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ニ、夢の続き 氷室真弘

 級友にその話を持ちかけられた時は、正直余り乗り気じゃなかった。
「ほら、万丈(ばんじょう)一人だけだと何かと大変だろうし。氷室(ひむろ)、映画に詳しいだろ」
 劇と映画は違ぇよと毒づきながらも、口に出さずに続きを聞く。薄々とその内容を理解しながらも、気づかぬフリをして溜息を吐いた。
「……俺に、何しろって言うんだよ」
「お、やる気になった? ありがとうなぁ氷室、やっぱりお前は話の分かる奴だと思ってた」
「うるせぇ、触んな」
 妙にスキンシップを取りたがる級友……勘直(かんち)のことは、あまり得意ではない。だけれど、その真っ直ぐな性格は、真弘(まひろ)もよく知る所だ。何より勘直は文化祭委員。今は忙しい時期だろう。
 大抵のことであれば、その願いも無碍にするつもりなどなかった。そんな真弘を尻目に、勘直が嬉しそうな調子で説明する。
「万丈が台本をやることになったのは、知ってるよな」
「知ってる……も何も、今日草案配ってたじゃねぇか」
「そう、そこで、だ。氷室、今日お前、万丈にアドバイス入れてただろ」
 どれのことかすぐには思い浮かばなかった。
「王子のキャラについての話」
「……別にあれくらい、どうってことないだろ」
 勘直がおいおい、と苦笑した。
「氷室なら的確なアドバイスが出せそうだから、今回頼もうと思ったんだよ」
 はぁ、と生返事で応える。勘直がにへらと笑った。
「氷室さ、監督、やってくれない?」
「……は?」
「監督兼、演出家」
 どうだ? そう聞いてくる勘直の顔を、まじまじと見返してしまった。何を言ってるんだと思いながら、真弘は頭を掻いた。
「……少し、考える時間くれ」
 その日はそれだけ告げると、勘直の元を後にした。

 暮れ方の道を一人で歩く。少しだけ暑くなりつつある道も、潮風を受けると爽やかにすら感じられた。海の音が聞こえる道を歩きながら、真弘は一人考え込んでいた。
(監督やってくれないか、ねぇ)
 勘直の言葉が思い出される。それは真弘にとって、少しだけ予想外の申し出だった。もとよりあまり文化祭には乗り気でない。今回も適当に裏方をやって終えるつもりでいたのだ。
(何でまた、俺にそれを言うかな)
 溜息を漏らしながらも、その歩を止めることはない。道を右に。商店街を下り、そのまま寂れた建物の扉を開けて、中に入った。ただいまと言っても返事はない。そこは、もう誰もこなくなった映画館だった。
「今日も勝手に使わせてもらうよっと」
 誰に聞くでもなくそう呟いて、真弘は積まれたフィルムから一本を取り出し映写機にかける。そうしてそのまま、スクリーンに映し出される映画を眺めていく。今となっては、それが真弘の唯一と言っていい娯楽だった。
 少年たちが秘密基地で話す様子を見つめる。彼らの話を聞きながら、そっと思いを巡らす。
(……高三の文化祭、か)
 気付けば、今年で高校生活も終わりなんだと思うと、ひどく空虚な気分だった。何もない三年間だったと、今になって思う。親友と呼べる様な友達はいないし、部活にも入ってこなかった。暇な時はこうやって映画を観ているだけで、何一つとして将来のことを考えては来なかった。気付けばもう、終わりがすぐそこに見えているというのに。
(……夢は、ちゃんとあったのにな)
 それも、叶うことはなくなっちまった。真弘は誰に言うでもなく呟く。
 少年たちが線路を歩きだした。それを見ながら少しだけ感傷に浸る。昔のことを思い出していた。
 画面の中で、主人公の少年が鹿に出会う。夢のような一時。周りの皆に言っても、誰も信じてはくれなかった。
(今となっては、誰も信じてくれないけど、さ)
 自分には夢があったんだよ。心内でそう呟きながら、「なぁ、じいちゃん」と続けた。誰も、返事をしてくれなかった。
「……もう、今年が最後なんだよ」
 一年くらいなら、いいか。そう呟きながら、流れていく映画の結末を見送る。エンドロールで流れる音楽に身を委ね、そうして今は亡き祖父のことを思った。唯一、自分のことを分かってくれた人のこと。そして、この映画館の所有者だった祖父のこと。
「……今年じゃないと、ダメなんだろうな」
 ずっと、昔のままではいられないんだ。そう呟いても、やはりどこからも返事はない。

   *

 翌朝、勘直に監督の件を承諾する旨を伝えた。そのまま担任にも説明に行くことになり、その場で北斗に仲介をお願いすることになった。
「監督、やることになった。よろしく頼むわ」
 そう切り出すと、北斗は困惑したように「えっ」とだけ言って固まった。まぁ、無理もないだろうか。今までろくに会話したこともない。
「そんなわけだからさ」
 台本書いたら、俺に見せてくれよ。そう言うと、ようやく状況を理解したらしい北斗がこくこくと頷いた。そうして何かを思いついたように「あっ」と声を漏らす。鞄の中をがさがさと探って、一冊のファイルを取り出した。
「ぁ、あの、これ……」
「なんだ、もう出来てんのか」
 早いな。そう返すと北斗が照れくさそうに頷いた。
 ファイルを受け取り、中身を確認する。二十近い紙の束。その一つ一つに登場人物の台詞が書き連ねられている。じっくり目を通す時間は、今はない。
「二人とも、とりあえずホームルームの時間だ。教室行くぞ」
「うす」
 舟木の声に従い、二人で教室へと向かった。
 その日の朝のホームルームで、真弘が監督をすることがクラスに伝えられた。皆口々に何か言っていたが無視した。やる以上はしっかりやると決めているし、経緯を一々説明する気はない。
 授業中に北斗の作ってきたらしい台本を読む。会話の流れに不自然なところはなかった。よく出来ている。
(これなら、やる分にも派手で良さそうだな)
 高校の文化祭でやるような劇だから、基本的に必要なのは勢い、派手さ。物語は必要最低限整っていれば、あまり関係ない。要は見ていて楽しいかどうかが鍵となる。
 その点、北斗の台本は良く出来ていた。物語は問題なく出来ているし、見せ場もある。予想していた以上の出来だった。
(そして、何より驚くべきは)
 一言言っただけなのに、王子の印象がまるで変わっていたこと。真弘にはそこが一番驚きだった。
 前回までの台本では、王子の見せ場がほぼなかった。その関係か、序盤から出ている割に台詞が少なく、存在感が薄いと感じていた。だが今回の台本では王子の見せ場があり、それによって周りの人物との台詞量のバランスも調整されている。
(案外、頼りになりそうかもな)
 北斗となら上手く出来そうだ。台本を繰る指を速めつつ、真弘は思わず口元を緩めた。

 休み時間になると、早速真弘は北斗の席へと向かった。
「万丈、ちょっといいか」
 北斗の体がビクッと跳ねる。恐る恐るといった調子で振り向いた北斗は、真弘の顔を見ると少し緊張した面持ちで「な、何?」と聞いた。
 真弘は頭を掻きながら台本を北斗の前に置く。この際、北斗の態度は気にしないでおくことにした。
「台本、読んだ。良く出来てると思う」
「ほ、ホント?」
「正直、予想以上の出来」
 そういうと北斗の顔がパァッと明るくなった。分かりやすい奴だなと思いながら、「だけど」と付け加える。
「この台本、会話文ばっかだ。台本である以上、登場人物の動きに関しても色々記述が欲しい」
「動、き?」
「あぁ」
 北斗は尚もキョトンとした表情をしていた。真弘は暫くその理由を考えてから、もしかして、と思い当たった節を口にする。
「あんまし、細かい動きまでは考えてないか?」
「……ぇっと」
 北斗が申し訳なさそうに頷く。思わず頭を掻いた。あながち予想していなかったわけではないが、あまり考えたくはない事態だった。
「なら……しゃあねぇ、演出も俺持ちだ、一緒に考えようぜ。昼休み空いてるか?」
 そう尋ねると、北斗はこくこくと何度も頷いて見せた。
(ま、やる気はあるみたい、だしな……)
 これから詰めていけば間に合うだろ。気づけば真弘も、おぼろげながら先のことについて考え始めている。
 昼休みになると、早速北斗を呼び出した。どこか静かに考えられる場所はないかと聞くと、北斗が図書館に行こうと言った。いつもそこで考えていたのだと言う。
 二人で図書館へ行く。つい先日も来たばかりだ。扉を抜ければ紙の柔らかい匂いがする。その感覚も、今はまだ記憶に新しい。
「こっち、来て」
 おずおずと呼ぶ北斗に少しばかりペースを乱されつつ、真弘もそれに従った。北斗が導いてくれた先は図書室に併設された司書室だった。入って大丈夫なのかと聞けば、顔馴染みだから平気だと言う。
「図書館の中は、おれみたいな人いっぱい来るから、静かにしてあげないと」
 特に他意のなさそうな調子で北斗が言う。少しばかり違和感を覚えつつ、招かれた先のソファに腰を下ろした。確かに、ここなら集中して出来そうだと思った。
「それじゃ、時間ももったいないしさっさとやっちまうぞ」
 真弘の言葉に北斗がこくこく頷く。それを確認してから、北斗の持ってきた原稿を開いた。
「……最初に、ここ。王子が魔女を訪ねる場面だ。王子はどちらかと言えば我が強い方だから、少し演技がかった動きをさせたい」
「演技がかった、動き」
「そう。例えば……」
 そう言うと真弘は、王子の台詞を読み上げながら適当な動きをつけて見せた。北斗が感心したように「おー……」と漏らす。何でもないと言うように頭を掻きつつ、真弘は言葉を続けた。
「姫を手にしたいがためにこんなこと考える奴だ。それに、王子は各務(かがみ)だったろ。ちょっと位調子に乗ったキャラでも平気だ」
 そこまで告げると、不意に北斗が「ぁ……」と呟いた。どうしたのかと聞くと、北斗がたどたどしい調子で答える。
「配役、誰がいいかなって、ちょっと、考えてた……んだけど」
「そんなことまで考えてあんのか」
 真弘が驚いてみせると、北斗は伏し目がちになって縮こまる。少しやりづらさを感じつつ、その内約を聞いた。北斗の口から流暢に言葉が漏れ出す。魔女は誰で、小人はあの子とあの子と……。そう言う北斗の顔は普段と違って生き生きとしていて。何となく見ていて面白かった。真弘のそんな様子に気づいてか、途中から北斗はいつも通り照れくさそうに目を反らしてしまったが。
「なかなか面白いと思う」
 素直にそう言うと、北斗が控えめに頷いた。それと同時に休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。もうそんな時間かと思いつつ、思わず溜息を吐いた。
「続きはまた今度やるか。休み時間とか放課後とか、空いてる時間があったらなるべく考えるぞ。あんまし時間もかけられないからな」
「ぅ、うん」
 北斗は了承したように何度も頷いた。それにこちらも頷いて答え、二人して教室へ戻る。五限の教師が既に教室へと来ていた。急いで席につき、一息つく。
(……時間は、あんましかけられない、か)
 真弘は自分の言った言葉を反芻しながら、北斗の原稿を改めて手繰る。配役のイメージを聞いてから読んでみると、確かにそれがピッタリだと思えた。逆に言えば、クラスの皆の姿を、北斗はよく見ていたというわけだ。
(……万丈が、こんなけ頑張ってるんだもんな)
 俺も――。そう思い立つと、真弘はルーズリーフを一枚取り出してはペンを走らせ始めるのだった。

 それから三日間、原稿の修正を続けた。真弘が動きを取り入れたいところをピックアップし、北斗にそれを伝える。そうして二人が納得のいくように、少しずつ原稿へと文を加えていった。その間にも、クラスでは大まかな配役が決まっていた。北斗が仕上げてきた元原を配り、概ねイメージした通りの配役になった。
 夏休みが入る前にはどうにか完成させたいからと、できる限りの時間を使って台本を作り上げていた。
「万丈、今日の放課後空いてるか」
 昼休みの作業中にそう聞くと、北斗はコクリと頷いた。そろそろ真弘の調子にも慣れてきたのか、北斗はだいぶ落ち着いて反応するようになった。
「今日中に終わる、かな」
「分っかんね。大まかには出来てるけど、やっぱり纏まった時間取れねぇから細かいとこまで詰めれねぇしなぁ」
 そこが最近の真弘の悩みだった。休み時間や放課後だけでは学校である以上時間に制約がある。そのせいで修正は難航、演出を決めるにも進みが悪い。
「どっか、長い時間居座っても怒られないとこねぇかな」
 ファミレスなども考えたが、あまり静かではないし、たぶん北斗の作業に向かない。ぼんやりとそんなことを考えていると、「ぁ、ぁの」と北斗が呼ぶ声が聞こえた。
「そ、それなら、さ……」
 おれん家、来る? 
 北斗の申し出に、一瞬真弘は反応できなかった。
「……は?」
「ぁ、ご、ごめん、ぇと、言ってみただけ、だから……」
「……ゃ、むしろ、大丈夫なのかよ?」
 素直な疑問を返すと、北斗は曖昧に苦笑してみせる。そのまま「静かにはできるよ」と続けた。珍しくはっきりとした口調だった。
「まぁ、万丈が問題ねぇ、なら」
 行くよ。そう言うと、北斗は少しだけ嬉しそうに顔を綻ばせた。相変わらず分かりやすい奴だなと思う。
 放課後はいつもなら図書館へ行くのだが、今日は二人して学校を出た。下校する他の生徒たちに紛れて、北斗の家まで向かう。他愛ない話を時々しつつ、基本的にはあまり会話はしなかった。
 沈黙を破るように、北斗が「海、綺麗だ」と呟く。海岸沿いの道に差し掛かった頃だ。真弘も北斗の言葉に倣って海を見やる。夏空の下に広がる海は、日の光を浴びて煌めいていた。綺麗だった。
「……氷室くんのお祖父さんは、映画館やってたんだよね」
 潮騒に耳を傾けていると、突然に北斗が言った。瞬間反応を返しそびれ、横目で北斗を一瞥した。北斗は変わらず海を見つめていた。
「昔、父さんに連れられて、観に行ったことある。新しい映画じゃなくて、往年の名作映画、だったけど。父さんが、好きな映画だったって」
 北斗が何を言おうとしているのかは分からなかったが、真弘は黙って北斗の話を聞いていた。続きを促すように北斗に目をやっていると、北斗が振り向きながらはにかんだ。そうして、この間真弘が借りた本のタイトルを囁く。好きだったと、そう続ける。
「今でも、憧れてる。おれも、あんな冒険してみたかった」
「あぁ」
 そう、だな。そう答えると、北斗はへへっと笑って見せる。真弘と同じように、北斗もあの映画に憧れを抱いているのだと言った。
 それが少し、嬉しかった。
「……今度、観に来るか?」
「いい、の?」
「あぁ……俺も時々観てるからさ」
 一緒に観るか。そう言うと、北斗は嬉しそうに頷いてみせた。

 それから暫く歩いて、海から遠ざかるように曲がっていった先に、北斗の家があった。「ちょっと待っててね」と残し北斗が先に入る。二、三分して帰ってくる頃には、北斗はラフな格好になっていた。
「ごめん、お待たせ。中、入って」
 少しだけ上気した様子でそう言う北斗に続き、真弘も「お邪魔します」と告げながら中へ入った。返事はなかった。
 飲む物とか用意すると言う北斗の申し出を断り、すぐに作業に取り掛かることにした。
「今日中に、できることは大体やるぞ」
 そう言うと、北斗は神妙な面持ちで頷く。
 修正作業はそこから三時間くらい続いた。途中何度か休憩を入れ、所々でお互いに掛け合いもしつつ、気が付けば外は暗くなっていた。
 大方の作業が終わる頃には、もはや二人共に集中力も切れ、敷かれた御座の上にぐでんと転がっていた。
「終わった……」
「お疲れ、さま……」
 達成感も一入に、二人軽く握った拳をぶつけ合う。妙な連帯感や終わったことによる充足感を味わっていると、不意に腹の音が鳴った。飲まず食わずで作業していたことに、ようやく気づく。
「あー……こんな時間まで邪魔して悪かったな。そろそろ帰るよ」
「あ、うん……大丈夫、だよ」
 どうせ、母さん遅いから。そう言う北斗の声を聞きながら、ゆっくりと身体を起こす。未だ起き上がらぬ北斗を見下ろしつつ、そうなのかと呟いた。北斗が苦笑した。
「さっき、父さんの話した、でしょ。あれ、おれの覚えてる、最後の父さんの記憶なんだ。……離婚、しちゃって」
「……そう、なのか」
「母さん、ずっと働いてる、から」
 だから、今日氷室くん来てくれて嬉しかった。そう北斗が呟いた。その後へへっと笑って、ごめんと言った。そのまま素早く身体を起こすと、真弘を見送るためか、立ち上がって部屋の入口へと足を向ける。
 何かかける言葉はないものかと、考えていた。北斗はけして不幸自慢をしたかったわけではないだろうし、相談したくて打ち明けたわけでもないのだろう。だけれど北斗は、真弘になら話してもいいと、そう思って口にしたはずだ。
 何か、かける言葉は。
 真弘は、その背中を眺めながら静かに口を開いた。
「……じいちゃんが、昔好きだって言ってたんだ」
 先ほど、北斗の父親が好きだったと言っていた映画。その名を口にすると、北斗が振り返った。北斗が、憧れていると言っていた映画。
 真弘も同じだ。北斗とも、祖父とも。思いは一緒だった。
「少年たちの冒険に憧れてた。俺もそうだ。じいちゃんが言うように彼らの成長物語が好きで、何度も何度も見返した」
 それこそ、祖父が死んでからもずっとだ。祖父が死んで、映画館が壊されぬまま取り残されて。そこで一人、映画を観ていた。祖父が残したフィルムを、ずっと。
 せめて、そんな日々がずっと。そう、思っていたのに。
「……だけど、それももう、おしまいだ」
「……どういう、こと?」
 北斗の反問に、思わず苦笑する。
「取り壊すんだ、あそこ。今年の冬には、なくなる」
 北斗が、息を飲んだのが分かった。
 真弘の祖父は、真弘が小さい頃、商店街の一角に聳える映画館を切り盛りしていた。祖父の映画館は地元の人たちに親しまれ、幼い真弘も、それに紛れてたくさんの映画を観た。しかし街の郊外にショッピングモールができると、その中にある映画館に客を吸われ、祖父が亡くなる直前、映画館は潰れた。それを、ずっと真弘が護ってきた。拒んできた。祖父との思い出の場所だからと、無理を言ってきたが、もはやそれも限界まで来てしまった。
 新しい店を入れようという話は、前々からあった。立地が悪くないだけにもったいないから、と。それを真弘が拒み続けてきただけ。そして、遂にその話が現実となる。
「じいちゃんが大好きだった映画も、思い出も、もう何もかもなくなっちまうんだ」
「……そう、なんだ」
 北斗が逡巡するように目を伏せる。真弘はゆっくりと立ち上がると、北斗のいる扉の傍まで歩み寄って行った。並び立ち、少しだけ背の低い北斗を見下ろす。
北斗はこちらを真っ直ぐに見上げるだけで、もう以前のようにビクビクしなくなった。慣れてくれたのだと思うと、なんだか嬉しくなった。最初はあんなに怯えていたというのに。
 そんな北斗だからなのだろう。自分のことも、少しくらい話していいと思えて。だから真弘は、北斗だけに小さく囁く。
「……監督やろうと思ったの、実はそれが理由なんだ」
「え……?」
 虚をつかれたようにこちらを見た北斗の頭を、バフっと叩いた。北斗が驚いたように身体を強ばらせる。そのままポンと頭を押さえつけると、そっと北斗の横を抜けて玄関へと向かった。
「遅くまで悪かったな、万丈。また、明日」
 そう言い残して、足早に北斗の家を後にした。後ろから北斗の呼ぶ声が聞こえていたが、聞こえないフリをした。
 そうでもしないと、堪えきれない気がした。

   *

 祖父と映画が、真弘にとっての生きがいだった。
 真弘が小さい頃に母親が家を出ていった。父親もほぼ働き詰めで家にいることが少なく、必然的に幼き日の真弘は家に一人だった。そんな時、よく祖父のもとへ行った。映画を観に。そうして、この寂しさを紛らわすために。
 祖父の観せてくれる映画はいつだって面白かったが、中でもあの映画は特別だった。祖父がこんな生き方をしたいと、いつも語っていた。年甲斐もなく少年たちの冒険に憧れ、そんな幼少時代を送れなかった事を残念がっていた。
『真弘、お前は夢を生きろ。彼らのようにひたむきに、そうして輝かせるように。そうやって今を生きろよ』
 小さい頃はまだ素直だったから、祖父の言うことをあまり理解せぬまま、分かったと受け入れていた。祖父が死んでからは、その言葉の意味をより考えるようになった。
夢を生きろ。今を輝かせるように。
そんな生き方が出来ているのかなと考えて、祖父に申し訳なくなった。顔向けできそうにはなかった。
(夢は確かに、あったんだけど)
 それも、当の昔に置いてきてしまった。映画館が潰れ、後を追うようにして祖父が亡くなったあの日に、自分の夢は置いてきた。
 忘れてしまおうと、決めていたのに。

   *

「……風邪、引くよ?」
 腕の間に埋めていた顔を、ゆっくりと持ち上げた。声のした方を見やれば、走ってきたのか肩で息をする北斗の姿があった。
「隣、座って、いい?」
「……おう」
 言われるままに、ベンチの片側を譲った。そこに北斗が座り込む。電灯の下、二人が座るベンチは人気のない公園にポツリと浮かんでいる。
「夜になると、少し、肌寒いね」
 少し上ずったような北斗の声。未だ切れた息を落ち着かせるように、たどたどしい調子だ。真弘は、それに小さく笑みを零してみせる。気づかれないように、そっと。
「何か、あったのか」
 気の利いたことは言えないので、当たり障りなく、そう聞いた。北斗はそれに、右手を差し出すことで答えた。「忘れ物」と言って開くと、そこには鍵が握られていた。祖父の店の鍵。それを届けに来てくれたことを知る。
 ありがとうと、漏らした。
「さっきの、話、なんだけど」
 北斗がそう言い、真弘を一瞥する。どれのことだろうと考えていると、「映画館の話」と説明があった。
「もう少しだけ、詳しく、教えて欲しい、な」
「……あぁ」
 頷き、北斗に話した。元々祖父が経営していたこと。取り壊しが決まっていること。そうして新しい店が立つこと。
 真弘があの場所によく通っていることまで、北斗には説明した。
「小さい頃から、よく行ってたからさ」
 あそこが自分の家みたいなものなのだと。そう言うと、北斗も神妙な様子で頷く。
「思い出って、そういうものだと、思う。おれの父さんにとっても、大事な場所、だったと思うし」
「……万丈の父さんは、どんな人なんだ?」
「おれの?」
 反問に首肯した。聞いてみたかった。祖父と同じものを好きだと言った人。店主と客という立場の違いはあれど、きっとその思いは通ずるところがあるのだろうと思う。
 北斗が照れくさそうにはにかんだ。
「あんまし、覚えてないんだけどね」
 それから、北斗の口から彼の父親のことを聞いた。優しかったこと、頭のいい人だったこと。そうして、北斗の目には、母親と仲良くやっているように見えていたこと。だけど、いなくなってしまったこと。
「小学校の時だから、ね。まだ、良く分かってなくて。いつか、帰ってくるんだろうなって、思ってたんだけど」
 だけど、父親は帰ってこなかった。それきり、会ってもいないのだという。
「……今となっては、離婚の意味とか、母さんの苦労とか、よく分かる。分かった上で、おれはでも、父さんのこと、好きだった」
 懐かしげに語る目に、思慕が映る。真弘はそんな北斗を横目で眺めながら、祖父のことを思っていた。自分にとっての生きる理由だった祖父。
 北斗の父親も、彼にとってそんな存在だったのだろうか。
「だけど、ね」
 北斗が呟き、そっと目を瞑った。穏やかな笑みを湛えながら、それでも北斗は、微かに震えていた。
「今度、母さん、再婚するんだ。新しい、父さんができる、の」
 真弘は、何も言えなかった。
「おれんとこも、だから氷室くんと一緒だ」
 思い出が、形を変えちゃう。寂しげな調子で北斗が言う。そのまま、夜空を仰いで。
 雲のない夜空だった。星が優しく瞬き、月の光も辺りを静かに照らしている。その姿がぼやけて見えるのは、何も自分だけじゃないだろうと思った。
(――思い出が、形を変える)
 北斗の言葉を反芻しながら、真弘は物思いに耽った。思い出自体は、そうだ。形を変えたりしない。だけど、その場所が変わっていく。昔のままではいられなくなる。変わらなければいけない時が、やってくる。
 北斗も、そして、真弘にも。
(……今を、ひたむきに)
 前に、進まなければならないと、その時強く思った。立ち止まってはいられないと、そう思った。
(……なぁ、じいちゃん。俺さ、なりたいものがあったんだよ。今更だなって、笑われるかもしれないけどさ)
 だけど――。
 真弘は静かに立ち上がると、北斗に向けて右の手を差し出した。北斗がそれを見て不思議そうに首を傾げる。座っている北斗の手を取ると、ぐいっと引っ張り起こした。怪訝そうな表情を浮かべる北斗に向け、こう言った。
「……一緒に、映画観に行こう」
 北斗が、嬉しそうに相好を崩した。

   *

 扉をゆっくりと開けて、暗い室内へと踏み入る。ようこそ、そう告げながら映写機のある部屋へ入った。昔ながらのフィルム映写機には北斗も驚きがあるようで、まじまじとそれを見つめていた。
「これで、映画、映すの?」
「そ。いつもは一人だから、勝手に回して座席行ってる。そんでいい?」
 そう尋ねると北斗は別段気にしてないように頷いて見せた。
「一緒に観たほうが楽しい、もんね」
 そう言うと北斗は客席へと戻っていく。真弘は頬をポリポリと掻きつつ、慣れた手つきで映写機を回した。用意されたスクリーンに映像が浮かび上がり、懐かしき物語を映し始める。真弘も急いで北斗の隣まで移動した。席に座り、もう何度目になるのかも分からない物語を観始めた。
 音は少し小さめ、お互いの声が聞こえる程度にしてある。そのためか、随所随所で北斗が感嘆の言葉を漏らすたび、真弘の耳にそれが届いた。懐かしさと、在りし日の父親の記憶を重ねているのだろう。真弘もまた、祖父を映している。
「父さんが、最後に連れてってくれたのが、この映画、だったの」
 北斗が感慨深そうにスクリーンを眺めては、静かに呟く。横目で北斗の様子を窺いながら、言葉の続きを待った。
「この映画を観てから暫くして、父さんは家を出てった。だからこの映画は、おれにとっては、嫌な思い出もある。だけど、やっぱり、懐かしい。父さんの声とか、表情とか、思い出せて、なんだか嬉しくなる」
 素直に感情を顕にする北斗を見ながら、真弘は連れてきて良かったと思えた。
「……氷室くんの家は、お母さんがいないんだよね」
 変わらずスクリーンを眺めながら、北斗が呟く。真弘も視線を外さぬままそうだと答える。「舟木から聞いたのか」と聞けば、北斗はへへっと苦笑した。前々から、知っていたらしい。
「おれとは、逆。だけど、たぶん同じくらい大変だった、と思う。小さい頃とか、親がいなくて、寂しかった」
「……そうだな」
「でも、氷室くんにはお祖父さんがいた。だけど、お祖父さんも亡くなって、だから、氷室くんいつも一人でいるのかなって、おれ、思ってて」
「……だったら?」
 どうする? そう聞き返すと、北斗は神妙な様子で目を臥せった。どうするってことは、できないんだけど。少しだけドギマギするようにそう言い、それから明朗な声でこう告げた。
「おれ、氷室くんが監督やってくれて、よかったよ」
「――……そう、か」
 少年達は、死体を見つけて大人になった。死体を横取りしようとする連中に――今まで抗えなかった存在に、彼らは立ち向かった。そうして勝った。勝って、弔いをするのだ。自分と同い年くらいで亡くなってしまった少年を思って。その死体を、眼前に据えながら。
 今まで、あったのだろうか。そんな風に自分たちのこと、真剣に考える機会なんて。たぶん、機会はあったのだ。だけれど、見て見ぬふりをしてきただけで。
 親のいない生活で、二人とも心を擦り切らせてきて。それはお互いがよく分かっている。一人ぼっちはいつだって寂しかった。寂しくて、誰の目にも触れない日々で。そんな日々の中で真弘は、夢を忘れたと思ってきた。でも、ずっとやりたいことはあった。それが自分にはできないと言い聞かせてきただけで。自分には無理だと、思い聞かせてきただけで。
 一人の自分には、できないからと。
「……映画を作ってみたいって、ずっと思ってたんだ」
 北斗がこちらを見やる。それを一瞥しながら言葉を続ける。
「映画好きなじいちゃんを喜ばせたくて、いつか自分で映画を作りたいと思ってた。それが夢だったんだ。……だけど、ずっと忘れてきた」
 だから今回、やろうと思った。今年しかないと思った。このチャンスなら、その夢を叶える機会になると。映画じゃなくても、劇の演出や監督をすることで、祖父がどこかで喜んでくれる気がした。
「俺が監督を引き受けたのは、そんな理由なんだ。大げさだけど、自分の夢を忘れたくなかったから」
 カッコ悪い理由だけど。そう続けると、「そんなことない」と北斗が言った。珍しく語気が荒かった。
 北斗は少しバツの悪そうにしながら、言葉を続ける。
「……カッコ悪くなんか、ないよ。おれも、自分を変えたかった、から……クラスの皆と一緒に、何かしたくて、台本やるって言った。混ざりたかった、から」
 おれの方がカッコ悪い。北斗がそんなことを言うので、思わず笑った。北斗も苦笑する。カッコ悪いなと思った。二人とも、すごく。
「……だけど、さ」
 できるよ。そう言うと、北斗も強く頷いてくれた。できる。自分たちなら、やれる。そんな気がした。二人で原稿を直し、動きを研究し合って。重ねた時間は数え切れないし、努力の数もお互いがよく知っている。それに何より、クラスの皆も、その頑張りを分かってくれるはずだから。
「……絶対、成功させよう。今回の劇、俺たちの手で」
 そう言うと、「おう」と威勢のいい声が聞こえて。二人強く握った拳をぶつけ合った。

   *

今更だって笑われるかも知れないけど、俺、やってみるよ。
じいちゃんの言葉を守るために……夢の続きを観るために。

しおり