早く休ませてあげたいという相手の気持ちもわかるが、我慢していたのが珠雨だけだったとは思いたくない。
 禅一は困ったように笑って、テーブルに置かれたコーヒーに口をつける。

「だって今それしたら多分、僕は歯止めが効かない気がするから。……発情期なもんで」
「あっ、今禅一さん狼さんモードなんだ……どおりで色気だだ漏れだったわけだぁ」
「途中でやっぱり無理とか言われても多分止まれないよ。それでもいいんなら」

 いいに決まっていた。
 むしろそうして欲しかった。

「あのさ、珠雨。僕は珠雨がいない間、ずっと色々考えてたんだ。昔の写真とか見ながらさ、いつから邪な感情抱くようになっちゃったのかなあって、反省しつつ」

 発情期と言いながらも、落ち着いた声で話し始めた禅一は、ポケットから電子タバコを取り出した。

「でもよくわかんなくて。今でも初めて出会った頃の珠雨を、父親として愛してるのは変わらないし、だけど今ここにいる珠雨に、父親では持ち得ない感情を抱いてるのも本当で。……もし、僕が氷彩さんと離婚せずにずっと珠雨と家族でいても、こうなったのか、わからなくて。もしもの話を考えたら、急に怖くなった。幼い珠雨と過ごした日々を、なかったことには出来ないんだけど……」

 どうしたのだろうと、禅一をじっと見つめる。やはり後悔しているのだろうか。電子タバコをぼんやり吸っている視線が遠く感じられた。

「……あれ、またなんか言いくるめようとしてます?」
「違う違う……えと、前に僕が英語で濁した言葉が、すべてかも。太陽とか雨とか言ってた、あれね」
「あれ結局なんだったんですか」

「もし空から太陽が隠れても、僕は美しい雨の中で生きてゆける、って大体そんなことを言ったんだけど。美しい雨って、珠雨のことね。太陽がってのは……まあ世間に対する後ろめたさなのかも。義理の父親が娘に手を出したって、外聞的に最悪じゃない。そういう後ろめたさを抱えても、珠雨が傍にいてくれれば、なんとか乗り越えられるって、……そういうこと。ごめん。愚痴ったね」

 苦々しく笑った禅一を見て、珠雨はため息をついた。

「禅一さんて色々困った大人ですね……」
「うん、ごめんね。だからこそ、僕の傍にいて欲しい。大好きだよ、珠雨」

 どうしてこの人はこんなに珠雨をどきどきさせるのだろう。いい意味でも、悪い意味でも。いずれはまた問題に突き当たることもあるのだろうが、それは今考えることではなかった。
 太陽が沈んでも昼間の熱が残る八月最後の夜、群雲が月を隠し、やがて心地好い雨が闇の中に降り始めた。




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