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「あれ? えーと、メグちゃんじゃない?」

 和やかな空気が戻り、お酒のお代わりを注文した時、背後から誰かに名前を呼ばれた。
 振り返ると、店員に席へと誘導される途中であろう若い男女。
 うそ……。

「久しぶり。あれからずっと連絡くれないけど、元気にしてた?」

 そう朗らかに微笑みながら言う男は、紛れもなくいつか合コンで出会い、一夜の過ちを犯した直之くんだった。
 当時は某有名医大卒の研修医、裕福そうで雰囲気イケメンな彼の恋人になりたくて心を砕いたが、都合よく扱われ自尊心を深く傷つけた。
 あの時、木原さんがいてくれなかったら、もしかしたら私は今でも彼に執着し、自分の価値を下げ続けていたかもしれない。本当に誰かを愛したり、愛されることの意味も知らずに。
 以前は好感のもてた直之くんの雰囲気イケメンっぽい顔も、今では軽薄そうに緩んだ顔にしか見えない。

「……久しぶり」

 直之くんの隣にはロングヘアでほっそりとスタイルの良いサングラスの女性がいて、二人とも一目で高価なことが分かる衣服を身につけていた。
 私の時は彼の家の最寄り駅まで呼びつけて、激安中華料理店で済ませたくせに。
 この人とはこういう良いお店にくるんだ。
 これが彼の本命とどうでもいい女の違いなのだろう。
 正直、今となっては直之くんのことなどどうでもいいのだけれど、こんな風に見せつけられてしまうと、あの時の惨めな気持ちが蘇る。

「マリちゃん、先に席に行ってて。すぐ行くから」

 直之くんにそう言われた女性は薄く微笑みながら私に会釈すると、店員に連れられて通路を一本挟んだ座敷にあがった。
 木原さんはちらりとこちらを一瞥したあとはカウンターに向かいなおし、無表情でグラスを傾けている。

「彼氏とデート中?」
「違うけど……なんなの? 直之くんとは話すことはもうないんだけど」
「そんなこと言わないでよ。メグちゃん可愛くなったね。よかったら今度またうちに遊びにきてよ」

 直之くんの緩んだ口元にも言葉にも、木原さんみたいな誠意は一欠けらだってない。
 女を食い物にして、馬鹿にして、自分の思い通りになると思ってる。
 木原さんの前でこんな会話したくない。こんな男と話したくない。

「馬鹿にしないで」
「あれ、なんで怒ってんの? 俺ら、けっこう身体の相性良かったじゃん。だからまたさ……」

 木原さんは私が直之くんにどんな扱いをされたのかも、身体の関係があったのも知っている。
 あの頃、どうしたらいいのか分からなくて、私は彼にすべて話した。
 まさか数ヶ月後、木原さんにこんな気持ちを抱くとも知らず。
 だからこの会話を聞いたところで、きっと木原さんにとっては今更どうでもいいことだ。
そもそも私は木原さんの会社の後輩でしかなく、何か思うとしても「あー、これがあの時話していた男か」くらいのものだろう。
 それなのに直之くんのその言葉に、私の身体は恥ずかしさと憤りと悲しみをないまぜにしたような感情で血が燃えるように熱くなった。
 これ以上、木原さんの前で恥をかきたくないし、安い女だと思われたくなかった。

「木原さん、すみません」

 木原さんの顔も見ることもできず、私は目の前の軽薄な男を睨みつけるとバッグとコートを抱えて逃げるように店を出た。
 いや、逃げるようにじゃない。私は逃げ出したのだ。
 あの場から。直之くんの前から。木原さんに嫌われることから。
 ちょっと前までの楽しかった気持ちなんかすっかりしぼんでしまい、今は悲しさと怒りで肩が震える。
 冬の夜気で冷たくなっていた鼻がツンとして、目に涙が浮かんだ。
 こんなはずじゃなかったのに。
 新宿駅に向かう路上には、たくさんの男女がいる。
 きっと恋人だったり、その手前だったり、夫婦だったりするのだろう。
 皆、笑い合いながら手を握り、楽しく語らいながら歩いている。
 私だってこんな風に、今頃、木原さんと笑い合いながらチョコレートを渡しているはずだったのに。
 そこで頬に落ちた涙を拭おうと手をあげて初めて、チョコレートの紙袋を店に忘れてきてしまったことに気付いた。
 一気に脱力して、唇からため息がこぼれ落ちる。
 本当についてない。
 勝手にバレンタインだと息巻いて、勝手にからまわって、渡すどころか勢いで逃げ出して忘れてきて。
 ――私、馬鹿みたい。

 翌、二月十五日。
 朝までむせび泣いて過ごしたせいで目が腫れあがってとんでもないことになっていた。
 会社に行きたくない。
 こんな顔で外に出たくないし、なにより昨夜あんなことがあって木原さんと顔を合わせるのが気まずい。
 どんな顔して会ったらいいのか分からない。
 気が重くてなかなかベッドから抜け出せず、会社に入って初めてズル休みしてしまおうかとも思ったのだけれど、今日は担当した雑誌広告の撮影に立ち会うことになっている。
 以前の私ならもしかしたら休んでいたかもしれない。でも今はそんな無責任なことはするべきではないと分かっている。
 家を出るギリギリまでネットで調べた目の腫れをひかす方法をあれやこれやと試して、目元は幾分マシになった。
 バレンタインは終わった。今日からまたなんてことのない普通の平日。
 私は頬を叩いて気合を入れると、思い切って家を出た。
 抜けるような青空には雲なんてひとつもなくて、澄んだ空気に少しだけ救われた思いがした。

 会社に着いてからというもの、私は木原さんの顔をまともに見ることができなかった。
 彼の方は私とは違い、いつも通りに挨拶をしてくれたのだけれど、私はぎこちなく目を逸らしたまま返事をするのが精一杯。
 社員のスケジュールアプリを確認すると、木原さんは今日は外回りもないらしく、ずっと会社にいるらしい。
 私は千駄ヶ谷の撮影スタジオに向かうため十五時に会社を出てしまえば、もう今日は顔を合わせることもない。
 ものすごく気まずいし、木原さんが昨日のことをどう思ったか分からない。
 ずっと避けてもいられないけれど、今日はまだ普通になんてできそうになくて。
 私は外出の予定があることに内心、ホッとしていた。

 それなのに昼休みに入った途端、木原さんに声をかけられた。
 デスクの向こうから「沢井」と呼ばれて、ビクビクしながら顔を上げる。
 今日初めてちゃんと見た木原さんは濃いグレーのスーツに、黒いウールコート。
 私はその彼の右手に昨日、忘れて帰ってしまったバレンタインチョコの紙袋が提げられていることに気付いて目を見張った。
 なんでそれを木原さんが――?

「これ」
「え」
「忘れたろ。返そうと思って預かっておいた。ほら」

 そう言って差し出されても、私は呆けたように椅子に座ったまま動けなかった。
 まさかあなたにあげようと思って用意していたものですとは、この状況では言えない。言う勇気がない。
 昨日は義理チョコだから、さりげなく渡してしまおうなんて思っていたのに。
 今や、直之くんとのことで悪い印象をもたれたんじゃないかと気にかかるし、あんな醜態をさらしたあとにチョコを渡そうとなんて思えなかった。
 それなのにこれを返されると思うと、それはそれでなんだかものすごく嫌だ。
 このチョコは木原さんの手に渡るはずのものだったもの。それが彼の手によって私のところに戻ってくるなんて。

「あ、すみません。急いでるんです。ちょっと行かないといけなところがあって。すみません」

 早口にまくしたてると、私は急いでオフィスを出た。
 背中に木原さんの私を呼ぶ声を聞いた気がしたけれど、一度も振り返らなかった。
 これじゃあ昨日と同じだ。木原さんの前から逃げて、それでこの後、どうしたらいいんだろう。
 私はお昼ご飯を食べる気にもならず、スタバでホットコーヒーだけ注文し、一人掛けのソファーにうずもれて一時間をやり過ごした。

 返そうと思えば、私のデスクの上にでも置いておいてくれればいい。
 それなのに昼休憩が終わり、時間ぎりぎりにオフィスに戻ってもデスクやその周囲にあの紙袋が置いてあるなんてことはなくて。
 すぐに仕事が始まったから木原さんが声をかけてくるようなことはなかったけれど、まだ律儀に預かってくれているようだった。
 このまま何かを察して貰ってくれないかな。そもそも昨日はバレンタインっていうイベントの日だったわけで、この形状とか箱とか雰囲気とかでこれがバレンタインのチョコレートだって気が付かないものだろうか。
 そもそも私がたった一言「いらないからもらってください」とでも言えればいいのだろうけど。
 でももしまったく察していないとすれば、そうとうに鈍いか私が恋愛対象の眼中にないのかのどちらかだな。なんて、義理チョコでしかないのに考えてしまい、自分でも何故だか分からないけれど少し落ち込んだ。

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