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 大学在学中に氷彩と結婚して、卒業を待たずに離婚した。
 珠雨と離れるのもその後が気掛かりで落ち着かなかったが、自分が傍にいたら氷彩も新たな恋愛が出来ないので、離れた。

 卒業したあと、バイトでやっていた英会話講師を職業に選び、しばらく貯金することに専念した。禅一は講師として結構人気があり、やりがいはあったのだろうが、雇われの身ではなく何か自分で好きなことをやりたかった。

 コーヒー好きだしな、という簡単な理由で、カフェを開くことを目標にし、開業するのに必要な資格を取る為に勉強もした。
 氷彩と別れて一年くらいは、連絡を取らなかった。連絡を取ってきたのは向こうからだ。

「電話番号変わってなくて、良かった」

 久し振りに聞いた電話越しの声。電話の声は本人の声ではないと、以前聞いたことがある。けれどその声は禅一にとって氷彩の声そのものだった。

「どうしましたか?」
「うん……会いたいの」
「何かありました?」
「あのね、浅見と別れたあとに付き合った人と、別れたの」
「問題があったんですか?」
「電話じゃ嫌だから、会いに来てくれない? 休みはいつ?」
「……明後日なら。どこで会いますか?」

 甘えた声に、心が揺らぐ。会ったところで、多分どうにもならないのにという葛藤と、氷彩に触れたいという欲求がせめぎ合う。

 まだ心が残っている。
 未練がましいのは知っている。禅一の知らない誰かの腕に抱かれたのも知っている。
 氷彩と別れてから、禅一は誰にも触れていない。元々性欲はあまりない方だったし、誰も好きになれなかった。

 洋書を買ってきて恋愛物の翻訳をするようになったのは、勉強の為もあったが、疑似恋愛をしているようなものだった。相手がいるのは、終わりが来た時に辛い。随分と臆病にも思えるが、自分は一人の女も幸せには出来なかった。


 ねえ浅見、
 ずっと傍にいて、あたしを支えて


 前に言われた科白がフラッシュバックのように甦る。
「……み、浅見、聞いてる?」
 氷彩の声に、禅一は目を覚ました。馴染みのないベッドの上で氷彩を抱いてから、少しうとうとしていた。
「眠いの? 久し振りで疲れちゃったのかな?」
 氷彩は微笑んで、禅一の顔を優しく撫でる。

「すみません……がっつり寝てました。なんて?」
「うん、近況話してただけだよ。珠雨は三年生になったんだけど、結構反抗期かも。なんか一言返したいのかなー。でも成長してるってことだよね」
「珠雨は、元気ですか? 写真とかあったら、見たいんですけど」
「あるよ、ほら。いっぱい」

 携帯電話を渡されると、サムネイルが沢山表示されていた。

「見ても?」
「見てもいいから渡したんだよお。でも前彼の写真もあるけど、気にする?」
「普通に気にしますけど」

 たまに氷彩はデリカシーに欠ける。そういうところは鈍いのだ。しかし珠雨の近況を見たかった禅一は、前彼であろう男はスルースキルを発揮して流し見し、珠雨と氷彩の写真だけをチェックする。

「随分と大きくなりましたね。相変わらずのようで」
「あ、ねえ浅見。住所を教えてくれない? あたし、珠雨の写真送るから。いいでしょ?」
「……まあ、いいですけど。来ちゃ駄目ですよ」

 差し出された手帳に、住所を書いてやる。今は安いアパートで一人暮らしだった。

「別れたという人は、珠雨にはどうでしたか」
「え、うーん……合わなかった、かな。珠雨にとって余計なお世話なこと、言っちゃったりして。……あ、でもあたしは言わないよ! 浅見と約束したしね」
「そう……ですか。それが別れた原因ですか?」
「珠雨のせいにはしたくないから、それは聞いちゃ駄目。あたしが合わなかっただけ」

 それはほとんど答えを言っているようなものだったが、禅一は指摘しなかった。
 氷彩が珠雨を本当に大切に想っていることを、禅一は知っている。珠雨の兄弟が欲しいという言葉を叶えたくて禅一と別れたことも。けれどなかなかそう上手くは行かないようだった。

「浅見、ごめんね。あたし浅見を傷つけてるよね。どうせまた違う男作るんだろって、思ってるでしょう」
 氷彩は泣きそうな顔で笑った。

「もしあたしが子供諦めた時に浅見が一人だったら、また考えてくれる?」
「先のことはなんとも。でもあまり戸籍を汚さないでください。ころころ相手を変えても、何も良いことはないです。精神的にも、外聞的にも」
「うん……わかった……ね、浅見……このままのんびりしたいけど、そろそろ帰るね。浅見はどうする?」

 言葉とは裏腹にぎゅっと絡むように体を押し付けてきた氷彩を、抱き締めることはしなかった。

「僕も帰ります。次はいい人見つけてください」
 虚勢を張ったのに、氷彩は気づいているだろうか。誰のところへも行かず、自分の傍にいてくれと言えたなら、あるいは何か変わったのだろうか。
 この世は嘘と本当が混じり合って出来ている。

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