バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

01

 打ち付けられた背中が痛い。そして冷たい。
 上を見上げるとにやにやと笑った下賤な男。自分の身を纏うものは何もなく、寝ているうちに剥されたのだと気づく。じっと目の前の男を見ていると彼は頭から肩、腹、腰、足の先に至るまでするすると手で撫でまわす。身体の中心に手を伸ばし、舐めまわす。気持ちが悪い。
 もはや何も感じない身体にふっと笑みがこぼれると、それを見ていた男が顔をしかめ腹に強烈な一撃を与えた。痛いような、痛くないような。少なくともえらく不快な気持ちになったのはわかった。彼はぼくの体を回転させるとぼくのからだに腰を打ち付ける。初めは痛くて怖くてたまらなかったが、もう慣れてしまった。慣れというのは怖いもので、こんな状況になっても何も思わない。感じない。ただただこの行為の終わりの事を考えている。——ああ、いや、そうだ。これに終わりなんてなかった。
 一通りの行為が終わると気配を感じて部屋の入り口をちらりと見る。そこには数人の黒い男が醜い笑みを浮かべている。次はこいつらか。その中の一人に視線が移る。あれは、確か初めにぼくを——



 ガタンッと大きな音で目が覚めた。横を見るとリトが椅子から転げ落ちている。元から大きなその目をさらに丸くして、心底驚いたような、間抜けな顔をしている。
「何をしているんですか、ヴェロヴォーガン」
「——いやぁ、すんません。問題解いてたら俺の頭の良さにちょっとびっくりしちゃって」
 先生は相も変らぬリト節に大きなため息を漏らす。顔は引きつっていて明らかに返答に困っている。
「…………、じゃあ、前に出てさっきの問題を解いてください」
「うぃーっす」
 へらへらしながら前へ向かうとチョークを手に取りさらさらと問題を解いていく。彼のノートを盗み見るがやはり何も書いてはいない。それどころかほんの少しのよだれの跡らしきものも見える。これだから頭のいい奴は……。
「はい、正解。じゃあ次の問題は——」
 先生もリトに当てる意味を見失い、次に答えさせる生徒を探し始めたようだ。にやにやしながら席に戻る金髪に、ため息がこぼれる。
「居眠り?」
「お前に言われたくねーよ」
「……僕は椅子から落ちたりしないし」
「居眠りの事実に変わりなし!」
 それはそうなんだけど。なんかコイツに言われると腹立つ。
 何も言い返せずに前を向くと隣から勝ち誇ったようなしししっという笑う声が聞こえた。こんなに余裕そうにしてて、テスト前に慌ててるのなんかマジで一度も見たことないんだよな。こういう奴は大抵陰で努力してるって聞くけど、リトに限ってそれはありえない、と思う。今だってほら……、ノートにあきらかに授業とは関係のないものを書いている。何それ、と聞くと
「この国の守備軍の組織図。軍の在り方って各国ごとにかなり違うんだよ。昨日読んだ本に書いてあってな、例えば——」
「ああ、ごめん。やっぱいいや」
 こんだけ楽しそうに勉強できるなら幸せだよな。僕もグラントの名に恥じぬようまじめに授業を受けなければと思うが、黒板を見ると昨日家庭教師に教わったばかりの内容で、どうしてもちゃんと聞く気にはなれなかった。跡取りなんてのはリトとかエラみたいなまじめな奴を養子にしてすればいいと思う。そうすれば一人息子だからって理由で僕がこんなにめんどくさいことをせずに済む。うん、そうだそうしよう。
 現実逃避をしながらノートに落書きをしているといきなり先生に当てられ、答えられずに恥をかいた。マジで学校なくならないかなぁ……。
 ボケっと座っていると数十分で授業は終わる。今日はこれで終わりだ。疲れた。教室の端でセルダンの僕らを呼ぶ声が聞こえる。学校でも勉強、帰っても勉強。今日も明日も明後日も——。僕の人生本当にこれでいいのかなぁ。もちろん周りから見ればいい身分だってのは分かるけど、でも、めんどくさいもんはめんどくさいんだよなぁ。
「まーたでっけぇため息ついて。幸せ逃げるぞ~」
「リトはいいなぁ。毎日幸せそうで……」
「……はぁ? 意味わかんねーこと言ってねーで帰ろーぜ。」
 眉間にしわを寄せると僕の頭をバシンッと叩いてセルダンの方にすたすた歩いて行ってしまった。僕の頭を叩くって……。いや、別にいいんだけど。いいんだけどさ……。
 頭をさすりながらセルダンの元まで行くと、彼も僕に憐みの視線を向けた。
「2人とも授業はまじめに受けろよ」
「え、なんでセルダンにも寝てたのバレてるの」
「いや分かるだろ、割としっかり寝てたぞ、ワンス」
「い、いやいやいや。そうは言ってもポーズはちゃんと——!」
「授業中の居眠りにポーズ作るなよ」
 おかしい。ちゃんとノートをとってる風のポーズで寝れてたはずだ。いつも同じポーズでこれまでバレたことなんかないのに……。
 鞄を持って教室を出る。学校の外まで出ると、海の潮風が身体を撫でた。
「ていうか、ワンス。お前居眠りしてる最中なんか変な声出てたぞ。大丈夫か?」
「え、変な声ってなに」
「うーん。ほんっと小さい声で隣の俺にしか聞こえてないと思うけど。なんていうかな……、唸り声って言うかうめき声って言うか。起こそうか迷ったくらい」
「唸り声……。 言われてみれば確かになんかいやな夢見た気も……?」
「えっ、大丈夫?」
 セルダンが心配そうにこちらを見つめる。コイツは本当に心配性だ。
「まあ思い出せないような夢だし。ていうかリトは? 派手に椅子から転げ落ちてたけど何があったの」
「んん……、あれじゃね、居眠りしてたらたまになる体がビクッてなるやつ」
 心配して損した。セルダンもニコニコと笑っているが顔が少し引きつっている。「あー、あるよな。居眠りで、体がビクッてなる、やつ?」
「セルダン、わからないなら無理して付き合わなくて大丈夫だから」
「そいや、授業中に話した奴なんだけど、ちょっと資料ほしくてさ、ワンスの親父さんから何か借りられない?」
「ん……? あ。あの、軍組織がどうとかいう……?」
「そうそう! なんかなー。ちょっと記憶違いかもしれないとこがあって。ちゃんと読んでおきたいんだ」
「まあ、勉強目的なら父さんも貸してくれると思う。じゃあうち寄ってく?」
「おー」
「セルダンは?」
「じゃあ僕も」
 寄り道ルートからそれてグラント邸へのルートに足を向けるとすぐに異変に気が付いた。誰かの大声で叫ぶ声が聞こえる。
「なんか、あそこ騒がしくないか?」
「うん……、なんかあったのかな」
「最近多いよな……。あ、あれエラさんじゃない?」
「ワンス!」
 セルダンの指さす先を見ると、前方からエラが走ってくる様子が見えた。
「おい!早く来い! 大変だ!!」
「大変? 一体何が——、ってエラ腕痛いよ離して!」
「いいから早く!! デューイさんが——!!」
「え!?」
 めったに見ないエラの焦りの顔。引かれるままに足を動かした。突然のことに頭が働かない。三人で顔を見合わせて家までの道をただひたすらに足を動かした。
「父さん! 母さん!!」
 家に近づくにつれ増えていく人混みを掻き分けて、どうにかちかくまで進むも兵士に止められる。
 彼らの隙間から覗き見ると、人間の体と思えないほど真っ赤に染まった——父の姿。思わずひゅっと息を飲んだ。あれが、父さん……?
 その体にはすぐに布がかぶせられ、もう助かる見込みはないと判断されたことが分かった。死んでる。‘‘あれ’’はもう、父ではない、物体だ。一般に死体と呼ばれるであろう、それ。
 足が震える。いつの間にか身体を支えてくれているリトの身体も、カタカタと震えているのが分かった。何故かはわからないがこんな状況でもどこか頭は冷静で、セルダンの俯く頭を見てどう慰めようかと考える余裕すらあった。
「ふふ……」
「しっ!!」
 ふいに耳元で見知らぬ人の声が響く。ばっとそちらを向くと金髪の女性と目が合う。だがツインテールの彼女はすぐに目をそらした。見覚えがある。確か近くのケーキ屋の女だ。はっと辺りを見渡すとその隣の男性にも、そのまた隣の老婆にも、さらにその奥の女性にも、多くの顔の口元には小さな笑みが浮かび、どう見たってその顔は‘‘喜び’’を表していた。
「なんで……」
「おいそこをどけ! すぐに大病院に移送する!」
「——っ母さん!!」
「——! グラントさんの息子の、ワンスくんだな。辛いだろうが来てくれ。話さなければならないことがある」
 滑車に乗って運ばれてきた母さんに手を伸ばすも、その腕を深緑の制服をまとった兵士に掴まれる。肩からリトの腕がするりと落ちた。とにかく来い、と促す彼に引きずられるようにして、じゃあ、と彼らに別れを告げると兵士の指した馬車に乗り込んだ。


 そこから先はよく覚えていない。兵舎の客間だという部屋に通され、軽い状況の説明を受けた。ほとんどの話は頭まで届くこともなく、ただぼうっとしていた。頭が働かない。相槌も、疎かになっているのはわかるがどうすればそれができるのか、それすら分からなかった。察した兵士は早々に話を切り上げたようだ。分かったのは両親どちらの安否も未だはっきりとはわかっていないということと、とりあえずしばらく学校は行かなくていいからここでゆっくりできる、ということ。はぁ、と返せば兵士は困ったように唸った。
「あー、まあ。そういうことだから。詳しい話はまた明日以降に分かり次第」
「……はい。どうも」
「……えっと。なんて言うか。これはただ個人的に言いたいだけなんだが」
「……?」
 着地点を探すような話し方に顔を上げる。そこでこれまでずっと下を向き続けていたことを悟った。兵士は筋肉質な手でぼりぼりと顔をひっかく。顔の古い角質がぽろぽろと零れ落ちて、思わず身を引いた。
「あの様子だと、君のお母さんは命に別状はない」
「……!」
「危険な状態ではあるけどね。しっかりと治療を行えば大丈夫なはずだ」
「えっと、父は……」
「——すまない。俺の口からは、言えない」
「……そうですか」
「これから色々大変になるかもしれないが、どうか、しっかりと前を向いてほしい」
「…………はい」
 兵士はそれだけ言うとしっかりと頷き、部屋を後にした。
「しっかりと前を向いてほしい、か……」
 前ってどこなんだ。父さんは自分の言う通りにすれば間違いないって言っていたぞ。
 ベッドに寝転がるもどうやったって落ち着けそうにない。枕に顔を押し当てて勢いよく息を吐きだす。足をバタバタと動かしても、枕を壁に投げつけても、頭の中がずっとごちゃごちゃとして、うるさくて、何かに当たらないとやっていられなかった。学校からそのままずっと持ってきていた鞄を壁に全力で投げつける。壁に鈍い音が響き、中の教科書やペンケースが床にバラバラと散らばった。頭を掻きむしる。爪を噛む。
「いきなりいなくなるなんて、許さないぞ、クソ親父……」

しおり