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 木原さんに連れられてやってきたのは新宿駅西口から徒歩五分ほどの雑居ビルにある創作和食の店。
 てっきりその辺の大衆居酒屋で飲むのかと思っていたので、暖簾をくぐった瞬間、静かで落ち着いた店であることに驚いた。
 一枚板のカウンターと通路の奥にすだれと漆喰の壁に仕切られた掘りごたつの座敷が三つほど。店内はそんなに広いとはいえないけれど清潔感があって、生け花や和風のインテリアもセンスが良い。

「素敵なお店ですね」

 素直に感想をつぶやいた私に木原さんが薄い唇の端をかすかに上げる。

「話があるなら静かな店の方がいいだろ? ここ、ゼミの先輩の店なんだ」

 ――気を遣ってくれたんだ。
 こんな一言にすら妙な感動を覚えてしまいそうになって、私は頭を振った。
 あいにく座敷は先客と予約で埋まっているそうで、私たちはカウンターの隅に通される。
 木原さんはその奥に立つ男性店員と親しげに挨拶を交わした。
 この人がゼミの先輩ってことかな。

「木原がこの店に誰か連れてくるなんて珍しいな」
「ですかね」
「珍しいどころか初めてか。こんな可愛い彼女がいるなら、もっと早く連れてくればよかったのに」
「か、彼女……」

 店員の言葉に私は思わずフリーズする。
 そんな私たちには構わず、木原さんは表情を変えずに淡々と言葉を返した。

「先輩、相変わらずですね。客のプライベートには立ち入るべからず。商売の基本でしょう」
「お前も相変わらず食えないね」

 苦笑しながら店員がおしぼりを広げてくれたので、私は心の内でホッと息をついて受け取った。
 今、変な冗談言われても困る。
 いちいち騒がしい心臓を落ち着かすようにお茶をすすっているうちに木原さんがおすすめだという季節の創作和食コースを二人分注文してくれた。
 ただそれが気軽にお酒を飲みにきたとはとても言えないような金額で、お品書きを見て思わず固まってしまう。
 借金を繰り返していた父の影響でクレジットカードを持たないようにしている私は、今日の手持ちがそのコースの半分くらいしかないことに気付いて、軽く血の気が引いた。

「あの、私、今日は五千円しかもってないんですけど……」
「そんな心配はしなくていい」
「え、でも」
「俺が食べたいもの注文しただけだ。だから沢井は気にしなくていい」
「けど」
「たまには先輩風吹かせるのも悪くはないな」

 大真面目な顔で木原さんがそんなことを言うから、なんだか脱力して笑ってしまう。

「……ありがとうございます」

 私の感謝の言葉を聞いているのかいないのか、木原さんは乾杯も言わずにさっさと運ばれてきたばかりのグラスビールを傾けた。
 上唇に白く柔らかな泡がつき、肉厚な舌が唇をなぞる。
 そんな一瞬に見惚れてしまっていた自分に気付いて、私は慌てて梅酒のソーダ割に口をつけた。

「それで?」

 木原さんがカウンターに肘をつくと、ちょっと身体をこちらに向けて私の目をじっと覗き込んでくる。

「何か話があるんじゃないのか?」
「あ、えーと、そう、ですね……」

 木原さんはまさか私が自分にチョコレートを渡そうとして悩んでいるなんて、つゆほどにも思っていないんだろうな。
 むしろ聡いようで、ちょっとずれている彼のことだ。もしかしたら今日がバレンタインだということすら、気付いていない可能性もなくはない。
 なんて言って渡すべきだろうか。
 だけどこんなまだコースも序盤の序盤、メインにすらたどりついてない段階でなんて、心の準備ができていないし、どう切り出していいのかも分からない。
 もう少し木原さんのことを教えてもらいつつ、気持ちが落ち着いてきたタイミングで渡す方がいいのかも。
 ……でもそんなタイミング、くるのかな。

 それからなんとなく鬱陶しがりながらも、私の他愛のない質問に木原さんはひとつずつ答えてくれた。
 好きな食べ物は豚骨ラーメンで天体観測に遠出するついでにその街のおいしいラーメン屋を調べて食べ歩くのがもう一つの趣味になっていること。大学では登山サークルに入っていたこと。好きな音楽や、これまで一番、星が綺麗に見えた場所のこと。
 木原さんがこんなに自分のことを教えてくれるのは、私が話を打ち明けやすいように会話を続けてくれているのかもしれない。
 そんな風に思うのは、私の考えすぎだろうか。

 木原さんも私も三回目のお代わりをして、だいぶ場が和んできた頃。チョコレートを渡すことを一旦、横に置いて、会話が盛り上がったことで私はかなり調子にのってしまっていたんだと思う。
 純粋に木原さんのことをこれまで以上にたくさん知ることができて嬉しかった。だから、もっとたくさん、もっと深く。もっと大切な部分を知りたくなってしまった。

 それは忘れもしない、あの春の日。
 大きく揺れる電車のなか、木原さんの胸に抱きとめられた一瞬が脳裏にまざまざとよみがえる。
 あの時、木原さんは私の「誰かをちゃんと愛したこと、ありますか?」という問いに「あるよ」と短く、でもきっぱりと答えた。
 木原さんが心から愛した女性。
 その人の存在があれからずっと胸の奥で魚の小骨のように引っかかっている。
 だから私は酔いに任せて、会社でのしどろもどろが嘘みたいに、饒舌に木原さんに訊いてしまった。

「前に誰かをちゃんと愛したことありますかって聞いたら、木原さん、言いましたよね。あるよって」
「なんなんだ、今度は。やっぱり男関係の相談か?」
「そういうわけじゃないんですけど。木原さんがそんなに好きになった相手ってどんな人かなって」

 木原さんと私の間に流れる、いつもより幾分、和やかだった空気がすぐに重たいものに変わる。
 さっきまでなんだかんだと私の問いかけに応えてくれていたのに、木原さんは口を閉ざして冷酒のお猪口をぐいっと傾けた。
 地雷、踏んじゃったかな。
 そりゃそうか。ただの会社の後輩に、なんで恋バナしなきゃいけないんだって話だよね。
 でも私にはお節介なくらいずけずけ言ってくれたくせに、自分だけだんまりなんてずるい。

「教えてくれたっていいじゃないですか」
「……沢井に話すようなことじゃない」

 木原さんのその言葉に、どうしようもない隔たりを感じてしまう。
 少しずつ近づいていたと思っていた彼との距離。
 それがまるですべて私の勘違いだったように思えて、知らず語気が強くなる。

「私には言えないってことですか? 自分は私の色恋沙汰にはずかずか踏み込んできたくせに」
「そんなこと、聞いてどうする。沢井に何か関係があるのか」
「か、関係なんてありませんけど。でも……」
「悪いな。トイレ行ってくる」

 木原さんは私の言葉を最後まで聞かずに、席をたってお手洗いのある廊下の奥に消えていった。
 途端に身体から力が抜けて、深いため息が口元にせりあがる。
 ――私、すごく感じ悪いじゃん……。
 いくら木原さんのことをもっと知りたかったとはいえ。
 きっと彼のなかで会社の後輩以上でも以下でもない私なんかが、大事なことに踏み込んじゃいけなかったんだ。
 でもだからって。だからって関係があるのかなんて、そんな寂しいこと、言わないでほしかった。

「大丈夫ですか?」

 カウンター越しに店員に問いかけられて顔を上げると、温かいお茶の湯飲みをそっと差し出してくれた。
 私、いま、情けない顔をしてるんだろうな。
 
「すみません。お騒がせして」
「とんでもない。僕はあの木原になかなかのガッツで食らいついてるなって、感心してるくらいですよ」
「もしかして褒められてます?」
「もしかしなくても褒めてます。……木原、大学の時に好きだった人のこと、ずっと引きずってるんだと思うんです」

 人の良さそうな目尻に皺を寄せて、店員が苦笑する。

「それって……」
「すみません。さっきの話、聞こえちゃって。木原が言ったのは、その人のことだと思いますよ。旦那にひどいDVを受けてる人妻だったかな」
「え、木原さん、不倫してたってことですか?」

 訊いてみたものの、このまま話を聞いてしまってもいいのだろうかとも思う。
 だって木原さんが私には話そうとしてくれなかった過去の話だ。
 きっと店員さんも見るに見かねて助け船を出すつもりで教えてくれているのだろうけれど。
 でも人妻が相手、しかもDVされていたなんて色々と衝撃的だ。

「いやいや。付き合ってはいなかったみたいです。でもどうにかその人を救おうと必死でしたね」
「そう、なんですか……」

 じゃあ片思いで終わったってことなのかな。
 たった一人の女性を救うために一生懸命になる木原さんを想像してしまって、息苦しいほどに切なくなる。
 木原さん、旦那さんがいる人のことを好きになったんだ。
 どんな人だったんだろう。
 木原さんみたいな人がそこまで愛した相手なら、守ってあげたいと思うような可憐で、だけど凛とした人だったんじゃないかな。
 顔も年齢も、何も知らないのに、頭のなかで彼女のイメージがどんどん膨らんでいく。
 
「何を勝手に話してるんですか」

 そこにいつものポーカーフェイスをあからさまに歪めた木原さんが戻ってきて、ため息をつきながら椅子を引いた。

「あ、おかえり。木原もお茶どうぞ」
「まったく。どっちが食えないんだか」
「まぁまぁ。いいだろう。減るもんじゃなし」
「……はぁ」

 木原さんが話すのを拒否したことを、不可抗力とはいえ店員から聞いてしまった罪悪感で、私は隣を見ることができなかった。
 両手に握った湯飲みに、なんとはなしに視線を落とす。
 
「すみません。私が変なことを聞いたりしたから」
「いや……。悪かったな。別に隠すようなことでもないのに」

 申し訳なくて頭を小さく横に振ると、木原さんが微かに笑った気配がした。

「そういう過去の恋愛とか、過去の自分の選択や行動で今の俺ができている」
「え?」
「俺はこれまで自分が経験してきた全部が、今や、この先に繋がっていると思っているんだ。出会った人、起こった出来事で考え方や生き方は変わるし、そのひとつひとつが俺を形成している。確かにそう考えれば過去を大切にしたいとも思うが、あくまでも大事なのはその結果の今をどう生きるか。そうじゃないか?」
「そ、そうですね……」
「だから昔の色恋沙汰をわざわざ話して感傷的なムードになる必要はないと思った。それだけだ」

 いつもの淡々とした木原さんの喋り口調。
 でもきっと回りくどい言い方をしながら、さっきの態度のフォローをしているのだろう。
 ほんと、木原さんらしいというか、なんというか。
 スピカを例にあげて私を激励したあの日のように、本当にまわりくどい。何を言いたいのか最初は分からないくらい。だけど、そこに木原さんの誠意がある。
 呆れて笑ってしまうと、木原さんもちょっとだけ困ったように笑みを浮かべた。

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