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「ただいまー」
一階から聞こえてきた大地の声で、ハッと我に返った。
「おかえりー!」
言いながら、全身が映る大きな鏡の前で自分の姿を確認する。
「亜実も亜矢も先におりてていいよ」
「はーい!」
僅かな時間しかなかったけれど、娘たちは揃いのワンピースに着替えさせ髪も可愛いく整えた。
私も久しぶりにお気に入りのセットアップの服を着て、髪はヘアアイロンで軽く巻きゆるくアップスタイルにした。
今からどこに連れて行ってくれるかはわからないけれど、気持ちはすでに舞い上がってしまっている。
普段よりも少しオシャレをした自分が、鏡の中で照れくさそうに笑顔を作った。
「お!急だったわりになかなか綺麗に仕上がってるな」
一階に降りそっとリビングを覗くと、ドアを開けた途端に大地からそんな声をかけられた。
「そ、そう?」
平静を装いながらも、綺麗なんて言われてしまうと悪い気はしない。
でも、ちょっと張り切りすぎとか思ったかな?
「うん。亜紀のそんな格好、久しぶりに見た気がする。あと、この飾り付け亜実たちがしたんだって?本当感動だよ…帰ってきたら写真撮ろう」
はにかむように笑った大地は、そう言いながらそばにいた亜矢を軽々と抱き上げた。
「あ、そうだ。今日は飲むし行きは電車、帰りはタクシー。オッケー?」
「うん」
「よし、じゃあ亜実、そろそろ行くぞー」
「はーい!」
こちらに駆け寄ってきた亜実は、返事をしながら真っ先に玄関に向かってバタバタと走っていく。
8歳とはいえまだまだ子供だ。
そんな姿に微笑んだ私たちも、その後を追うように揃って家を出た。
「ちょっと肌寒いな」
「そうだね、この間まであんなに暑かったのに」
乾いた冷たい風と、薄暗くなってきた頭上。
だんだん日暮れが早くなってきた秋の空を見上げていると、また一つ季節が巡ったんだなぁ…なんて。
ふとそんなことを思った。
いつからか、時の流れを早く感じるようになった気がする。
暖かい春がきたかと思ったら、あっという間に雨が降り始めて。
照りつける太陽が眩しくて、暑い暑いと口にしていた夏も、気がつけば終わってしまっている。
毎年、夏が終わって秋の風を感じ始めると無性に寂しくなるようになった。
昔は夏休みが楽しみで、たくさん遊べる夏が好きだったのに。
大人になって、社会人になって。
結婚して、子供たちが生まれて。
季節が変わるのがどんどん早くなった今は、いろいろなことを考えるようになった。
結婚して十年。
長いようで、でも、あっという間に過ぎていた十年。
少し前を歩く亜実と亜矢の背がまた少し伸びた気がした瞬間、このまま、今のまま、時間が止まらないかな…なんて。
何故かふと、そんな風に思ってしまっていた。
「どした?亜紀」
「ん?」
「や、なんか…なんだろ。ちょっと切なそうな顔してるから」
隣を歩く大地からの言葉に、私は思わず吹き出すように笑ってしまった。
「切ない?私そんな顔してた?」
「してた気がしたけど。気のせいか」
「んー、でも、あながち間違いではないかも」
「えっ?なんかあった?」
心配そうな大地の声に、小さく首を振る。
「何かあったわけじゃないけど。今、ちょっと幸せだなぁって思って」
「へっ?」
「亜実と亜矢がすくすく育ってることとかさ。いろいろ考えてたら、今すっごく幸せだから、このまま時間が止まればいいのになぁって…思ってただけ」
そう言うと、大地が隣でクスッと笑う。
「俺も、今似たようなこと思ってた」
「えっ?本当?」
予想外の言葉に驚いて、隣を歩く大地の顔を見上げた。
「うん。娘二人は可愛いし?亜紀も今日は綺麗だし?」
「今日は?」
おどけた顔でわざとらしく笑う横顔に、じろっと睨みを利かせながらすかさず脇腹をパンチする。
「いった…なかなか強かったぞ?今の」
「でしょ、強めに突っ込んどいたから」
「ははっ、なんだよそれ」
「だって今日は、とか言うから」
「ごめんごめん、いつも綺麗ですよー亜紀ちゃん」
そう言いながらヘラっと笑った大地を見て、私は二度目のパンチをくらわせようと拳を握りしめた。
するとそれに気付いた大地は慌てた様子で私の手を取ると、何故かそのまま包み込むようにそっと手を繋いできた。
一瞬の出来事に、正直すごく驚いた。
手を繋ぐなんて、いつぶりかも思い出せないくらい久しぶりのことだ。
「ど…どうしたの」
突然のことに、びっくりし過ぎていたんだと思う。
気付けば私はそう口にしてしまっていた。
「どうしたって、たまには繋いどこうかなって思っただけだけど。何?嫌なの」
少しムッとしたような声に、私は慌てて口を開く。
「や、嫌…じゃないけど」
「けど?」
「なんだろ…恥ずかしい。照れる」
「ははっ、それ俺だって照れるっつーの。でも、やっぱこういうのも必要じゃないかなって。十年経っても手を繋いでいられる夫婦、理想だったから」
大地はそう言うと、繋いでいた手をぎゅっと握ってきた。
十年経っても手を繋いでいられる夫婦。
私も、それが理想だった。
結婚した頃、思ってた。
ずっと変わらないでいたいって。
歳を重ねて、おじいちゃんとおばあちゃんになっても手を繋いでいられるような夫婦で在りたいって。
だけど、理想と現実はいつからか違うものになっていて。
一緒にいる時間が長くなっていくにつれ、触れ合う時間は少しずつ減っていったような気がする。
手を繋がなくなったのは、いつからだったんだろう。
こんな風に手を伸ばせばすぐ掴める場所にあったのにな…。
「あ!パパとママ手繋いでるー!」
「わ!いいなー!亜矢もー!」
前を歩いていた二人がこちらに向かって駆けてくる姿に、ハッとして顔を上げた。
どちらからともなく、自然と離れる手。
結婚して、パパとママになって。
私たちは少しずつ、変わっていったのかもしれない。
「亜矢、パパとママの間がいいー!」
「亜実もー!」
愛くるしい笑顔を見て。
小さな柔らかい手を握って。
改めて感じた。
大切な、守るべきものが出来た時から…私たちは夫婦というよりもそれを超えた家族へ変わっていたんだと思う。
だけど、それも悪くない。
「あーきのゆーうひーにー」
「てーるーやーまもーみーじー」
家族四人で、子供たちの歌声を聴きながらゆっくりと進んでいく駅までの道のり。
結婚して、夫婦間の形が少しずつ変わっていたとしても。
今ここにある幸せは、揺るぎなく確かなもので。
大地がいて、亜実がいて、亜矢がいて…私がいる。
そんな今が、改めて大切だと思った。
「二人とも歌上手くなったなぁ」
「うん、かなり上手くなったよね」
子供たちを挟んで交わす会話。
目と目が合って、二人で笑い合った。
手は繋がれていなくても、同じ歩幅で歩いている。
この幸せがずっとずっと続けばいい。
結婚して十年。
願うことは、ただそれだけだった。